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避難所に身を寄せた人は、どんなことをつぶやいてその日をしのでいるのだろうか。
2011年3月26日、東京電力福島第一原発のある大熊町や浜通りの人が身を寄せている田村市の総合体育館では、玄関ちかくにある公衆電話に多くの避難者が行列をつくっていた。携帯電話が不通か、そもそも携帯電話を持っていない高齢者の姿が目立った。
初老の男性が受話器にかじりついて叫んでいる。
「みんな元気?」「よかったね」「私ら2人も元気だから。おばさんによろしくね」。東日本大震災と原発事故の発生から2週間が過ぎても、人々の生活はまだまだ落ち着いていなかった。この体育館で、私は、大熊町から避難してきた国本英夫さん(64)の隣に座り込み、つぶやきに一日中耳を傾けてみた。
歯ブラシひとつ持ってこなかった国本さん
「明日がないという生活がね。先行きが全然見えない。私は身近なところに親戚がいないから頼っていくところがないんですよ。今後、大熊町の機能を会津に移すというのですが、町の人はそこにぶら下がって今後の生活をやっていくしかないね。でも私は何にも無いからそこにぶら下がることもできない。2~3カ月なら町も面倒を見てくれるかもしれないけれど、このさき20年生きれば生活の木が無いからね。会津に行っても職なんて無いでしょう。行っても、住む、食うだけ。不安でしょうがないですね」
大熊町は3月13日から役場の機能を田村市の総合体育館に移して仮役場としていた。私が国本さんに会った3月26日には、さらに大熊町は会津方面に役場機能を移す準備に入っており、避難していた町民も一緒についていくか残るかの選択肢を迫られていた(大熊町は4月3日、会津若松市の市役所大手町第2庁舎へ移った)。
「3月12日の朝、大熊町役場から体育館に行けって言われてね。そこも危ないからというので公民館で3~4日間いたかな。そこからここへ来たんだ。来たのは3月14日か15日ごろだったかな」
「住んでいたところは大熊町役場の前だったよ。避難するときさ、いつもの訓練のようですぐに帰ってくるという内容だったから、歯ブラシひとつ持ってこなかったんだ。金も持ち合わせは全然ないよ。ここの体育館にいるぶんは三度の食事はあるけれど、飽きてきたし。余裕のある人は買い出しに行っているようだけれど」
「糖尿病なんです。薬は手配しているから大丈夫だけれど。もともと一人暮らしでした。父親が大熊町で材木店をやっていたんですが、町内に親戚はいません。収入は2カ月に12万円の年金だけですよ。携帯電話も持っていません。原発から5㌔ぐらいしか離れていない自宅はもう放射能で立ち入りはできないし、こんなに被害が大きくなるとは思いませんでしたね。最初は3㌔とか10㌔とか言っていたけれど、アメリカは80㌔って言っているんでしょう。ここの体育館はなんぼやっても40㌔だから、もっと奥にある会津に行かないといけないなと思っていたら、案の定、会津若松に避難する、と。いま、頭が真っ白ですから」
◇
国本さんと、ハンカチ1枚しか持ってこなかった相楽さん
私は翌日の3月27日、ふたたび国本さんを田村市の総合体育館に訪ねた。
「ああ、また来てくださいましたか。そういえばね、この人は私より大変ですよ。だってハンカチ1枚しか持ってきていませんから」。同じ大熊町から来た相楽真佐夫さん(76)を紹介された。
相楽さんは須賀川市の出身。若いころは埼玉県で自営の衣類販売をしていたが、1982年ごろ、東京電力の原発のタービン建屋を手がける鹿島の下請け工業所に勤めることになった。ここで48歳まで働いた。
「あとは遊んで暮らしていました。だからこれから一生懸命しようと思います。だけどえらい事故だったねえ。過去形じゃないけれど」とどこかとぼけた感じの人だった。
