福島県での東日本大震災取材にひと区切りをつけた2011年4月24日、宮城県石巻市をたずねた。
石巻市も大きな被害に遭っていた(注)。市役所ちかくの商店街は軒並み休業中だ。多くの店がシャッターをおろし、そのうえに「危険」「休業のお知らせ」の張り紙がある。ゆがんだ扉ごしに建物のなかをのぞくと、家財と商品と泥とがこねくりまわされて小さな山となっている。店の前の歩道にもごみ袋とがれきがこれもまた大小の山となっている。

ちかくの石巻港へむかった。途中、道路沿いのコンクリート壁は津波をうけて巨大な穴があいている。ガードレールは紙テープのようにぐちゃぐちゃだ。白壁にかこまれて美しい日本庭園だったはずの民家に、車が重力とは無関係に突き刺さっている。港にある巨大な建物は日本製紙の工場だ。1階はやはり津波で射ぬかれて骨組みがあらわになっている。工場の敷地に引かれているJR石巻貨物線の線路も土砂に埋もれている。

石巻湾に接する住宅地は破壊し尽くされている。津波で全壊した石巻市立病院の白い壁がむしろ無事なようにさえ見える。原形をとどめない家・家・家……。2階建ての家がそのままごろりと横になっている。巨人が両手でクチャッと丸めたかのように団子になった車が転がっている。
港と湾と住宅地のこのような光景をまえにして、谷口智弘さん(35)、和子さん(36)夫婦が立っていた。自転車で20分の市中心部から来たという。

「ここは全部お墓だったんです。俺のおやじ、じいさん、その先の先祖の何人かが眠っていたんです」と智弘さん。一帯はごみの埋め立て地にしか見えない。墓地をしのばせるのは、かろうじて残った稱法寺(しょうほうじ)のとんがった屋根と、誰かがあとで置いたのであろう小さな仏像ぐらいしかない。中年の女性が近寄ってきて「稱法寺はどこですか」と2人に聞いてきた。「ここは家がいっぱいあって、ここからは海岸が見えなかったんですよ。まるっきり風景が違ってしまいました。私たちもここに来るまで目印がなにも無くなっていて、どこを走っているのか分からなくて。こんなんじゃ無かったよねえ」と和子さんがつぶやく。

智弘さんは2011年3月11日のあの日、石巻市と女川町にある東北電力女川原発の倉庫で仕事をしていた。すぐに和子さんの携帯電話を鳴らした。「落ち着ける状態じゃないけれど、落ち着け」。電話の向こう側から「とりあえず困っているから早く帰ってきて」と叫ぶ和子さんの声が聞こえた。すぐにつながらなくなった。倉庫を出た智弘さんは、地割れがおきて波うつ道路の真ん中に民家が転がっているのを見て、車での帰宅をあきらめた。翌日午前10時に家へむけて歩きはじめた。

自宅でテレビを見ていた和子さんは、携帯電話の緊急速報メールの音が鳴るのとほぼ同時に、食器が落ちて割れる音、テレビが落ちる音、家がギシギシときしむ音に包まれた。「怖いというよりも何が起きているのか分からなかった」。情報は携帯電話のワンセグ機能だけが頼りだった。ニュースは「女川は壊滅」と伝えていた。「ああ、あの人は死んだんだ」と思った。冷たい津波にのみこまれておぼれている智弘さんの姿さえ頭に思い浮かべた。12日午後7時ごろ、自宅の2階の窓から外をながめていた。懐中電灯を揺らしながら水浸しの道路を歩いてくる人が目にはいった。「大変だな」と思った。「えっ」と思った。智弘さんだった。「おかえりって言うべきなのに、今まで何していたのよって怒ってしまいました」

智弘さんの最初の記憶は、3歳だった1978年の宮城県沖地震だという。ろうそくをともして停電の夜を過ごしたことを覚えている。その時は家族みんな無事だった。今回の津波では母親の妹夫婦を失った。
和子さんは2年半前、結婚を機に東京から移り住んだ。「海沿いを自転車で走るのが好きでした。ここの人は海が近くて幸せだなあと。でも今は……」

◇ ◇

2人の話に耳を傾けながら周囲を見回した。ここで、石巻市を歩いている間中ずっと感じていた違和感の正体に気がついた。
人がいる、ということだった。

商店街では白いマスクをした人が店の中に水をまいて泥を押し流したり、使えなくなった物を歩道に運び出したりと後かたづけに追われている。片側一車線の前の道路は車の往来もひっきりなしだ。駅前では被災者向けの青空市場がにぎわっている。交差点では渋滞もおきている。花屋やコンビニエンスストアなど営業を再開した店もある。入り口に「震災応援定食」と張りだした食堂もある。石巻港のまわりでは大型トラックが土ぼこりを巻きあげ、重機ががれきを1カ所に積みあげている。国道108号線沿いにあるイオンの前でも車の大渋滞が起きていて、店内は買い物客でごったがえしている。石巻市では、家屋は傾き、窓ガラスは割れ、車が側溝に突っ込み、町全体が土ぼこりに包まれているが、しかし、人はいる。

一方の福島県。とくに太平洋の沿岸部は、東京電力福島第1原発の事故の影響で人の姿が消えた。住民は全国各地への避難を強いられ、行方不明の家族を捜すことさえできない。立ち入った人から聞いたのは「人がいない」「音がしない」「まるでゴーストタウンだ」だった。
地震と津波は、地球の営みによる自然災害だ。ある意味、人々をひとしく襲う。福島県はそのうえに、原発という徹底的人工物による被害を背負わされた。人がいる被災地と、人がいない被災地と。福島県の被害の重さを思った。
福島県に入ったのは、東日本大震災の発生から1週間後の3月18日夜だった。

(注)石巻市役所によると、死者・行方不明者は3,959人。直接死が3,264人、関連死が243人、行方不明者が452人となっている(2013年4月末現在)。
写真は2011年4月24日石巻で著者撮影

◇ ◇

「安全センター情報」今月号から、2011年3月18日から4月24日の約1カ月間に福島県で見聞きしたことについて書きつづっていく機会をいただきました。ただ、この連載に「ニュース」はありません。地震・津波・放射能による被害は既知のことばかりです。

それなのになぜ連載をするのか、その意味を考えてみました。

一つ目は、被災者との約束です。かわいい盛りの子を失った男性は、つらい現実を懸命に語ってくれました。「この事実をぜひ伝えて欲しい」という声を何度も耳にしました。そうした言葉を安全センター情報の読者に伝えることで、ささやかながら約束を果たしたいと願いました。

二つ目は、2年3カ月が過ぎようとしている今だからこそというものです。いまも被害の全貌がみえない東日本大震災と東京電力福島第一原発事故については様々なメディアで繰り返し報じられていますが、「あの1カ月」をふり返ることで風化にあらがう勢力の一端を担いたいと考えました。

最後に、実相をすこしでも浮き彫りにするために、たんに死者・行方不明者の人数という数値に押し込めてしまわないために、わたしがお会いした一人ひとりの体験と言葉を書きとめておきたいと思ったからです。(文中の年齢などは取材当時のものです)

安全センター情報2013年7月号

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