福島県は三つの「地方」に分けられる。
太平洋沿いの「浜通り」は、ここの大熊町などに東京電力福島原発が建っていた。浜通りの西側が「中通り」で、福島市や郡山市、白河市などがあって文字どおり県の中心ラインといえる。そして雪深い「会津地方」である。

須賀川市は、中通りのほぼ真ん中にある。避難所となっていた須賀川アリーナには浜通りの住民らが数百人が身を寄せていて、そのなかには原発作業員やその家族も多かった。彼らへの取材が特に難しいということは無かった。爆発事故があってしばらくたっても「原発作業員が重い口を開いた」などと仰々しく報じるメディアがあったが全くの羊頭狗肉と言っていい。取材する側がごく普通の礼節とともに言葉をかけて耳を傾ければ、彼らは別に隠し立てすることもなく丁寧に話してくれるのだった。

東京電力の下請け会社で働く男性(29)に会ったのも須賀川アリーナだった。
2011年3月11日は東京電力福島第一原発の4号機にいたという。4号機は定期検査中で稼働していなかったが、4日後の15日には原子炉建屋が爆発事故を起こしてしまうところだ。「リアクタービル(原子炉建屋)、タービン建屋、ラドウエスト(廃棄物処理建屋)といくつかの建物のそれぞれに線量が違うんですね。俺らは汚染が少ないラドウエストで働いていた」と話す。

そのラドウエストでの3月11日は、十数人が2班に分かれて、1班は建物の地下にあるタンク内に足場を組んでスラッジ(固形状の廃棄物)の処理やタンクそのものの点検をし、男性がはいった別の班はタンクのへりに立って作業の安全性を監視していた。

地震があった。
「建物が崩れる」と思った揺れに襲われた。ほかの作業員と一緒に階段のしたに隠れた。逃げだした。直後に停電で真っ暗になった。男性は「タンクの中で足場を組んでいた人は危なかっただろうね」とふりかえった。すぐにサイレンが鳴り響いた。しかし警報つきポケット線量計(APD)は鳴らなかったので、男性は「放射能漏れはない」と判断した。

原発で働く人は、体が放射線に汚染されているかどうかを調べる「体表面モニター」を通らないと外に出られないことになっている。しかしこの時はモニターが置かれた出入り口に作業員が殺到し、大混乱が生じた。男性は「実際、あそこにいるのはおっかないですからね」と語った。モニターの順番待ちをしている作業員からは「こんなことをしている場合じゃない」という怒声が飛んだ。そこで、モニターを通らずに別の通路から脱出することになった。

ようやく、おそらく全員が4号機の外に出た。タンクの中で作業をしていた同僚が外に出てきたのは30分ぐらい遅れたという。みんなで4号機と海辺の間の敷地で待機していると、ドーンという音が聞こえた。男性は波の音ではなかったかと考えている。その音に海を見ると、津波が迫ってくるのが見えた。東電社員が「逃げろ」と叫んだ。
逃げろと言われても、そうすんなりとはいかなかった。作業員の多くは自分の車を原発の敷地内にとめており、みんながその車で避難をはじめたものだから、敷地内に大渋滞が生じた。車を降りて歩き出す人もいた。男性が原発の敷地の外に出たのは、地震から1時間半がすぎた午後4時過ぎだったという。

男性は2次下請けの社員だ。
20代のころから全国各地の原発に派遣されてきた。日給制で1日1万2千円から1万3千円をうけとり、毎月20~25日間働く。2011年2月の給料は保険料などを引かれて手取りで約17万円だった。男性によると、東電を頂点として、その真下に東芝、日立、東京エネシス、東電環境エンジニアリング(現東京パワーテクノロジー)などがいくつもぶらさがっている。それぞれが複数の子会社や系列会社を持ち、その子会社や系列会社も下にいくつもの下請けを持っているという。

