花束を持った女性がいた。

声をかけると、いわき市平薄磯の海岸から7~8㌔内陸側にある馬目抄子さん(31)だった。2011年4月2日、津波でめちゃくちゃになった薄磯の集落を歩いていた。
いわき市郷ケ丘に住んでいる馬目さんの家族にとって、ここ薄磯で海水浴をするのが夏の定番だったという。

「この海といっしょに育ったようなものです。ここは波もいいと有名で、夏になると関東からもたくさんサーファーが来ていました。みんな路上駐車をして泳ぐので駐車禁止ってのがいっぱい書いてありました。サーフショップもたくさん並んでいて」

鈴木文子さん(67)は薄磯集落の住民だ。
3月11日は自宅2階にいた。揺れがおさまるのとほぼ同時に家の外に駆けでた。家の近くを流れる川のブロックが崩れ落ちた。津波が来るなんてことは頭にまったく無かった。自宅から十数㍍には防災無線のポールがたっていたが、そこから何かが聞こえた覚えもなかった。
「何しているの。危ないから避難しなさい」と集落内にある中学校の教頭先生から声をかけられ、やはり集落内にある豊間小学校へあわてて逃げた。海水は校庭まで入ってきた。逃げろと声をかけてくれた教頭先生は「命の恩人だ」と言う。

鈴木さんは、薄磯集落から北へ十数㌔にある四倉町の出身だ。
1966年にいわき市に吸収合併された町だ。漁師だった夫と1971年に結婚。結婚後に夫は船をおり、薄磯集落にあるカマボコ工場で働いていた。鈴木さん自身も38年間、集落内の別のカマボコ工場で働いていた。父博さん(67)、母タイ子さん(61)、長女美空ちゃん(4)を津波でなくした鈴木政貴さん(33)=前号と前々号を参照=は同僚だった。夫が3年前に亡くなってからは鈴木さんはひとり暮らしだった。

「ヒラメ、スズキ、イナダ(ブリの幼魚)と磯のものは何でもおいしかったですねえ。夫が取ってくる魚を隣近所に配るのが楽しみだったんですよ。魚がいやになるほど取れるんです。しまいには配るだけで疲れ果ててしまってねえ」
自宅の前は海水浴場。海の家がたちならぶ夏のにぎやかさが好きだった。

鈴木静子さん(74)が語る薄磯集落の風景も豊かだ。
地震の時は家で裁縫をしていた。揺れたときは柱にしがみついた。表に出たときもまだ揺れていたのでしばらく駐車場にいた。揺れが収まると夫が様子を見に家の外へ出た。夫はこの集落の男たちがほとんどそうであったように北洋サケ・マス漁の船乗りだった。
その夫が海側の人から「津波が来るぞー」と聞いた。

鈴木さんは夫へ「裏さ回ってガスの元栓を閉めてよ」と言った。夫は「財布だけを持って出ろ」と言った。鈴木さんは倒れた茶だんすを起こして手提げを引っ張り出した。この時にはもう海水が自宅の前まで迫っていた。自宅の裏へ回ったが、ブロックが倒れていて裸足では越えられなかったため、脇の通路を通って夫と合流。2人で避難した。もう夕方になっていた。夫婦とも腰から下は水だらけになった。
鈴木さん夫婦は3年前までの三十数年間、集落の中で民宿を営んでいた。関東から来る海水浴客らに新鮮な魚を提供し、冬はアンコウ鍋が自慢だった。

やはり薄磯集落のなかで民宿「鈴亀」を経営している塩屋埼薄磯観光組合長の鈴木幸長さん(58)も元は船乗りだった。北洋のサケとマスを20年以上追っていたが、漁が廃れてからは「鈴亀」の経営を父親から継いだ。
「ここは塩屋埼灯台を挟んで両方に10軒ずつ民宿があります。灯台の沖で取れるヒラメ、タイ、イカ、タコ。冬はアンコウ鍋。一年中観光地のようなところでした」

薄磯集落で取材を始めて2日目の4月3日午前11時24分、小高い場所にある薄井神社を私は訪ねた。ここからは集落全体を見わたせる。ウグイスの声が盛んに聞こえる。
チリリリリリ、キュキュキュキュキュと鳴く鳥の種類はなんだろう。浜からは波の音。

このおだやかな薄磯集落に、2011年3月11日の津波はどのようにして襲いかかったのだろうか。
神社へ向かう途中で出会った初老の男性は「昨日まででここらへんの遺体処理は終わったかな。見つかっていないのは15人ぐらいか。見つからないのは海に流されたのかなあ」と話していた。

斎藤郁子さん(69)は、しばらく薄磯集落の外で暮らしていたが、結婚して長男が中学1年生になった時に、集落にある両親の土地を譲ってもらい、再び薄磯暮らしをしていた。3月11日は長男は南相馬市にいて無事だった。

自宅の茶の間でテレビを見ていたときだった。ダカーンという大きな揺れに襲われた。家電製品のプラグを抜く気持ちの余裕はあった。はうようにして家の外に出た。周りの数軒が倒れていた。揺れが収まるのを待って道路に出た。
集まった近所の人と海を見た。水平線が真っ白になっていた。「なんだべ」「津波かな」と言い合った。すると別の近所の人が「避難して」「津波が来るから上がって」と声をかけてきた。斎藤さんらは自宅のすぐ後ろにある忠魂碑が立つ高台にのぼった。

