前号につづいて、「東京電力福島第一原発から半径30㌔圏内に家があり、『原発災害』によって避難所生活を強いられた人々の声を、記録しておきたい」(前号より)
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▼広野町から石川町のクリスタルパーク石川に避難中の鯨岡秀子さん(52)=取材日は2011年3月30日
「広野町の自宅は先祖代々のもので、入り母屋の昔風の家でした。土壁がみんな落ちて竹の骨組みだけが残っていました。骨組みは残っているんですけれど全滅ですね。自宅からいわき市の避難所に行って、そこから埼玉県の弟の家へと転々として、ここでやっと落ち着きました。ここは23日からですから今日で8日目になりますか。弟の家は気を使い気を使いでしたので避難所の方がいいかなと。22日に家を見に行ったんですが、もうめちゃくちゃで洗濯機状態でしたね。1階は津波で抜かれていて壁についた水の跡は天井まであと10㌢でした。3月11日はパートで会社に出ていました。そこで『パートは帰って下さい』と言われて、貴重品だけでも取ろうと戻ってあぜんとしましたね。あれーっと放心状態でした。タンスも倒れていて貴重品も取れないし。まさか津波が来るとは思わなかったんですが、ちょうど津波が堤防を越えて田から家へと向かってくるところでした。車でバックしたんですが、道は地割れしているし。高台に逃げました。あの光景!はーっ、来たっ、これが津波か!という感じで。たまたまうちと前の2棟は骨組みが残っていましたけれど、それ以外は集落はきれいに津波でやられました。私の集落は下浅見川で三十数件あるんですが、国道6号を挟んで上浅見川とは被害の有無が全然違っていました。長男(26)はいわき市に住んでいて、私たちと同居の次男(24)と長女(22)ももう成人していますからそれぞれがめいめいの道を行くだろうし、私たち夫婦2人だけになるでしょうから、これからはアパート暮らしでいいかなと。役場職員の夫(57)もあと数年で定年を迎えるので、家をまた建てるのは支払いも厳しいしつらいですからね」
▼葛尾村から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の松本澄江さん(51)=取材日は4月11日
「今日で1カ月ですか。長かったような短かったような、そう思います。夫は浪江町で大工を、長男の和彦(29)は土木作業の仕事をしていました。仕事がないから金銭面がきつくなってきました。早く仮設住宅を作ってもらいたいですね。避難生活が長引けば長引くほど苦しくなってきます。村を出たのは14日の夜でした。村は静かで空気がおいしいところだったのですが」
▼南相馬市小高区から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の会社員牛来茂さん(61)と哲子さん(57)夫婦=取材日は4月11日
「やっぱり収入が無いのと、家は残っているのに帰れないということがつらいですね。ここ(避難所の体育館)にいると洗濯が困ります。ランドリーに行くと2千円かかりますし、それにガソリン代も。痛い出費ですね。とにかく住むところをどうにかしてください」
▼南相馬市原町区から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の佐藤悦子さん(42)=取材日は4月11日
「もう会社が始まるというんですが、小さい子どものことが心配で戻るに戻れません。次の生活のスタートができません。次の行動に移れないんです。移そうとしてもどうしていいのか分かりません。避難指示が解除されれば家に戻りたいのですが、小さい子どももいるし。三男はまだ2歳です。20歳の長女は妊娠中。その長女の会社は(9日後の)4月20日までに出勤不可能ならば解雇とするというんです。私は今は災害休暇を認められていますが5月になるころはどうなるか……。できれば安全な県外に出たいのですが」
