津波は黒くて音がしない――

前号で伝えた、福島県南相馬市の野球場にひとりぽつりと立っていた青田節子さんの証言と同じ話を、やはり南相馬市原町区に住んでいた会社員畑島とみ子さん(60)から聞いた。2011年4月12日と17日、福島市の避難所「あづま総合体育館」でだった。

畑島さんは3月11日、自宅1階の駐車場に設けたプレハブの仮設住宅で横になっていた。この日は、9月に定年を迎える予定の勤め先の夜勤明けだった。同居の祖父(88)の2週間に一度の往診の日でもあったので、すぐにはゆっくりすることができなくて、近所の医師と看護師を迎えて送り出した後、ようやく休むことができた。自宅は新築中で、3カ月前に上棟式をとりおこない、3月末に完成する予定だった。

「津波だ」

くつろいでいた畑島さんは、大工の大きな声で目を覚ました。自宅から約1㌔さきにある海に目をやると、モクモク、モコモコと海面が盛りあがるのが見えた。浮世絵に描かれたのとまるでそっくりに鎌首をもたげた黒い津波は、まず、海岸沿いの松林をのみこんだ。つぎに、田のわらを巻き上げながら向かってきた。

「津波は目の前に来ても音がしないんです。ふだんは海が荒れるとザブンザブンという波の音が聞こえるのに」

畑島さんは居間に駆け込み、こたつに入っていた祖父を連れだそうとした。
「津波だ。逃げよう」と手を引っぱった。目と耳が不自由な祖父は「地震はおさまったべ」とこたつにしがみついた。「津波だからっ。おじいちゃん、立って」。なんとか車のあるところまで連れて行こうとしても、突然のことに驚くばかりの祖父は「何、何だって」「噓だべ」とますますよけいに力を入れてこたつにしがみついた。

畑島さんと祖父とのやりとりを聞いていたのだろう、ひとりの大工が部屋に駆け込んできた。畑島さんの祖父をこたつから引っぱり出して背負った。「奥さん、車で逃げてはだめだ。間に合わない」。3人で2階にのぼることにした。

階段をのぼりきったところでガーンという音が鳴り響いた。津波が自宅1階を直撃した音だった。海水は2階のベランダをも浸し、縁にぶつかって白い波しぶきを散りあげていた。
2階に畑島さん、祖父、大工、最初から2階にいた長男の嫁、5歳と2カ月の孫2人の計6人が集まった。ベッドの上にコタツを置き、そのうえに孫2人を乗せた。そのまわりを大人4人で囲んだ。津波を見せないようにするためだった。海水はベランダから部屋の中へと入ってきた。

「だめかも知んないな。覚悟すっぺな」と大工が言った。

6人で輪になって手をあわせた。
10分ほどが過ぎた。

「長く感じたねえ」と畑島さんはふりかえる。気がつくと波は引いていた。

「誰か残っていないか」と家の外からの呼びかけが聞こえた。「消防車が来ている」と大工が声をあげ、外に向かって「6人が残ってるー」と大声を発した。消防車が6人を避難所の小学校に運んでくれた。

みんな着の身着のままで、靴下も泥だらけ。迎えた教員が自分の靴下を脱ぎ、「おじいさん、これをはきなよ」と渡してくれた。畑島さんはここで夫とも合流できた。

その後、祖父を助けてくれた大工は「俺、かあさんをひとりで家に残しているから」と言って、南相馬市よりも東京電力福島第一原発の近くにある浪江町へと帰っていった。

畑島さん一家は原発事故の深刻度が増すなか、3月17日に南相馬市を離れて福島市の避難所に移った。避難所生活4日目に祖父は89歳の誕生日をむかえた。歯も悪くて配給のパンやおにぎりはそのままだと食べても吐いてしまうので、おにぎりはすりつぶして飲むようにさせていた。
その避難所で畑島さんは「あの大工さんがいなければ、私たちはどうなっていたのか分かりません。命の恩人です」と語った。
大工とはいまも連絡が取れないままだ。どこかで再会し何としてもお礼が言いたいという。

