福島県石川町にあるクリスタルパーク・石川(石川町総合体育館)で避難者の話を聞きつづける。
東京電力福島第二原発1~4号機がある楢葉町の猪狩秀男さん(67)と信子さん(58)夫婦は、「あの日」の2011年3月11日に家を飛びだした。
まず、いわき市の小学校へ向かい、15日からクリスタルパーク・石川に身を寄せている。地震で家の中はめちゃめちゃになったし屋根の瓦もちょっと落ちたけれど、住み続けようと思えば住み続けられた。でも逃げてきた。自宅は、爆発事故を起こした福島第一原発の半径20㌔圏内にあるからだ。
「後かたづけは1日しただけです。ただ放射能が怖いだけです」と秀男さん。同居の長男も、すでに独立して同じ楢葉町内に住んでいる長女も次女の家族も無事だった。当面の心配事は生活費のことだ。
秀男さんが話す。
「いわき市の避難者住宅に入居を申し込んでいるけれど、家賃はただだからいいけれど、炊飯器などの日用品は自分で買わないといけないし光熱水費もかかるしね。私たちは年金生活だから大変ですよ。家に戻れればいいけれど」。
信子さんも続ける。
「避難所にいれば3食はオーケーですが、またこんど家を建てるとか借りるとかとなると一切が必要となります。収入が無いのでどうやって生活すればいいのか」
猪狩さん夫婦のやりきれなさをいっそう強くしているものが、放射能の拡散でだめになった田畑のことだった。
秀男さんはもともと郵便局員だった。定年後、朝は地域の交通指導員、夜は警備員の仕事をしていた。あいている昼の時間をつかって農業もはじめた。「楢葉にはね、オヤジの代から1町2反の土地があるんでね」
そのうちの5反を水田にして米を育て、1反5畝の畑でニンニク・タマネギ・ジャガイモ・5種類のキノコをつくり、おもに直売所に出していた。
「今年もキノコ栽培をするか、と。その矢先に、でしたね」。2年に1回交換するハウス用のビニールを買った直後だった。田からとった種の芽を出させるためのハウスは骨組みのまま置いてきた。種もみも納屋に置き去りにしてきた。去年11月に種をまいたタマネギとニンニクは6月に収穫の予定だったし、先月にまいたジャガイモは7月に取るはずだった。秀男さんは「もう少ししたら暖かくなって雑草にまかれてだめになるでしょうね」とつぶやいた。「もう食べられないでしょうね」と信子さんが補った。
あと2年もすれば田畑は完全に原野に戻ってしまう。ふたたび作物を育てようとしたとしても収穫を得られるまでにさらに数年間はかかってしまう。「元」に戻るのにはさらにどれぐらいの時間がかかるのだろう……。話題が今後の見通しに及んだとき、それまでは穏やかな表情で話していた秀男さんは語気と強めて言った。
「放射能の恐れはどれぐらいの期間なんでしょうか。放射能が無くなるまでにどれだけの期間があるんでしょうか。量にもよるんでしょうけれど。ただ危険だと言うだけで何も分かっていないからね。危険の内容が知りたい。オヤジの代から農業を教えられていました。タマネギを発育させようという気持ち、そういうものが全部うしなわれてしまったからね。そして避難所に押し込められているという精神的負担。放射能の恐れが隠されていることへの不安。でも、この土地を捨てることは考えられない」
◇
広野町の土建業浅川允(ただし)さん(67)と良子さん(66)夫婦も、允さんの母キヨ子さん(88)らとクリスタルパーク・石川に避難中だった。
地震の揺れそのものは大丈夫だったけれど、やはり放射能があるから避難しなさいという防災無線の呼びかけに応じて、最初は平田村の役場に行ったが満員だった。村職員の案内で石川町に来たという。高齢のキヨ子さんは車いすに乗っていて、孫に買ってもらった子犬のぬいぐるみにその孫の名前「かずひろ」と名づけて大切そうに抱えている。
允さんが困った顔をしている。
「最初はたいしたことはない、1~2日で帰れるだろうと3月13日にここに来たんですが、いや実は私の弟の二郎がアメリカのシカゴにいるんですが、地震の直後に自宅に電話をくれたんです。ここに来て私の携帯電話からシカゴにかけようとしてもできないんです」。つまり2週間ちかくも安否を伝えられていないので、それが心痛だという。それなら私の携帯電話で試してみましょうか。海外にかけたことはないのでつながるかどうか分かりませんが。允さんに渡すと、するとつながったではないか!