歯ブラシひとつ持ってこなかった国本さんと、ハンカチ1枚しか持ってこなかった相楽さんと、どちらが大変なのか私には判断がつかなかった。もちろんどちらも大変で、しかし、この状況を変える術を持たないから、無理やりに笑いをひねりだして気持ちを落ち着かせようというのが、国本さんの言葉の真意なのだろうか。私はそんなことを考えつつ、2人のつぶやきにしばらく耳を傾けた。
相楽 「あの人は牢名主のように毛布にくるまっていたね。すると昼ごろだったかな、『救急車!救急車!』と声がしたんだ。人間の命ってわかんねえなあと思ったよ」
相楽さんが言っているのは、3月18日、この体育館で倒れ搬送中の救急車の中で亡くなった大熊町の栃久保重蔵さん(83)=連載第18回の「原発災害(9) 関連死」=のことだ。
第2次世界大戦の被害よりひどい
国本 「第2次大戦以来の被害だね」
相楽 「もっとひどいんじゃないか。だってあの大東亜戦争の時はあの高い丘の上から双眼鏡で『敵は○機』なんて見ている余裕があったんだからさ。それを軍の人に教えてさ」
国本 「民主党政権は対応できているんですかね。今の管(直人)さんでは弱いわね」
相楽 「隠された才能があるかも知れないから一概には言えないけれどね」
国本 「これを乗り切ったら菅さん(の政権)は延命すると思いますよ」
相楽 「菅さん、意外に能力があるんだって国民はころっと変わるんだ。でも菅さんには子分がいないからなあ」
国本 「復興に必要な国家予算は80兆円ですかね」
相楽 「そんなに出せないね。国債を発行しても孫の世代まで回せねえ。どういうマジックでこれを乗り切るかだ。最後はみんなが泣くようになるんじゃないかな。でもこんなことも生きているから言えるんだよね」
国本 「しかし今年は異常気象だよね。夏はあんだけ暑かったのに今はこんなに寒いし。関東は物流が止まっているでしょう。で、風評被害でこのへんの店が閉めちゃったでしょう。それが問題です。大熊町の被害、特に海っぱたね、テレビにちょっと映っていたよ。町職員が撮った写真をテレビで流していたよ」
相楽 「ほかも大変だから。大熊なんてちょびっとだから」
国本 「しかし今の交通網ですか、回復の見込みは無いでしょうね。ここはもともと東北のチベットっていって何でも遅れていたところなんですよ。セブン・イレブンもヨークベニマルも機能を果たしていないし」
相楽 「社会インフラのもろさは犯罪だね。おんぶに抱っこで会津若松に行くしかない。個人の力なんて。だから大震災なんだろうがね。赤ちゃんは親にべったりで幸せだね。普通は仕事があって離れるんだろうけれど、今はぴったりと面倒みなくちゃなんねえ。しかし寒くなったね」
国本 「しかし我々の生計たいへんだね。30代とか40代の人はもっとだろうね。養育費だの教育費だのと」
相楽 「まるで漫画だね。デフレってどうなっています?これで解決するのかな」
国本 「復興工事が始まれば景気は上がるんかな」
相楽 「GDPは結構上がるよ。亡くなった人は燃やしておくのかな。遺骨はどうしているのかな」
国本 「遺骨は焼却しちゃうんじゃないかな」
相楽 「今だから腐敗するなんてことはないだろうけれど。親密にしているわけではない人でも亡くなっているというのは嫌だねえ」
国本 「震災の後でまた元の所に家を建てるっていうのは考えるだろうね」
相楽 「死の町ではないけれど、放射能の度合いにもよるだろうけれど」
国本 「海岸線は壊滅状態だろうけれどね」
相楽 「よっぽど愛着のある人は戻ってくるだろうけれど。しかし常磐線て弱いねえ。いつも乗っているところは津波で削られてね」
国本 「いわき市の蟹洗温泉てどうなったかね。大きな浴場があって」
相楽 「流されてるんじゃないの。馬の背(大熊町の観光地・馬の背岬)を超えたって言うんだもん」
放射能で壊滅だよ
国本 「放射能の影響がいわき市に広がったから浜通りは壊滅だよ。いわきから仙台まで何にもなくなっちゃう。再生しても住む人はいないよ」