17日朝、須賀川アリーナにいる男性の携帯電話に会社から連絡があった。
「イチエフ(第一原発)に今から戻って仕事できるか」ということだった。がれきの撤去や電気を復旧させるためのケーブル敷設、敷地内の片付けなどがあるという。しかし男性は「車のガソリンがない」という理由で断った。以来、わたしが取材した3月24日の時点まで何の連絡もないという。

男性が断った理由はガソリンの問題以外にもあるという。
「別の会社の社員だけれど地元で昔から一緒の友達は行っているんだよ。さっきも携帯でしゃべったばかりだ。そいつによると、イチエフに行く前にJビレッジに集まり、装備をして、それからイチエフに行くらしいね。そいつは5号機と6号機に行って外でやぐらを組む仕事をしている。線量は3時間でコンマ3か4。まあつまり300~400㍃シーベルトということ。俺らからすると少ないけれど、しかし、一般の人から考えるとあり得ない数値だよね。これから考えると放射能は間違いなく漏れているんだな、と。作業の時は全面マスクとカッパを着るんだけれど、マスクでは放射能を基本は防げなくて、内部被曝を防ぐためのものに過ぎない。俺の友達は『見た目は落ち着いている。爆発がない限り怖くはない』と言っていたけれどね」

男性はピンハネ構造にも頭にきていた。

「いま行っても特別手当があるのかどうか分からない。あるのかどうかも教えてくれないんだよね。まあ俺らは使われている身だし。東電は元請けに仕事を依頼し、その元請けから俺らは仕事をもらっているだけだし。もしまた電話がかかってきたら……微妙だね。友達はコンマ3しか食らっていないというけれど、4号機は全然違うので、線量が。仕事の場所や内容にもよるけれど、元請けは決められた線量のルールを守りますと言うけれど、全然あてにならないからね。原発は場所によって被曝線量が全然違う。俺の会社のルールは2㍉シーベルトを超えないように仕事をさせると。すると、1時間働いただけで100㍃シーベルトにはなるから、2㍉シーベルトなんて1週間も働いたらすぐに達してしまう。それでいくらもらえるんだっていう話だよ。結局、元請けがピンハネするんだね。この状況でピンハネされるとさすがに頭に来るよ。これだけ払いますというのを明確にしないで、ただ働けなんて言われても分かったとは言えないよ。そりゃあ会社にもメンツがあるんだ。例えば1次下請けからどう見られるのかということ。1次が人を集められないと元請けからの評価が下がるよね。すると1次は今後、人を出さない2次には仕事を回さないだろうね」

男性は「あんた記者なら書いて欲しいことがある」とも言った。

「電力が今はたたかれているけれどね、市民から。俺から言わせると、電気を使っていて何を言っているんだということ。もとは地震と津波だろ。一方的に批判するのはおかしいよ」。
そうはいっても、次に誘いの電話があったらどうしようかと男性は迷っている。「原発ってね、本当に怖いんです。何が本当か分からないからね」

東京電力の下請け会社に勤めている別の男性(36)には、須賀川市にちかい三春町の避難所となっている町民体育館で会った。
3月11日はやはり福島第一原発の敷地内にいた。勤め先の会社は、消化器や屋内外のスプリンクラー、火災警報器といった消防用設備の保守点検を担当していて、男性は1999年から福島第一原発と第二原発に通っているという。

3月11日、目の前のアスファルト道路に亀裂がはしった。消防用のマンホールのふたがボーンと飛び上がって水が噴きだした。地面が陥没した。敷地に置いてあるクレーン車のアームが大きく揺れていたことに身の危険を感じた。
男性がいた場所は、放射能に汚染される危険性がある放射線管理区域内だった。体表面モニターがある入退域管理装置は停電で止まっていたが、そのかわり、ガードマンの指示でひとりずつ、氏名と胸に着けていたAPDの製造番号を紙に記入した。その後、事務所を経由して免震重要棟に向かい、東電にAPDを返した後、放射線被害を受けているのかいないのかを調べるスクリーニング検査を受けた。