▼葛尾村から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の松本重子さん(69)=取材日は4月11日
「おら、口べたでだめだ。ただただ早く帰りたいというだけで。ただみんな一日も早く。ここに来たのは、おらは3月21日か。困っていることは……分かんね。先々を考えっと。動物はいっぺし。牛。1週間に1回はエサを食べらせに行っている。殺すわけにもいかねし。一日も早く帰りたいというぐらいだ。牛は3頭。先は真っ暗だから」
▼浪江町から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の天野義一さん(62)とすみ子さん(60)=取材日は4月11日
すみ子さん「家は海から4㌔にあって津波は大丈夫でした。でも家の中は地震でぐちゃぐちゃで私たちは靴を履いて入っていました。すると夜中に東電で1回目の水素爆発があったんですね。それは見過ごしたんですが、2回目の爆発で避難を決めました。ここに来たのは3月14日。うちは自営業の食料品をあつかうスーパーです。お彼岸前だったので品物は多かったし、しばらくして落ち着いたら帰って商売をすればいかって思っていたんですが。でもガッシャメシャだからあそこを片付けることを考えるだけでも嫌ですね」
義一さん「我々の商売は賞味期限が来たものを捨てていくからね。仕入れた限りは支払わないといけないんだが、その補償はどうなるんですかね。避難所の滞在期間が長くなればなるほど苦しくなりますね。戻っても町に人はいないし売れることもないでしょうが。やっと老後の隠居にはいるかなという時にパーだもんね。どういう解決策があるんだろ。金融公庫のローンもあるし。こんなこと言ったってしょうがないか。家族全員でやっていたから家族全員が失業だよ。しかも自営だから失業保険もないし」
すみ子さん「只野みよ子さんという人を知りませんか。うちの従業員で、家は海のそばにありました。しゅうとめさんが寝たきりだったので地震の直後に様子を見に自転車で向かったんです。大通りで警察に止められたんですが裏道で行ってしまいました。すると只野さんの夫も車で追いかけたんです。しばらくして只野さんの娘さんがうちにきて『父と母がいないって』。只野さん、元気でいるよね。連絡ください」(只野さんは2011年6月1日に死亡が確認された)
▼浪江町から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の安達宗一さん(61)=取材日は4月11日
「原発にお世話になっています。これは皮肉です。私は浪江に帰りたいけれど、仮に帰るとなってもある程度の人が帰らないと町としては成り立たないでしょう。そういうことを考えたらどうなっちゃうのかな。あとは仕事ですよね。私は去年8月に定年退職してその後は郵便局で1日4時間、週に5日働いていました。半年契約で、この3月がちょうど半年だったの。仕事をしたいけれどこういう事態だから若い人にも仕事がないだろうし、高齢者の仕事がないのにさらに拍車がかかっただろうしね。ほかの人の苦労を考えると私のは悩みのうちには入らないだろうけれど。おふくろ(87)は町内の特別養護老人ホーム『オンフール双葉』に入っていたんだけれど、自衛隊のヘリで栃木県に運ばれて今は猪苗代にいます。それと、それと義援金を送ってくれた人、ボランティアの皆さん、感謝です」
▼浪江町から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の紺野ハツ子さん(68)=取材日は4月11日
「最初からはっきり言ってもらいたかったですね。原発の事故の経過を。12日に家を出て二本松市の知人の家に避難して、4~5日前にここに来ました。知人宅では気を使って暮らしていたんですけれど、そろそろ部屋を明けてもらいたいという口ぶりでしたから。なあ、何年かかるかはっきりしてもらいたい。何年か何十年かって家族で話しているんですよ。津波は来なかったけれど地震はひどかった。新築したばかりなのにひびが入ってね。でも放射能がなければ住めます。老後をゆっくりと暮らす予定でした。農業をやっていたもんで田で農作物をつくることもできないし収入もとまってしまって。白菜、大根、それと米は収入の一番でしたね。部落は、うちの部落はおだやかでしたよ。隣近所の仲のよい部落でした。みんな連絡とれないです。今後の計画は立てられないです」