そこから津波の一部始終を見た。

1回目の津波は小さくて堤防にぶつかって消えた。
2回目の津波が集落の一部の民家、たぶん薄磯公民館があるあたりを、いっきにぶち壊した。波しぶきが白い煙のようにも見えた。
3回目に押し寄せた津波は薄磯集落全体を襲った。
そうではなくて、第2波が集落全体に攻め込んだのだ、という人もいる。第5波まであったという住民もいたし、第6波もあったと語った住民もいる。

自宅前のがれきを掘り起こしていた鈴木惣一さん(72)にも当時の話を聞いた。
「ああ、いまは仏壇の両親の位牌を探しているんだが、がれきの中からなかなか見っかんないだべ。いよいよのときはお寺さんに行って新しいの作ってもらうしかないね」
鈴木さんの自宅は、地震には持ちこたえたものの津波で破壊された。地震直後、鈴木さんは自宅のそばにいた。妻は近所の人と、ここの家はつぶれている、あそこの家は大丈夫だったと語り合っていた。

鈴木さんによると、やはり1回目の津波は「大したことがなかった」。海岸沿いの堤防を越えなかったという。
ただその時、妻が「なんか水面がおかしいな」と口にしたことを覚えている。ほぼ同時に赤い車が薄磯の集落を走り回っていて「大津波が来るからすぐに逃げろ」と叫んでいた。それを聞いて鈴木さんは裏山へ向かった。自宅の割れたガラスを片付けていた妻は「津波なんか来ないからお前ひとりで逃げろ」と言った。

2回目の津波は、まず、海面が真っ黒になり、そのまま堤防より高くなった。波の先端が民家と3台の車をのみこんだのが見えた。ゴーという音とバリバリと家屋を押しつぶす音がごっちゃになって聞こえた。

「津波が3回、4回と来たかどうかは分からないけれど、2回来たのははっきりしている。早いよ、津波が来るのは。足が悪い人ならば巻き込まれるよ」

波が引いたあと、鈴木さんは腰まで水につかりながら後山から降り、棒で深いところと浅いところを確かめながら、妻の救助に向かった。サンダルをはいていたはずだったがいつの間にか裸足になっていた。幸い妻は無事だった。気がつけば雪が降っていた。

薄磯集落の北のはずれから黒煙がのぼっていたと証言する人もいる。これは、集落の別の場所にあった一軒家がガス爆発を起こして2晩燃え続けたときの煙だという説明もあった。
高台からは全体がほぼ一望できるちいさな薄磯集落だが、そこの住民は3月11日、混乱の極みに突き落とされていた。そのことが、証言それぞれが矛盾しているというよりもひとつの焦点に集約していかない理由のひとつなのだろう。

取材を進める過程で、地震発生直後にテレビのスイッチを切り、電気ショートによる火事の発生を恐れて家中のプラグを抜いた斎藤郁子さんのように、対策を取った人は少なくないことが分かった。別の住民は家中の窓を開けた。余震で家が傾いたら扉が開けられなくなるかもしれず、そうなると外に脱出できなくなるからと判断したからだった。
住民の多くは、防災無線の放送がなかったとふり返る。しかし、薄磯集落に二つあるスピーカーは避難を呼びかけていた。管理会社の記録も残っている。

証言もある。
根本慎也さん(15)、柳沼知明さん(15)、久保木正樹さん(15)、大原隆太さん(15)、青木俊英さん(14)の5人だ。
みんな集落内にある豊間小学校の卒業生で、3月11日はたまたま防災無線スピーカーがある浜辺でサッカーをしていた。地震の直後に浜辺に座り込んだ5人は「大津波警報が発令されました」という地震直後の放送を聞いていた。サイレンの音も聞いたという。

それなのになぜ、これほどまで多くの人が逃げ遅れてしまったのだろうか。
ここまで話を聞いた人の言葉にもう一度、耳を傾けてみたい。

鈴木文子さん「第2波がすごかったということです。大事なものを取りに行った人、年配の人が逃げ遅れたと聞きました。ばあちゃんの手を引いていて逃げる途中でそのまま流された人もいました」。鈴木さん自身は津波警報に接した記憶はない。
鈴木政貴さん「この町のみんなが『津波なんて来ない』と話していた。テレビで警報が出ても、防災無線スピーカーが鳴っても、これまで避難する人はいなかった。チリ地震(1960年5月に発生した巨大地震。太平洋を伝ってきた津波はほぼ1日後、日本の太平洋沿岸部に襲来し、各地に被害をもたらした)を経験した祖父の世代も、『津波が来たとしても20㌢とか50㌢のものだ』と話していました。津波が来るなんて誰も信じていませんでした」
鈴木静子さん「この年で初めて経験した。みんな津波のことを甘く見ちゃっていたんだね」
鈴木幸長さん「地震の後、十数人が海辺へ『津波見学』に行っていました。たくさんのお年寄りが海沿いにある堤防の所へ見に行っていたと言う人もいます」

避難を呼びかける放送があったのか無かったのか、それは聞こえたのか聞こえなかったのか。そういう問題の前に、「津波は来ない」という言い伝えが薄磯集落ではなかば定説化している実態があった。
(この頁つづく)

安全センター情報2014年4月号

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