5月号、6月号に続いて三度、「東京電力福島第一原発から半径30㌔圏内に家があり、『原発災害』によって避難所生活を強いられた人々の声を、記録しておきたい」。今回は30㌔圏外の住民の声も取材ノートからひろう。政治・行政・企業による「不都合なこと」一切をこそぎ落としたうえでの発表ものよりも、市井の言葉こそが原発災害の実相を物語り、それゆえに人々の声はすべてが記録に値するものだからだ。

▼福島県立盲学校(福島市森合町)の安藤俊典校長(57)=取材日は3月19日

「小学部9人、中学部7人、高等部22人、専攻科10人の生徒48人全員と職員の無事を3月14日に確認しました。生徒はみんな県内の家族や親類宅に避難しています。目の見えない人にとってもともと災害は厳しいですし、弱視の人は暗くなると全盲の人よりより厳しくなります。4月6日が小・中の、4月8日が高等部の入学式と始業式ですが、交通が復旧しないと通学できませんし来たとしても寄宿舎は食事を提供できるかどうか。一日も早く再開したいのですが、うーん、見通しはまだまだ言えないですね」

▼南相馬市鹿島区から県立橘高校(福島市)に避難中の小林栄さん(76)=取材日は3月20日

「原発のそばから来ているもんですから早く帰れるようになればいいなと思います。安全宣言をしてもらえれば一番いいんですけれどね。やっぱり天災だから仕方がないですよね。電話がなかなか通じないんですよ。親戚の中に行方不明者がいるんです。無事でいてくれと思うけれど、どうも亡くなっている感じです。希望は捨てていないんですが。この避難所ではよくしてもらって困っていることはないです。ぜいたくは言わないです」

▼飯舘村から県立橘高校に避難中の佐藤米子さん(55)=取材日は3月20日

「とにかく薬が欲しいですね。病院に行っても1週間分しかもらえません。せめて1カ月分は出して欲しいね。家族は血圧が高かったり膀胱に管を通したりしているので薬がないとどこにも行けません。ここさ来てはパンと水とご飯が出てくるのでありがたいなと思っていますけれど。千葉、東京、茨城にいる夫のきょうだい、石川と水戸市にいるきょうだい、北海道の親戚のみなさん、今のところ無事に避難しているので心配しないでください」

▼福島市内から県立橘高校に避難中の佐藤利恵子さん(32)=取材日は3月20日

「あの日は福島市のアパートにいて、そこから歩いてきました。地震と原発の事故でこのさき福島に住んでいていいのかも分からなくなってきているから不安です。地震の発生は防げませんよね。だからこそ起きた後の対策をしっかりしてほしい。友達のみんな、がんばって長生きしていこうね」

▼福島市内から県立橘高校に避難中の大和田伊助さん(89)=取材日は3月20日

「90歳より少し前です。いままでと比べたら不便ですけれど、みなさんに助けられているから不便だけれど苦痛じゃないですよ。年のわりに元気だって言われます。たいした病気をしていないからね。若いころは食料品や野菜を売っていました。団体生活は初めてだから早く家に帰って自分の好きなものを食べたいね。みんな家族一緒のところが一番いいよね。被災地以外のあなた方こそ元気でがんばってくださいよ」

▼福島市内から県立橘高校に避難中の金田房子さん(76)=取材日は3月20日

「うちの中は本箱もタンスも倒れてめちゃくちゃになりましたが、けががないのが幸いですわー。ここには夫の栄二(79)と次男の高史(50)と来ました。長男も、仙台の三男も無事でした。私は先が短いからいいけれど、子どもたちのことが心配です。原子力が一番心配です」

▼福島市内を自転車で走っていた馬場政男さん(74)=取材日は3月20日

「困っているのはガソリンと灯油だね。全然ねえんだもん。寒くてしょうがねえ。水は通ったからいいけれどよ、もうできることといったら早く布団に入ることぐれえだ。ガソリンと灯油を求めてもう自転車で10㌔ぐらい回ったよ。カラカラだ。ガソリンスタンドに誰もいないんだもん。畑をやっていたんだが、もう食わんねえ。春から夏にかけてのカブラナが一番うまいんだよ。でも食わんねえ。原因は原子力だよ。津波も地震も大変だったが原発が一番問題だ。政府も東電も何やっているの。早く閉炉にむけて対策しろって。赤ちゃんにまで被害をかぶせて、これは人間の汚点だね」

