東京電力福島第一原発を中心として同心円状に設けられた避難指示区域(半径20㌔)と屋内待避指示区域(半径20~30㌔)が、変えられることになった。
2011年4月11日に会見した枝野幸男官房長官によると、放射線量・風向き・地形などを考えて、半径20㌔以遠については計画的避難区域と緊急時避難準備区域に再編するという。計画的避難区域とは、原発爆発事故発生からかぞえて1年間で累積放射線量が20㍉シーベルトに達する恐れのあるところとされた。正式に再編が指定されると、住民は約1カ月かけて別の場所へ避難しなければならないという。
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もちろん、こうした政府の動きを待つまでもなく、例えばわたしが回っていた福島市の避難所にはすでに、原発の事故をうけて逃げてきた人たちが大勢集まっていた。
あづま総合運動公園の体育館に身を寄せていた葛尾村の畜産家・佐久間信次さん(61)と俊子さん(59)夫婦もそう。枝野官房長官によると、葛尾村は全域が計画的避難区域に指定される見通しだという。わたしが佐久間さん夫婦に話を聞いたのは、枝野官房長官による記者発表の翌日。夫婦の避難所暮らしも1カ月になろうとしていた。
佐久間さん夫婦が乳牛130頭を育てている畜舎は、福島第一原発から23㌔にある。3月14日、1号機につづいて3号機でも水素爆発が起きたため、夫婦は避難を決めた。
信次さんは避難所に来てからも2日に1回、葛尾村の畜舎に様子を見に通い続けていた。
「保健所に行ったら『そのまま放っておけ』と言うんだよ。そんなの、できるわけがねえよ」。行くたびに悲しみのどん底に突き落とされていた。畜舎に行くたびに、1頭また1頭と死んでいる牛を見つけるからだ。信次さんが語る。「死んでいれば穴を掘って埋めてやらないとな。人には『自分の体だけは気をつけろよ』と声をかけられるけれど、牛には…どんな言葉を…。かわいそうでな。なんの罪も無いんだから」
夫婦が避難した後も牛の出産はつづいていた。生まれたばかりの牛の赤ちゃんはすぐに親牛から引き離さないと踏みつぶされてしまうのだという。その赤ちゃん牛の死体もまた穴を掘って埋めている。俊子さんが語る。「こんなふうにならなければ生きられるのにね。かわいそうでならない」
14日に避難するまでは毎日、牛乳を2300㌔ずつ捨てていた。福島市に避難してからはそれもほったらかしだ。そんな現状を俊子さんは「生き地獄だねえ」と言った。
「毎日てんこ盛り食わせてもらっていたやつらがさ、今はサイロの乾燥草をパサッとだけだもん。牛もガタガタなんだよね」。
佐久間さん夫婦にも、ほかの避難者とおなじく先が見えないという苦痛が押し寄せていた。思いうかべることができる将来像は暗いものばかりだった。
2人が酪農を始めたのは35~36年前だった。最初は4頭から始めた。いまでは130頭だ。5年前からは規模拡大と機械化にいどみ、牛舎の屋根を1000平方㍍にひろげて牛が自由に歩き回れるようにした。こうすると、放牧ほどではないけれども牛にかかるストレスが軽くなるという。
佐久間さん家の畜産業を支えていたのは、夫婦のほかに同居の長男(35)夫婦とパート2人の計6人だった。経営の近代化にも手をつけていて4月には会社組織にするはずだった。信次さんが意図を説明する。
「というのもね、本当は息子には公務員になって欲しかったんだ。でも俺の背中を見てね。それで息子は北海道にある畜産専門学校で牛の人工授精の技術を身につけてきたんだ。この商売は定年がないからさ、でも息子夫婦といっしょに本格的にやるのならばとこれからは月給制にしようと考えていたんだ」
そこに原発事故が襲いかかってきた。俊子さんが怒る。
「やっと本当に何もかもが落ち着いてきた時だった。悔しくてしょうがない」。
信次さんも怒る。
「やっと黒字になってきたときだった。もうこうなっては規模拡大と機械化につぎ込んできた金の返済金が残るだけだ」
いっしょに働いてきた長男夫婦は地震と原発事故後、群馬県に避難し、長男夫婦の子どもは馬県の学校に通うことになった。もう葛尾村には戻ってこないだろう。戻ってきたとしても葛尾村で再び牛を育てることができるのだろうか。