相楽 「汚染されて何十年も住めないならば来ないよね。泥棒さんも来ないよ。だけどね、我々は災害の中心の中心だから。無知だからかも知れないけれど、よう生き残ったよね。4号機までお釜が爆発したら終わりよ。早く埋めてもらうっかないね」
国本 「東電は再稼働したいだろうね。昨日町長があいさつしたけれど、帰るって言えないんだよね。国で決めているから。東電は新潟の柏崎で地震起きて施設が痛んだって言いましたよね。建屋がガチャガチャになって大変だったらしいよ」
相楽 「もろいもんだねえ。まさか自分たちがなるって。東電の副社長がこのまえ来たけれど、それについては私はコメントできないです。すればくそみそになりますから。彼に責任は無いにしても、さ。迷惑だと思うぐらいで、もちろん怒りも含まれているでしょうけれどね。私なんて財産もなくて吹けば飛ぶようなもんだからいいけれど、家とか財産と持っている人はどういう気持ちか。国本さん、私なんていいもんですよ~」
国本 「ソフトバンクの孫正義は東電より立派なこと言っていたよ。東電の副社長はただ来てさ、頭を下げるだけでさ」
相楽 「擁護するわけじゃないけれど、彼もサラリーマンだからあれ以上言わないよ。国本さんもあの立場ならあれ以上言えないよ。人間は考えればしぶといねえ。そう思うのも生きているからだろうけど」
国本 「孫は立派だったねえ」
啄木じゃねえがじっと手を見る
相楽 「人間は捨てたもんじゃない。我々も。これを契機にどれだけ化けてやるか。それぐらいしか望みはないわ。じっと手を見る、だ。啄木じゃねえけれど」
国本 「いろんな補償問題にしても、東電の能力ははるかに超えていますよね。また、電力が足りんとなると、これまで供給していた分を別の所に建てんといかんでしょ。でも首うなずかないでしょ」
相楽 「原発、やめんじゃない」
国本 「フランスとかは風力とか水力とか他のエネルギーさがしているんでしょ」
相楽 「原発って確立した技術じゃないからね」
国本 「だから東京には作らないんでしょ。雇用をアメにして」
相楽 「東京で50㌔っていったら大変だよ。能天気に電気使っているけど」
国本 「しかしこの原子力発電ってもうたくさんだね」
相楽 「一度(家に)帰って持ちだせる物を持ち出したいよね。運転免許証とか保険証とか身の証明になるものね。それがないし悲惨なんですよ」
◇
国本さんを再訪する直前、私は須賀川市の須賀川アリーナに立ち寄って避難者に話を聞いていた。そのなかに、南相馬市原町区から逃げてきた柚原一雄さん(75)と妻道子さん(72)がいた。
一雄 「放射能がねえ」
道子 「私らは帰れるの、帰れないの」
一雄 「逃げるとき、道路に打ちあげられていた人、ごろごろと転がっていて手の下しようがなかったもんね。妻は自宅にいて私はアルバイト先にいました。自宅は見事にしっちゃかめっちゃかです。日中は片付けて、夜は市役所前の体育館で寝泊まりしていました」
道子 「今も精神面がおかしいんです。何にも、自分の内側のことも、何にも分からなくなりまして。(逃げてくる前に自宅の片付けをしていたとき)何にも分からなくて、ここに出窓があった、ここにテレビがあったとお父さんに図面を書いてもらって」
一雄 「(原町の)体育館の耐震性が危ないというのと、保健所に白衣の人が集まっていてお年寄りをたくさんつれていて『放射能の被害です』って言っていましたから、これは危ないと須賀川に来ました。ここに来るまでのガソリンがあったことが救いでしたけれどね」
一雄 「地震の夜、電話を必死でつないでね。昨日はかみさんの友達が、私たちがここにいるって知って訪ねてきてくれてね」
道子 「泣くだけです。わざわざ捜してきてくれるなんて。だから泣いてばっかりです。こんなに泣く人じゃなかったのにね」
これ、見てくださいよ
そんなことを私につぶやいていた柚原さん夫婦。突然、「これ、見てくださいよ。これがお昼のご飯なんですよ」と一雄さんが強い口調で言った。
