「田中さん」に電話をしたのは2011年4月16日、福島県に取材で入って1カ月が過ぎようとしていたころだ。2016年、何ということか、このときの取材テーマ「障害者はどうしているのか」に関する名刺や資料やらを紛失してしまっている。どこで田中さんを知ったのか、なぜ田中さんに電話をしたのか、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から5年が過ぎた今、私の記憶はあいまいになっている。田中さんの言葉も取材ノートに断片的なことしか書いていない。

「避難所で障害者はどう暮らしているのか?」
「場所によって対応が違う。県外に大勢が避難している。南相馬市の○○は千葉県に施設ごと避難している」
「障害者は長いこと体育館にいられない→だから崩れかかった自宅に戻る」
「原発の影響が広がるにつれて新たな避難者が出てくる。その受け皿はどうなるのか。原発で見通しが立たない」

見えてこない人

こうした断片的メモ、ノートの片隅に記したいくつかの住所や電話番号をたどると、おそらく私は、田中さんと話した後、郡山市朝日町に開設された「JDF(日本障害フォーラム)被災地障がい者支援センターふくしま」を訪ねているようだ(「ふくしま」は後に郡山市桑野1丁目に移転)。田中さんもここの関係者だろう。

この「ふくしま」の設立趣旨書の一部を収録する――

「JDF被災地障がい者支援センターふくしまは、2011年3月19日に活動を開始しました。4月6日には事務所を構えた開設式を行い、正式に活動を開始しました。/活動の初めは被災した地域の障がい者関係事業所に支援物資を届けることから行ってきました。その後、福島県内の避難所を回り、被災地障がい者のニーズ把握と所在確認を行いました。旅館やホテルなどの二次避難所も一部分ですが見て回りました。/私たちは被災地障がい者の所在確認をして、個別支援に結び付けていきたいという強い気持ちを持って活動を行ってきましたが、いまだに被災地障がい者の実態がみえてこない状況です。/唯一、南相馬市だけが市長の英断で、障がい者名簿を見せていただいて、在宅の障がい者の訪問調査を行うことができました。その他の市町村に関しては、個人情報保護法の壁が厚くて障がい者の名簿開示はできていない状況です。/最近の動きは、福島県内に仮設住宅が建設されてきているので、仮設住宅を回って障がい者の住みやすい住宅ができているかどうかを調査しています。なお、仮設住宅での被災障がい者の交流をはかるように努力しています。/そのほか、被災障がい者の支援に結び付いた様々な活動を行っています」

活動はなし崩し的に始めざるを得なかったようだ。
「ふくしま」代表の白石清春さん、メンバーの「きょうされん福島県支部」の和田さんへの取材によると、まずは安否確認から始め、口コミで広げていったが、巨大な被害に到底追いつかなかった。私の取材ノートに白石さんか和田さん、あるいは「ふくしま」の別のメンバーの言葉が残っている。

「見えてこない人がいる。どこともつながっていない人です。特に重度の障害者や精神障害者の存在が見えてこない」
「しかも福島の場合は新しい避難指示が次々と出ていましたから、ますます連絡が取りづらい状況になっています」
「それでも我々は、民生委員・町内会・養護学校などからの情報を頼りに、その人がどこにいるのか、おそらく自宅にいるんじゃないのか、原発事故を受けてどこに避難しているのかを手探りでさがしています。避難所は障害者には本当に過酷です。それで自宅に戻る人もいるのですが、その人の足取りは行政でもまったく分からないのです。自宅に戻る人、車の中で暮らす人、避難所にいても薬とつながれない人。我々が存在を把握しても旅館に聞くと『知りません』と」

地震、津波、原発事故、個人情報保護の壁……それらに加えて、「見えてこない人」すなわち障害者の被災者は、もともと地域とつながっていない場合もあり、自分が障害者であることを知らせることができず、周りもそれに気づこうとしない幾重もの壁によってますます「見えてこない人」と化しているという。

こうした状況のなかの3月19日、白石さんら複数の関係団体のメンバーが郡山市に集まり活動拠点立ち上げを決定。
4月6日に「ふくしま」の正式開設となった。「ここにあるよ、と。明かりを示すところで障害者が光を頼って相談に来てもらえるようにしたい」と誰かが話した言葉が私の取材ノートに残っている。

「JDF(日本障害フォーラム)被災地障がい者支援センターふくしま」開設を知らせるチラシを避難所になっている旅館に貼ってまわるメンバー

会津若松市での調査に同行

「ふくしま」の事務所を訪ねた後、私は、メンバーによる4月18日の現地調査に同行している。3~4人ずつの3チームに分かれて2次避難所となっているホテルや旅館を回り、障害者がいるかどうかを聞き歩いた。前述の通り名刺などの紛失という大失態と、この同行取材も当時は下調べと考えていたため断片的メモになっており、誰とどこを訪問したのか今となっては不明だ。記憶によると、おそらく会津若松市の旅館だ。

