いくつかの避難所をまわる。どこの壁にも、2011年3月11日を境に行方がわからなくなった家族や恋人・友人・知人の安否を求める張り紙がびっしりとはられている。とくに、東京電力福島第1原発の事故の影響で捜索がすすんでいない沿岸部の人のが多い。

「シルバーのネックレスをしていました。左唇の上にホクロがあります」
「目撃情報など、些細なことでもかまいません」
「福島市のあづま体育館にいます。連絡ください」

私はいつも、壁の前にぼうぜんと立って張り紙をただただ見つめているだけだった。
張り紙にはどれも連絡先が書いてある。ふつうの取材だったならば、これらは「宝の山」だろう。こちらが連絡先を探したり聞きだしたりするまでもなく、ここに連絡をしてくださいと書いてあるのだから。しかし、どうしてもかける気になれなかった。かけられなかった。

家の電話の前で、あるいは携帯電話を握りしめて、今か、1時間後か、明日か明後日か、あるいは1年後でも2年後でもいいから、「無事だったよ」「連絡が遅くなってすまんな」「見つかったよ」という声がかかってくるのを待っている人たちに、一体どんな言葉で取材を申し込めばいいというのだろう。大事な人からの連絡がついにかかってきたと心おどらせた人を、「いや、まだ見つかっていませんが、今の心境を聞かせてください」とでも話して、再び絶望の奈落へ突き落とせというのだろうか。そんな権利が取材をする側にあるとは思えなかった。

3月24日、避難所となっていた福島県須賀川市の須賀川アリーナを訪ねた。ここは、東京電力福島第1原発の構内で働いていた人やその家族が数多く身を寄せていたから、「3・11」に原発で何が起きたのかを聞きだそうと連日通っていた。

玄関のボードに貼ってある1枚の紙が目にとまった。
木村紀夫さん(45)が、行方が分からない家族の消息に関する情報を求めて張りだしたものだった。見た瞬間、「この人には電話をかけなければならない」と思った。それまでの張り紙と何が違っていたのかの説明はできない。今もって「かけなければ」と思った理由は分からない。「これは記事になる」という恥ずかしい職業意識もあっただろう。それ以上に「この木村さんの力に少しでもなれないか」とも思った。記事として発表することで情報を提供してくれる人が増えるのではないかと、そんなことを考えていた。

とはいえやっぱり電話をかけられない。どんな力になれるというのだろうか。それから数日間、私は、カメラに収めた木村さんの張り紙を何度も見て、その度に携帯電話のボタンを押して、そしてやめた。

張り紙には「捜しています‼」と黒い文字で書かれている。
その下に、「大熊町で災害、津波後家族3人が行方不明です」と赤い字であった。大熊町は東京電力福島第1原発の1~4号機が建つ町だ。
さらにその下に名前があった。

木村汐凪 7才
深雪   37才
王太朗  77才

それぞれに「ユウナ」「ミユキ」「ワタロウ」と読みがなが振ってあった。
さらにその下に「少しの情報でもいいので、見かけた方は教えて下さい‼」とある。
4枚の写真も添えられていた。
居間だろうか、青い普段着でくつろぐ木村さんの父の王太朗さん。
左手をほおにそえてほほ笑む妻で汐凪さんの母の深雪さん。
そして汐凪さんは、ヒトデ?花?そのどちらかのようなものを右手に持って笑顔をはじけさせている。
もう1枚の汐凪さんは、風で飛ばされないようになのか、青い帽子のつばを左手でつまんで、これも少し笑っている。
家族にしか撮れない写真だった。

罵声を覚悟してかけた電話の向こう側の木村さんは、恐縮するしかないほど優しい人だった。聞けば、あの張り紙はコピーをして各地の避難所に張りだしているとのことだった。

木村さん一家は、大熊町の海岸沿いに6人で住んでいた。正確には、母屋に木村さん、妻深雪さん、長女、次女の汐凪さんの4人が暮らし、離れに木村さんの父の王太朗さんと母が住んでいた。東京電力福島第1原発は3㌔ちょっとの距離にあった。
地震の時、木村さんは仕事先にいた。自宅に戻ったのは午後6時ごろだった。自宅が跡形もなく無くなっていた。いつもは家の中のかごにいるドーベルマンの子犬がリードを首につけたまま外にいた。家族はどこだ?木村さんは避難所となっている体育館へと急いだが、母(72)と長女(10)しかいなかった。2人は津波が来る前に逃げることができたという。しかし、汐凪さん、深雪さん、王太朗さんの3人の姿は無かった。

それから木村さんがかき集めた情報は、次のようなものだった。
「犬を逃がしてくる」。町の山手にある小学校で給食調理の仕事をしていた深雪さんは、地震が起きた直後に同僚へそう伝えて自宅に戻った。同僚はとめたらしい。
そのころ、岡山県に住む深雪さんの実父が深雪さんの携帯電話にかけている。深雪さんは犬を逃がしてくると同じことを口にした。しばらく後に実父はもう一度かけたが、今度は呼び出し音が鳴るだけだった。