▼浪江町から福島高校(福島市)に避難中の原田徳郎さん(64)と知恵子さん(65)夫婦=取材日は3月23日

「畑の季節物をほったらかしてきました。放射能が心配です。安全宣言はいつされるのでしょうか。早く帰りたいですね。情報が全然ないんです。やっぱり近所の人がどこに行ったのかが知りたいですね。バラバラになりましたから。部落の人たち、どこに避難していますか?中学校の同級生たち、無事でしょうか?避難所の食事は足りています、というよりも困っていません。むしろ民間のアパートや親戚宅に避難した人は大変だ。だから支援の充実をお願いします」

▼須賀川市内から須賀川アリーナに避難中の大沼信義さん(37)=取材日は3月24日

「須賀川市にあるパラマウント硝子工業株式会社長沼工場で断熱材のグラスウールを配送する仕事をしていました。自宅は崩壊寸前です。一人暮らしなので収入を得る道を確保しないと先に進めません。復興したら花嫁をさがしたいですね」

▼いわき市から須賀川アリーナに避難中の橋本昭夫さん(69)=取材日は3月24日

「自宅は水道・ガス・トイレ、全部だめです。屋根の瓦も全部落ちちゃった。隣の家と5㍍も離れていないので重機が入れません。だから家も壊せません。うちの家が傾いて隣の家をぶっ壊すかたちになっていて、それが一番の悩みの種なんだ。昭和48(1972)年に事故で左足を複雑骨折して靱帯断裂の重傷を負いました。だから力を入れないと左足はだらーんとなっちゃう。痛くて痛くて眠れないんだ。体が何でもないなら家を片付けるけれど、体が使いものになんねえんだ。風邪はどういうわけかひかないんだよ。原子力がおっかなくてここにきているの。もともとの出身は岩手県釜石市だよ」

▼楢葉町から須賀川アリーナに避難中のサトウさん(35)=取材日は3月24日

「楢葉町で生まれ育ちました。のどかでいいところでしたよ。住みやすいし。何も無い豊かさというのかな。海も近かったからね。なるべくなら楢葉町に戻りたいし、自分が築きあげてきた人間関係がそこにはあるし。仕事はここ10年、東京電力福島第二原発の中の計器のメンテナンスをしていました。3・11のときは出張先の青森から帰る車の中でした。その日は自宅に泊まって、避難勧告が出たので12日朝にいわき市にある妻の実家に避難して、それから『原発がやばい』となって15日にここに避難してきました。仕事に戻ろうと思うけれど、第一に行くのはやばいので落ち着いてからにしようと。呼ばれたらやっぱり行くでしょうけれど、いまのところは会社からは待機と言われています。うわさでは1時間30万円と聞きましたけれど、これは逆に、これだけやるから命の保障はしない、という意味でしょう。僕の場合は家族が許さないだろうけれど、いい年した人ならば行くかも知れませんね。会社名は出さないで下さい。東電の下には東芝や日立といった原発メーカーがあり、その下に協力会社があり、その下に何十社もぶら下がっています。そのうちの一つなんですが、高卒者の地元採用でピラミッドの下の方なので。給料は手取りで毎月29万円でした。今回の原因は津波ですよ。非常用電源が津波で焼け付いちゃったのが原因でしょうね。まさかあそこまでの津波が来るとは想定外でしたね。しょうがないって言ってはいけないけれど、もっと素晴らしい改善策を作ってもらわないといけないですね。双葉郡自体は本当に働くところがないんですよ。何年か前だったかな、町長自身がもっと原発を作って下さいと陳情に行ったほどの最低の町なんです。原発を作ってくれとトップが陳情する町がどこにありますか。一般日本人からしたら原発は危ないものでしょう。普通は、うちは困る、でもどうしても作りたいんだったら、と交渉するものでしょう。でも、なるべくならば地元にいたいので、仕事をするとしたらやっぱり原発の仕事が有利でしょうね。自分が県外に出て働くことも考えましたが、それだと家族がバラバラになっちゃうし」