私の前に突き出されたのは、避難者に配られる食事だった。段ボールに入った配給品は、おにぎりが4個、ゼリーが2個、紙コップに入ったリンゴ、果物ジュース、砂糖をまぶした小さな菓子パン。なんとも粗末だ。私は、配給への不満を訴えるのかと身構えた。すぐにそんなことを考えた自分を恥じた。
一雄 「こんなに豪華なんです。ここの生活も快適になってきました」
道子 「ありがたいです、本当に。お風呂も、今日は休みですけれど、入れていただいているし。うちでも普段はこれほどのものは食べないよね」
避難者に配られる食事は、柚原さん夫婦らが地震前の日常に口にしていた食事と比べて、決して豪華なはずがない。それでも柚原さん夫婦は、感謝のあまりに「こんなに豪華」と涙を流すのだった。
一雄 「ぜいたくをさせてもらって……。今までこういう世界、体験したことありませんからね。ボランティアを受ける身になって本当にありがたくて。これは本当にありがたい。朝も昼も夜もこうして食べさせてくれて。大変なご配慮を感じてね。今度なにかあったら自分に何ができるのかと考えています。このお礼は何かせねばね。とにかく市やボランティアに感謝ですね。日本人――という言い方はおかしいかな――、でもすばらしいと誇りに思います」
道子 「本当に親切で。泣くだけです。毎日泣いてばっかりです」
泣きながら話していた道子さんは、そう言っていっそう涙の量を増やした。
一雄 「あとはね、行方不明になっている友達がいるんですよ。あー、あの人、いまどこで何をしているのかなって」
そう言って一雄さんは、新聞の行方不明者欄を読むふりをした。顔を下に向けて、涙を隠した。
一雄 「あとは何も言いようがないね。妻の精神面のケアもしてくれるし。今日も来てくれて長時間話してくれて。今日はガソリンも満タンにできたから、9割方は安心ですね」
道子 「先が見えないでしょう、今度の事件は。区切りがつくかどうか」
私は、柚原さん夫婦に「東電に言いたいことは」と聞いた。
一雄 「これは……いま言ってもしょうがないよね」
道子 「この怒りをどこにぶつけていいのか分からないよね。我々は下々ですし。国と東電が一体になって隠していることがいっぱいあるんでしょ。庶民には分からないだろうけれど。どうせ分からないだろうし。とにかく家に早く戻りたい。それだけです」
◇
この連載の第1回、私はこう書き始めた。
「福島県での東日本大震災取材にひと区切りをつけた2011年4月24日、宮城県石巻市をたずねた」
これは、福島県以外の被災地も見ておきたかったことと、もう一つ、別の目的があった。
南相馬市原町区の大工・松本智勝さん(29)を訪ねたかったからだ。松本さんに最初にあったのは確か4月17日、福島市のあずま総合運動公園の体育館でだった。松本さんは長女の心ちゃん(4)をあやしていた。
あの3・11のとき、松本さんは、富岡町でのリフォームの仕事を頼まれていて客と打ち合わせ中だった。それが午前10時に終わり、原町区にある会社に戻った。工場内でリフォーム用の材料を用意していたときに大きくて長い揺れに襲われた。古い建物が崩れて、煙突が倒れるのも見た。
すぐに家族に電話をかけた。ようやくつながって妻(29)の「大丈夫」という一言で安心した。アパートに戻り、大泣きしていた心ちゃんをあやした。妻と心ちゃんは幼稚園からアパートに帰ってきた駐車場で車のドアを開けた瞬間に揺れに襲われたという。
3月13日、原発が爆発しそうだという話を耳にし、原町区を離れる決意をした。まず飯舘村役場の駐車場で車中泊したが、翌14日に心ちゃんが熱を出した。原町区に戻って病院で「安静に」と言われたのでアパートに戻った。
翌15日、原発関連で働く友人から「避難した方がいい」と耳打ちされて、それで松本さんは、両親、妻、心ちゃんの計5人で16日、あずま総合運動公園に身を寄せた。私と会ったのは避難してきてちょうど1カ月のころだった。
4歳の子どもが「放射能が怖い」