王太朗さんは自宅を車で出て、まず、小学校にいた長女の安否を確認した。長女は校庭にいた。おそらくここにいたほうが安全だと判断したのだろう。王太朗さんは長女を残し、今度は汐凪さんを捜しに行った。
汐凪さんは児童館にいた。児童館の職員によると、汐凪さんは王太朗さんの車に乗り、2人は一緒に自宅へ向かった。家に残っているはずの母を迎えに行ったらしい。「危ない状況のなかで父が汐凪を連れていったのは、おそらく泣きつかれて児童館に置いておけなくなったんでしょう」と木村さんは推測する。

母はそのころ、近所の人の車に乗って自宅を出て裏の高台に避難していた。そのため、王太朗さんと汐凪さんとは行き違いになった。

木村さんは、地震と津波の翌日の12日朝まで消防団と一緒に3人を捜しつづけた。見つからなかった。
その12日、東京電力福島第一原発の1号機で水素爆発が発生。政府が出した避難指示は半径3㌔圏から一気に20㌔圏へとひろげられた。
木村さんは12日夜、大熊町の隣の川内村へ先に避難させていた母と長女と合流。原発がますます危ないという情報を得て、栃木県の那須塩原を経由して14日夜に埼玉県の親戚宅に着いた。15日朝、母と長女と子犬を、深雪さんの岡山県の実家へ車で送った。そこから木村さんは18日、車で福島に戻った。もちろん、汐凪さん、深雪さん、王太朗さんの3人を捜すためだった。出発の時、「ママと汐凪を見つけてきてね」と長女が言った。地震直後のころ長女は異常におしゃべりになっていた。興奮していたのと、母、妹、祖父の姿が無くて暗い気持ちになるのが嫌だったのだろう。

福島県に戻った木村さんは、県内外の避難所を訪ね歩いては、あの張り紙を貼って歩いた。私が須賀川アリーナで見たのはそうした1枚だった。
木村さんをさらに苦しめたのは原発だった。自宅周辺を捜したくても近づくことはかなわず、もどかしさだけが日ごとにつのるばかりだった。

笑顔をみせるとウサギのような前歯をのぞかせた汐凪さん。人なつっこい性格だった。
「原発がね……あんな……捜しに入れない。警察も海上保安庁も入れないという。自衛隊は確かな情報がないとだめだと。地道に捜すしかない状況です」

父の王太朗さんはちょっと耳が遠くなっていたが、歯は全部自分のものだった。
「おじいちゃんはもしかしたらどこかに入院しているんじゃないのかとも思います。もしかしたら3人とも自宅近くのがれきの中で生きているかも知れない。いまも助けを待っているかもしれない」


深雪さんの仕事着はジャージーだった。
「37歳にしては若く見えるんです。とにかくなかに入って捜索したいのに……もどかしい。自分たちがやっていることがもどかしい。現場に行って捜したい。それを何とかしてくれないか」

福島県での取材を終えた後、私は2011年5月、木村さんに再び電話をかけた。
父の王太朗さんの遺体は4月29日に自宅そばの水田で見つかったという。木村さんが地震と津波の翌日に捜した場所の近くだった。「警察や自衛隊が入れていればもっと早くに見つけられたはずです。父が見つかって気持ち的にはほっとしましたが、原発に対する気持ちは抑えられません」。王太朗さんが見つかる数日前、東京電力は役員報酬の半減を発表した。
「全額を義援金に回す気はないのでしょうか」
この時はまだ見つかっていなかった妻の深雪さんの遺体は6月5日に見つかった。
次女の汐凪ちゃんは2014年の今も行方が分からない。

木村さんの張り紙を見た前日の23日、私は福島市にある福島高校の体育館避難所を歩いていた。
そこで出会ったのが南相馬市原町区の高田さん一家だ。11日は家族で地元の中学校へ避難し、12日の東京電力福島第1原発の水素爆発事故をうけて逃げてきたという。
前号で、「おふくろと家内が行方不明なんですよ」と取材に「あまりにもあっさりと」切り出した松岡忠男さん(65)のことを書いた。体育館避難所の壁側にいた高田重利さん(59)もまた最初はあまりにものんびりしているように見えた。

重利さんは「早く地元に帰りたいなあ」と語り始めた。
「津波で家を流されちゃったから、プレハブ小屋でもいいから早く戻りたいですよね。とにかく地元で落ち着きたい。でも原発の放射能が落ち着かないと戻れませんよね。3月11日から家の状況は見ていないし、どうなっているのかな」。
重利さんの心配事は田んぼのことだった。先祖代々受け継がれてきた大切な米田は津波にあらわれた。「塩が入ってしまったからもう何年も先もだめだと思うんです。もう米を作る気は無いですね」。
そして地震当時の様子を語った。当時は会社にいたのですぐに机の下にもぐりこんだ。テレビをつけると津波が来るという報道があった。自宅へ電話をしたがつながらなかった。建物の3階に避難することにした。