聞き取り調査メンバーの誰かが言った。

「とくに南相馬市がひどいと聞いている。いったん避難したものの避難所での集団生活が難しくて自宅に戻っています」
「本当に障害が重い在宅の人は避難所にも行っていません」
「もっと深刻なのは所在がはっきりしない人です。例えば日ごろからデイサービスにつながっていれば、その事業所が所在を把握したり逆に把握できていないことを把握できるのですが、もともとそういったところとつながっていない人は本当にどうなっているのか分からないのです」

午前10時47分、旅館周りを始める。
「もしも障害者が来られていたら……」
「とくに我々の所にはいないので」
「分かりました。私たちの連絡先をエレベーター前の掲示板に貼らせてもらえますか」。
旅館受付にも「ふくしま」の連絡先を記したチラシを置かせてもらう。
「とにかく目につくところにビラを掲示することでしょうね」とメンバー。

次の旅館。
「うちはいらっしゃらないようです」
「ぜひビラを掲示させていただければ。障害の人は自分から言いにくいことがありますので」。

次の旅館。
「障害のある方に支援センターができたことを知らせるために来ました」。
こうして私が同行したチームはこの日、七つのホテルと旅館を回った。

いくみさん

翌日の4月19日、「ふくしま」関係者から紹介された楢葉町の「いくみさん」(26)に話を聞いた。
この時いくみさんは、会津若松市にあるNPO法人運営のグループホームに身を寄せていた。知的障害とクローン病があり、人工肛門も装着している。てんかんの発作は今はおさまっているという。

「早く家に帰りたいなーと思うし、いろんな不安を抱えちゃうね。どうすればいいのか分からなくて、だから日記を書いています」

いくみさんによると、地震発生時、楢葉町の自宅から通っている隣の富岡町の社会福祉施設で作業をしていた。

「あれ、誰かが揺らしているのかなーって周りを見たら、あれー、電気が揺れている。すると携帯がビーと鳴って。死んじゃったらどうしようと机の下に潜って泣きました」
「実家はもう戻れない。みんなばらばらになって、いつ戻れるの。ピアノの練習や発表会はどうしようと、もう頭の中はぐちゃぐちゃです」
「(自分が通う社会福祉法人に)通っていた子も千葉に避難して。友達のりなちゃんもどこにいるのか知らないし、避難しているのかもしれないし。泣いて」

いくみさんは地震発生直後に社会福祉法人から楢葉町の自宅に帰った。そして翌日の3月12日夜、父親の車でいわき市にある父親の実家に避難した。

「(ペットの猫)メロが心配で一緒に連れてきた。家にいたら死んじゃうよ、お父さんと言って。最初は置いていこうとしていたからニャーニャーとパニックになって鳴いていて。死んだらどうするのかって。動物も生き物でしょう。自分の頭の中は、メロとピアノとピアノ教室の友達とピアノの先生は大丈夫なのかなってことでいっぱいで」

いわき市に避難したものの、両親は仕事に出てほとんど不在だったという。いくみさんは、知り合いもいない慣れない土地で不安な日々を送っていたようだ。父親は原発関連企業で働いている。
「いつになったら帰れるんだろう。すごく父親のことが心配です。不安で眠れない時があります。自分の頭がパニックになってだめになっちゃって」

いくみさんが会津若松市のグループホームに移れたのは偶然だった。
「ふくしま」のメンバーの一人に、いくみさんが昔通っていた仙台市の養護学校の同級生の母親の兄がいた。その兄がふと「いくみさんはどうしているのか」と思いだして問い合わせた。避難先のいわき市で孤独ないくみさんを会津若松市に招くことができた。

こうしたかすかなつながりによって「発見」されたいくみさんはまだマシな方だった。いくみさんを「発見」した「ふくしま」のメンバーが語る。

「訪ねた避難所の窓口では『障害者はいらっしゃいません』と言われます。でも中を回らせてもらっていいですかと入ると、いるんです。例えば学校の3階に重度の身体障害者の人が避難しています。その人はトイレに行くのも大変なのです。どうして3階にトイレを置かないのかと。役場の人に聞いても『その人がどこに避難していたのか私たちにも分からないから』と。ある幼稚園で障害を持っているお子さんはいますかと聞くと、『ダウン症の子が一人います。でもお母さんと一緒で不自由はないです』。こうなると私たちは手を出せないんです。何かあったら連絡をしてくださいというのが精いっぱいで。どこを回っても『ここにはいません』『分かりません』。私はいると思う。でも見えない。声が聞こえないんです。いくみさんは運がよかっただけなんです」。