▼須賀川市内から須賀川アリーナに避難中の宗方通泰さん(43)=取材日は3月24日

「今日1日1日をどう過ごすのかが心配です。やることがいっぱいあるのは分かっているけれど、どうしてもそこまで気が回らないですよね。体調は悪くないけれど、どうしても慣れない生活なので睡眠がうまくいきません。昨日まではのどが痛かったんですがだいぶ治まりました。周りの咳は気になりますが。いまは仕事の心配よりも自宅の心配です。高齢の父がいるのでいつまでも避難所にいるわけにはいかないのですが、自宅は脇の道路が陥没していて土地ごとグラリと持って行かれていて、今は余震の様子を見ています。外見はそうでもないんですが、中が傾いているんですよ。新聞で仮設住宅の話を読みました。全壊とか半壊とかは見た目でも分かりますが、外見は何ともないようなうちの場合は仮設に申し込んでも入れるのかどうか。多くの方が亡くなったことに比べればうちのことなんて些細なことに見えます。でも我々個人から見ると大事なことなんです。国や県はまずは被害の大きな所から見るんでしょうけれど、落ち着いたらこういう現状があることも知ってもらいたい。市に相談に行ったら『道路の補修は時間がかかる。その家を買ったのは自己責任ですよね』って。職員も混乱していたんでしょうけれど……」

▼田村市総合体育館に避難中で東電子会社勤務の男性(57)=取材日は3月26日

「12日からここにいます。家はちょっと物が落ちたぐらいで無傷に近いですよ。でも線量が高くてね。4月から中学2年生になる子どもがいます。学校をどうするのかが問題ですよ。この子は小学校の時にいじめに遭って、中学になってようやく友達ができたときだったんですが。まずは風評被害を無くして欲しいね。新聞を読むとホウレンソウなどからも検出されているというけれど、なぜ?という感じだよね。原発の半径10㌔以内は定期的にサンプリングしていたし。今回検出されたのは原発のものなのかどうか。原発は必要なんです。日本のエネルギーを考えるとね。今回は人災です。原因は電源喪失でしょう。電源ポンプを津波がのんだということでしょう。これからはそういうことがないような設計をすれば問題ない。今回は単純なミスだったと思います。後手後手に回っただけだと思います。バックアップはたくさんあったんですから」

▼大熊町から田村市総合体育館に避難中の夫(62)と妻(62)=取材日は3月26日。この日、体育館では避難者のほぼ全員が参加した体操があり、終わると拍手が起こった。

夫「いつも座っているだけだから体操は元気になるための活気剤ですよ。でも精神的に疲れますよ。避難生活が長くなればなるほど」
妻「先が見えないことが一番……状況の説明はあるけれど、どういう方向かが見えてこない。来月には会津若松に出発する(注)と。でも細かい説明は無かったね。昨日テレビで発表されて騒ぎになったもの」
夫「家の中はめちゃくちゃだよ。食器棚もテレビもみんな倒れて。3月11日は娘と一緒に庭の車の中で泊まりました。毛布にくるまって寒かったです。ヒーターをかけてもガソリンはなくなっていくし。12日に強制避難みたいになって、ちょっとの避難かな、2~3日で戻って来られるかなと下着を数枚まとめただけでした。それで町の集会所に行って、ここで一時避難するのかなと思ったんですが、それから町のバスで14日に田村市に来ました」
妻「原発なんて想定外だから」
夫「今日の朝、今後の方向性を知らせます、会津若松に町の機能を移しますって。小学校も中学校もそちらで授業を受けられる方向にしていると。住所は大熊町のままでもいいし、完全に引っ越ししてもいいと。まだはっきりしていない口ぶりでしたね。私たちは移動しようと思っています。町の機能から離れてしまうと町の雰囲気が分からなくなってしまうから。今後どうなっていくのかという細かい情報は町の機能とくっついていないと分からないでしょう」
妻「そうすると大熊町に帰るに帰れない」
夫「町自体が立ち入り禁止になっているから。放射能で」
妻「地震だけだったならば帰って片付けもできたのに」
(注)大熊町は4月5日、会津若松市への住民の集団移転と役場機能の移転を始めた。