やはり男性も、避難しようとする作業員の車による敷地内の大渋滞には悩まされた。男性が福島第一原発の正門を出たのは午後5時ごろだったという。
敷地を出た後の混乱も長く続いた。

自宅は福島第一原発が建つ大熊町の隣の富岡町にあった。距離にして約13㌔。普通は車で30分足らずでつくところだが、この日は1時間半かかった。自宅内はしっちゃかめっちゃかだった。余震もひどい。男性の自宅は高台にあったため津波被害はうけなかったが、富岡町内は津波で運ばれてきたがれきが散乱していた。道路はおちこちが陥没していた。古い家は倒壊していた。

その夜は車の中で寝た。
翌日、もう1台の車で寝ていた親に起こされた。どうやら町内放送があったらしく、「川内村へ行く」と告げられた。男性は11日の出勤時から着の身着のままだったので、着替えをしてから出発した。ところが川内村の体育館に行ってもいっぱいだからと入るのを断られて、三春町へ行くよう求められた。男性が「そこに行けば確実に受けいれてくれるのか」と聞いても、村の職員は「分からない」という。それでも男性は仕方なしに三春町へ向かった。三春町についても「車の中で寝泊まりするだけになりますが」と言われた。男性は仕方なく従った。

翌日、避難者の一人が町の職員に「もっと入れるじゃないか」と抗議した。寒い日だった。見るとあちこちに車中泊の人がいた。町職員が駐車場でそうした車を1台1台調べて声をかけて、ようやく体育館に入ることができた。中に毛布はなく、男性は自宅から持ちだしてきていた毛布にくるまって過ごした。そんな状態が1週間ほど続いた。最初は体育館に450人がいて階段で寝ている人も多かったが、そのうちによそやおそらく親戚宅へ移る人もいて、わたしが男性にあった4月20日時点では100人に減っていた。

男性の会社は地震後は福島第二原発で被害調査を請け負っているという。
やはり男性へ会社から参加の打診があったが、避難所から福島第二原発までは距離的に通うのは難しいからと断った。男性は「新たな指示があるまでは待機している状態です」と言った。
そして男性は、爆発の怖さは感じなかったというが、「見えないし、においもない」と放射能の怖さをしみじみと語った。

とても悔しいのは、故郷を永遠に失いつつあるということだ。富岡町にある夜ノ森駅の駅舎は無くなっていると人づてに聞いてはいた。確認したかったが、がれきに阻まれて行けなかった。夜ノ森公園の桜並木が自慢だった。夜ノ森駅のツツジが誇りだった。
「毎年十数万人の観光客が来ていたんです。特急も徐行してね。若いころは都会に出たかったんです。今は……私は長男だし、最初は隣の楢葉町に就職して6年半にて、そして地元の富岡にずっと住もうと戻ってきたんです。もう見るに堪えない状況ですね。二度と経験したくないです」とつぶやいた。「いつ戻れるのか分からないですね」とも言った。

浪江町は、福島第一原発が建つ双葉町の隣にある。やはり3月11日に第一原発内にいた山田文良さん(55)には、4月24日に話を聞いた。

3月11日、山田さんは企業棟にいた。
これは東京電力の下請け企業が入居する建物のことで、山田さんは日立製作所の下請けの事務所の1階にいた。「いやに長い」と感じた揺れで、ロッカーや机がみな倒れ、すぐに停電となった。携帯電話で高さ6㍍の津波警報を見たが、津波そのものは見ていない。携帯はすぐに通じなくなった。
「それからが難儀でした」
山田さんもまた敷地内の車の大渋滞に巻き込まれた。全く車が動かなくなった。午後4時ごろ、しびれを切らした山田さんは乗せてもらっていた同僚の車を降りて歩き始めた。