すなわち福島県には無数の「いくみさん」が「見えてこない人」として放置されているというのだった。

私の取材はこれで終わりだ。
前述のように不完全なメモしか残していないし、その後しばらく別件の取材にかかっているうちに帰還命令が出た。なおかつあり得ないミスで名刺や資料のほとんどを紛失している。私は、見ようとしなければ「見えてこない人」たちを「見えてこない人」のままに放置して福島県を後にした。不完全な取材の不足を少しでも補うため、「ふくしま」が出していたニュースレターなど初期資料の一部の概要を紹介したい。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故下に放り出された障害者の急迫状況を知るよすがになると思う。

「ふくしま」ニュースレターから

「JDF(日本障害フォーラム)被災地障がい者支援センターふくしま」開設告知のチラシ

ニュースレター第1号は4月11日発行。福島全県域の小規模作業所など85カ所を対象に訪問や電話などで聞き取りをしており、施設や利用者から寄せられた声をまとめている。それによると――

  • 原発事故で開所の見通しがたたない
  • 職員も避難しておりスタッフ不足
  • 放射能により作業種目である農業が開始できない
  • ガソリン不足で開所できない
  • 精神の方の薬の入手が難しい
  • 仕事がなくなり収入減
  • 生活費が底をついた
  • 利用料が払えない
  • 避難所生活は続けられない
  • 親の介助で周りにも迷惑、疲れた
  • 精神障がいがある人について、定期通院、服薬が不安定
  • カップラーメン以外のものが食べたい
  • 原発30キロ屋内待機指示地域の2事業所の利用者の多くは、避難所生活の継続が難しく自宅に帰ってきている。複数事業を行っている法人の事業所は、40人の利用者のうち19人が在宅生活を送り、11人の職員のうち8人が県外で避難所生活、3人が出勤可能という状況でも再開を決意しスタートしようとしている。しかし、行政は再開には責任はもてない、と継続事業の承認は未定の状況
  • 食料物資は一定届くようになってきているが、カップラーメン、レトルトなどが多く偏っている。しかしお世話になっているので要望を言いにくい。栄養バランスのある食生活確保のための手立てを打つことが急務の課題
  • 人口透析中に被災、8名の家族がばらばらで避難、2ヵ所の避難所に分かれての生活になっている。

「ふくしま」個別実態把握状況から

また「ふくしま」が4月下旬までにまとめた「個別実態把握状況」――

  • 補聴器の補助金もつかず、収入も少なく買えない(70代男性)
  • 自宅にいる。人づきあい少ない。物置のような建物に住んでいる(アルコール依存症の60代男性)
  • 集団生活が長期化することで、周囲から心ない言葉をもらうことがある(重度重複障害の10代男性)
  • 息子が知的障がい。時々遠くに行ってしまうので心配(自身も左半身麻痺の50代女性)
  • 1日なにもすることがない。作業所に通えない。家に帰りたいが帰れない(知的障害の30代男性)
  • 夜眠れず、避難所を夜歩き、戸の開閉がうるさいと苦情。現在は家族で個室にいる。病院につながっていない(精神障害の50代女性)
  • 体育館を歩きまわったりすることで、周囲から白い目で見られる。地元に戻れないと何をしてゆけばよいかわからない。地元に戻り、仮設住宅からでも稲作を始めたい(てんかんの40代女性)
  • (現在の避難所から2次避難所の)旅館に移動が始まっているが、情報が入らなくなるのではと不安。持病があるため食事内容で病状が左右される。お世話になっているので、これ以上のお願いはできずにいる
  • 5か所目の避難所。別の避難所で役場の人に健常者も障害者も大変なのは同じだと言われ違和感を感じる(てんかんの40代女性)
  • 被災時入院中。持病があるため郡山の病院に転院後、現在の避難所へ。医療費はかからないが生活してゆくのにお金が大変。杖を買うのも実費。車いすのリースも保証人が欲しいといわれた(統合失調症の避難者)
  • 避難所に行ったが慣れず騒いだため親戚を頼ってここへきた。現在は仕切りや遊ぶ所があり落ち着いている。二次避難所の旅館へ移る事になっている。支援学校にいた介助員3人は解雇になったので今まで通りにならない。また、放課後支援も受けていたがどうなるのか不安(知的障害の女性)
  • 家族4人自宅で生活している。収入が無くなり、貯蓄を切崩して生活している。食料事情も苦しくなってきたので、避難所にもらいに行くが支給できないとのこと。社会福祉課の貸付を利用したらと言われたが、返済のあてがないのに借りることはできない。食料がなくなりそう。子どもたちもストレスがたまり、パニックを起こすこともある。日中過ごす場がほしい。他にも同じ境遇の人がいる(7才男児高機能自閉・5才女児アスペルガーの家族)
  • 自衛隊の風呂が何度かきたが、その場所までの歩行が困難なため、地震以来風呂に入っていない(身体障害の60代男性)

