これからは、東京電力福島第一原発事故が、福島の人々にどのような被害をおよぼしたのかについて、「1ヵ月」取材の結果を書いていこうとおもう。
始まりは「石丸さん」がふさわしいと思う。福島県での取材も終盤にさしかかった2011年4月13日にお会いした福島県双葉郡富岡町の元郵便局員で双葉地方原発反対同盟代表の石丸小四郎さん=当時68歳=のことだ。

石丸さんは4月13日、原発災害の実態を調べるために福島県入りした関西労働者安全センターの片岡明彦・事務局次長、村山武彦・早稲田大学教授、韓国で環境運動にとりくむチェ・エヨンさん、イ・サンホンさん、鈴木明さんを案内するため、避難先の秋田市から宿泊先の福島市飯坂町の旅館へ来ていた。そこでお会いし、いまから考えると実に馬鹿げた質問をしたと思う。

――どうですか。
「うーん、難しい」。

そう言って石丸さんはしばらく黙り込んだ。

「放浪の民になっちゃった。ふるさとに帰れない。40年前から反原発運動をしてきて、脱原発に向けてソフトランディングさせたいと運動をしてきたのに、こういう事態を迎えてしまった。むなしさ、くやしさ、怒り、だよね」

――怒りとは。
「シロートでもいずれ大地震が来ると分かっていたんだ。だって日本は四つのプレートに乗っていて、毎分毎秒と万力で締め上げられている状態にあるのと同じなんだ。特に三陸海岸などは地震の巣みたいなものだ。シロートでさえ危機感を感じていたのに、何十基も原発を作った亡国の政策への怒りがあります。自然をあまりにも恐れない国と電気事業者に対する怒りです」
「日本の原発は稼働率が低いんです。東電にすると、この稼働率を引き上げることが絶対条件なんです。同時に東電はこの10年間、修繕費や人件費を削ってきた。これは新潟県中越地震(2004年10月)が起きた後でも変わらなかった。つまり、無理に無理を重ねて、乾いたタオルを絞るように安上がりにすませようとしていた。原発は一にも二にも放射能との闘いなんです。いかに被曝線量を低くできるか。いかに長く技術者を作業させることができるか。それが条件なんです。それさえさぼっていた。非常用電源は建屋の上に置くべきだったのに、タービン建屋の地下にあると。これでは地震や津波が来たとき大変なことになるぞと指摘してきたんです。これはもう東電のさぼり以外の何物でない。さぼりにさぼって今日の事態に至ったというわけです」

2011年3月11日、石丸さんは、自宅の敷地内に隠居用として建てたログハウスにいた。
ストーブに薪をくべて炎が激しくなった瞬間、なんの前触れもなく激震に襲われた。ストーブの上のやかんを右手で持ちあげ、左手でストーブに水をかけた。「原発が危ない」と直感した。「とうとう来たか」とも思った。これでもか、これでもかという震動だった。揺れがおさまって窓の外を眺めると、あちこちの家の屋根から瓦が落ちていた。

石丸さんの家は、東京電力福島第一原発と第二原発のほぼ中間地点にある。防災無線からは、福島第一原発から半径3㌔圏への避難指示、ついで3~10㌔圏への屋内退避指示が聞こえてきた。

「逃げようか」
「とどまるか」

自問自答のすえ、「原発反対運動をしてきた者の責任」として残ろうと決めた。
同じ敷地にある母屋の長女(40)と16歳と12歳の孫2人を避難所へ送りだした後、石丸さんはラジオからの原発情報に耳を傾けながら、ログハウスの窓枠に粘着テープで目張りして夜を過ごした。

翌日の12日、ドーンという爆発音がはっきりと聞こえた。福島第一原発1号機の水素爆発だった。窓から福島第一原発がある方角を見た。空を覆う雲は爆発によるものなのか自然のものなのかは分からなかった。

午後7時、「限界だ」

車に乗って隣の川内町へ向かった。人っ子ひとりいない暗闇のなかを走った。川内町の友人宅と郡山市の避難所を転々とした後、16日に秋田市の親類宅へ身を寄せることにした。

石丸さんの生まれ故郷は秋田県大曲町(現大仙市)だ。
郵便局への就職が決まり、仙台市であった1カ月研修で、富岡町から来ていた女性と出会う。ひとり娘だったため、4男の石丸さんが婿養子として富岡町に移り住むことになった。東京オリンピックがあった1964年のことだ。

