現地対策本部というにはあまりにも急ごしらえのつくりだった。
2011年3月11日の東日本大震災と直後の大津波によって115人が亡くなった福島県いわき市平薄磯。約1カ月後の4月、くちゃくちゃになった集落の風景の一角に、ホワイトボードがいくつか並べられ、ちかくに事務机がやや乱雑に置かれていた。青空の下。ホワイトボードが、吹き寄せてくる冷たい浜風から身を守る「壁」の役割をわずかにしていた。
1枚のホワイトボードには薄磯集落の拡大コピーが貼られていた。そのほかのボードには集落の住民の氏名・住所・不明者・連絡先が貼られていた。不明者のところには「紀久夫」「母」「かなえ」「祖母」「福雄」「直衛」「正男」とペンで書かれていて、丸で囲まれた「亡」の字が添えられていた。不明者をあらわすのであろう丸で囲まれた「不」が×印で消されて「亡」が追加されているものもあった。ずらりと並ぶボードを見て、被害の大きさをあらためて思った。
一方で、とても不謹慎だと思うが、なんだかほっとした思いを抱いてしまったのも事実だ。地図を貼りだしたホワイトボードの下側に赤いペンでこう書いてあった。
「3月30日 現在 行方不明者 北街2名 中街10名 南街3名」
北街、中街、南街というのは、海沿いにある薄磯集落のなかでさらに海沿いに位置するところで、浜辺と並行にはしる県道382号線沿いに北から順番にあり、津波をもろにうけてしまった場所だ。
薄磯集落の住民はそれこそ肩を寄せあってまるで一家族のように生きてきた。誰がどこにいて、誰はどこで働いているのか、みんな知っている。そうした土地だからこそ、住民とその家族の安否と連絡先がたちどろこにつかめたのだった。そのような暮らしぶりが今の日本でまだまだあること、そのことをあらためて確認できたこと、それが「不謹慎」な感情を抱いた原因だ。
現地対策本部にひとり、疲れた表情でパイプ椅子に座っていたのが、副区長の志賀隆一郎さん(78)だった。
区長は津波で流されて4月2日になっても行方不明のままだったので、かわりに安否確認の陣頭指揮をとっていた。
志賀さんによると、薄磯集落には230世帯あって700人か800人が暮らしていた。
「亡くなったのは100人か。このなかには行方不明者もはいっているけれど、もう1カ月が経とうとしているのに連絡が取れないってことは、もう…。行方不明者は15人。区長も見つかっていないんだ」。志賀さんはそんなことを淡々と話した。「こんなの、見たこと、聞いたこと、ないよ」ともつぶやいた。
私は志賀さんに聞いた。
「多くの住民が『ここには津波は来ない』と信じていたようです。それが逃げ遅れた背景にあるんじゃないかと思うんですが」
志賀さんが最初に指摘したのは防災無線スピーカーのことだ。
「みんなが警報機は鳴んねっつんだよ。そういう人が多いんだよ。聞いた人と聞いていない人がいてね。確かめたんだが無線は切れていない。あそこにスピーカーがあっぺ。2カ所に。でも山のそばにあるから音が反響して聞こえないんだよ。『いま何いってんだ』というのがこれまでも何回かあったんだ」。
防災無線スピーカーが避難を呼びかけていたのは事実だ。前号で書いたように浜辺にいた5人の少年が聞いている。ただその音は薄磯集落の住民ぜんぶには届かなかったようだ。
父親の代から漁師だという志賀さんは、もうひとつの背景を語った。
「あのな、ここでは先祖代々、地震が起きたら家の外に出ろって教えられてきたけれど、津波のことについては1回も聞いたことがないんだよ」
津波は来ないという根拠は次のようなものだ。
狭い湾だと押し寄せた海水がせりあがってしまうが、薄磯集落の海岸は南北にひろがっていて波は拡散してしまうので高くならない、と。
志賀さん自身、明治29年うまれで88歳で亡くなった父親から、そう聞かされていた。
志賀さんの父親は沿岸でタコ、ヒラメ、メバル、タイを取っていた。その後もスケトウダラのすり身でダテマキと卵焼きをつくる薄磯集落の水産加工工場で働いていた。海を知り尽くした男だ。
「おれだけじゃないよ。みんなその話を聞いているんだ。津波なんか来るもんかと」
だから1960年のチリ地震のときも、志賀さんは海沿いの堤防へ津波を見に行った。潮が押しては引く様子をみんなで面白がった。
「チリの津波の高さが最高だった。おお、潮が引いた、引いた。磯が出てきた。引いた引いたと面白がってみていたもんな」。そう言って今回の事態をいまだ受けいれることができないようだった。
しばらく黙っていた志賀さんは「安全な町づくりだっぺな。それしかない。何にも伝えるものはないけれど伝えていくしかない。これからは我々が子どもたちに伝えていくしかないよな。地震が起きたら津波が来るから高いところに逃げろって」と言った。
