地震と津波そして東京電力福島第一原発の爆発事故に襲われた福島県内は、クビの嵐も吹き荒れていた。福島に取材に入って5日目の2011年3月22日、私はハローワーク福島を訪ねた。

JR福島駅前の万世大路を北上して信夫山トンネルの東側にある建物を見たとき、ここでも唐突に、この時から14年前の駆け出し記者時代、このあたりをうろついていたなあと思いだした。ちかくには福島地検もあって、事件事故取材を担当させられていたあのころ、捜査当局の高圧的な雰囲気にどうにもなじめなくて、いつも暗い気分で建物のまわりをうろついていたものだった。
14年後のいま、一部の風景や坂道、狭い道路に見覚えがあった。そんな懐かしさを吹き飛ばすほどに、ハローワーク福島から出てきた人から聞いた話は深刻だった。

自分で食いつないでくれ

福島市の伊藤学さん(41)は震災から3日後の3月14日、5年前から正社員として働いていた福島市内のアミューズメント施設から、「25日の次の給料日に解雇します」と言い渡された。「自分で食いつないでくれ」「よそに移ってもらっても構わない」とも言われた。

激しい揺れに襲われたアミューズメント施設内はメチャクチャになった。社員らで片づけをして再開を目指したが、会社側の判断は「あと1年から2年は営業できない」というものだった。翌日から出勤停止となった。会社からは解雇宣告とともに「営業を再開したら声をかける」とも伝えられたが、伊藤さんは「こっちはそれまで待っている余裕はない」と怒っている。

給料は手取りで20万円だった。このなかから毎月2万円~3万円を貯金にまわして、生活するには困らない額だった。実家で同居する63歳の母親は脳梗塞で倒れたことがあり、高血圧を抑える薬の代金や通院費も必要だ。
伊藤さんは「これからどうなるんだ」とぼやいた。
そのうえで「うちは生きているだけで恵まれたほうかも知れない。ぜいたくは言っていられない。でも、これから先、雇用が大問題になると思います」と語った。

派遣切りに続いて

福島市の渡辺一さん(37)は「2年前の9月に派遣切りにあったばかりなんです。そう、リーマンショックで」と話した。
渡辺さんは26歳からずっと非正規の仕事をしてきた。トラクターのボンネットを製造する新潟の工場→東京での新聞配達→半導体をつくるキヤノンの埼玉の工場→福島県白河市にある半導体の工場→宮城県多賀城市にあるソニーの工場……と転々としてきた。派遣切りに遭うまでの1年半は愛知県内にあるトヨタ系列の工場で働いていた。手取りは月18万円だった。

トヨタ工場を切られたあと、川俣町にある実家に戻ったが、以来ずっと仕事はないままだ。親からの視線は厳しくなるばかり。1年前の5月に実家を出て福島市のアパートでひとり暮らしをはじめた。雇用保険の失業給付(月11万円)を受けていたが、翌月に切れたたため、それからは生活保護を使っている。そして東日本大震災にみまわれた。

生活保護を使っていると、ハローワーク通いはなかば義務化されている(この手法は場合によっては行政による人権侵害の温床になる恐れがある)。そのため、渡辺さんは週2回のハローワーク通いのためにこの日きたのだった。求人情報は時給650円~680円のものばかりだと言ってしょげている。
「今すんでいるアパートの隣の人も仕事がないと悩んでいます。災害復旧の仕事がこれから出てくるんでしょうが、その技術も自分にはありませんし、このままひとり暮らしを続けていくことができるのでしょうか」

会社が30㌔圏内に

一部が東京電力福島第一原発の半径30㌔圏内にかかり、避難指示・屋内退避指示が出ている南相馬市(2011年3月22日現在)に自宅と勤め先のリサイクル販売会社があった男性(37)は、福島市内の避難所に身を寄せていた。
「社長以下、正社員は私を含めて6人、パートをあせると15人が働いていたんですが、みんなどこに避難したのか全く分かりません。社長とも連絡が取れません。まるっきり情報がはいってきません」と嘆いた。