富岡町に移住してしばらくたったころ、原発誘致の話が町の有力者の間でひろがっていることを知った。原発については何の知識もなかった。ただ、広島・長崎の原爆被害が頭にうっすらとあり、「秋田弁で言うと、『湯っこ沸かすのに何でそんなアブネまねを』」と素朴な疑問が浮かんだ。

町は一変した。
巨額の金がプラント建設につぎ込まれ、人口が急増した。ガソリンスタンド・飲食店・旅館・商店・アパートの新設が続いた。原発マネーにものを言わせた豪華な公共施設が建った。

1971年3月、福島第一原発1号機が営業運転を始めた。
石丸さんの頭に今にいたるまで強く刻みこまれた言葉が二つある。
町民が口々に言った「双葉は仙台のように発展する」。もう一つは飲み屋の主人の「こんなにもうけていいもんだべか」

石丸さんが、社会党双葉総支部が72年8月に結成した「双葉地方原発反対同盟」に入ったのは、素朴な疑問とともに、ある一人の政治家の存在もあった。
岩本忠夫氏。
「核と人間は共存できない」と、特に東京電力福島第二原発の建設に情熱的に反対した人だ。原発推進の民意をカネの力でかき集めるに等しい電源三法案が審議されていた1974年の国会では社会党の福島県議として参考人出席し、「金を与えて原発を促進する、こういうものには徹底的に反対をしていく」という発言を残している。

ところが岩本氏は、75年の県議選から3回連続で落選の憂き目に遭う。
84年には社会党を離れ、原発容認に転じる。85年からは双葉町長を5期務め、全国原子力発電所所在市町村協議会副会長なども歴任した。東日本大震災と福島第一原発の事故を受けて福島市へ避難し、2011年7月に82歳で死去した。

原発マネーの熱気が町民の間に充満しているなか、石丸さんが原発反対運動を続けたのは、しかし、小難しい理屈からではなかった。
「近所のとうちゃん」の具体的な姿が身近にあったからだ。原発景気のなか、農家の男性が一斉に原発構内へ入っていく。放射能の怖さを知らされず、マスクもすることなく、タンク内で清掃作業をさせられていた。そうした人々のなかから、極度の疲れを感じたり風邪を引きやすくなったりという訴えが起こり、石丸さんの耳にはいった。

石丸さんは医師らと組み、特に原発で働く下請け労働者の追跡調査に取り組むようになる。芋づる式に全国の300人と会い、うち100人から話を聞いた。多くに原爆症と同じ症状が見られた。「労働者が名もなく死んでいくのに耐えられなかった」

石丸さんらの調べによると、国内初の被曝労災認定は1991年12月、福島第一原発で配管腐食防止作業に従事していた作業員で、慢性骨髄性白血病を患っていた。また、2006年までの被曝労災申請は15件あり、そのうちの7件は福島原発での労働歴がある人だった。

石丸さんが支援した一人に、大阪市の長尾光明さんがいる。
1977~82年に福島第一原発や静岡県の浜岡原発で濃縮廃液系配管格納容器内点検作業などをしていて、98年に多発性骨髄腫になった。石丸さんは、同僚の証言をあつめて長尾さんの仕事内容の詳細を詰めた。その結果をもって2002年11月に富岡労働基準監督署へ労災申請し、04年1月に認定を勝ち取った。その後、東電相手の裁判闘争もした長尾さんは07年12月に82歳で亡くなった。

もう一人、喜友名正さんがいる。沖縄出身。
1997年から2004年までの6年間、北海道電力・四国電力・関西電力などの各原発で働いた。体調を崩して04年1月に退職し、5月に悪性リンパ腫を発症。05年5月に53歳で亡くなった。喜友名さんの妻が大阪府内の労基署に労災申請し、いったんは不支給とされたものの08年10月に認定されるに至った。

