原発のことを知り尽くしているはずの作業員でさえ「情報がない」「これから先どうなるのか分からない」「原発は怖い」と右往左往させられた。それ以上の混乱が住民にふりかかったのは当然だろう。

東京電力福島第一原発から2㌔のところの大熊町小入野に住んでいた猪狩さん一家――政紀さん(29)と絵美さん(26)夫婦、長男愛斗君(1)、2011年3月11日の1カ月前の2月10日に生まれたばかりの長女星桜ちゃん――の逃避行は、「3・11」からの1週間で10カ所にのぼった。

11日
絵美さんは、長男と長女をつれて、富岡町小浜にある母親の実家へ里帰りしていた。里帰りといっても大熊町と富岡町は隣同士だから、いつものように遊びに行っていたと言った方が正確かもしれない。絵美さんが長女にミルクをあげようとした時、午後2時46分、「グラグラ」と大きな揺れが来た。とっさにテレビを押さえた。外に出た。東電の下請け社員として東京電力福島第二原発で働いていた政紀さんは、移動中の車の中で揺れに襲われた。あわてて絵美さんの母親の実家へ駆けつけて合流した。

ほどなくして富岡町役場の「避難してください」という放送が聞こえてきた。猪狩さん一家と、絵美さんの両親・祖父母の計8人は2台の車に分乗し、富岡町体育協会が運営する「野外活動センターグリーンフィールド富岡」へ向かった。「人が多くてもう入れません」と断られた。つぎに富岡町立富岡第二中学校の体育館へ行ったが、ここもすし詰め状態だった。

午後7時3分、日本で初めての「原子力緊急事態」が発令される。
午後8時50分、福島県が、福島第一原発の半径2㌔圏に「避難指示」を出す。
午後9時23分、政府が、避難範囲を半径3㌔圏にひろげる。

結局、猪狩さん一家ら8人は富岡第二中学校の校庭にとめた車のなかで一夜を過ごすことになった。

12日
2人の子どもにミルクを飲ませようと絵美さんは富岡町の母親の実家に戻った。ガスコンロでお湯を沸かす間中、余震が続いた。あるだけのミルクと洋服をかき集めた。

午後3時36分、福島第一原発の1号機で水素爆発が発生する。

しかし、絵美さんにそのことを知る術はない。テレビには、千葉県市原市の「コスモ石油千葉製油所」で発生した火災の様子だけしか流れていなかった。

午後6時25分、政府が、福島第一原発の半径20㌔圏の住民に対して、原子力災害対策特別措置法にもとづく「避難指示」を発表した。

その後だろうと思われるが、絵美さんは「川内村へ避難してください」と呼びかける富岡町の防災無線放送を聞いた。
猪狩さん一家ら8人は、富岡町の西に接している川内村に向かうことにした。途中、大熊町小入野の猪狩さん一家の自宅に立ち寄ってみたものの、なかはグチャグチャだ。真っ白な洗濯洗剤が玄関にぶちまけられていた。水槽の水は半分になっていた。テレビは不思議なことに元の場所に立っていたが、DVDもぬいぐるみもひっくり返った食器棚も津波による海水でやられていた。持ち出せる物はほとんどなかった。川内村へ向かう道路は大渋滞。普段ならば30分で行ける距離だが、この時は3時間もかかった。

川内村にたどり着いても落ち着けなかった。村役場や消防団を通じて受け入れ可能な避難所を探してもらったが、田村市の旧都路村、旧常葉町、三春町……とどこもいっぱいだと言われた。原発爆発に関する情報は一切はいってこない。このことが猪狩さん一家をよけいに不安にさせた。このころ、絵美さんの記憶によると、「原発の関係で避難してください」という川内村長の防災無線放送を聞いた。村長は「みなさんとの再会を楽しみにしています。必ず村には戻れる」などとも呼びかけていたという。

猪狩さん一家4人、絵美さんの両親と祖父母の4人、さらに政紀さんの祖父と母親も合流して計10人は、川内村の北西にある田村市船引に逃げることにした。ここには絵美さんの父親の実家があった。ここで1泊した。

東日本大震災と東京電力福島第一原発の爆発事故のため、1週間の間に10カ所も転々とさせられた猪狩絵美さんと長女の星桜ちゃん(1カ月)

14日
田村市船引に一緒に逃げてきた政紀さんの祖父は、若いころに頸椎(けいつい)を損傷していてほぼ寝たきりだったため、体調の悪化を訴えて「家に帰りたい」と言いだした。そこで10人のうち、絵美さんの両親と祖父母の4人は船引に残り、猪狩さん一家4人と政紀さんの祖父と母親の6人で川内村に戻ることにした。船引に残った4人のうち絵美さんの祖父母は4日後に札幌市へ避難することになる。

午前11時1分、福島第一原発の3号機が水素爆発を起こした。

政府が福島第一原発の半径20㌔圏内にだしていた「避難指示」は、猪狩さん一家ら6人がいる川内村の半分ちかくを含んでいた。消防団員としての活動があったため合流が遅れた政紀さんの父親も加わった計7人で、さらに西にある小野町へ向かうことにした。そこには政紀さんの親戚宅があるからだった。

