東日本大震災がこれまでの人類史におけるあまたの災害と決定的に違ったのは、東京電力福島第一原発の事故によって膨大な量の放射性物質がばらまかれたことにある。

これもまた人類史において最も危険で世代を超えて生命を危機にさらす放射能は、東電という徹底的に無策・無力・無能な存在によって広範囲にばらまかれた。その主たる被害地はむろん福島県であった。私が福島県にはいったのは2011年3月18日夜。その日からおよそ1カ月にわたる取材で見聞きしたことは、したがって、程度の差はあったとしても全て「原発災害」といえるものであった。

地震の発生からちょうど1週間たった3月18日の夜、私は最初の取材活動として、福島県庁から100㍍ほど離れたところにある福島県自治会館をたずねた。1954年建設と古くて倒壊の危険性が高い県庁は立ち入り禁止となっており、かわりに県自治会館の3階に対策本部がおかれていたからだ。

とぼとぼと歩いた道中まことに胸せまるものがあった。

このときから14年前、私は大学を卒業してこの地で記者活動をはじめた。14年という月日は意外と残酷なもので、「福島の地への最初の一歩」を刻印したはずの思い出深きJR福島駅と周辺の風景は、もう全くといっていいほど記憶と重ならなかった。

14年後のこの日、だから私は、近くにいた人に「福島駅は最近、改修したんですか」と思わず聞いた。
答えは、14年前とまったく変わっていないとのことだった。

また私は、JR福島駅から歩いて15分ほどのところにあるやはり思い出深き「福島の地でのひとり暮らしの場所」たるマンションも見に行った。ここもまたまるで覚えていなかった。14年前の福島でむかえた初めての冬、マンションに併設してある駐車場にとめてあった車のドアが凍結して開かなくなっていたので、マンションの部屋に戻って湯を沸かしてやかんでふりかけたあの思い出。しかしその場所も、マンションの入り口の形も、完全に記憶から欠落していた。

県自治会館へ向かう道の風景はかすかに覚えていた。
おおきな万世大路をよこぎって福島警察署の角を左に曲がると、県庁へとつづく1本の並木道がある。「そうだった。14年前もこうだった」と少しほっとした。立ち入り禁止となった県庁舎は真っ暗で廃虚のようにも見えた。この建物の裏側には阿武隈川が流れていてそちらも見たかったけれど、私は県自治会館に急いだ。

県自治会館の3階の廊下にはあらゆる報道機関が集まっていた。
折りたたみ式の事務用テーブルを二つから三つつなぎ合わせて各社ごとの「島」としていた。ドアの向こう側に対策本部。原発の状況によって臨時の記者会見が廊下の片隅で開かれることになっているので、発生からこの日までの1週間ずっと詰めっぱなしの記者たちは、折りたたみ式の簡易なベッドや、マットや新聞紙をひいた床のうえに疲れはてて横たわっていた。ごみ袋には弁当箱が散乱していた。これが暑い夏だったら衛生状態はさらに悲惨なものとなっていただろう。

東電の経営陣の一角を占める人たちの動きのうちの二つの「初めて」に、私はたまたま立ち会った。

最初はこの日の3月18日午後7時過ぎ、県自治会館をおとずれた東京電力の常務取締役である小森明生氏と、理事原子力・立地本部福島事務所長の松井敏彦氏が、廊下の「臨時記者会見場」で会見した。これが東電幹部として初めての福島県入りだった。

なぜ社長は来ないのかという質問に、小森常務は「ほんらいならば社長がおわびをするべきだが、発電所の安全確保のために本店(東京)で陣頭指揮をとっています。私が代わっておわびをさせてください」と話し、約3秒間、頭をさげた。
「第一原発と第二原発が緊急事態におちいり、県民へのあいさつが遅れました。おわびします」とまた約2秒、頭をさげた。「放射性物質を漏出させて、県民にご迷惑をおかけしておわびします」とさらに約1秒、頭をさげた。

記者からの質問は次第に怒気を帯びていった。「補償はどうするのか」「いつ収束するのか」「今後も原子力事業を続けるのか」「女川などと違って福島に応援が来ないのは放射能があるからだ。人災ではないのか」「避難所への謝罪は?舐めるのもいい加減にしてくれ。いま言ってくれ」「地元にどのようにおわびをするのか」「これまでの1週間は適切だったか」「第一を廃炉にするという考えはないのか」「原発は安全とさんざん言っていたではないか」「ここに住んでいる人は希望はあるのでしょうか」