その時に見た光景。「湖だったんですよ。どこまで見てもずーっと湖」。自宅のある方向も同じだった。同僚が「おめえの家、流されたのではないか」と言った。重利さんはそんなことを語りながら「早く畳の生活に戻りたいですねえ」と言った。
そして重利さんは「あまりにもあっさりと」語った。「ばあちゃんを捜せないんです。地元に戻って祖母の安否を確認したいんです」

重利さんの父の一郎さん(81)にとって3月11日は、前日と変わらないのどかな日だった。
午前中、自宅から500㍍の所にある母方の実家を訪ねた。実家では81歳の女性のいとこがひとりで暮らしていて、裏山の竹が伸びすぎて家に迫ってきていると困っていた。そこで一郎さんが太く伸びきった竹を切り落とし、タケノコが採れるようにと整理してあげた。
一郎さんは帰宅後、日課となっているまき風呂の準備をするために自宅の裏に回った。風呂の準備を早めに済ませて、夜は知人の通夜に行く予定だった。

「あれ、なんだ、この揺れは」と一郎さんが感じた小さな揺れは、すぐに「これはただごとではない」という激しい揺れへと変わった。家の屋根瓦がガラガラと落ちてきた。大きな揺れがおさまった後、妻トヨノさん(78)と孫(26)がいる家の中に駆け込んだ。相次ぐ強い余震をうけて3人で家の庭に飛びだした。
東の方角を見ると、数㌔先の松並木の向こう側に津波の前兆が見えた。一郎さんはそれを「波がチャチャチャとしていた」と表現した。
「津波の前兆」を見ても一郎さんがあわてなかったのは、家がある集落よりも海により近い隣の集落の住民が逃げてきて、「ここなら安心だ」と言い合っていたからだ。その隣の集落ではスピーカーを積んだ車が「早く逃げろー」と放送しながら走っていた。「悔やんだって遅いけれど、何だかよそ事に聞こえたんです」

一郎さんは「カメラにおさめて逃げっぺ」と思った。居間からカメラを持ち出し、海にレンズを向けた。「ところが、孫に買ってもらったデジタルカメラなんだ。使い方が分からなくてね」。扱いにまごついている間に津波が松並木を揺らし、そしてのみ込んだ。この時はじめて一郎さんは切迫感を持った。「だめだ、逃げろ」と叫んで孫の車に乗り込んだ。
さきほどまで一緒にいたはずのトヨノさんの姿が見えないことに気づいた。トヨノさんは何かを取りに家の中に戻っていた。

助手席の一郎さんが「ばあちゃんは?」と聞き、運転席の孫が「呼んだけれど、オーッと返事がして、まだ来ない」と答えた瞬間、水が車の下から入ってきた。ほぼ同時に真っ黒い津波が車全体を包んだ。車内が真っ暗になった。一郎さんはとっさに孫を抱き寄せた。孫が「ワーッ」と悲鳴をあげた。車は200㍍ほど押し流され、大きなイチョウの木がある集落の神社の裏側に押し上げられた。車から脱出すると胸まで水につかった。一郎さんと孫は流木につかまり、神社の土地に上がった。
「助かったのは本当に運が良かったからです。これは本当に神様のあかげだなあと」
しかしトヨノさんの姿は無かった。

高田さん一家のうち、福島市へ避難できたのは、一郎さん、重利さん、重利さんの妻(57)、長男(32)、長女(30)、次女(26)の計5人。トヨノさんだけが欠けていた。
「実はね」と重利さんが切り出した。3月27日、高田さん一家は祖母を捜しにこっそりと自宅に戻ったという。自宅があった地域は政府によって立ち入りが制限されていたが、高田さん一家のように家族を捜しに行ったり荷物を取りに戻ったりする避難者は数多くいた。

トヨノさんは自宅から150㍍ほど離れたがれきの下に倒れていた。湧き水をくんで顔の泥を洗ってあげた。地震と津波から16日が過ぎていた。一郎さんは「あんなきれいだったかなと。ピンク色で。こんなの見たことないといういい色になって」とトヨノさんをしのんだ。
一郎さんは話し続けた。「そうだな、まる60年は連れ添っている。正確には59年か。潔癖で、勝ち気で、きちょうめんで、地元の冠婚葬祭の記録をマテー(丁寧)とつけていたな。たまに口げんかはしたけれど、決定的なけんかはしたことなかったなあ。悔やみに悔やんでもしょうがないが。孫たちは『ばっさまが守ってくれたんだ』と言ってくれる。ばあちゃんのぶんまで長生きしなければ」

高田さん一家のせめてもの願いは、トヨノさんの遺骨をふるさとに埋葬することだった。それができないのは、原発事故が収束していないからだった。

安全センター情報2014年8月号

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