「もし戻ってするとしても、何年もかかるよね」と俊子さん。
「あらためて牛をそろえてっとなるとね」と信次さん。
「(畜産業の魅力は)家族みんなで働けることってね。俺らは家族みんなで朝から夜まで、ひとつの目標に向かってきた。それが魅力だった。それでその中から給料をもらえるんだからさ」と信次さん。
「やった分だけもらえるんだよね。長男の嫁は保育を担当していました。うまれた赤ちゃんに哺乳瓶をあてがってミルクを飲ませて育てるんですよ。人間の赤ちゃんと同じです。2カ月後に競りにかけるんだけれど、よその牛と比べて目方が多いとうれしくなるよね。高く売れるんだ。それがやりがいだよね。同時にね、競りの時は別れの時だから泣くんだよね。ようやく保育を嫁に任せられるようになってきた時でした」と俊子さん。
佐久間さん夫婦に話を聞いた約1週間後、こんなニュースが流れた。
「農林水産省は19日、政府が近く指定する予定の『計画的避難区域』内で飼育されている牛を区域外に移す方針を固めた。福島県が同区域内の牛を移したいとの意向を示しているため、県と協力して近く移送を始める考えだ。/農水省によると、計画的避難区域の対象になる予定の福島県葛尾村、浪江町、飯舘村などには約2万頭の肉用牛や乳用牛がいるとみられる。福島県内ではこれらの牛をすべて受け入れきれないとみて、全国の都道府県に受け入れられるかどうかを打診し始めた。(略)移動させる牛は、放射線量を測定する全頭検査をする。一定の基準値を設け、それを下回った牛だけを移送する方針だ。基準値を上回った場合は、牛の体に付着した放射性物質を洗い落とすなどしてから再検査し、基準値を下回れば、移送対象に含める」(朝日新聞4月19日夕刊)
この農水省の考えを信次さんにあらためて聞いた。
「うちらの牛は持っていけないよ。放射能で汚染されているんだから受け入れる側に迷惑をかけてしまう。(放射線量が基準値を下回っていたとしても)受け入れ側に風評被害をひろげてしまうことになる。だから、買い取ってもらって、殺…処分を…」
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―以下、東京電力福島第一原発から半径30㌔圏内に家があり、「原発災害」によって避難所生活を強いられた人々の声を、記録しておきたい。
▼南相馬市原町から福島高校(福島市)に避難中の片山義雄さん(61)と妻(61)=取材日は3月23日
「あの日は夫は仕事中で私は老人ホームのお掃除の手伝いをしていました。揺れがすごかったんです。何十分も続いたからお年寄りに『大丈夫だよ』と声をかけたんですが、その年寄りは今どうなっているのか。家に帰ったら中はぐちゃぐちゃでね。そこに原発がだんだんとね。うちにいたらだめだと。すこし落ち着いたら戻れると着の身着のままでとりあえず避難しようと。するとだんだんと原発がひどくなってきて、えっ、えって。(3月)13日にここに逃げてきました。地震だけならば家を離れなくてもよかったんです。何にも悪いことをしていないのに、それが悔しくて。今日、いまから原町に戻ります。みんな知り合いは戻っていますから。自分の責任で。やっぱり地元ですから。生まれたときから原町なんです。だからよけいになんです。空気はいいし食べ物は特に魚のカレイがおいしいし。住みやすいところでした。今ではね…放射能で危ないと。知り合いの人が『海にいっぱい亡くなっている人がいた』と。それを思うとね。でもやっぱり帰りたい。私たちは子どももいないし年だし、そういう面で帰ろうと。避難所は本当によくしてくれました。先生たちにお礼を言いたいです。夜中まで気をつかってくださるし。でも福島高校は進学校ですし、そんなに迷惑をかけられません。原町の再建は考えていません。でも戻って、南相馬市に頼るだけではなくて自分たちで少しはなんとかしたいよね。家の目の前が海でね。昔は船で出たもんですが、もうできないだろうなって。でも海に怖さはありません。海で大変なことがあったけれど、やっぱり海だから」(妻)