▼いわき市平沼ノ内で「丸二製氷冷凍」を経営する山野辺孝司さん(60)=取材日は4月5日

「地元の船や水産加工会社(かまぼこ)に氷を出しています。3月いっぱいで従業員2人に辞めてもらいました。3月11日以降売り上げがゼロですし。原発の近くは汚染水を流しているから放射能は高いと思うんですが、沼や湖と違って太平洋は流れがあるから拡散されると思うんです。はっきりしないまま『放射能に汚染されている』と指定されると我々には非常に迷惑な話です」

▼南相馬市原町区から福島高校(福島市)に避難していた片山義雄さん(62)には3月23日につづいて4月7日にも話を聞いた。この日、東京電力福島第一原発の半径20㌔圏内について4月22日午前0時をもって警戒区域に設定する調整を政府が始めたという報道があった。

「実は前に取材を受けた3月23日に原町に戻りました。腹立たしさしかないよね。早く元通りにしろ、何だこれはって。原町ではまだ地震の後片付けとか遺体捜しが続いていて、(勤務先の重機会社の)仕事はまだ無いよ。でもブルーシートなんかの資材を欲しがる人がいるから店を開けていることが大事なんだ。でもね、こんなね、私たちの会社がどうのこうのではなくて、南相馬市全体が消滅してしまうんじゃないかって心配だよ。悲惨な状態の中でそれでもがんばるぞって思っていたのに、警戒区域を設定されて追い出されることになるなんて、そんな勝手なことはやめてくれという話だ。命や健康を守るためというけれど、穏やかじゃないよね。南相馬市に国会の誰が来た?東電の誰が来た?謝罪に来いってことだよ。近所の人も1~2割が戻ってきているね。『逃げろ』って言われて『はいそうですね』とは言えないよ。これまで積みあげてきたものが全部だめになるんだから。出ていけと言われたら、誰の責任でもなくて自分で帰って来たんだから、ワラをつかんででもここで何とかするしかないよね。本当に腹立たしいよ」

▼楢葉町からクリスタルパーク・石川(石川町)に避難中で、原発災害⑦「土との絆、断ち切られた」=2015年4月号=で話を聞いた猪狩秀男さん(67)にも、警戒区域のことについて4月7日に再び聞いた。

「法律で決まったことだから、たとえ向こうが勝手に決めたことでも、暴挙にして許すべきことではないけれど、私たちは着の身着のままですから、大事な物を持ちだす時間を作ってくれれば仕方がないことですが、でも勝手すぎます。あまりに一方的だ。家には大事な物を置いてきました。泥棒が心配です。国や町は警備を細かくやって欲しい。荒らされたら誰が補償してくれますか。被害の証拠を出せと言われてもそんなもの無いですから。高齢者の夢は老後なんです。1日1日が貴重なんです。畑の野菜がどうなるかを見るのが楽しみだったんです。私どもは小さな農家です。ジャガイモ1個まで補償してくれますか。家の中がどうなっているのか確認したい。とにかく不安ですよ。東電のやることは、大学出が机の上で考えてのことでしょう。現場と乖離しています。まずは現場を見て自分の頭で考えるべきです」

▼広野町からクリスタルパーク・石川に避難中で3月30日に話を聞いた鯨岡秀子さん(52)にも4月11日に改めて聞いた。

「4月9日に石川町内の温泉旅館に移動しました。食事つきで面倒を見てもらっています。1家族1部屋でようやくプライバシーも守れるようになりました。みんな着の身着のままです。何もかもめちゃくちゃになりました。気がかりは主人の祖父母の位牌です。3月下旬に2回、広野町の自宅に行きました。飼い犬は津波で亡くなっていました。くさりにつながれたままでした。布団をかぶせてきました。埋めるまではできていません。もうあそこには家を建てられません。泥棒は大丈夫です。もともとぐちゃぐちゃですから。(政府の方針については)何と言えば……まあ、放射能がネックですよ。目に見えるものならばどこが大丈夫なのかが分かるのですが、見えないものですから。それが心配です」