志賀さんは、漁に使う6㌧の船が流された以外にも、妻タキノさん(76)、妹(70)、弟(65)の3人を失っている。「伝えていくしかない」という言葉は、志賀さんが心の底からひねり出したものだった。
◇
薄磯集落に取材へ入ってすぐのころ、山野辺さん(51)という人が、がれきの中でいろいろ捜し物をしていた。声をかけた。手を休めてポツポツと話をしてくれた。下の名前は教えてもらえなかった。
「実家は向こう側にあったんです。で、2階はほら、そこに。知り合いが『お前らのものがここにある』というので、それで探しています。実家は商売をしていて、まだ何も確認できずにいるんです。書類も何も無い。ただ見つかるのを待っている状態ですね。おやじ(80)とお袋(73)がここに住んでいて、まさかこんなことになるとは。もう3週間になるので、気持ちとしてはあきらめていないけれど、半面、だめなのかなって。でもどこかで、ね。ここで写真がたくさん見つかったんですよね。ほかの人は見つからないと。そういうのは見つかるけれど、当の本人が見つからないんです」。この日は妹の家族と来たという。
山野辺さんは20歳のころに漁師になった。
最初は薄磯集落の船に乗っていたが、6、7年前に茨城県にある船会社へ移った。薄磯集落にはお盆と正月に帰省していた。3月12日昼過ぎに茨城を出て薄磯集落へ向かった。途中、橋が落ちていたので山を回ってきた。11日夜に福島県北部から駆けつけ薄磯集落へ先に入った弟から「すごい」という電話連絡をうけていたが、12日夜に着いたふるさとの惨状には、言葉を失った。
「おやじは区長でした。助かった人から『最後まで誘導していた』と聞きました。お袋は小さい雑貨屋をしていて、この地域の井戸端会議の場所でした。これからどうなるか分からないですけれど、おやじとお袋を誇りに思って生きていきたいですね」
そう言って山野辺さんはがれきの中にあった緑のプラスチックいすに座って、むせび泣いた。
「最後まで誘導していた」は、決して山野辺さんの思い込みではないことを記録しておきたい。
前号で薄磯集落の美しさを語ってくれた鈴木静子さん(74)は、最後まで住民の避難誘導にあたっていた山野辺嘉幸区長(80)の姿を見ている。地震の直後、鈴木さんは夫から「津波が来るぞー」と聞いて避難を始めた。その時、山野辺区長が軽トラックで降りきた。夫が津波のことを伝えると、山野辺区長は逃げるのではなく、「早く伝えに行かないと」と道路を下って浜の方向へ走っていった。
山野辺嘉幸区長は4月24日までに死亡が確認された。
◇
ここまで伝えた以外に、薄磯集落で聞き回った人々の話を断片的ながらもここに残したい。
政井喜好さん(59)--4月2日に私が薄磯集落へ初めて入った瞬間に「何しに来たんだ」と怒りをぶつけてきた男性だ。その後に再訪し改めておわびした。3月11日は集落の外にある会社に勤めに出ていた。途中で被害を伝え聞いたが、道路が崩壊していて、結局、集落に戻れたのは午後9時だった。妻も隣の集落にある水産加工工場に働いていて無事だった。家にいた次男もさいわい無事だった。
「家がどこに行ったのか分からない人が多い。近所でも亡くなった人ばかりです」
山野辺茂幸さん(52)--薄磯で生まれ、薄磯で育った。妻、子どもとも仕事で集落を離れていたので無事だった。地震があった夕方、薄磯集落に入ろうとしたが、道路はがれきでふさがれていた。近くの小学校へ避難した。明け方、家がどうなっているのか見に来た。
「家の脇にご遺体がありました。最初は気づかなくて、なんでここにマネキンがあるのと。消防の人に伝えました」
鎌田智幸さん(27)--「原発事故で大変な人もいるので、ぜいたくは言いません。ただ、安心して生活できる世の中を作ってくれと思います。古里はなくなっちゃっているけれど、命だけは助かった。亡くなった人のことを考えるとぜいたくは言えない。両親らは全員無事でした。それが亡くなった人には申し訳なくて。亡くなった人が身近にいて、どうしてもその人の前では申し訳なくて。今は原発の収束をがんばってもらって。ここは住める状態になるまで何年もかかるでしょうね」
山田百合子さん(43)と宮郷久美さん(39)--薄磯集落の北に接するいわき市平沼ノ内から、薄磯集落にある豊間中学校を訪ねていた。
山田さん「11日は仕事をしていて職場にいました。当日は電気も水もないので小学校のカーテンにくるまって寝ていました。娘はこの4月で中学3年になります。部活をやっていて先生と一緒に逃げて無事でした。会えたのは2日後。荷物も何も持っていなかったので流されていたら拾おうと今日きました」
宮郷さん「家は床下浸水ですみました。電気が通じたのは3月12日で、ようやく今日(4月2日)水が出ました。娘は中学2年生になります。新学期が始まったのに転校の手紙を受けとった子もいて、みんなで勉強できない寂しさがあるみたい」