允さんが息せき切って話す。
「心配したっぺな。俺もばあちゃんも石川町に避難してんのよ。いまばあちゃんに代わるから」
車いすのキヨ子さんは携帯電話にしがみつくようにして声をだした。
「いるよー。俺は大丈夫だ。おめえらも一生懸命やってくれよー」
良子さんも代わった。
「うん!うん!」
携帯電話を貸しただけなのに、「命の恩人です。ご恩は一生わすれません」と一家に感謝されて、私はむずがゆくして仕方がない。
「ここ石川町のみなさんには感謝しています。至れり尽くせりです。おばあさんは認知症なんです。25年間認知症で要介護も5なんです。町長さんも職員さんも近くの病院に連れて行くのに手際よくやってくれて。昼はパンですが、夜は作ってくれるし、余りますよね、それにふりかけかけてオニギリにして置いてくれるんです」と良子さん。
「本当によくしてもらって申し訳ない。何にも不自由はありません」と允さん。
避難所暮らしに不自由がないはずがない。それでもとにかく感謝の言葉を忘れない夫婦だ。
しばらく話していると、次第に不安を漏らしてくれた。
「いまは何が何だか分からないんです」と允さん。
「野菜もだめ、米もだめ。家を流された人からするとそんなことを考えるのはだめなんでしょうが」と良子さん。
「ここからまた逃げる状態になると不安になります。また出ていかないといけないとみんなうわさしているんです」
「枝野官房長官の発言はどうなんですか。ばあちゃんを病院に連れて行っていたので知らないものですから。上の人だけ分かって下の人には情報がないんです」
「騒ぎになるから教えないのかな。いろいろうわさが出るのが普通なんでしょうが。わけが分からなくなるでしょう」
「分かっていても言わないんでしょう。パニックになるから」
「ここにいない人はみんな不安ですよ」
「ましてや、年寄りがいて避難していることを分かっていない」
「弱い人を連れて行くのが心配です。負担というか。だからといって捨てていくわけではない。それじゃあ親不孝になる」
「あんた、自分の母親なんだよ。私がみているんだから負担ってあんたが言うのはおかしいでしょ。私は25年間みているんだよ。入所させたらどんどんボケちゃうからそれはかわいそうでね」
浅川さん夫婦の心配は、88歳のキヨ子さんの体調と、そしてやっぱり田畑のことだった。
1反5畝の田畑で米・キャベツ・ホウレンソウ・ソラマメ・ジャガイモ・ブロッコリーを育てていた。3月13日の避難時にぜんぶ置いてきた。
良子さんが嘆く。
「畑や田んぼが放射能で汚染されたらどれぐらい作れなくなるのでしょうか。前は7反に作っていたんです。いまは1反5畝で、自給自足には十分で。私は畑と田んぼが生きがいで。孫が(東京の)大学に行っているから金がかかるから、あと2年はがんばらないといけないなと思っていたんです。長男夫婦は家のローンが重いし、長女はうつ病で介護施設をクビになったんです」
そんな良子さんの生きがいとは、東京で大学生生活を送っている孫に新米を送ることだった。
「種をまいて、育てて、収穫して、そしてそれを孫たちに食べさせて。それが一番楽しみでしたね。食べて喜んでもらう笑顔。孫は東京で自炊しているんです。『ばあちゃんの作ったお米、おいしいよ』って電話をかけてくれるのが最高で。涙が出てくるんですよ。それが一番の楽しみでした。……これからは送れないですよね」
◇
富岡町から逃げてきたという男性に「俺が生まれる前からあった田も畑もだめになった」という話を聞いたあと、やはりクリスタルパーク・石川に避難中の「JAふたば」の職員北郷伯弘さん(56)に話を聞いた。