会社は再建されるのだろうか。手取りで22万円あった給料はどうなるのだろうか。そうした不安が尽きない。中学生の娘と2人暮らしだという。その娘は4月から2年生になる。毎月4万~5万円ずつ貯めてきた貯金がどんどん無くなっていく。「はいってくるものが無いから、食いつぶすだけ」

ハローワーク福島には、今後どうすればいいのかを相談に来た。しかし、「会社が存続している限り、失業しているとは扱えない」「解雇されたという正式な文書がないとどうしようもない」とまるで他人事の対応をされたという。こんなことなら避難所からここまで来るのにかかった電車代とバス代を返して欲しい、毎日の食事が食パンだけになってしまった娘の体調が心配だ、1日1箱(440円)のたばこ代も惜しくなってきた……と男性はぼやき続けた。

やはり南相馬市の原町区から福島市内の高校に避難中の男性(53)は、妻と中学1年生の子どもを抱えている。仕事は東北電力から用地交渉や測量を請け負う下請け会社だった。
震災から3日後の3月14日に防災無線の避難指示を聞いたという。その日から仕事は中止となった。
「社長も避難していて連絡がつきません。地元に戻れるかどうかも分かりません。だから今日は、失業保険がもらえるかどうかを聞きに来ました」

親の年金が頼り

「仕事を探しに来ました。自分にできる仕事があればいいなと思いまして」。福島市の男性(42)は、ハローワーク福島から出てきてこう言った。昨年の3月からというからまる1年間、失業中だという。失業給付も昨年10月に切れているので、この5カ月間は蓄えを切りくずしつつ息をつないでいる状態だ。
震災が起こる直前、福島県庁が臨時職員を募集していた。商工労働部は面接で不採用となった。生活環境・教育委員会・県北建設事務の三つは「震災と災害復旧でそれどころではない」と求人そのものが取り消されて面接さえ受けることができなかった。
「もう貯金は底をついています。同居している親の年金を頼るしかありません。親のすねをかじるしか方法は残されていません。今後は出稼ぎをするしかないだろうけれど、そのための交通費もありません」

福島市の飯坂からハローワーク福島を訪ねた近藤俊男さん(50)もまた「実家は大丈夫でした。80歳の母親と2人暮らしです。もうこうなったら母親の年金を頼ることになります」と語った。
40代のころから農協共選所でのアルバイトをして生計をたててきた。農家が持ち込んできたモモやリンゴを箱詰めにする仕事で、収入は月12万円~13万円あった。このバイトは春先、夏のリンゴと季節ごとに契約をしなければならないので、来月の4月5日からも来てくれと内々では言われていたが、3月16日に面接を受ける予定だった。それが地震で延期となり、結局、仕事事態がなくなってしまった。
「もう、今回の原発事故で農家の出荷自体が無くなりましたから。実の選定や花の交配、実の収穫の仕事も今後は望めなくなりました。もうだめですね。他の仕事を見つけなければいけないんですが……。一番の問題は生活のやりくりなんですが……。あと2~3年はどうしもようないのかなあ」

ふるさとを返せ

東京福島第一原発が建っている双葉町の男性(43)は、当たり前のことだが怒りまくっていた。「今日はじめてハローワークに来ました。事務や販売系の仕事を探しています」
男性は震災前年までの20年間、東京都内で店を営んでいた。それを2010年11月に閉じて、双葉町の実家に帰郷した。ともに80歳ちかい父母の面倒をみながら生活しようと思ったからだ。「自分の貯蓄は無いけれど、住む家もあるし、田んぼもあるし、親子3人でつつましく暮らしていくのには十分だと思っていました」

しかしそこに原発事故が起きた。
「ふるさとに戻って再スタートしようとした矢先だった」。自宅は地震と津波の被害を免れたが、問題は放射能だった。町の防災無線は震災発生の3月11日夜から盛んに「原発から3㌔以内の人は逃げろ」と伝えていた。それで男性一家は双葉厚生病院の隣の施設に避難した。「一夜あかせば戻れると思っていました」。翌12日午前9時、「ここも危ない」と双葉町役場から指示があり、町を出ることを決めた。両親を連れて福島市内の叔母の家に身を寄せることになった。3月25日に浪江町で受ける予定だった職業訓練もなくなった。「家の田も放射能でだめでしょうね」

