「福島11」という言葉がある。
東京電力福島第一原発の爆発事故対応のために現場に残ったとされる作業員に対してメディアが名づけた「フクシマ50」とは無関係だ。
これは、農産物の生産量も土地の面積も全国屈指の農業県である福島県において、誰もが知っている11の名産品のことを指す。米・桃・梨・地鶏・福島牛・ヒラメと豊かな大地と豊かな海からとれるものを指す。
したがって「原発災害」もまた、土と海とともに生きてきた人たちを直撃した。
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2011年3月24日の夜ことだった。「須賀川のキャベツ農家が自殺したらしい」。そんな情報が入ってきた。私は、同僚と手分けしてあちこちに電話をかけた。断片的な情報から具体的な風景が少しずつ浮かびあがってきた。
状況はこうだった。
福島県須賀川市で暮らす野菜農家の男性(64)が24日早朝、震災と原発事故の前からそうだったように、野菜の様子を見に畑に出ていった。ところがいつもの時間をすぎても帰ってこなかった。息子が捜しに出たところ、午前7時か午前7時半、敷地内にあって自宅の台所からも見えるケヤキの木で首をつった男性をみつけた。男性をおろしたのは息子と男性の妻だった。
なぜ男性は自ら命を絶たなければならなかったのか。
東日本大震災によって、新築したばかりだという男性の自宅は母屋の瓦が落ちたり台所に穴が開いたりする被害をうけた。納屋も全壊した。
この被害に男性はおおいに落胆しながらも、しかし、この時点では生きていく希望を失っていなかった。というのも畑は無事だったからだ。男性は30年以上前から妻と二人三脚で有機栽培に取り組んでいた。とくに土づくりに精力を込めていた。誠実な姿勢は地域からの信望もあつく、区長を務めたこともあった。
しかし原発災害は、ささやかに残されていた「希望」さえも打ち砕いた。
震災から10日後の3月21日、政府はホウレンソウの出荷停止措置をとった。つづけて23日にはキャベツなど一部の福島県産野菜についても摂取制限の指示を出した。これが、この日まで作業日誌を付けつづけていた男性の希望の一切を奪った。男性は「福島の野菜はこれでもうだめだ」「東京電力は許せない」と遺族らに漏らしていた。そして翌日早朝、おそらくは、丹精こめて育ててきたキャベツを見た後、自ら首をくくった。
男性の自殺から1年5カ月後、遺族に取材した記事が朝日新聞に載った(2012年8月26日付朝刊)。全文を引用する。
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夏野菜、真っ盛り。防虫網で覆われたビニールハウスに旬のキュウリが実る。
「豊作すぎて、ダメ。値がつかない。出荷のコストを引くと、赤字になる」
流れる汗をぬぐいながら、須賀川市の農業、樽川和也さん(37)が言う。県内農家を取りまく環境が依然として厳しい中、口にしたのは、政府や東京電力に対する怒りではなかった。
「100ベクレル以下なら、野菜は出荷できる。不検出ならいいが、基準値以下でもゼロではない。放射性物質が含まれているものを出すのは、消費者の方に対して、罪の意識があります」
だが専業農家は出荷しないと、生きていけない。
会社勤めを辞め、次男の樽川さんが父親の農業を手伝い始めたのは7年前。「人の口に入るものだから」と、安全面には特に厳しい農業者だった。その父親は昨年3月、テレビで福島第一原発が爆発する映像を見て、嘆いた。
「オレが言っていた通りになった。この国は、福島はもう終わりだ。農業はもうダメだ」
10日後、政府は福島県産野菜の「摂取制限」を指示する。通知のファクスを受け取った翌24日、父親は自宅敷地内で首をつり、自ら命を絶った。64歳だった。
減反対策もあり、30年近く有機栽培の野菜づくりに情熱を傾けてきた。10年前から取り組んだキャベツは、関東より北では冬を越すのが難しいが、品種や種のまき方で試行錯誤を繰り返し、人気品種として定着させた。昨年3月も丹精込めた7500株が畑一面を黄緑色に染めて、収穫を待つばかりだった。そこに届いた「摂取制限」だった。
「ガソリンもない、食い物もない、水も出ねぇ。気がおかしくなっても不思議じゃなかった。戦後よりひどい、って言っていた」
父親の持論は、「人間の造ったものは自然の力にはかなわない」。原発に対しても、ずっと不安を抱き続けていた。
「バカな国だ。世界で唯一の被爆国なのに、原発なんか、いくつも建てて」
25年ほど前には広島の原水爆禁止世界大会に出席した。毎年8月6日と9日の平和記念式典、祈念式典のテレビ中継を見ながら、正座して黙禱してきた。樽川さんも幼い頃から教えられるまま、そうしてきた。
