福島県いわき市平薄磯の海岸沿いの家で、父、母、妻、長男、長女の計6人で住んでいた鈴木政貴さん(33)の話をつづけたい。

鈴木さんは、大きな揺れとその後の津波が薄磯集落を襲った2011年3月11日、自宅ちかくにある勤め先のかまぼこ工場の3階に駆けあがって難を逃れた。その夜、雪が降った。

消防団員でもあった鈴木さんは、それから捜索活動にたずさわった。
3月23日、父博さん(67)はがれきの下から見つかった。

「昔気質の頑固者。曲がったことが嫌で筋を通す人」だった博さん。ここ、薄磯で生まれ育った。祖父は船大工をしていて、博さんも若いころは船大工をしていた。いくつか職をわたりあるいて、薄磯でかまぼこ工場を自営していたこともあった。もともと北洋サケ・マス船団の男たちが集まった薄磯は、かまぼこの産地としても有名だ。博さんはその後は建設会社に勤めていて、3月11日も出勤していて、おそらく地震で家族が心配になったのだろう、薄磯の自宅に向かっている最中に津波に襲われたとみられる。がれきの下から見つかったときも作業着姿だった。

海岸沿いにある鈴木さん宅の目の前には、コンクリート製の防波堤が南北にはしっている。荒れた波がよく防波堤を越えていたので、博さんはそのたびに港湾事務所へ電話をかけて「防波堤の意味がない。風の抜け道をつくらないといけない」と提案していたが、結局この日までなしのつぶてだったという。

翌日の3月24日、母タイ子さん(61)と長女美空ちゃん(4)の2人ががれきの下からそろって見つかった。タイ子さんはおんぶ紐でしっかりと美空ちゃんを結わえていた。鈴木さんは「母は美空を最後まで守ってくれた。だから一緒に見つけることができた」と思った。

タイ子さんもまた「昔の人」だった。
一歩ひいて夫の博さんを引き立てるような人。おおらかで、面倒見がよくて、薄磯で孫と一緒に暮らす日々について「これが幸せなんだなあ」と話していた。

長女の美空ちゃん。「みくちゃん」と呼ぶ。空のように美しい女性になってもらいたいと願ってつけられた名前だ。タイ子さんと美空ちゃんががれきの下から見つかった日、七五三で着飾った美空ちゃんの写真も見つかった。

「まあ、頑固でおちゃめで、とにかくかわいくて、4歳にしては気の利く子でした。人に優しく、みんなに優しく、でも自分に甘くて。怒ると頑固でしたね。4歳ながらね、幼稚園である子がおしっこを漏らしたんですね。すると先生が気づく前に美空が気づいて、その子のかばんから洋服を取り出して着替えさせて、濡れた洋服はたたんでかばんにしまってあげたんですね。その後に先生が気づいて」

私が薄磯に初めて訪れた4月2日、鈴木さんは、津波に押し流されて土台しか残っていない自宅にいた。跡地に座り込んで海を見ていた。
「何か形見がないかと、何か持っていける物がないかと、ちょっとその辺を捜していたんです」と話した。それから、父、母、長女を失ったことを淡々と話してくれたのだった。

鈴木さんはもちろん薄磯の集落が大好きだった。
「この町は仲間意識が強くてね、まとまっているんです。漁師が多かったから口が悪いんだけれど、近所づきあいは優しくてね。夜になると『おかずを持ってきたよ』ってね。家の前が海でしょ。私はサーフィンをするから、家から海水パンツで出るんです。のどかなところで、夏でもエアコンはいらないんです。すごくいいところでしたね」

鈴木さんは切々とつづけた。
「これからは人もいなくなると思う。周りにも『ここには住みたくない』という人がいるんだよ。せっかく親が残してくれた土地があるので残りたいけれど、でも、長男はもう嫌だと」