男性の怒りはとまらない。
「いつまでも叔母の家にお世話になるわけにはいかない。住居の保障は国や東京電力からあるのでしょうか。気がかりなのは原子力損害賠償法の天災による免責事項です。双葉町にいつ戻れるか分かりませんし、福島市内でアルバイトを見つけようにも現状は仕事がありません。言ってしまえば第一原発の状況待ちです。これは人災です」
「母の体調が悪化しているので心配です。地震でだいぶ心労をためてしまいましたし、もともと通っていた病院は原発から30㌔圏内にありましたから、いまは福島市内の病院に仕方なく通っています。この治療費はどうなるのでしょうか」
「私の家族3人の現状こそが、今回の事態が東京電力の管理体制の甘さに起因する人災だという証拠です。『想定外だった』とか『特例だ』とかは責任をとらない理由になりません。ふるさとに戻って骨を埋めよう、そう思っていたのにだめにされました。ふるさとを返せ。そう叫びたいです」

私は翌日の2011年3月23日も再びハローワーク福島を訪ねた。

土湯温泉

福島市西部の土湯温泉は福島県内でも有数の温泉街だった。地震で被害を受けた旅館で働いていた男性(50)も職を失った。私の取材の前日すなわち3月22日の午後3時、経営者に呼び集められて告げられた。「このままでは営業できない。見通しも分からない。壊れたところを直しても半年で客が来るのか、1年経ったら客が戻るのかも分からない。もう無理なので、いったん廃業する」
一方的な廃業・解雇の宣告だったし、前日までは有給の自宅待機とされていたがその手当が本当に受けとれるのかも分からないが、男性は経営者の判断に理解も示す。「原発の事故があるでしょ。放射能汚染のイメージが染みついて、もう福島に観光に来る人はいないと思う」

それで宣告された当日に旅館側に離職票を作ってもらったので、それをもってハローワーク福島に来たのだった。家族は5人。「何でもいいから早く勤めないと」と話して男性はハローワーク福島を後にした。
男性が働いていたのは江戸時代中期の創業として知られていた老舗旅館「観山荘」だ。男性への取材から約1カ月後の2011年4月28日付で観山荘は福島地裁へ自己破産を申請し倒産した。また、約3年後の2014年5月18日付朝日新聞は「土湯温泉観光協会の渡辺和裕会長は、風評被害の深刻さを伝えた。土湯温泉は原発事故で客足が遠のき、16軒あった宿のうち6軒が廃業や長期休業に追い込まれた。再開できたのは2軒だけだ。客足も震災前の6割程度だ」と伝えている。観山荘はすでに解体されている。

派遣の話ふたたび「それまで生きてっか……」

福島市でひとり暮らしをしている男性(59)は震災の日、ちょうどその時もハローワーク福島にいた。求人情報の18番目を閲覧し終えた時、携帯電話の緊急速報が鳴り、しばらくするとガガーンと激しい揺れに襲われた。建物の外に駆けだして植木にしがみついた。揺れがおさまって建物内に戻ると、女性がうずくまっていたので椅子に座らせた。震えていたので男性は自分のダウンジャケットをかけてあげた。

そんなことがあってからこの日までいつもと変わらずにハローワーク通いを続けているが、「自分に該当する仕事は何もありません。もうこの年齢では正社員になれないだろうから、アルバイトでもパートでも、清掃の仕事でも調理の仕事でも、何でもいいのですが」

男性は十数年前から派遣会社一本で働いてきた。派遣先は三重県や静岡県など全国各地に及び、これまでに12カ所か13カ所かを転々としてきた。派遣の仕事を始めたところに離婚した。その時に小学校6年生だった長女と小学4年生だった長男とは以来、会話を交わしたことはない。ともに福島市内にいるのだが、年に1回ぐらい、買い物をしている姿を町中で見かけることはあるのだが、声をかけたこともない。「わびしいもんだで」