こうした運動の結果、ながらく白血病などしか認められなかった労災対象の疾患に、多発性骨髄腫や悪性リンパ腫も含まれるようになり、救済の門戸をひろげることにつなげた。

東京電力の第一原発と第二原発がある双葉郡内では、反原発の話題はタブー化していった。
石丸さんは、原発反対と主張しただけで例えば東電や下請け会社・町役場に就職できなかったという実例を知らない。それがまことしやかに語られる背景としてあるのが、「反対派とレッテルを貼られることで息子や孫に不利益を被らせたくない」という町民の素朴な感情や、「企業城下町に特有の自己規制」だった。石丸さんはまた、脅迫や嫌がらせを受けたことも一度もない。むしろ町民は「俺の息子が原発に勤めてっけど、何かあったら助けてくれよ」とひそかに頼みに来ていた。

秋田県への避難後、石丸さんは2011年3月20日と28日の2度、自宅に戻った。
そこで見た富岡町の風景。
「ゴーストタウン。日中なのに車が1台も走っていない風景がいかに不気味か。人が全くいなかった」。JR富岡駅周辺は津波でつぶされていたが、他の地域は屋根瓦が落ちているのが目立つぐらいだった。「普通ならばみんな帰って復興作業をしているはずです」。にぎやかさを失った廃虚の町に胸が締めつけられた。この時に初めて「原発震災に対するどうしようもない怒り」を抱いた。

自宅からは位牌とパソコンのほかに、多くの資料類も持ちだした。
その中には、石丸さんが1998年からほぼ毎月発行していた「脱原発情報」というミニコミ紙の束がある。東日本大震災前年の2010年に相次いだ福島第一原発の緊急停止問題のほか、下請け労働者の労働条件、海外の反原発運動を細かく取りあげた。なかでも力を入れていたのが地震と原発との関係だった。

10年前からはほぼ毎月、福島第一原発に足を運んで東電側と面会し、原発の耐震性などについて申し入れをしてきた。「東電の担当者はせせら笑っていました。それか、国が定めた原子力保安の基準を履行していて問題ないと繰り返すだけだった。それも、ずーっと」「原発事故が起きる1カ月前の2月も40年廃炉問題を問うために行きましたし、その前の1月は第二原発3号機の定期検査問題を聞くために訪ねていました」

東京電力が、東日本大震災の発生直前の2011年2月に発表した「福島第二原子力発電所3号機における新しい検査制度に基づく適切な定期検査間隔の設定について」がある。
第17回定期検査(2011年5月~8月)を終えたら次の定期検査までの間隔をこれまでの13カ月から17カ月へ緩和するという内容で、「当社は、今後も継続的に保全活動を充実させ、安全性・信頼性の一層の向上に取り組んでまいります」と、今となってはあまりにむなしい内容が記されている。

石丸さんが自宅から持ちだせた「脱原発情報」の最新号は2011年2月25日付の128号。
2日前の23日に下請け労働者の労働条件改善を申し入れた際の東電とのやりとりを記録してある。この「脱原発情報」は石丸さんにとって、先見性を証明する記録ではない。事故が起きる前までに脱原発を実現できなかった悔しさの記録だ。

「電源三法交付金やら寄付やらでこの40年間の間に双葉郡へ流れ込んだ金は4千億円は下らない。それなのに1病院あたりの医師の数は低くて医療は崩壊しているし、自治体の財政だってワースト10に双葉郡の町村はいくつも入っている。ところがみんな原発のせいで豊かになったと言っている。全国で原発がある町はいくつあるのか。20町村ぐらいだろうか。では、それ以外の自治体は遅れた貧乏町なのか。むしろ原発所在地よりいい。『原発のおかげ』と言われればそこで思考停止してしまい、当然の疑問さえ思いが及ばないところまで来ていたんだ。そういう宣伝に我々が対抗できなかった」
「だから、よく聞かれるんだけれど、『それみたことか』っていう感情はまったく無いんだ。あるのは自分の無力さ。涙が流れてしょうがなかった」

石丸さんが放射能で汚染された自宅に戻った理由はもう一つある。

2010年8月に膵臓がんのため66歳で亡くなった妻美智代さんの遺影をどうしても持ち帰りたかったからだ。美智代さんは、石丸さんの反原発活動に一切口出しをせず、「あんたは偉い」とだけ言い続けたという。石丸さんは「それに乗せられてやってきたんです。こういう事態を見ずに逝ってよかったと自分を慰めています」と語った。

石丸小四郎さんのブログ【石丸日記 】 https://blog.goo.ne.jp/hangenpatu546

安全センター情報2014年6月号

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