▼2014年4月号に屋根工事中の写真を掲載した南相馬市鹿島区の工務店社長・大河内盛政さん(52)=取材日は4月11日

「住民はだいぶ戻ってきています。私は逃げないですよ。逃げてどうするんですか。ここで仕事をするしかないんです。住民の家にブルーシートをかける仕事を今も続けています。すると皆さん安心するでしょう。もし将来、家に帰ってきたときに家の中がびしょびしょだとやる気も起こらないでしょう。避難させていた社員2人も、1人は10日前から、もう1人は今日から戻ってきて仕事でフル回転しています」

▼南相馬市鹿島区からあづま総合運動公園(福島市)に避難中の高橋悦子さん(63)と三男の辰郎さん(35)親子=取材日は4月11日

悦子さん「問題は原発ですよね。どういう状況か時間が経っても入ってこない。報道量も減りつつあるので正しい情報が欲しいです。東京都民が原発反対を訴えるのはいいけれど、言うのは簡単です。でも、代わりの電気はどうするんですか。その点を深く考えて欲しい。仕事は次男と魚の卸をしていました。浪江町の請戸で買って相馬で卸していました。復旧は何十年も先だろうから補償をはっきりさせて欲しいね」
辰郎さん「富岡町のパチンコ店を解雇されました。店を再開すると呼び戻すと言われてはいるんですが」

▼浪江町権現堂矢沢町からあづま総合運動公園に避難中の三田明さん(62)=取材日は4月11日

「疲れてどうしようもないな。私自身は水が合わないから水道水を飲まれないんだ。だからミネラルウォーターばっかり。3・11では家は外壁にひびが入ってブロック塀が倒れました。屋根瓦も落ちました。でも原発が無ければ住めました。3月12日午前6時に家を出て南相馬市原町区の体育館に行ってそれからここは3カ所目です。1カ月経ってこれだからね、まだまだ続くと思うよ」

▼南相馬市原町区からあずま総合運動公園の体育館に避難中の小泉百合子さん(56)=取材日は4月13日

「風邪をひいて水枕で寝ています。がんばろうって言われても戻ることもできないし、国も『大丈夫』というけれど大丈夫でないですよ。政府の言葉に振りまわされて、政府は私たちのことをどう考えているのかと腹立たしい。パニックになるから情報を伝えないというけれど、いま起こっているのは世界的にも大変なことでしょうに。その真っただ中に置かれて、目に見えない不安にさらされて、今後影響はどういうふうに出てくるのか……。飯舘村の子どもたちはマスクもせずに外で遊んでいるんですよ。そのこと自体国はどう思っているのか。許せないですよ。中身のないパフォーマンスだけの会見はバカにしているのって。枝野(幸男官房長官)さんを見る度に腹が立つ。こちらに来て水も飲んで南相馬にでも飯舘にでも政治の拠点を移せばいいんです。それぐらい怒っています」
「南相馬市って屋内退避から緊急時避難になったでしょう(注)。それってどこの地域のことなの?はっきりしないしどうすればいいのか分からないし。南相馬市は大丈夫だって戻る人も結構います」

(注)枝野官房長官は4月11日午後の記者会見で、東京電力福島第一原発の半径20㌔圏の外側の一部地域に、計画的避難区域(住民は1カ月かけて計画的に避難する)を指定すると発表した。また、半径20~30㌔圏の一部地域に緊急時避難準備区域(避難ができるよう準備しておく地域)も設定すると発表した。対象の市町村は南相馬市に代表的なようにいくつもの区域に切り刻まれることとなり、計画的とか緊急時とかの官僚用語とも相まって、避難者や住民の間に大いなる混乱をもたらした。

「悔しいです。私たちの小さな声が、あのわけの分からない政治家の耳に入ることを願っています。今までは自主避難といっておいて、今回は緊急時と。どうすればいいのですか。生活が成り立たないですよ。あいまいな指示が混乱の元凶です。振りまわされて振りまわされてばかりです」