JAふたばの管轄は双葉町・浪江町・葛尾村・大熊町・広野町・楢葉町・富岡町・川内村。東京電力福島第一原発の放射能が散らばった地域と丸ごと重なっている。北郷さん自身は広野町に住んでいた。地震直後にいわき市の体育館に避難し、その後は埼玉、東京の避難所や知人宅に移った。3月29日にクリスタルパーク・石川に来たという。
北郷さんは無表情に見えた。淡々と話す。
「まず、近況と現況ですが、今年の水稲作物の肥料と農薬を予約して配送となってそれをもとに作付けの準備段階に入っていました。その矢先です。肥料は配送済みでしたし、農薬は5月ごろに入る予定でした」
「ここらへんは一番多いのは水稲ですね。あと、ホウレンソウとかその他、イチゴも花も若干ありますね。ここは福島県のチベットと言われていたところなんです。そこに東京電力の原発と広野町に火力発電所ができて。それで生活はよくなってきたんですが、その意味で原発の恩恵はあるわけです。でもまさかが来たもんなあ」
「まず、データを正確に出すべきですが、農業をやれる状態にまで放射能を下げるべきだが、どんな方法がありますか?原発から10㌔、20㌔、30㌔の範囲にはいろいろいます。双葉郡では耕作していいのか?広野町から浪江町の間の30㌔圏内は耕作していいのか?情報は一切はいってきていません。隣の境のいわき市とかは耕作しても大丈夫らしいですが」
「百姓は百姓で下積みの生活をしていますから個別で国や東電と交渉する力も知識もないから、JAとして交渉するから、請求書とかはちゃんと残して置いてよと指導しているんです」
このとき、北郷さんは、はっきりと感情を表に出した。怒りの感情だ。
「農家の誰もがいつかは帰ると思っている。土地をあきらめることなんてないよ。農家の多くは70代とか80代なんです。若い人はやらないし。その気持ちを考えると、被害ははかりしれないよ。ダメだダメだ。いくら補償をもらえばいいなんて、そんな計算はできねえ」
◇
クリスタルパーク・石川に行く前に、この地域に配られている「夕刊いしかわ新聞」の編集局を訪ねていた。同社の会長は、コーヒーをすすめてくれながら、「あの日」以降の町の混乱を語った。
困ったのはガソリン不足だった。このへんにはスタンドが10店舗あるが、場所によって入ってくる量が違うし、「明日、A店にガソリンが届く」という情報がながれると住民はそこに殺到する。すると整理券を配るとか10㍑限定とか2千円限定の販売となる。本当に深刻なのはここからで、「あんたのところとは何十年もの付き合いになるのに俺に10㍑しか売らないのはどういうことなんだ」と人間関係にも亀裂がはいったことだった。温泉旅館もこれも10軒あるけれど、秋口までいっせいにキャンセルが相次いだ。「みんな、40年も50年も営業をしているけれど、今度こそやばいとぼやいているよ」
店の数が即座に出てくるところが、地元に密着した記者の真骨頂でもある。地域を知り尽くした会長が語る。
「ここの基幹は農業なんです。米、野菜はホウレンソウと小松菜が多いよね。あとは畜産。うわさで聞いたんだけれどさ、都会では福島産だというだけで売れ残っているというじゃないか。米にしても野菜にしてもこれから収穫が始まるのに、本当に売れるのかなって。放射能は目に見えないからどれだけ安全なのか分からないし、安全でも福島産、というだけでね。福島産だというだけで市場が扱わなくなっているんだ。すでに作ったものへの補償はあるかもしれないけれど、これからのものはどうするんだ?形がないからさ」
安全センター情報2015年4月号
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