豊間中学校は、東日本大震災後、やはり薄磯集落にある豊間小学校へ仮校舎をおいている。
志賀利和さん(29)--妻(23)、長女(1)、義母(55)と全員無事だった。
「とりあえず何かあるかなと来ました。今日が2回目です。11日は仕事の出張で茨城にいました。その日は電話が通じなかったけれど、津波の前に1回だけ嫁につながったんです。『家はめちゃくちゃだけれど大丈夫』って。その時はまだ家があったんですね。その後にパトカーが来て津波警報が出ていると聞いて嫁らは小学校へ避難したようです。自分は普通2時間のところを12時間かけて帰ってきて12日朝にここについて13日に避難所となっている小学校で家族と再会しました。家はまた建て替えられるけれど、家族は失ったら戻ってこないですから、泣いてだめでしたね。すごいほっとした。泣いて声をかけられなかった。今年、義父が亡くなったばかりなんです。だから1人になっちゃうのかなって。嫁がかわいがっていた赤い首輪の猫ドルだけはどうにもならなかった。どこかに埋めてあげたい」
政井ひとみさん(57)と喜之さん(31)親子--「天災ということが救いかな。誰も恨むことがないもの。笑ってごまかしているというのか、笑って自分を励ましているというのか。考えているとつらくなってくるからね。復興もいいけれど、ここを一生このままにしておいて、みんなに見てもらうのもいいかも。下手に片付けるより津波の恐ろしさを知ってもらうために。でもね、ご近所づきあいがなんだかつらくなりますよね。おしゃべりしていた人たちがいなくなったから。生きるって本当に大変なことなのかも知れない」
◇
いわき市平薄磯を去るにあたって、ある姉妹の話を記したい。
鈴木洋子さん(60)と姉の志賀サト子さん(64)は、流された自宅があったらしき辺りのがれきをあさり、土をほじり、亡くなった母ハツミさん(94)と妹美代子さん(57)の遺品を捜していた。2人が使っていた座布団やら洋服やらを取り出していた。早くに亡くなった父の位牌も探しだした。
「隣組は14軒あったけれど、小さくなっちゃいますね。回覧板を回す後ろの家もなくなりました」(鈴木さん)。
「このへんに2階部分が来ているみたいなんです」「毛布は汚くなっているんですけれど母と妹のあれだから」(志賀さん)。
鈴木さんは3月11日、いわき市にある病院で看護師として患者を守る仕事に追われていた。
「患者を守るのに精いっぱいで家のことは考えられなかった」。夜、歩いて薄磯集落の自宅へ向かった。見知らぬ人に「薄磯は全滅だよ」と言われた。全身が震えた。同居の母と妹はどうなった?3人暮らしだった。しかし、がれきと泥水に阻まれて自宅に近づけなかった。立ち寄った避難所で近所の人に「うち、流されちゃったよ」と教えられた。翌日、避難所から仕事へ向かった。
いわき市の別の場所に住む志賀さんは、自宅で地震と津波の報を聞いた。やはり実家に駆けつけられなかった。 結局、母ハツミさんと妹美代子さんは津波の4日後と6日後にがれきの下から見つかった。
鈴木さんと志賀さんは、母と妹とは遺体安置所で再会した。
ハツミさんに「ばあちゃん、冷たかったね」と語りかけた。美代子さんの顔をなでて「母ちゃんと最後まで一緒にいてくれたね。ありがとう」と声をかけた。ハツミさんは94歳で歩けなかったから「お前だけ逃げろ」と美代子に言ったと思う。でも美代子さんはそれができなかったと思う。3月21日に火葬した。
母ハツミさんは薄磯で生まれ育った。
夫は戦争に行って体が弱くなり1976年に60代で亡くなっている。自分がひとりっ子だったからか、鈴木さんや志賀さんら6人の子どもに口癖のように「きょうだいは助け合いが大事」「自分が死んだ後も仲良く」と言っていた。
怒ることはなかった。悪いことはきちんと説得する人だった。6月2日に95歳になるはずだった。9人の孫全員が成人するまで生きることが目標で、その日を6月30日に迎える予定だった。
妹美代子さんは、いつもは集落の外に働きに出ているはずだった。3月11日はたまたま連休をとって家にいたため、被害にあった。
鈴木さんは3月31日で病院を定年退職した。
「勤めがなくなるから面倒をみてやっからねえと母に言っていた矢先でした。施設には行きたくない、そこで歌ったり折り鶴をおったりしたくないと。でも施設の人はみんな助かって。だから水たまりができるほど泣いたんです」
志賀さんもやはり泣いた。「美代ちゃんが仕事の休みをとったのは運命だったんです。最後の親孝行をしたんです。何もできなかったと自分を責めています」
(この項おわり)
安全センター情報2014年5月号
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