「重機をあつかう会社で働いていました。会社は『避難指示が解除されたら復活する』と言っています。復興にはなくてはならない会社なんです。南相馬市を新しく立て直すには力不足だけれど、やっていかんとならん。会社の仕事を一生懸命にすればそれが復興に自然とつながるんじゃないかな。生まれたのは相馬市です。6歳の時に原町に移りました。原町ってこれといったものがないんですよ。でもそれが人間があくせくしない形で育つ環境だったと思うんです。子どものころは海・川・山と今の子どもと違って遊びは自然相手でした。ハゼやカレイも捕ってね。原町ってとりとめもないところです。その何にも無いところが一番大事だったという気がするね。私が育ったところ、それ以外に一言では言えないよね。でも今まで暮らし続けてきたわけだから悪かろうはずがないところです」(義雄さん)
▼富岡町から須賀川市の須賀川アリーナに避難中の渡辺不二男さん(60)=取材日は3月24日
「先が見えないってことかな。帰りたいけれどその時期はいつごろになるのか。屋根の瓦が落ちて家の中は足の踏み場もなかったよ。棚の食器もみんな出ちゃって。ひと晩だけ寝る場所を確保して家族みんなで布団ひとつで寝ました。そこに原発!なにが安全だ。裏切られた気持ちだ。この先どうしてくれるのか。家に帰れないし不安でいっぱいです。仕事は歯科技工士でした。機械は地震で壊れました。帰ってもいつ仕事を再開できるか分かりません。年齢的にもローンを組んで新しい機械を入れるのは無理ですね。それよりも、付き合っていた近所の仲間たちが県外に避難してばらばらなんだよね」
▼楢葉町から須賀川アリーナに避難中の布田健志さん(43)=取材日は3月24日
「最初はいわき市に逃げて12日夕方からここにいます。双葉の人は原発の怖さを知っているので爆発してからすぐに行動しました。(勤め先の)運送会社も原発の20㌔圏内にあって社長も避難しています。さきほど社長から連絡があって来月の給料日には何とか振り込むからと言ってきました。ずっとこの仕事しかしたことがないので、つぶしがきないので、他の仕事をこれから探すのは難しいですね。会社が立ち直ってくれればいいんだけれど」
▼大熊町から田村市の総合体育館に避難中の古山喜美子さん(67)=取材日は3月26日
「ここに来て1週間ぐらいかな。不満はあるけれど精いっぱいがんばって、こんなときにわがままを言っても、と耐えているんです。でも未来がないと耐えられないので、希望を持てることを報道してください。それが何よりの心の糧だね。政府もがんばっていると思うので批判できないですよ。お互い信頼するしかない。(震災前は)ひとり暮らしで年金は2カ月で15万円でした。地震で家の中のものは壊れました。住めるけれど放射能で住めないですね。(避難所に来てからは)パンとかカップ麺が多いですよね。だから便秘に苦しんでいます。たまにフルーツの配給があるけれど、生野菜が食べられたら最高ですね。昨日、船引町に行ってオレンジ・イチゴ・トマトを買ってきました。船引にも野菜は全くなかったですね。貯蔵米があるならおむすびが食べたいですね。東電の社長さんはここに顔を出して欲しいね。東電さんに誠意を見せて欲しい。直接会って話をしないと通じないものがありますから。両親は私の妹と一緒に猪苗代へ、妹の夫は娘と一緒に茨城へ避難しています。生きてさえいればいいです」
▼広野町から石川町のクリスタルパーク石川に避難中の女性(26)=取材日は3月26日
「12日に広野町役場の人が家に来て『南に逃げろ』と、それだけ言っていました。どこに行けという指定もなく。それでいわき市の体育館に行って1週間いたんですが衛生的に問題で体にできものができたので郡山市のホテルに移りました。実は仙台空港から出発して神戸へ会社の旅行に行く予定だったんです。その旅行代金の7万円を持ってね。その金がなくなったので今日ここに来ました。30㌔圏内の『自主避難』っておかしいですよね。『自主』っていうと『任せる』という感じでしょう。逃げろって言っておいて自主はないんじゃないでしょうか。自主で避難すると後で補償はどうなるんでしょうか。逃げてもガソリンも食料も水もないのに。富岡町にある老人ホームの職員でした。入所者は全員、避難先の入所者となっています。つまり、私の仕事はなくなったわけです。強制的に避難させられたとしても、実はここにいるしかないないんです。他にいるところはありません。仕事・車のローン…といっぱいあるじゃないですか。3日に結婚したばかりだったんです。で、11日に地震です。もう結婚式もだめですね。それと、家を建てる予定だったので大熊町に土地を買ったんですが、それももうだめでしょうね。家の着工日も決まっていたのに。27歳の夫は東電の子会社で働いています。昨日から現場に行っています。3日はたらいて6日やすむ、という感じです。緊迫していて何も言葉をかけられません。心配ですけれど、しょうがないですよね。行かないとこれからの仕事がなくなるので」