「ふくしま」避難所の声から

「ふくしま」の資料は避難所の悲鳴も記録してある――

  • 133名が避難している。障害者は今朝他へ移動した。入れ代わりが激しく、現状の把握が難しい
  • 衛生状態が悪い。駐車場の車内で生活してる人がいる
  • 介護が必要なかたから二次避難を始めており、足の悪い人は昨日移動した。随時その他の人も移動していく予定。同じ町内の人であるが、つながりがないのか障害者の存在を分かっていても気まずそうにしている人もいる
  • 約30名が避難している。ひざが悪く入浴困難な高齢者がおり、社協に介助イスを借りに行ったが断られた。認知症で、徘徊などがひどく心配している
  • 自殺者が多くなっている。社協の避難所では5人1チームで24時間体制でやっている。行政はあまりできない。スタッフ不足。避難所を見守るスタッフが欲しい。70代の障害者の入浴介助ができない
  • 140名が生活。行政がなかなか協力してくれない。

「ふくしま」県知事への要望から

最後に、「ふくしま」が4月15日付けで佐藤雄平・福島県知事に出した8項目の「提案と要望」を紹介したい――

  1. 避難所回りをして、障がい者の存在を確認してきていますが(170か所に100名程度)、まだまだ避難所に来ていない在宅に取り残されている障がい者がいるのではないかと、気が気でない思いを私たちはしています。さらに、南相馬市には在宅のまま残されている障がい者や、避難所での生活が厳しく家に戻られた障がい者がいます。私たちは、在宅で生活している障がい者の安否を確認し、ニーズを聞いていく訪問活動を行っていきたいと考えています。しかし、私たちの力では限界があります。是非とも、福島県と力を合わせて在宅の障がい者の支援をしていきたいので、よろしくお願いいたします
  2. 避難所で生活している障がい者の中には介助の必要とする者が多くいますが、周りの避難者たちに気を使って、なかなか介助をお願いすることができないでいます。この方たちの日常生活を維持していくために、速やかなヘルパーの派遣ができるようなシステムを作っていきませんか
  3. 一次避難から二次避難先になった温泉施設や保養所等での必要な支援をしていくため(インターネットに掲載された資料からは以下が未掲載となっている=筆者注)
  4. 避難所から、特別支援学校に通わなければならない障がい児がたくさんいます。そのような環境にある障がい児たちが、避難所から安心して特別支援学校に通えるようなシステムを作っていきませんか
  5. 福島県内各地の避難所のある地域の障害者自立支援法関係の事業所では、被災地である各市町村から来ている障がい者がサービスを活用している現状があります。利用者で満杯の状態になり、より良いサービスを提供できない事業所もあるのではないでしょうか。このような状況を踏まえて、被災障がい者を受け入れている事業所が、新たに事業を拡大する際には、スピーディな対応と契約書類の簡略化等の対策(厚生労働省への要望等)を行っていきませんか
  6. 新たに避難指示区域となった飯館村、川俣町の障がいを持つ方から、避難の方法や避難先での生活が不安であるとの相談が支援センターに寄せられています。避難所での生活が苛酷なものになることを障がい者の皆さんは分かっています。もし、でき得るならば、幾つかの障がい者や高齢者を受け入れることのできる福祉避難所を設けることが必要だと思います。ベッドを持ちこむことが可能で、バストイレも容易に使える避難所のあり方を早急に考え、行動に移していきませんか。/原子力発電所の事故は国の責任があるので、避難にあたってはその地域の住民の避難には障がい者を含めた形で、避難代替地や避難所の提供、避難者の移動は国の責任で行うことを、福島県から強く言っていただきたいと思います
  7. 原子力発電所の事故で大きな変化(危険な状況)があった場合には、福島県民に速やかに情報を流して、福島県民の命を守っていくように、国が責任を持つことを、福島県から国に対して強く言っていただきたいと思います
  8. 被災者が避難所を離れて、仮設住宅に移るような状況になった場合には、被災障がい者の存在を考えたバリアフリーの仮設住宅の提供や、それができない場合には、障がい者が生活できるような公営住宅やアパートの提供を考えていきましょう。

安全センター情報2016年5月号

目次, 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25