小森常務は消えいるような声で、時には涙を流しながら震える声で答えた。「このような事態は痛恨の極みであり、政府の支援をえて被害拡大を防ぐことに取り組みたい」「まずは今の状態を安全に持って行くので精いっぱいです。とにかく安全な状況に持ち込むことが大事であり、その先のことを申し上げることはできません」「避難された住民の顔を思い浮かべて本当に申し訳なく、会社としてとにかくできることを……」「対策が十分かどうかの評価を述べるよりは収束に向けてあらゆる手をこうじたい」

次の「初めて」は、4日後の3月22日午後3時前、この日から福島市に駐在することになった東電の取締役副社長原子力・立地本部副本部長である皷紀男氏が、福島県田村市船引町にある市総合体育館を訪ねたときだ。ここには当時、第一原発の周辺に住んでいた約600人が避難していた。皷副社長は住民に「心からおわびします」と謝罪した。これが事故後はじめて東電役員が住民に直接謝った場面だった。

住民たちは、皷副社長ら東電幹部を正座してむかえた。「よろしくお願いします」「がんばってください」と声をかける人もいた。罵声を浴びせることは決して無かった。
「まだ見通しがつかないの」と問いかけた農家の男性に、皷副社長は「一刻も早く全力を尽くします」と答えた。男性は「できるだけ早くしてもらえれば。我々は農家。1年間作物を作らなければ困ってしまう。起きたことは仕方ないにしても、どういう措置をとるのか。原発をつくる時、ある程度の地震には耐えられると言っていたはず。今回あまりにもこうなったと思うけれど、できるだけ早く家に帰れるようお願いしたい」と、やはり静かに訴えた。

10分ほどで体育館をでた皷副社長は私たち報道陣に「このたびの事態、県民のみなさんに申し訳なく思う。みなさんの姿を見て、過酷な状況に住まわれていると事態の重大さを痛感した。おわびしたい」と話した。「がんばれよという言葉をうれしく感じました」「一日も早く自宅に戻ることを望んでおられると強く思いました」「(農家の男性には)全力を尽くしてこの事態を収束させるべく努力する、と」「いまは一刻も早くとしか申し上げられない」
やはり体育館に避難していた渡辺利綱・大熊町長は「複雑な思いはある。発電所を早く安定した状態にして今の危機的な状況を脱してもらいたいと伝えた」と語った。

二つの「初めて」の場面を見ていて浮かびあがったのは、当事者能力を完全に失った東電の姿だ。原発はどうなっているのか。被害はどの程度ひろがっているのか。今後の補償はどうするのか。原発を今後も続けていくのか。ありとあらゆる質問に、小森常務も皷副社長も核心にふれる回答はしなかった。しなかったのか、できなかったのか、率直な心情だったのか、計算してのことだったのかまでは分からない。

日本に原発が導入されたのと同時に発生したのであろう政官財からなる「原子力ムラ」。

このムラを後ろ盾として、あるいはムラの中心的な存在として、「安全神話」をつくりつづけてきた東電。「安全神話」を心の底から信じていたのではなく、「神話」は実態をまるでともなわない「神話」にすぎないものであることを昔から知っていた。徹底的に気づかないふりをしつづけたどころか、「神話」であることを指摘する者の声を薄汚い手でかき消してきた。「今は一刻も早く事態を収束させること」とくり返すしか能のない姿は、その東電の必然的ななれの果てだった。

県自治会館での東電会見を終えて翌日の3月19日から私は主に避難所をまわる取材をはじめた。

4月11日、福島市にある「あづま総合運動公園」にある体育館で、松岡忠男さん(65)に話をうかがった。福島県北の沿岸部にある南相馬市小高区に住んでいたが、3月16日に弟夫婦とその子ども夫婦ら計6人で避難してきたという。しばらくたってから長男も合流し、計7人での避難所生活を強いられていた。

「おふくろと家内が行方不明なんですよ」。

松岡さんがあまりにもあっさりと言うので、最初、なんのことなのか分からなかった。事態の深刻さに見合った感情が持てなかった。それほど松岡さんは淡々と語った。あの3月11日からこの1カ月間、母親のアキ子さん(90)と妻の節子さん(63)と連絡が取れないという。

