東京電力福島第一原発がある大熊町で暮らしていた松本寿子さん(65)は2011年3月11日、自宅2階で津波の難を逃れたものの、夫の修平さん(68)と孫の瑛士ちゃん(4)の姿が見えなくなったことに焦りを募らせていた。
津波の水がひいた後、自宅の前の坂道に出た。青い葉をつけたまま倒れた木々と、黒い泥で埋まっていた。倒れた靴箱から取り出した左右の大きさの違う靴をはいた。泥にとられてうまく歩けなかった。
後ろから駆けよってきた近所の女性が言った。「ごめんね。助けられなくて、ごめんね」。その女性から話を聞いて、寿子さんは「ああ」と心のなかで声をあげた。
津波に追われながら寿子さん宅の前の坂道を車で逃げたというその女性によると、地震の後、修平さんは瑛士ちゃんを抱いたまま、自宅前の道路に出た。周囲の様子を確かめに出たらしかった。
そこに津波が襲いかかった。
修平さんは走りだし、転んでしまった。そして津波が修平さんと瑛士ちゃんの2人をのみこんだ。津波が車のすぐ後ろにまで迫っていた。だから修平さんと瑛士ちゃんを助けることもできなかった。そのまま走り去ってしまった。そう言って泣きじゃくり、謝りつづける近所の女性に、寿子さんは「うちのせいであなたまでやられてしまったら申し訳ない。あなただけでも助かってよかった」と声をかけた。
◇
呆然とする寿子さんや地区の住民のところに、最初は町議が、つぎに消防団員が「体育館に避難してください」と声をかけに来た。避難所として指定された大熊町立大熊中学校の体育館へと向かうことになった。近所の人の車に乗り込む際に「ちょっと待って下さい」とお願いをして寿子さんが家から持ち出したのは、免許証、コンタクトレンズ用品、携帯電話、青いハンカチが入った花柄の巾着袋だけだった。大丈夫、すぐに家に帰れるから、と。同乗者も同じ思いだった。農作業用の割烹着姿だったり、さっきまでしていた草刈りの鎌を手に持っていたりしていた。家に戻れば夫と孫を捜せる。家の片づけも早くしなくてはいけない。目の前に広がる津波の惨状とはうらはらに、寿子さんはそんなことを考えていた。
隆起と陥没だらけの道路は避難する東電の下請け会社員の車であふれていた。ようやく11日の夜、避難所となっていた体育館に着いた。その前に立ちよった避難所で受けとった食パンとバナナ、お茶を飲んだ。どれも冷たかった。
体育館は停電で暗かった。余震がおさまる様子は全くなかった。テレビもなかった。フロアに置かれた石油ストーブの火が明るく思えた。100人以上が身を寄せていた。
寿子さんは床に毛布を敷き、隣人の女性と2人でひとつの布団をまとった。横になると床の冷気が体に染みこんできた。壁にもたれかかったり、横になったりと、1時間ごとに姿勢を変えた。女性とは「明日には帰れるようね」「帰ったら何から片づけようか」「やることはいっぱいあるよね」と言い合った。会話は長くは続かなかった。寿子さんは「修平さんにも片づけを頼まなくちゃ」と思った。けれども、その言葉を口にすることはできなかった。もう修平さんはいない。瑛ちゃんの姿だってみえない。これは夢だ。けれども明日の朝になれば、現実だと受けとめざるを得なくなってしまう。そんなことを感じていた。
◇
東京電力福島第一原発の事故は深刻さを増すばかりだった。
3月11日19時03分 原子力緊急事態宣言が発令される
20時50分 福島県、半径2㌔圏の住民に避難指示を出す
21時23分 菅直人首相、3㌔圏の避難、3~10㌔圏に屋内避難を指示
12日15時36分 1号機の原子炉建屋で爆発が起きる
18時25分 菅首相、半径20㌔圏に避難指示
次々と起こる異常事態。
自宅前で津波にのみこまれたらしい夫の修平さんと孫の瑛士ちゃんの行方は分からないまま。地震直後に小学生の孫を捜しに行った長男の妻とも連絡が取れないまま。そんな状態に置かれていた寿子さんに、容赦なく降りかかってきた。
12日午前7時、大熊中学校の体育館でひと晩を過ごした寿子さんは、「東電から指示がありました。これからバスで移動します」という町職員の呼びかけ声で浅い眠りから目覚めた。
再び知人の車に乗っての再避難を強いられることになった。けれども、避難指示がでているという行政情報はまったく知らなかった。
旧都路村(現田村市)、旧常葉町(同)と、どこも避難者であふれかえっていた。いずれも手前の路上で「もういっぱいです」と入ることを拒まれた。途中で立ち寄ったコンビニエンスストアの棚はがらがらだった。
12日の昼過ぎ、田村市の総合体育館にようやくたどり着いた。床に敷かれたビニール製の柔らかい畳が心地よかった。「ありがたい」と思った。それほど疲れ切っていた。
12日午後3時36分。1号機で水素爆発が起きた。夕方に配られた新聞の号外でそのことを知った。原発の状態について知ったのはこのときが初めてだった。体育館にいた避難者がテレビの前に集まった。むき出しになった1号機の屋根、立ち上る白煙。寿子さんらテレビを囲んだ30人ほどは無言のまま画面を見つめていた。男性がぽつりと漏らした。「これじゃ当分は帰れないな。長くなりそうだ」
◇
11日の地震直後に瑛士ちゃんを修平さんにあずけて小学生の孫を捜しに車で出て行った長男の妻と連絡が取れたのは、14日だった。
寿子さんが自宅を離れる際、近くの側溝にタイヤがはまって乗り捨てられていた長男の妻の車を見つけた。そばに小学生の孫のランドセルと水筒が落ちていた。水に濡れていなかった。「ここまでは津波は来ていない」と2人の無事を確信はしていた。
2人は田村市の別の避難所に身を寄せていることが分かった。避難所に置かれた衛星電話から寿子さんは「自分が英ちゃんを抱っこしていたら助かっていたかもしれない」と言った。「おかあさん、そんな責任を感じることないんだよ」と長男の妻は言ってくれた。
3月19日、寿子さんは、長男、その妻、小学生の孫の計4人で千葉県の親族宅に身を寄せることになった。寿子さんは1週間ぶりにお風呂にはいることができた。小学生の孫が翌日、大声で泣き出した。「ここには津波は来ないよね」と何度も何度も聞いてきた。
夫の修平さんと孫の瑛士ちゃんはどこに行ったのだろうとばかりを考えていた。1時間ほどうとうとしては目が覚める日々だった。
孫の瑛士ちゃん。
4歳だった。
かわいい盛りだった。
人なつっこかった。
明るい子だった。
フライドポテトが好きだった。
3歳から幼稚園に通っていた。
「ばあちゃん、今日はカニ踊りを習ってきたの。おしえてあげる。ゆび2本をチョキにして横に動けばいいんだよ」
瑛士ちゃんと修平さんを捜しに行きたい。けれども、高濃度の放射能に汚染された大熊町には入れない。
寿子さんの長男は高校卒業後、東電の関係会社に入った。3月11日も福島第一原発のなかで仕事をしていた。以降も電源復旧の作業を続けていた。千葉県に避難してからも収束作業のため福島県へ断続的に通っていた。修平さんも関連会社に勤めていた。寿子さんも関連会社に勤めた後、福島第一原発の構内にある売店で働いていた。
「原発の事故さえ無ければ」と思わずにはいられなかった。
「原発さえ無ければ」とは言えなかった。
そんな地元の事情を寿子さん一家は背負っていた。
(この頁つづく)
安全センター情報2013年11月号
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