▼南相馬市原町区から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の佐藤ヤヨイさん(45)=取材日は4月11日、激しい余震の直後。
「毎日余震が来る度におびえています。3月11日は私はパートの仕事を終えたあとで家にいました。そろそろ長女の友香(7)の学校が終わるころかなと。地震が来た直後はいつものようにいずれおさまるだろうと考えたのですが、それが大きくて長くて。家は壊れずに瓦が落ちたり壁に亀裂がはいったりぐらいだったんですが、放射能の見えない恐怖感で3月16日にここに来ました。子どもは揺れに敏感になっていて『お母さん、自分のうち、大丈夫かな』とよく言っています。ここにいるだけでも疲れるのに。天井の照明が揺れてあちこちから子どもの『怖い』という声があがりました。カレーをおいしいねと食べ始めていたころでした。それが恐怖に変わって。地震と恐怖がイコールでそれを背負っている感じです。地震も怖いけれど、やっぱり目に見えない放射能の恐怖がたまらない。怖いんですね」
▼南相馬市原町区から福島市のあづま総合運動公園の体育館に避難中の新川千秋さん(61)=取材日は4月12日
「いつになったら帰れるんだろうね。飼い犬を人に預けてきました。感情があるんだよ。週に1回帰るとしっぽを振るんだよ。でもまた置いていかれるんだと隙間からじーっと見ているんだ。後ろ髪を引かれちゃうよね。放してくるのもつなぎっぱなしもかわいそうで。それでうちにつないで近所の人に毎日の散歩とかエサとかをお願いしています。名前はマメっていうんだ。小さかったから。雑種だけれども長く飼うと情が移るからね。体重は18㌔ぐらいだから今はもうマメじゃないけれどね。(避難所に導入されたついたてについて)善しあしだよ。これまでは近くの人の顔が見えたし全く知らない人とかかわることも悪くなかったよね。でもこうなったら立ちあがらないと見えないし。息子が大熊の原発に行っています。入りっぱなしなんだよね」
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3月11日から1週間後の18日早朝、田村市の総合体育館に避難中の大熊町の栃久保次郎さん(58)と妻みどりさん(54)は、一緒にして逃げてきたみどりさんの父重蔵さん(84)が寝床から起き出したとき、「トイレかな」と思った。直後にドターンという大きな音が体育館中に響きわたった。周りの人が「栃久保さんだっ」と声をあげた。次郎さんは駆けだしたが、取り囲む人に阻まれて、体育館に置かれていたストーブの前で仰向けに倒れていた重蔵さんに近づけなかった。やはり駆けつけてきた看護師や保健師による重蔵さんへの心臓マッサージを、次郎さんは光景としてしかぼんやりと見ていることしかできなかった。重蔵さんは、田村市船引町にある病院へ向かう救急車のなかで18日午前7時51分、亡くなった。
3月11日、栃久保さんは一家総出で地震の後かたづけをした。電気も水も止まっていたが、もともと陽気な重蔵さんは、地震時は家に不在だった次郎さんとみどりさん夫婦に向かって「仏壇の花瓶が割れた」とか「津波は大丈夫だった」とか「とにかく大変だった」とかと地震直後の様子を話しながら手伝っていた。
夜は茶の間にろうそくをともしてそろって布団で寝た。
「家にいるときは元気は元気でした。血圧の薬を飲んでいたんですが手帳に書くなど健康管理をきちんとしている人でした。毎日、近くですけれどお弁当のおかずとかを自分で自転車にのってお使いにも行っていましたから。本当ならばまだまだ生きられたと思います。原発さえ無ければどうってことなかったんだよね」と次郎さんは悔しそうに言った。
