東京電力福島第一原発の事故をうけて、福島県大熊町の松本寿子さん(65)は2011年3月19日夜、長男夫婦と小学生の孫の計4人で千葉県の親族宅に避難した。大熊町の自宅前で津波にのみこまれた夫修平さん(68)ともうひとりの孫瑛士ちゃん(4)の行方は分からないままだった。
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福島第一原発は地震直後から1~4号機の外部、非常用ともに電源を失った。すなわち、原子炉を制御する最重要機能が無くなるという事態であり、福島第一原発の暴走がはじまった。経済産業省の外局である資源エネルギー庁の原子力安全・保安院によると、14日22時50分までに1~3号機でメルトダウンが始まっていた。
3月11日19時3分 政府が初の原子力緊急事態宣言を発令
12日15時36分 1号機が水素爆発
14日11時1分 3号機が水素爆発
15日6時10分 2号機の格納容器下部の圧力抑制室あたりで「大きな衝撃音」が発生。最多の放射性物質が放出される。後に福島原発事故独立検証委員会(北澤宏一委員長)の報告書は「放射能を閉じ込める堤防はここで決壊した」と記した
15日6時12分 4号機が水素爆発
18日17時50分 原子力安全・保安院が、原発事故の国際評価尺度(INES)でスリーマイル島事故とならぶ「レベル5」にあたると発表
4月12日 国際評価尺度がチェルノブイリ事故級の「レベル7」に。レベル5は低すぎるという批判があった
22日 福島第一原発の半径20㌔圏が「警戒区域」となり、7万8千人の住民が立ち入り禁止に
寿子さんへの取材は4月4日からの数日間、避難先の千葉県の親族宅でだった。原発事故収束のめどはたっていない。夫修平さんと孫瑛士ちゃんを捜しに行きたい。けれども行けない。悪いのは誰なのか。寿子さんの言葉がゆれうごく。
「(一時避難した福島県田村市の体育館で原発事故のニュースを見て)信じられなかった。私たちには危機感がなかったんです。もし原発が危なくなるとすれば人為的ミスでしかないだろうと。地震・津波であんなことになるなんて夢にも思いませんでした。原発をきちんと守っていれば安全だと思っていましたから。それも慣れかも知れないけれど」
「できてしまったからには安全にして欲しかった」
「捜しに行きたいです、もちろん。でも、放射線が高くて手に負えないんです。2、3日前の新聞に大熊町で遺体が見つかったとあったんです。誰のかは分からないけれど、これを読んだときは本当に飛んで行きたかった。息子がすぐに福島県警に電話をして、特徴をいろいろと聞かれて、該当する人がいたら教えると言われました」
「とにかく原発が収まってくれないと前に進めないです」
「あのへんを本当に捜したい。もしかしたら木と木の間にいるかも知れない」
「残念だという言葉しかない。こういうことになって。こんなことになるとは。残念だということのみです」
「東京の人は、自分たちの電気がどこから来ているのか分かっていない。それをここにきて痛感しました。東電の電力は東北6県の誰ひとり使っていない。それを知って欲しくて。それが悔しくて」
寿子さんは東京電力のことを「電力さん」と呼ぶ。
「電力さんをどうのこうのという気持ちはありません。安全を心がけてくれた人たちだから残念だという言葉しかありません」
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寿子さんが身を寄せた千葉県の親族宅とは、夫修平さんの妹角脇順子さん(62)宅だ。
角脇さんによると、一家は先祖代々-江戸の安政にまでさかのぼるという-大熊町に住んでいた。
両親は空襲の疎開のためにいったん神戸市に住み、父親(1999年に87歳で死去)は戦後、大熊町に戻って中学の国語と社会の先生をつとめた。
大熊町を出て宇都宮市の会社に勤めていた修平さんと、小高町(現南相馬市)出身の寿子さんの結婚は1970年。結婚当初は宇都宮に住んでいたが、修平さんは長男だったため、1980年、両親の老後をみようと大熊町にもどり、修平さんは東京電力の協力会社に職を得た。いわば、福島第一原発の存在が修平さんの帰郷を可能にしたといえる。それは地域全体がそうであった。
角脇さんがふりかえる。
「大熊町はもともと素朴なところでした。みんな農家をしていて、『結い返し』の精神が生きているところでした。お金でやりとりするんじゃなくて、仕事で助け合うという心ですね。欲もないし、そもそも住民にはもうけようという考えも、土地が金になるなんて考えもさらさら無かった土地柄でした」
素朴な土地柄ということは、見方をかえれば、戦後の高度経済成長の波に乗れなかった「遅れた地域」ともなる。大熊町をふくめて福島県沿岸部はまさにそうした土地だった。1960年代になると、頼みの石炭も衰退はなはだしかった。
福島県庁と東京電力はそこに目をつけた。戦前は旧日本軍の飛行場であり、戦後は塩田だった広大な土地で福島第一原発の建設工事が始まるのは1967年のことだ。
