2011年3月25日、福島県北部の南相馬市鹿島区。海からの冷たい風が体に突きささってくる。

ここに来るのは13年ぶりのことになる。
私は1997年4月から2年1か月間、福島市に住んでいた。県内のあちこちを歩きまわったけれど、なかでも大好きだったのが雪深い会津若松市と、そことは逆方向の太平洋沿岸部にある鹿島町、原町市、小高町だった。原町にはカメラ好きの先輩が住んでいて、相馬野馬追の迫力ある写真を毎年撮っていた。といっても大学を出たてだった私には、馬が迫力満点に駆けぬける国の重要無形民俗文化財だろうともさほどの興味はなく、おとなしい波がひたすら美しい海を見ながら車で原町から小高へと走りぬけて、さらに南の浪江町に行ってシャケを食うことがもっぱらの楽しみだった。2006年の平成の大合併で3市町が南相馬市になっていたことは、東日本大震災の取材で来るまで知らなかった。

途中の風景に見覚えはなかった。ひさしぶりの再訪だったから忘れているのかもしれなかったが、それよりも、津波によって人の営みをうかがわせる形跡がすべて失われていたことが大きいのだと思った。記憶のなかにあるのどかで豊かな町並みも畑も一面が泥水に覆われていた。ときおり自衛隊の車両とすれ違った。13年前ならば違和感を覚えていたであろう。いまは迷彩色の車体が似合う風景となってしまった。

無性に悲しかった。

◇ ◇

ひとりの女性が立っていた。

あたりを見回すと、そこは野球場らしかった。グラウンドは土砂に埋もれていた。そしてそのなかに畳や冷蔵庫やテレビその他あらゆる生活用品が何の思いやりもなくかき回されて、こねくり回されて、埋もれている。バックボードの存在がここが野球場だったことをかろうじて教えてくれていた。
女性は、外野席のあたりに立ちつくし、寒風から身を守るように肩をすくめて、グラウンドを見おろしていた。女性の家の2階部分もそのなかに転がっているという。

「ここはね、のどかでとてもいいところだったんですよ」
「この泥の中に埋もれている人がいっぱいいるの。隣の人も入っているの」
「助けてっていう声を何度も聞きました。何ともすることができなくて」
「四方から水が流れ込んできたんです。あっという間に。津波は高くて速くて、逃げるのに精いっぱいだったの。どうすることもできなかったの」
「早く復興をというけれど、隣近所の人はだれもいなくなっちゃった。これから私はどうすればいいの」

冷たくて強い浜風が吹きつけてくるなか、女性はただ泣き続けていた。言葉をしぼりだすたびに、目から涙がふきでていた。
寒さの中これ以上の話を聞くのはしのびなくて、女性と別れた。

◇ ◇

4月17日、私は日課となっていた避難所まわりをつづけていた。この日も福島市にある「あづま総合運動公園」の避難所を訪ねた。体育館に身をよせているひとりひとりに声をかけ、「3月11日」のことを聴いていた。

青田節子さん(60)に取材をしていると、どこかで聴いたことがあるような気がした。しばらくしてお互いほぼ同時に「あれっ」と声をあげた。南相馬市の野球場に立っていた女性、あれは青田さんだった。落ち着きを取りもどし、ときおり笑顔も見せるようになっていた青田さんに当時の状況を聴いた。

あのグラウンドは「みちのく鹿島野球場」という名前だった。青田さんの家は道路を一本はさんで球場の東側にあった。海岸から2㌔の距離だった。

3月11日午前、青田さんは夫の正孝さん(62)といっしょに畑仕事をしていた。青田さんが「午後からもやっぺ」と声をかけたけれど、正孝さんは用事があると言って原町区に出かけてしまった。それならばと青田さんも車に乗って買い物に出かけた。その時に揺れに包まれた。すぐに自宅に戻った。
すでに帰宅していた正孝さんに「家の中を片づけなければね」と言われたが、余震がつづいていたので青田さんは渋った。自分の部屋はどうなっているんだろうと2階にのぼった。「何の気なしに」窓の外を見た。鎌首をもたげた黒い津波が見えた。津波の前壁はぐるぐると縦に回転していた。

「津波って音が何もしないんだね。そして真っ黒なんです。たぶんいろんなものをのみこんできているからでしょうね。2階から見あげたから高さは10㍍はあったと思います」

1階に駆けおりて正孝さんに「おとうさん、車に乗って」と叫んだ。
2人が乗った車は野球場の西側で津波につかまった。車から降りて外野席によじ登ろうとしたとき、海水が青田さんの顔を覆った。目をつぶってはだめだと思った。恐怖を押し殺して目を見開いていた。最初に目にしたのは、大きな木やら家の建材やらが自分の上をすさまじい勢いで流れていく光景だった。さらにその上に水面が見えた。

「ただの水ならば泳ぐこともできただろうけれど、水は黒いしがれきだのなんだのが自分の上に流れているんだもん。足も下に届かないの。ただただ下にくぐっていくだけなんだよね」

苦しさのあまり海水を飲んでしまった。その時、誰かが胸ぐらをつかんで引きあげてくれた。正孝さんだった。「私ひとりでいたらだめでした」。ミニチュアダックスフントの愛犬レオも正孝さんがしっかりと抱きしめていてくれた。「助けて」という声にふりむくと、津波に流されていく人が見えた。

青田さん夫婦はその後、落ちていた棒で泥水まみれの地面をつついて足元を確かめながら歩いた。球場の外野席ちかくに流されてきていた軽トラックのドアをこじ開けて車内にはいり、しばらく寒風を避けることにした。

週末には地域の住民が集う場所だった球場には、四方八方から水が暴れ込んだ。津波でグラウンド内に運ばれた家の屋根のうえに人の姿があった。「大丈夫ですか」と声をかけても応答はなかった。ほどなくしてその人は消えた。
スコアボードのちかくで流木を集めて火を起こしていた十数人の集まりに合流し、ようやく暖を取った。自衛隊に救出されたのは12日午前3時30分だった。

その日から2週間がすぎた3月25日、身を寄せる「あづま総合運動公園」から弟との車に乗って、震災後はじめて自宅を再訪した。そのときに声をかけてきたのが私というわけだった。

安全センター情報2013年8月号

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