翌12日、東京電力福島第一原発が水素爆発を起こす。栃久保さん一家は隣の家の人に起こされて「放射能が漏れている。すぐ避難だぞ」と教えられた。リュックを背負った住民たちは役場に集まることになった。栃久保さん一家は、避難は一時的なものだろうと考えて毛布2枚だけを持っただけだった。それからバスに乗りこもうとしたとき、重蔵さんが「行かね」と渋り始めた。「めまいがする」とも言っていた。次郎さんが「行かねば」と怒り、無理やりバスに乗せた。バスのなかでも重蔵さんは「どこまで行くのかなあ、どこまで行くのかなあ」と何度も何度もつぶやいていた。
12日と13日は船引町の文化センターで過ごし、田村市の体育館に入ったのは14日だ。そこで重蔵さんは、床に毛布を敷き、そのうえに防寒ジャンパーをはおって座り、館内を走りまわる子どもたちを黙って見ていた。最初のころは体育館の隣の見知らぬ人に話しかける元気があったし、その人と地震直後のことなどを話していたが、すぐに口数が減った。体をめっきり動かさなくなった。配給される食料は最初はおにぎりがあったが、すぐにカップラーメンになった。
重蔵さんは眠れていないようだった。ほかの人のいびきやせきが気になっているようだった。体育館ではマットのうえに布団を敷き、さらに毛布を何枚も重ねて下敷きとし、上かけは2枚の綿布団だった。ストーブは夜中はとめられた。
17日、自衛隊が体育館の外にテントを張って設営した風呂に入り、重蔵さんは「さっぱりした」とこの時だけは落ち着いた様子だった。その直後から「寒い」と言い始めて、毛布を体に巻き付けていた。
そして18日、重蔵さんは帰らぬ人となった。医師は「心不全です。原因は分かりません」と言っていた。しかし次郎さんは原因を確信している。「大好きな家に帰れない精神的ストレス」だと。「じいちゃんの父親は(南相馬市の)小高の出身でした。でも早くに亡くなって、それでばあちゃんは大熊町にあるお寺の住職の妹でしたから、じいちゃんとばあちゃんは子どものころにその寺に身を寄せて育ったんです。その寺を継ぐかっていう話もあったらしいです。だからじいちゃんにとっては大熊町が故郷なんです」
急な葬儀となったため、親族ら10人たらずの簡素なものだった。19日、火葬場に真言宗の和尚さんが駆けつけてくれてお経をあげてもらった。骨もあずかってくれた。お布施を渡すと和尚さんは「見舞いです」と返してくれた。それがせめてもの救いだった。
4月下旬、栃久保さん夫婦は、田村市の体育館から2次避難所に指定された会津若松市の旅館に移った。東電への怒りを隠さない。
次郎さんは「避難所で死ぬなんてじいちゃんがかわいそうすぎる。こんなところで死にたくなかったと思う。何が起きたのか自分でも分からなかったと思う。じいちゃんは何にも悪いことをしていないのに。おなじ福島といってもここの会津若松と大熊町がある浜通りでは全然違うんです。ここは盆地なので夏は暑くて冬は大雪でしょう。浜通りは一年中暮らしやすいところでした。じいちゃんの葬式を早くあげてやりたいんです。先祖代々の墓に早く入れてやりたい。荼毘にふすときに拝んでもらっただけだから。東電さんも来て拝んでもらいたいぐらいだ。原発事故さえなければ家にすぐ帰れたんだ。あれだけ自信たっぷりに『絶対に安全だ』と言ってきて、いまになって『想定外』ですまされたのではたまらない。とにかく早く帰ってじいちゃんを迎えに行って供養してあげたいですね」
みどりさんも大粒の涙を流しながら訴えた。「(寺に預けたままとなっている重蔵さんの遺骨は)迎えに来るのを待っていると思うんです。早く迎えに行くからねと約束してきたので早く行きたいです」「いまも笑顔しか思い出しません。怒られた記憶がないんです。いつもにこにこしている人でした」
家屋に押しつぶされたり津波で流されたりする「直接死」に対し、避難所や入院先などで亡くなった場合を「関連死」という。
「東電に殺された」と信じる栃久保さん夫婦にとって、「関連」の響きはとても受け入れられない。
安全センター情報2015年6月号
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