東京電力福島第一原発がある福島県大熊町。

松本寿子さん(65)は2011年3月11日、夫修平さん(68)の弁当を作っていた。修平さんは原発の南側に隣接する福島県栽培漁業センターの警備員をしており、この日の夕方から出勤予定だった。
切り干し大根を水でもどし、油揚げ、シメジ、ニンジンを油で炒めていた。味付けはしょうゆでさっぱりと。タマネギをきざんでハンバーグの肉をこねようとしていたときだった。昨日と同じ今日。いつもと変わらない平穏な一日の昼下がりだった。修平さんは2階でパソコンをいじっているようだった。

ドドドッと激しい揺れが来た。

寿子さんは修平さんと庭に飛びだした。長男の妻(36)、孫の瑛士ちゃん(4)も、隣接してある別棟から逃げだしてきた。寿子さんが「大きかったね」と声をかけた。
長男の嫁が「地震で道路が陥没して歩けないと困るので、おじいちゃん、お願い」と言って、修平さんに瑛士ちゃんを託し、もう1人の孫を小学校に迎えに行くために車に乗った。修平さんが瑛士ちゃんを抱きかかえた。

遠くの防災無線が避難を呼びかけていた。その声に緊迫感はなかった。寿子さんが「逃げた方がいいんじゃない」と言ったが、修平さんは「ここは高台だから大丈夫だ」と答えた。その間も大きな余震が断続的に起きていた。「とにかく逃げた方がいいんじゃない」「大丈夫だ」。寿子さんと修平さんの言い合う声が大きかったのだろうか、修平さんの首にぺたりとしがみついていた瑛士ちゃんが「じいちゃん、ばあちゃん、けんかしちゃだめよ」と言った。寿子さんは「ママはお兄ちゃんを乗せてもうすぐ帰ってくるからね」と答えた。

余震の合間をぬって寿子さんは家の中に入った。作りかけの弁当が気になっていたからだった。倒れた電子レンジやオーブンがガス台の前をふさいでいた。
自宅をぐるりと囲む杉林の向こう側、すなわち海がある方角から、バリバリバリというすさまじい音が聞こえた。歩いて10分にある太平洋からの津波に違いなかった。寿子さんは玄関に駆け込んだ。ふりかえると、修平さんと瑛士ちゃんの姿がなかった。「修平さーん。瑛ちゃーん」と叫んだ。返事はなかった。

どうしよう。
どうしよう。

心のなかで叫びながらかけあがった2階の窓から寿子さんが見たのは、4階建ての高さはあろうかという自宅まわりの杉の木の、そのてっぺんを乗りこえてくる津波だった。津波は自宅の庭の畑のうえで一度はねあがり、車庫をスパッと切り取っていった。鋭利な刃物のようだった。海水は一気に広がった。「湖」が一瞬にして現れた。
2階にも水が迫ってきた。

「私、だめかも」
「夢か、現実か」
「こんなことあっていいの」

寿子さんのいろいろな思いは、決してまとまることはなかった。

水はあっという間に引いた。寿子さんが1階におりると、冷蔵庫も洗濯機もみんな倒れていて、茶の間にあった物は壁をぶちぬいて居間に転がっていた。杉の木や折れた電柱も暴れ込んでいた。寿子さんは家の外に出て、庭に横たわる2本の杉の木の下をくぐった。

寿子さんは「修平さーん。瑛ちゃーん」と何度も呼んだ。やはり返事はなかった。
自宅前をながれる小川にかかっていたコンクリート製の橋もなくなっていた。あのバリバリバリという音は、海岸沿いに建つ福島県栽培漁業センターが津波によって壊される音に違いなかった。

2人がいなくなった。
2人がいなくなった。
心ばかりが焦った。
(この頁つづく)

安全センター情報2013年10月号

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