「地震と津波は自然現象だから仕方がないけれど……原発は何とかなんないか。いつになったら普通の生活に戻れるのか、仕方がないですね。この子にね、ふざけて『家に帰るか』と聞くと、『放射能が怖い』『帰りたくない』と言うんです。こんな4歳でも、ですよっ」
このころの松本さんは、家族をあずま総合運動公園に残し、自分は平日、原町区に戻って仮設住宅づくりの仕事をしていた。土日の週末だけあずま総合運動公園に来て心ちゃんと会う日々だった。
「家族と離ればなれの二重生活です。毎日この子の顔が見れないのは寂しいですよね。地震前だったら毎日この子の顔を見ていたわけですから、やっぱり寂しいっているのがね。うちの子は体が少し小さいし風邪も引きやすいからよけいに心配なんです。普段は俺に甘えてくるんですよ。素直な子でね。週末に戻ってくると、『パパ、何やっているの』と心配してくれるんです」
松本さんに会いに石巻市へ
それから松本さんは4月20日、応急仮設住宅づくりのため、石巻市に派遣されることになった。その松本さんに、石巻市の現場で再会した。
「あずま総合運動公園を出るときに、『仕事してくるから』と言うと、(心ちゃんから)『仕事なんてしなくていいが』と言われたんです。本当は仕事なんてしたくなかったですよ。でも、これからの生活ができなくなるからと嫁と話して仕事に出ました」
しかし、石巻市に来て松本さんの心持ちも少し変わったという。
「やっぱり、ここにもテントがありますよね。みんな着の身着のままの被災者なんですよ。やっぱり、多くの方が津波で家や家族を亡くしたんだなあって。だから家族が無事だった私はまだマシですよ。マシな私だから早く仮設住宅を作ってやりたいんです」
「私の担当はお風呂です。みんな寂しそうな顔をしているんですよ。やっぱり家を失った悲しみなのかなって。今は石巻港の近くにある宿舎からここに通っています。周りはもう、もう住めない状況なのかなって。建物は残っていますが、無残なんですよ」
私は最後に、福島県への思いを聞いた。
「原町ってね、住みやすい田舎なんです。平和で。居心地のいい町でしたね。俺の父親も大工でした。だから俺も昔から大工に憧れていてね。家ができるでしょ。お客さんが立ち会いの検査で『ここまでできたか』と笑顔を見せるんですよ。それが最高でね。原町高校を卒業してすぐに父親が仕事を請け負う親会社に就職しました。それが18歳の時です。最初の5~6年は父のもとで働きながらの修業でした。おやじは昔主義で、がんこで、怒られて怒られて怒られてばっかり。辞めようと思ったことは無数ですよ。家に帰っても顔を見たくなかったですもん。8年が過ぎた頃かな、ようやく認められたのは。現場の見通しを聞かれるようになったのと、俺の所に手伝いに来てくれと言われるようになったときですね」
早くもとの生活に戻りたい。それが一番ですよ
「父は4月8日に仕事を再開しました。いわき市の方に泊まり込みで仕事をしています。たまに携帯電話で工期の話をします。私も、現場で迷うと、この材料はどこに使えばいいのか、どういうふうに加工したらいいのかと相談の電話をします。父は決して『がんばれ』とは言わないんです。淡々と教えてくれるだけですね」
「やっぱり一刻も早く地元の原町で仕事ができる環境を作って欲しいですね。原発のためにキャンセルが多くなっていますし、この仮設住宅の仕事が終わったらどうなるのか。お客さんから『帰ってきてくれ』とリフォームの注文も来ていますが、それができなくて困っています。それも原発がおさまらない限りは……。双葉町にも富岡町にも自分が手がけた家が何軒もあるんですよ。早く、やっぱり新しくなった町で新しい家をつくりたいです。そんな思いですね。それが一番ですね。早くもとの生活に戻りたい。それが一番ですよ」
◇
松本さんと別れた後、私はいったん福島市に戻り、翌日の2011年4月25日、福島県を後にした。
=終わり
安全センター情報2016年7月号
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