15日
午前6時12分、福島第一原発の4号機が水素爆発を起こした。

18日
結局、猪狩さん一家が福島県の中通りにある郡山市南2丁目の避難所「ビッグパレットふくしま」(県産業交流館)に落ち着いたのは、3月11日から1週間後のこの日だった。田村市船引に残っていた絵美さんの両親のほか、絵美さんの兄夫婦と子ども3人も合流した。

――もはや読んでいる人には何がなんだか全く分からないと思う。そんな原発事故の影響に猪狩さん一家は振りまわされた。

猪狩さん一家――政紀さん、絵美さん、愛斗君、星桜ちゃん――の3・11以降1週間の動きだけをまとめても、絵美さんの母親の実家(富岡町小浜)→グリーンフィールド富岡(富岡町小浜)→富岡第二中学校(富岡町夜の森南4丁目)→母親の実家(富岡町小浜)→猪狩さん一家の自宅(大熊町小入野)→政紀さんの実家(川内村上川内)→田村市船引→政紀さんの実家(川内村上川内)→政紀さんの親戚宅(小野町)→ビッグパレットふくしま(郡山市南2丁目)と転々とさせられた。その過程で、絵美さんの祖父母(札幌市へ避難)、政紀さんの両親と祖父(小野町へ避難)とばらばらになった。

ビッグパレットふくしまは私も度々避難者取材で訪れていたが、巨大な鉄パイプらしきものが網の目のようにはりめぐらされて国際会議も開けるという近代的なこの建物は、ありとあらゆる会議室や廊下が避難者で埋め尽くされていた。これが夏場だったら衛生状態は最悪だっただろう。このビッグパレットふくしまに身を寄せた猪狩さん一家だったが、避難所内にノロウイルスがひろがっていると聞き、長男愛斗君と生後2カ月になっていた長女星桜ちゃんに感染しては大変だからと、4月には福島県いわき市のアパートへ移っている。

4月22日午前0時、政府は、災害対策基本法にもとづいて福島第一原発の半径20㌔圏を「警戒区域」とした。7万8千人の住民の立ち入りを禁じるもので、退去を拒んだ場合は罰金や拘留を科されるなど、それまでの「避難指示」より厳しいものだった。

この時点における政府の避難計画は次のようなものだった。

警戒区域――福島第一原発の半径20㌔圏内。双葉町・大熊町・富岡町の全域、北から南相馬市、浪江町、葛尾村、田村市、川内村、楢葉町の一部。原則立ち入り禁止とされた。

ほかにも、緊急時避難準備区域――おおむね半径20~30㌔圏内にある複数の自治体が対象で、緊急事態に備えて屋内退避や圏外退避の準備が求められる。政府の文書によると「特に、子供、妊婦、要介護者、入院患者の方などは、この区域に入らないようにすることが引き続き求められます。ご苦労をおかけいたしますが、ご協力のほどお願いいたします。なお、この区域内では、保育所、幼稚園や小中学校及び高校は休園、休校されることになります」――があり、計画的避難区域――半径20㌔~50㌔圏内にある複数の自治体が対象。放射線モニタリングの結果に基づき、年間累積放射線量が20㍉シーベルト以上になる恐れがあるため、2011年5月末をめどに住民は避難する――もあった。

これによって例えば南相馬市と田村市は「警戒区域」「緊急時避難準備区域」「何の指定もない区域」の三つに分断されることとなる。こうして東日本大震災と東京電力福島第一原発の爆発事故によって福島の人たちは故郷をズタズタに分断された。

南相馬市鹿島区の工務店社長・大河内盛雅さん(52)は、多くの住民が避難した後の区内で、民家の屋根にブルーシートをかけていた。従業員2人と手伝いの4人も避難している。「ここに残っているのは私だけです。雨が降ったら家の中がびしょびしょになるでしょ。みんな家のことが心配だからね。こうやってシートをはっておくとみんな安心できるもんね。腰が痛えんだけれど、仕方ねえ」

警戒区域設定前日の4月21日、私は避難者の声を集めた。数日内に2時間程度の一時帰宅がゆるされるというので、どう受けとめているのかを聞くためだった。

南相馬市原町区に住んでいた糸井真紀子さん(43)の一家は、3月14日に福島市の「あづま総合運動公園体育館」に避難し、1カ月後の4月13日からは仮設住宅ができるまでの間として福島市内のホテルに移っていた。体育館にいたころに取材をした時、次女の茄津さん(8)は、寝ている間も歩く人の足音で目覚めることがあるといって「将来は政治家になって安心できる社会をつくりたい」と話していた。

糸井さんはもちろん困り果てていた。原町区にある自宅は福島第一原発から20.3㌔にある。警戒区域に含まれるのか、一時帰宅が認められるのかが微妙だったからだ。高校1年の長女(15)は5月の連休明けから宮城県名取市にある高校へ通うことが決まっていたが、寮暮らしをするための布団とか教科書とかタンスとかを持ちだす引っ越し作業ができるかどうか分からないという。「一緒にホテルに来た隣近所の人たちと『どっちなんだろうね、どっちなんだろう』と話し合っています。前向きに考えるようにしていますが、早く原発を片付けて欲しいですね」