敷地の西約1㌔にある国道6号もまた大渋滞だった。山田さんは、6号線沿いにある会社の寮の駐車場にとめてあった自分の車に乗り込んだが、倒れた家が道路をふさぎ、どこもかしこも通行止めだった。数百㍍すすむのに50分はかかった。あちこちの山道を迂回して、浪江町の自宅に着いたのは暗くなったころだった。

山田さんは原発は無事だと信じていた。「大事になるとは思っていなかった」。しかし実際の福島第一原発は深刻な事態に陥っていく。地震翌日の12日、1号機で水素爆発が起きた。
「これはまずいな」と山田さんは思った。「あんなふうになるなんて思ってもいなかった」。夕方、原発から半径10㌔だった政府の避難指示が20㌔にひろげられた。

浪江町は「山側に逃げなさい」という指示を住民に出した。「山側」には町の施設があるからだが、山田さんは「浪江町の人口は2万人だ。あんな小さな施設に全員が入れるはずがない」と判断した。そこで浪江町の北にある南相馬市の小高区へ避難することにした。さらに小高区から原町区へ移った。「山側」へと避難した知人にのちに聞いたところ、ふつうは30分の道のりが、この時は大渋滞で5~6時間はかかったということだった。

14日、3号機で水素爆発が起きた。

「本当にやばい」。
山田さんは恐怖にかられた。栃木県の親戚宅へ避難することにした。出発時に車のガソリンは半分しかなく、いつ止まってしまうのかと焦りながらハンドルを握った。
その後も福島第一原発は爆発を繰り返して深刻度は増すばかりだった。政府が避難を呼びかける地域もさらにひろがった。

しかし山田さんは3月下旬、福島県に戻ってきた。
「県外にいてはまったく情報が入らないからです」。栃木県の親戚宅に長居するのも悪いという気もあった。山田さんが戻ってきた浪江町は「中通り」の二本松市に役場機能を移していた。山田さんが電話を何度かけてもつながらない。直接役場を訪ねた。原発はどうなっているのか。家のローンは、今後の生活設計は……。聞きたいことは山ほどあった。しかし職員は「うちもパニックなんです」と繰り返すだけだった。

山田さんは3月11日からの約40日間をふりかえって語った。

「この先の予定を早く示して欲しい。どこで落ち着けばいいのかさっぱり分からない。3月12日の避難生活からもう1カ月以上たちます。長引けば長引くほど不安ばかりになってしまう。人生設計も変わるし、家のローンも最中だし。怒りは……どうなんだろ、怒りもあるんだろうけれど、その前にあきれちゃいますよね。町にもがっかりしたけれど、でも、一番しっかりしていないのは国会議員だろうね。民主党もだめだが自民党はもっと悪い。自分の政党のことしか考えていない。菅政権がどうのこうのよりみんな協力してしっかりやりなさいよと言いたいね」

山田さんは原発作業員のベテランだ。原発で働くようになったのは20年前。福島原発のほか、日本原燃の使用済み核燃料再処理工場(青森県)、東京電力柏崎刈羽原発(新潟県)、北陸電力志賀原発(石川県)、中国電力島根原発(島根県)で配管工事を手がけてきた。「自然と働いていましたね。最初は俺、働く前は違和感があったけれど、中で働いていればそんなに危ないという感じはなかったですからね」。そんなベテランでも「原発で何が起きているのかの情報が入らない」と嘆く。原発の周辺に暮らす住民の情報不足はなお深刻となるのは当然だった。

さらに山田さんは指摘する。
「原発があるおかげでいろいろな補助金が地元におりている、道路や施設が充実していると言われてますよね。でも、地元に還元していないと思う。県も知事も被害者意識ですけれど、俺からするとおかしいんじゃないのと。原発が事故を起こした時に原発で働く人や地域住民が避難するための施設や道路は整備されていない。地元もある程度は原発の避難訓練をしていたんだろうけれども、まさかああなるとは誰も……」

原発作業員の証言からはっきりと浮き上がってくることがある。
少なくとも日本には原発事故に有効な避難計画など全く無いというということだ。

安全センター情報2014年10月号

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