最後の派遣先は福島県二本松市にあった自転車ハンドル製造工場だった。そこを2年前の6月に切られて、失業給付もそれから半年で切れた。そして今回の東日本大震災だ。
震災と津波と東京電力福島第一原発事故の影響は誰にも等しく降りかかったが、しかし受ける被害の大きさは人それぞれの状況によって差が出てくる。派遣社員というもともと弱い立場の男性にはより甚大な結果としてあらわれていた。

「2008年だったかな、あのリーマンショックがあったころ、『あと10年過ぎたら生活はよくなる』と思うようにしていたんだ。でも今回の地震で『世の中がよくなるのは早くて20年後か30年後だろうな』って考えるようになったよ。それまで生きてっか分からねえよ」
「ハローワークに来ていると気がついてことがあるんだ。いつもは10人も20人も並んでいて順番待ちなんだけれど、今はすぐに求人情報を見ることができるんだ。なぜって地震の前後で情報は更新されているけれど、内容は全く同じだから見に来る意味がないってことだよ。求人は薬剤師とか看護師とか資格が必要なものばかり。俺たち一般ピープルは無いってわけ。世の中どうなっていくのか、分かんねえよ」

300万円あった蓄えは今、30万円になった。これが底をついたときはアパートも出なければならなくなる。「俺は福島生まれなんだ。こんな状態になっても福島は離れたくないよ。仕事のことは友達にもいろいろ声をかけているけれど色よい返事は何もこないね。あと5カ月ぐらいかな、もつのは」

おなじく福島市内からハローワーク福島に来た男性(30)も、大学を卒業して以来ずっと派遣社員だ。「派遣の仕事で生活費を稼ぎながら正社員の仕事を探し続けていますけれど、どうしても見つからないんですよね」
あの3月11日は、パソコンを点検する工場に派遣されていた。強い揺れとともに作業は中止となった。つぎに派遣される予定だった電子機器の点検工場は製品が届かなくなったからとキャンセルとなった。それからずっと仕事がない。
人材派遣会社のなかでフルキャストと並んで悪名をはせたグッドウィルが事業廃止に追い込まれたのは2008年7月のことだった(2009年末に解散)。男性が登録していたのは、そのグッドウィルの福島営業所の所長があらたに作った派遣会社だった。男性の仕事は主に日雇い派遣だった。2011年当時、日雇い派遣は強い社会的批判を浴びていた。「日雇い派遣って社会的にもイメージが良くないですよね。父親からも『いつまで日雇い派遣はできないだろう』って言われていますし。やっぱり一番の不安は雇用ですよね」
日雇い派遣は、労働者派遣法が改正され2012年10月に原則禁止となった。

ハローワーク福島前での2日間の取材を終えて、私は避難所まわりを再開した。いろいろな問題を耳にするうちに、雇用の問題はすっかり忘れてしまっていた。福島市のあずま総合運動公園の体育館を訪ねた際、南相馬市原町区から避難中の小泉百合子さん(56)に話を聞いた=先月号の「つぶやき」集に収録。取材日は2011年4月13日。小泉さんはこうも話していた。

「私も主人もスーパーで働いていました。自宅は原発から27㌔のところにあって、スーパーも近所にありました。主人が社員で私はパートです。3月15日まで会社は営業をしていました。私は3月13日に避難しましたが、主人は3月15日まで仕事をしていました。私は飯舘村に住んでいる姉のところに行き、ここ(福島市のあずま総合運動公園体育館)には3月16日に来ました。解雇予告通知がきたのは4月4日です。再開のめどが立ったら再雇用するって言うけれど、無理です。4月11日に会社に集められて説明会があって、そこにハローワークの人が来ていて手続きをしました。私の正式な解雇通知は4月末に、主人のは6月15日に送られてくるようです。そのときに正式に解雇されることになっています」

私は、地震・津波・東京電力福島第一原発事故によるクビの嵐問題をあらためて取材しなければと強く思った。県都の福島市でこうなのだから、福島県南部はもっと大変なことになっているのではないかと考えて、県南部へ向かうことにした。
(次号に続く)

安全センター情報2015年12月号

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