南相馬市小高区の広田正秀さん(30)宅は警戒区域に含まれることになっていた。地震と原発事故後やはり福島市の「あづま総合運動公園体育館」へ避難していたが、4月18日からは原町区にある東北電力の原町火力発電所で働くため、福島市から通うわけにもいかないので、南相馬市内で車上生活になっていた。「小高の住民だというと、南相馬市の避難所に入ることを拒否されるからだ」という。拒まれる理由は分からなかった。車のなかで寝ていると見回り中の警察に目をつけられてあちこち移動を求められるのがつらいと語った。広田さんは「事実は受けとめる」と話したうえで、「(同居していた)おやじは自営の仕事を引退するというんだ。復旧に300万から400万かかるというからね。悔しいねえ。一時帰宅は2時間じゃなくて、せめて半日は欲しいよ。やっぱり今までの思い出のもの……家財道具、アルバム、そんなものを取ってきたいからね」

富岡町小浜の鈴木昭雄さん(59)の自宅は福島第一原発から10㌔、福島第二原発から2㌔のところにあった。もちろん警戒区域となってしまう。「うん、まあ、寂しいというのか、何とも……。何を話せばいいのかな。たまたま私は生きているけれど、何にもないです」。3月16日から糸井さんや広田さんと同じく福島市の「あづま総合運動公園体育館」へ身を寄せている。

自宅で介護をしていた母親(93)は避難所暮らしは耐えられないので、福島市内の病院に入院させている。広田さんは避難所から毎日、朝・昼・夜の3回、見舞いに行っている。そうしないと母親が寂しがるからだ。朝の見舞い時には顔を洗ってあげて、髪を櫛でといてあげて、入れ歯も洗ってあげる。「母親にはね、もうすぐ帰るよ、少し時間がかかるけれど帰るよって言っているんです。具体的な時期が言えないんです。私には3年も4年も帰れないだろうと分かっているんです。でも母の顔を見たら、例えば4年は帰れないなんて、とても言えません。見舞いに行くたびに母は『帰りたい』と涙をみせるんです。一時帰宅は行きません。どうせ2時間しかいられないのだから。でも母親の写真は……若くて元気だったころの写真は……財産はもういいんです。位牌とかは取りたい。本当は行きたいんですよ」

ただただ住民をふりまわすだけの、どうしてこのような泥縄式対応になってしまったのか。私は福島県での取材中、原発事故からどのようにして避難したのかを多くの人に聞いたが、「1カ所目の避難所で落ち着いた」と語った人は1人もいなかった。

日本の原子力安全委員会(当時)が原発の防災指針を策定したのは1980年のことだ。前年の1979年にアメリカで起きたスリーマイル島の原発事故をうけてのもので、EPZ(防災対策重点地域)を原発から半径10㌔圏とした。この指針に基づいて都道府県は地域防災計画のなかに原子力災害編をつくり、福島県でも避難訓練はされてきたが、全くの「絵に描いた餅」だったことは「3・11」以降の現実が示している。実際、福島第一原発の事故後、取材した住民の中にはただのひとりも、「避難計画にしたがって行動した」というのはいなかった。多くの住民、いや、全ての住民が「今いる場所は危険に違いない」と考えてやみくもに動き回らざるを得なかったのである。

そして故郷への立ち入りを禁止される警戒区域の設定。
それはまた、戦後、原発を着々と作り続けてきて、「深刻な事故は起こり得ない」と言い続けてきて、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故では30㌔圏の住民が避難を強いられても「日本で同じ事態は考えにくい」と言い張り、延々と安全神話にしがみついてきた政府・自民党のアタマのなかに、住民避難のことなどまったく無かったことを意味している。

避難所となった福島市の「あづま総合運動公園体育館」には東京都内に事務所を置くイスラム教徒の団体も炊き出しに来ていた。元代表のジャミル・アマドさん(45)はパキスタン出身で普段は千葉県で貿易業をしている。ジャミルさんによると、2011年3月16日に宮城県石巻市に入ったのを最初に、取材をした4月22日時点で12回目の被災地入りだという。毎回4㌧の支援物資を運び込み、炊き出しの中心は300人分から1000人分のカレー、ナン、ライス。この翌週からは福島県田村市でヤギ肉のバーベキューも予定しているという。ジャミルさんは「コーランには、この世界の人間の始まりはアダムであり、みんなアダムの子どもできょうだいだと書いてある。困っているきょうだいを他のきょうだいが助けるのは義務だ。これが一番大事だ。それに、日本は世界を助けている。パキスタンでもバングラデシュでも。だから僕たちもやらなくちゃいけないんです」と語った。バングラデシュ出身のモハメドさん(41)も「私たちはアダムとイブの子どもできょうだい。日本で暮らしているのだから、日本人が困っているときは手伝いたい。それは感謝の気持ちだ。私たちは見ているだけではいけない。(炊き出しに)参加できてすごくうれしい。これからもどんどん続けたい」と語った。

安全センター情報2014年11月号

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