▼南相馬市原町区からあずま総合運動公園に避難中の上林米子さん(82)=取材日は4月13日

「そうだね、やっぱり政府はウソばっかり言うのがアタマにきてまともに聞いていられないね。正直に言ってくれれば対応できるのにね。1カ月も経ってチェルノブイリだって(注)。こんなこと聞いてらんね。アタマにきたよ今朝の新聞、見出ししか読んでいないけれど。風邪はひくし最悪です。どこにもぶつけようがないので愚痴っています。きりがないよね。愚痴を言い出したら止まらないもん。なんでもっと早く言ってくれなかったのかって。みんな安心してぽつりぽつり帰っていった人もいるんです。どうすんのよ、帰った人たち。ま、捨てられたようなもんだ、私たち。自分たちの判断で動きなさい、だべ。投げられたんだ、私たち。言っていることがね、意味が分かんないの。緊急時?準備区域?なんなのそれ。そうかと思うと『大丈夫』『普通の生活できる』『人体に影響はない』というでしょう」

(注)経済産業省原子力安全・保安院と原子力安全委員会は4月12日午前、東京電力福島第一原発の事故について、旧ソ連チェルノブイリ原発事故に匹敵するレベル7(深刻な事故)に引きあげたと発表した。3月11日の事故直後はレベル4とし、その1週間後にレベル5としていた。

▼南相馬市小高区からあずま総合運動公園に避難中の廣田正秀さん(30)=取材日は4月13日

「自営で自動車修理工場をしています。避難所を出た後の対応は……。原発事故は収まっていると言うけれど、避難の範囲があやふやで、収まっているというわりにはレベル7に上がって。情報があやふやですよね。地震では家が半壊でした。津波は床下まで水が来たぐらいで。原町区に行こうとしたら入れなかったので行けるところまで行こうと川俣町に行きました。そこの体育館にいたんですが、あずま総合運動公園に友達がいて『衛生的にもいい』と言っていたので来ました。3・11から1週間後ぐらいの時かな。小高区内にある工場はおやじの代から30年してきました。一般企業ならば失業保険もあるだろうけれど、自分にはそれもないし。注文を受けて形にしていく仕事でそれが楽しかったのですが。ゼロからのスタートになるとそれに対しての保護案は政府にあるのでしょうか。今までやってきたことがゼロになりました。仕事も、家も、お客さんも」

政府は4月22日午前0時、東京電力福島第一原発の半径20㌔圏内について、立ち入りを禁止する警戒区域に設定した。廣田さんにはその際にも話を聞いた。

「事実は受けとめるしかないよ。自分の仕事(自動車修理工場)ができなくなって、相馬の火力発電所で4月18日から働いています。おやじは引退する気です。塗料など放置していた物を再び整備するのには300万とか400万円とかかかりますから。悔しい。相馬の火力発電所に通っているんですが、車中泊をしています。相馬の避難所に行っても『小高区の住民だから』って空いていても拒否されているからです。それで車の中で寝泊まりをしているんですが、そうすると今度は警察が来て追い出そうとするんです。それで毎日車を止めるところを変えて転々としています。警戒区域を設定する前にせめて半日は立ち入らせて欲しい。思い出のもの例えば家財道具だとかアルバムだとかを取りたいですから」

▼大熊町からあずま総合運動公園に避難中の仲良し3人組=取材日は4月17日

「ここでの生活も4週間目ですが別に苦労はしていなくて。最近は落ち着いてきてこうしてキャッチボールもできるようになりました。避難所に来た当時はインフルエンザにかかりましたが、赤十字の人がすぐに対応してくれました。それからは元気はつらつです。まだまだ不安があるので、先の話をすると見えなくなりますから、今を楽しく過ごす努力をしています」(横田和貴さん〈21〉)
「大熊町にはいろんな思い出があります。原発が無かったら、地震だけだったら、大熊で平和な日々をおくれていたと思う。緑豊かでとっても暮らしやすかった」(和貴さんの弟の晃大さん〈18〉)
「原発の事故で多くの人が避難して、地震と津波の影響で多くの犠牲者が出て、とてもショックでした。みんなの笑顔をもう一度見てみたい。これから自分が何をするのか、何をしたいのかを見つけていきたい」(川井邦裕さん〈18〉)