菊地誠治さん(34)もまた、がれきに囲まれた自宅の跡地に座っていた。私が話しかけると、津波で亡くなった妻育絵さん(34)のことを懸命に語ってくれた―

ちょうどここなんですよね。家が無くなってみっと、土地が広かったんだなあと見ていました。嫁さんが亡くなっているもんですから、一緒に使った食器やら何やら出てこればいいなあと見て回ってんですけれどねえ。
私は茨城・鹿島にある火力発電所にメンテナンスのために入っていたんです。単身赴任をしていて、ここでは両親と嫁の3人が暮らしていて、私は週末に帰ってくる生活でした。
あのとき、嫁さんに電話してもつながらなかったですねえ。
「津波が来るから逃げろ」って言ってやりたかった。つながっていればなあと悔しいですねえ。うち、猫を飼っていて、地震で驚いて家から飛びだしたらしいんですよ。母と嫁が捜しにいって逃げ遅れてらしいんですね。
母は山ぎわまで流されて助け出されたんです。父は小名浜で船に乗っていて、地震の時は沖に逃げて助かったですね。
防災無線は聞こえなかったみたいで。無線が「逃げろ」って言ってくれれば……。そうはならなかったんですよね。消防団の人は回ってくれていたみたいですけれど、猫を捜すために走り回っていて聞き取れないことがあったみたいで。そこらへんはどうだったのかなあって。無線は停電で壊れちゃったのかなあ。

妻はカメラ屋でパートをしていました。
(3月11日は)午前であがって午後は家に戻っていたんですね。カメラ屋の店長は後で「帰さなければよかった」って言ってくれて。
①電話がつながっていれば②地震の後に猫を捜しにいっていなければ③いつも通りに帰っていなければ。いろいろ重なってんですよねえ。

悔しいですよねえ。逃げてくれていると思っていたから。
3月8日が結婚記念日だったんですね。僕は8日は出張先にいたから、11日の夜に帰ってくる予定だったんです。
「ズボンが欲しい」って言うので、買い物に行こうかって10日に電話で話していたんです。でも地震があって帰ってこれたのは12日夜でした。母が入院している病院に行ったら錯乱していて「育絵が流されちゃったあ」と。夜、がれきの中を捜して歩いたんです。避難所となっている小学校にも行ってみたんですが。

育絵さんの両親は後日、私の同僚記者の取材を受けている。
それによると、育絵さんの父は、若いころはマグロ漁船に乗っていた。その後に水産加工会社に勤め、定年後は小名浜で監視船に乗っていた。
3月11日から2晩を海上で過ごした。育絵さんの母は、津波にのまれて気を失い、そして助けられた。地震の直後、ゴーという音がした。上空に舞いあがった土ぼこりが海岸の方から一気に襲ってきた。逃げだしたとき、育絵さんは目の前にいた。少し幅のある側溝の前で育絵さんはふりかえって「お母さん」と声を出した。その直後に2人とも津波にのみこまれた。海水の中をもがいて、もがいて、鉄パイプのようなものにつかまった。その後は覚えていない。

菊地さんの語りに戻ろう――

15日が経って、消防団の人が小学校の裏のがれきの下で見つけてくれたんです。私も捜したんです。日にちが経つにつれて複雑でした。捜しているときは「早く出て欲しい」が半分、「見たくない」が半分。いざ見つかると「やっと出てくれたのかあ。見られてよかった」って。よかったですねえ。でも、まだ見つかっていない人もいるんですよねえ。

僕、高校にいつもバスで通っていて、嫁は反対車線のバス停にいつもいたんですよ。
あ、いつもいるな、かったるそうだなって感じでね。小名浜の本屋に行ったとき、そこで嫁はアルバイトをしていて、「あ、いつもバス停にいる人だ」と思いましたよ。就職して、サーフィンに行ったら、嫁もそこに友達と来ていたんです。
「高校生の時はバス停にいたよね」「本屋でバイトしていたよね」と話して、それで付き合うようになった。平成7(1995)年から交際が始まって、結婚は平成14(2002)年。それから嫁の両親と暮らすことになったんです。

明るかったですねえ。仲間に好かれて。火葬のときもみんな来てくれて。ビールやらたばこやら服やらみーんなあげてくれて。ありがたかったですねえ。
大きな写真が、きれいな写真が出てきたんですよ。1枚。遺影に使ってくれって言っているのかな。本当にきれいに写っていたんですよ。化粧っけがなくて。笑っていて。一緒に使った食器が出ればいいなあと見て回ってんですけどね。結婚式の写真が見っかんないですよ。指輪も。ほかの写真は見っかんですけどねえ。
(この頁つづく)

安全センター情報2014年3月号

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