1960年 福島県が誘致表明
1961年 大熊、双葉町議会が誘致議決
1966年 国が1号機の設置を許可
1967年 1号機の建設が始まる
1971年 1号機の運転が始まる
工事が進められているころ、修平さんと角脇さん兄妹は中学生から高校生だった。
福島第一原発が建つことになる広い砂浜はかっこうの野球場だった。そのころの勤め先といえば町役場に入るか、町の外に出て行くかの選択肢しかなかったという。
ふたたび角脇さんがふりかえる。
「道路工事が盛んになって、道路という道路が奥の奥までたちまち整備されていきました。外国人の技術者がいっぱい入ってきて、その社宅の集落ができたほどでした」
原発へとつづく道路沿いが特ににぎやかになった。飲み屋、パチンコ店、ガソリンスタンド、食堂……と次々とできていった。町の農家の人々は口々にこういった。
「長男の就職先ができた」「長男が外に出なくてよくなった」
寿子さんと修平さん夫婦が大熊町に住み始めた1980年は、福島第一原発周辺の道路では朝の出勤時間になると「都会並みのラッシュ」がすでに起きていた。
修平さんにつづいて寿子さんも東京電力関係の仕事に就いた。寿子さんの場合は34歳ごろから8年間、放射線や健康を管理する事務を請け負う協力会社に事務員として勤めた。さらにその後も17~18年間、福島第一原発の構内で町商工会が営む売店で働いた。
「田舎では働くところはそこしかないのですよ。大熊町全体がそこに勤めていたという感じ。特に定期検査があると7千人ぐらいの人が集まって大にぎわいでした」
「家族に1人は必ず電力さん関係の仕事に行っていました。恩恵を受けているという気持ちが大きかったんです」
寿子さんが、福島第一原発と地域との「共生の風景」を語る。
「原発の構内には何千本もの桜があるんです。私が従事していたころですが、苗を植えるのを見ていました。それがすごい桜となり、地域住民の名所となっていきました。春はそこでのお花見が恒例で、ツツジの季節にはバスも出ました。6月はアジサイですね。とにかく花は欠かさず、守衛所を1歩はいったらとにかくきれいで、ごみ一つ落ちていないところでした。(2001年の)米同時多発テロの後は2年間中止になりましたけれど、その後に復活して、幼稚園の子どもも遠足で構内に来ていました。電力さんはほかにも地域に貢献してくれていました。コンサートを開けば一流の楽団が来てくれましたし、それを安い料金で見せてくれました。公民館を造るとなると寄付もしてくれた。ここは電力さんがなければただの過疎地だったんです」
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修平さん、寿子さん夫婦の長男もまた、高校を卒業した後に東電の関係会社へ入った。東日本大震災の2年前に修平さん、寿子さん夫婦宅の敷地内に家を建てた。そして次男の瑛士ちゃんを津波にさらわれたのだった。
30代の長男は、3月11日も福島第一原発のなかで仕事をしていた。その日から17日まで電源復旧の作業に取り組み、現場の仕事が一段落したとしてようやく17日に寿子さんらと合流。2日後の19日に千葉県へ避難したあとも4月2日から再び収束作業のため福島県へ断続的に通っていた。
寿子さんを通じて、いまの思いを長男に間接的ながら聞くことができた。
「放射能が出ている事態を収束させたい。最初の数日で収束させたかったが、できなかった。収束が第一優先だと思っている。私より年下が働いている。私が行かないわけにはいかない」
「子どもを捜しに行きたいのは確かです。行きたいですけれど、会社に対しては、何も分からない、答えが出てこないです。自分の会社が原因なのだから」
また長男は「津波の事実は書いて欲しいし、いまも行方不明者が多数いることをぜひ伝えて欲しい。でも、放射能で捜せないとは書いて欲しくない」とも語った。
ただそれは、東京電力という会社を守りたいという気持ちからでは無く、大熊町民の多くが行方不明になった家族を捜しに行けない状況にあり、その背景には福島第一原発の事故による放射能汚染があり、「子どもを捜しに行けないのは放射能のせいだ」とさけぶ資格は他の住民を差し置いて自分にはない、という意味だった。
寿子さんはつぶやく。
「息子は自分の会社が起こしたことだからと責任をもっている。母親としては行って欲しくないです。でも、本人は行かなくちゃと言う。私は行くなとは言えない。東電さんは町に潤いを与えてくれた。だから、原発さえ無ければこんなことにならなかったとは思いたくありません。孫を捜せないことを原発のせいにしないで欲しいと息子に言われています。だから、私もそう思います」
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瑛士ちゃんの死亡は2011年6月17日に、修平さんのは24日に確認された。
安全センター情報2013年12月号
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