2007年7月に起きた中越沖地震の時には、もうもうと煙を上げる柏崎刈羽原発の映像を見ながら、不安を募らせていた。
「新潟の原発で何かあったら、風が南向きだから、福島の農業は終わりだ」
4年後。新潟どころか、県内の原発が爆発、恐れ続けてきたことが、最悪の形で現実になった。
農業は、残された樽川さんが「やっていくしかなかった」。機械操作は得意で、小学生の頃からトラクターや耕運機を運転して遊んでいたし、厳しかった父親にも、そのことでは叱られたことはない。
だが早すぎるひとり立ち、農薬の調合ややり方、回数、消毒液のまき方とかで戸惑うこともある。
遺書はなかった。
「お前んところのオヤジは、死をもって国に抗議したのかもしれねぇな」
親戚の一人は樽川さんを代弁するかのように、そう言った。(西村隆次)
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この話はまだ終わらない。
2013年6月5日、樽川和也さんは記者会見をひらいている。父親の自殺について当初は東京電力に損害賠償を求めていたが、原発事故と自殺との間に法的因果関係がないと断られていた。そこで原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)の仲介をえた結果、東電とちかく和解するという内容だった。原発事故に起因する自殺の遺族に東電が賠償するのはこれが初めてのことだった。ただし、東電は賠償金の支払いには応じるものの謝罪は拒否しているという。
遺族の傷ついた心をさらにかきむしる出来事があったのは、この会見から12日後のことである。自民党の高市早苗・政調会長が神戸市で「原発事故によって死亡者が出ている状況ではない」と言い放ったのである。
2012年12月の総選挙で民主党から政権を奪回した自民・安倍政権が、すでに原発を再稼働させる姿勢を鮮明にしていたころでもあった。高市氏は2日後に発言を謝罪・撤回したが、福島の大惨事まで原発建設を延々とすすめてきた自民党。重大な事故は起こらないと言い続けてきた自民党。原発事故の直後はだんまりを決め込み、「そろそろほとぼりがさめただろうか」というころでもあった。高市氏の発言はしたがって失言などではなく自民党の本音であっただろう。
福島県内の自殺は須賀川市のキャベツ農家にとどまらない。3カ月後の2011年6月には、相馬市の酪農家の54歳の男性が、自分の酪農場の堆肥小屋で首をつった。小屋の壁にチョークで「原発さえなければ」「ごめんなさい」などと書き残していた。これも大きく報道されたので知っている人も多いだろうと思う。
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須賀川市のキャベツ農家が自殺した日の午前中は私は須賀川市にある須賀川アリーナを訪ねていた。「日課」となっていた避難者取材のためだ。
東京電力福島第二原発が建つ楢葉町に住んでいた松本要一さん(52)とすえ子さん(55)夫婦は、ここで3月17日から避難所生活を強いられていた。家はまた爆発事故を起こした第一原発からも15㌔の距離にあった。東日本大震災の揺れの影響は自宅にほとんど及ばなかったが、原発事故にともなう避難指示放送「南へ逃げて下さい」をうけて12日朝に家を出て、近くの小学校へ身を寄せたあと、17日にアリーナにたどり着いた。
すえ子さんが言った。
「いつ帰れるのか。先どうするのかが見えなくて。いつごろ帰れるのか、どの区域ならば帰れるのか、何カ月先には戻れるとか、そういった先々が見えないから不安なんです。なるべく一日も早く家に戻りたい。うちは専業農家なんです。作物や米はとうぶんできないのか、二度と農業はできないのか。ハウスに夏のもののトマトとかインゲンとかがあり、お見舞い用の花も満開だったんです。出荷の準備をしていたのに、それを全部捨ててきたのがショックで。出荷前の大根をそのまま残してきたのがショックで」
松本さん夫婦は、4町の田で米を、9反の畑で花や野菜を育てていた。9反のうち4反には10棟のビニールハウスを建てていて、カブ・シュンギク・インゲン・大根・トマトを栽培していた。ハウスではまた花ならば菊・トルコキキョウ・キンギョソウ・ストックも手がけていて、これらは主に直売所で売っていた。残りの4反の畑ではカボチャ・ブロッコリー・サトイモ・ジャガイモ・ニンジンを植えていた。
農業は要一さんの両親から引き継いだものだ。自営業から農家に転身して8年目。生活もようやく安定し始めたころだった。一昨年の年収は800万円だった。去年は猛暑だったので500万円に落ちた。今年こそはと考えていたときだった。