「もう1カ月になるのか。どうなっているのかな。遺体は風化しているのか、カラスにやられているか。原発の放射線の影響で捜しに行けないんです。あと20年は地元に戻れないと思うんだ」。

悲しみの底に突き落とされたとき、人は怒ることも泣くこともできないことだってあると松岡さんの姿は語っていた。

松岡さんは小高区で個人のビデオ撮影業をいとなんでいた。地域である結婚式や舞踊イベントを撮影・編集していた。あの3月11日、その数日前に撮った結婚式の映像の編集を終えて商品となったDVDを、南相馬市と第一原発が建つ双葉町との間にある浪江町の式場へ車で届けに向かった。家を出るとき、アキ子さんはお茶を飲んでいた。節子さんは洗濯物をしていた。「ちょっと納品してくる」と声をかけて出かけた。

浪江町の式場を出たとたん、グラグラと揺れた。松岡さんは四つんばいになった。「本当に怖かった」。立ちあがると、町のあちこちの家がつぶれ、山の斜面もまたあちこちが崩れていた。その山から土ぼこりがモクモクとあがっていた。

節子さんへ携帯電話をかけたがつながらない。車に乗って自宅へ旧国道を走った。途中、反対車線を走ってきた運転手が車の窓越しに「津波が来てっぞ」と叫んだ。目の前に津波が迫っていた。いそいで車を反転させ、山へ逃げた。「式場を出たのがあと3~4分はやければ津波に巻き込まれていたはずです」。津波にのみこまれる車を山の上から見た。

その日はがれきに阻まれて自宅に戻れず、南相馬市の小高区役所で夜を明かした。
翌日、ふたたび自宅へ向かったが、家の集落へと続く橋は崩れ落ち、ほかの道もがれきで埋もれていた。

この日か翌日かはもう覚えていないが、遺体安置所になっていた南相馬市原町区の体育館へ行った。棺に納められた遺体と、透明なポリ袋に包まれた遺体が60人ほどならんでいた。警察の検視のためなのか遺体の多くは裸にされていて衣類はそばに置かれていた。傷だらけの遺体も多かったが、顔がきれいなままの遺体もあった。

さらに翌日、集落の区長に話を聞くことができた。区長によると、集落にいた50~60人は津波の襲来を避けるため山へと避難し、後に自衛隊のヘリコプターで救助された。その中に松岡さんの母と妻の姿は見なかった、ということだった。

アキ子さんは夫を病気で早くに亡くした。松岡さんが小学校4年生の時だった。長男の松岡さんら4人の子どもを育てるため、小さな会社に勤め、残業で帰宅はいつも遅かった。家に帰った後も深夜までワラをよじって俵を結わえるひもをつくる内職をしていた。「子どものころはよく怒られていたな。ばあちゃんの苦労は並大抵ではなかったと思う」。最近は認知症が始まっていた。

節子さんは隣の集落の出身だった。松岡さんとお見合い結婚だった。妻の両親の願いを受け、結婚式は節子さんの誕生日の2月2日に挙げた。「もう三十何年前になるかな。昭和47年か48年のことだったな」。子どもは2人に恵まれた。「おとなしい人でした。何事にも一生懸命する人でした」

松岡さんは淡々と語り続ける。
津波と放射能でだめになってしまったビデオ撮影の機材や土地についての「その補償はどうなる。土地の評価はどうなる。国や東電が買い上げてくれるのか」ということと、母親と妻が1カ月たっても行方不明のままだということとは、松岡さんにとって決して等価のことではないだろうに、この二つを並列して語るところに例えようもない悲しみがにじみでていた。

「生きていてくれれば本当にいいけれどね。もう1カ月ですから。生きていればきょうだいや親戚に連絡が必ずあるはずですから……。今では完全に死亡だね。せめて遺体を確認したいです。おそらく風化して無理でしょうが。あとはDNA鑑定に期待するしかない」
「どう言ったらいいだろうね。おつかれさまか。苦しかったろうね、という感じだね。もうそれ以外の言葉は無いです。もう言葉は出ないです」
「あとは町と警察に任せるしかない。原発から20㌔圏内で遺体を捜索しているのかねえ。していなのかねえ。分からない。そのぐらいだねえ」
「祈っています。それ以上は……早く本当に顔を見たいです」

松岡さんは「原発が収まらない限りはどうしようもないよね」と言った。

安全センター情報2014年7月号

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