▼葛尾村からあづま総合運動公園に避難中の松枝晃さん(18)=取材日は4月25日

「浪江にいた友達が1人、行方不明なんです。無事でいて欲しい。名前は吉田裕紀といいます。小中の同級生でユウと呼んでいました。優しくて太っ腹で自分よくおごってもらっていました。剣道も強かったですね。ユウは浜通りの高校に進学して、私は中通りの田村高校に進みました。ユウは自分より一足先に自動車運転免許を取っていたので、あの日は自分で運転して中学同窓会の会場を予約するために浪江に行っていました。吉田、どんな形でもいいから連絡を下さい」(この取材から約1カ月後の報道によると、地震時に浪江町にいた吉田さんは別の友人と車で高齢者の救出をしていたらしい。友人の遺体はがれきの下から発見されたが、吉田さんは見つかっていない)

▼南相馬市原町区からあづま総合運動公園に避難中の藤田和子さん(33)=取材日は4月25日

「3月19日からここにいます。やっぱり子どものことが、放射能のことが気になります。うちは女の子が2人なので情報がどこまで本当か分からないですし。上が小学校6年生で下が2年生です。11歳と7歳。(新学期が始まったので)福島市内の小学校に入れましたが、どうやらこっちも高いというので……。福島市内のアパートはいっぱいだって言われましたし、原町に帰っても……どっちだか分からないですね。1年前に鹿島区から原町区に引っ越したばかりでした。子どもたちは小さな学校から大きな学校に移ることになって、ようやく大人数の学校の環境に慣れたかなという時に原発事故があって、そしてまた福島市へでしょう。特に心配なのは上の子です。少し内気な子なんですが、今になって福島市の学校に慣れてきたのか、原町区に戻りたくないって言い始めています。この避難所でも友達ができていますし『1年はいたい』と言っています。その気持ちを考えるといさせてあげたいけれど。パパは仕事で原町区にいます。戻ってこいと呼ばれているんですけれど、子どもがここにいるので残っています」

▼あづま総合運動公園に避難中の翔吾さん(24)=取材日は4月25日

「これはなんなんすかね、どうなんですかね。友達が何人か連絡が取れません。この先どうなっていくのかということですかね。3・11前はいわき市の会社の運転手をしていました。福島産のトマトを仙台市に運んでいたんですが風評被害でだめになりました。会社から『どうする』って言われて辞めました。このへんで仕事を探すのは難しいので、運転手募集の話を知人から聞いてゴールデンウィーク明けから茨城県の会社で働くことになりました。これがいい機会だというとおかしいけれど県外に出ようと考えています。浪江町の実家に帰れるのは何年後のことになるのか」

▼南相馬市小高区からあづま総合運動公園に避難中の西内静江さん(59)=取材日は4月25日

「東京電力が作っている電気って福島で使われていると思われていますよね。あれは関東地方で使われているんです。福島の電気は東北電力なんです。関東の人って自分たちで使っていたことを分かっているんですかね。関東地方に避難した子どもが福島って分かったら周りの子どもが逃げ出すとか、そういうのはあり得ないです。福島の人と結婚すると、というデマも出ているそうです。確かに浪江、双葉、大熊と原発で働いている人はたくさんいて原発の恩恵を受けていると思いますが、だからといってこんな生活をしなければいけないのか。家が壊れただけならば何でもなくて帰れて普通に生活できたはずなのに。それに子どもたちには何の罪もないと思うのね。だから関東の人は子どもたちを温かく迎えるのが当たり前だと思うのに。それなのに福島と聞いてスッと離れていくなんてあり得ない。悲しいよね。腹立ちます。関東の人には本当に分かって欲しい。自分たちの電気がどこから来ているのかを。私たちは大人だから我慢できるけれどねえ。友達と離ればなれになって知らない土地で生きていくのは大変なのに……」

安全センター情報2015年11月号

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