それなのに、何もかも放り出して逃げ出さざるを得なかった。夫婦が放り出してきたもの――芽が出てきていて5月にはハウスに移す予定だったトルコキキョウ4300本、やはり芽が出ていたトマトのポットが1500個、カボチャのポットが1000個。「もう水をあげていないので枯れているころでしょうね」。5月の田植えに備えて水につけていた種籾――これらは「何もかも放り出し」てきたもののごく一部に過ぎない。
横浜うまれのすえ子さんは、雨の日も風の日も仕事が尽きない農業が好きではなかった。土から引き離された今、自分で種をまき、自分で育て、自分で出荷する一連の行為がとてもいとおしいものだったと改めて気づかされた。
「自分で作って育ててが楽しかったんだなと思います。『おいしいね』って買ってくれる輪がひろがってきたのに。作れない寂しさですね」
松本さん夫婦は互いにつぶやき始めた。
すえ子さん「帰っても何年もやることがないのかも。働きに出ないといけんかな。チェルノブイリの土壌汚染のことを考えると」
要一さん「いつかは戻れるのか?戻れたとしてそこで作物ができるのか」
すえ子さん「とくに直売所に持ち込む楽しさは格別だった。県外から買いに来てくれる人も増えてきた。残念です」。
要一さん「他も畑も手入れをしないとすぐにダメになるんだ」
すえ子さん「直売所は特に楽しかったね」
要一さん「お客さんと話ができたしな」
すえ子さん「形の悪い物を安く売ったり、『味は変わらないから曲がったものでいい』と言う声を聞いたりね」
要一さん「だんだん年齢とともにね」
すえ子さん「自分で時間にメリハリをつけて。人に使われなくて」
要一さん「作物ができなければ仕事を見つけなければ。次男はいま高校2年だからあと1年あるし」
すえ子さん「収入源を断たれたので次男の大学進学はどうなるだろう。本人は『行きたい』と言っているけれど。大学に行かせてあげたいけれど。それに、お金で買えないものがあるというのか、それは部落です。一緒にやってきた隣近所の人と、その人たちとまた一緒にやりたいのですが。あの住民と一緒に、のんびりと、ほのぼのと、そんな生活に戻りたい」
要一さん「帰れるのか、帰れないのか」
すえ子さん「これからは福島産というだけで敬遠する人が出てくるでしょうね。取り返すのに何年かかるのでしょうか」
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2011年3月30日、私は、石川町にあるクリスタルパーク・石川を訪ねた。このなかの石川町総合体育館にも多くの避難者が身を寄せていた。
滝本実さんは、体育館の入り口で、ほんのり差し込む陽光に身をゆだねていた。
広野町から逃げてきたという。広野町は東京電力福島第二原発がある楢葉町の隣にある。爆発を起こした第一原発につづき、第二原発の半径10㌔圏にも避難指示がだされたため、広野町の一部も圏内に入ってしまった。滝本さんは62歳だと言ったが、私の目には70歳以上に見えた。80歳だったと聞かされても疑わなかっただろう。それほどまでに老けて見えた。滝本さんは「かごの鳥だよ」とぼやいた。避難所に来てから足腰がすっかり弱ってしまって車いすに乗るようになった。50年ちかく共に生きてきた土から引きはがされたからに違いなかった。知人が「すっかり弱った」と言葉を失うほどだった。
滝本さんは中学校を卒業して家業の農家を継いだ。
「親は病気だったんだ。オヤジは疲れからだろうな。毎朝早く起きて農作業をしていたし、あの頃は耕運機なんかなかったっぺ。お母さんは、たぶん年だったからだろうな。きょうだいは女、女、女、男、俺と5人いて俺が一番下だったけれど、みんな癌で死んだ」
「3月12日の夜中だったな、ここに逃げたきたのは。町のバスに『早く乗れー、早く乗れー』って。着の身着のままだよ。その時は1日で帰れるかなって思ったらもう20日間だべ。みんなパーだっぺ。ホウレンソウもニンジンも。これからジャガイモをまくかなってがんばっていたのに、もうがんばれないよ。米は3反でコシヒカリを育てていた。もうやる気がねえよ。やる元気もなくなったよ。百姓はもうだめだよ。容易じゃねえんだ」
「避難所に来てから一度も家に戻っていない。まだ見てね。津波でやられたのかどうかも分からない。ヤになるよ。やられたところを早く直さないと仕事できねっぺよ」
最後に滝本さんは「俺は屋根があればいいけれど、家が壊れた人はかわいそうだな」とつぶやいた。追い詰められてなお他人の苦境を思う。土から優しさを学んだ人たちを無慈悲に襲った原発。その罪深さがいっそう浮き彫りになる。
安全センター情報2015年3月号
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