▼富岡町からクリスタルパーク石川に避難中の渡辺耕清さん(52)と晴美さん(49)夫婦=取材日は3月30日
「ここには昨日きました。福島第一から10㌔のところで第二にも近いところに住んでいたんですが、家も部落全部も津波で流されました。(11日は)会社にいたんです。地震があって車で家に向かいました。四倉消防署の前は水びたしで、36号線に入ったんですが大混雑でした。旧道を通ったんですが全然進まない。ようやく隣部落に行ったんですがここもがれきで行き止まりで。富岡駅に行ってもここもがれきで。午後5時過ぎにようやく富岡駅の近くの家に着きました。うちの集落は42戸ありました。それがみんな、がれきって言うよりもたいらに、きれいに、さっぱりと。家族とは携帯電話が通じませんでした。避難所を探し回ってようやく会えました。それでも避難所に入れないので、それからも家族ばらばらのまま親戚宅を泊まり歩いて、そこも原発が危ないと言われて。父(耕清さんの父親の正さん〈81〉)はもともと富岡町内の病院に入っていたんですが、14日に郡山市の病院に搬送されたんです。一昨日、肺炎と呼吸困難で亡くなりました。老衰と言われたんですが、少なくとも肺炎は良くなっていたのに。津波で流された家は築60~70年ぐらいでした。親から引き継いだものです。富岡に戻れるならば高台に300坪の畑があるのでそこに新しい家を建てたいですね。この畑は俺が生まれる前からあった畑です。うちのばあちゃんが管理していたんですが。生まれて52年間住んでいた場所ですし、住めば都で、できれば富岡に住み続けたいです。そうはいっても最低で3千万円はかかるかなあ。もう私はあと7年で定年退職なので、息子に任せるしかないよね。息子への親子リレーしかないよね。そうすると仕事も心配です。私の会社はいわき市にあるからいいけれど、息子の会社は広野町の工業団地にあるのでもうだめだと。それで来月から神奈川の工場に行くことになっています。娘の勤め先は富岡町にあるし、妻は楢葉の工業団地で働いていたし。これはどうなるんだろうね」
▼広野町からクリスタルパーク石川に避難中の池田清治さん(56)=取材日は3月30日
「原発、何とかして欲しいよ。12日の夜からここにいます。妻・息子・自分の父親と母親・妻の母親の6人で逃げてきました。広野町がある浜通りは災害がなかった地域です。災害があるたびにテレビで避難者の様子を見ていましたが、まさか自分がそうなるとは想像もしていなかったです。2度とこういう―天災かもしれないが人災ではないかとも感じる―こういう事故を起こして欲しくないですね。原発は要らない。第一も第二も撤去してもらいたい。東電という会社自体で手に負えないのならば、自分の手に負えないものならば、それを作ったことがおかしいと思うんだ。東電には最後まで責任を持って行動してもらいたいと思う。避難所はプライバシーがないからやすらぎの場所が欲しいね。周りに聞いてもとにかく戻りたいという声が100人中100人です。いまはみんな緊張しているけれど、この緊張感が壊れたときが怖い気がしますね。家に猫2匹を残しているんです。週に2回、エサをあげに帰っています。避難の時は置いていくしかなくて。妻の母親が一緒に寝ていたぐらいかわいがっていたからね。家に行く途中、よその犬なんだけれど、食べ物がなくてよたよたと歩いていたんだと。かわいそうだと女房が食べ物をあげたんです。つながれたままの犬も1頭いたね。みんな苦労してがんばるしかないんだ。家がない人もいるんだから。じっとしているのが嫌なのでボランティアで食事の手伝いをしているよ。何かをしていると気が晴れるからね。何か役に立てればいいなと」
安全センター情報2015年5月号
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