薄磯という集落は、茨城県の北部と接する福島県いわき市の沿岸部にある。
わたしが訪ねたのは2011年4月2日だった。約2週間前の3月18日夜に福島県入りして主に県の北部と中部の避難所をぐるぐる回って人々の話に耳を傾けていた。ふと、県南部はどうなっているのだろうと思った。

路地を抜け、土砂崩れ防止コンクリートで塗り固められた急斜面の前に看板がふたつ。ひとつは「豊間漁港 沼ノ内地区 漁港管理者 福島県」とあり、大漁旗をなびかせている船の絵が添えられている。もうひとつは「塩屋埼灯台 美空ひばりゆかりの『雲雀乃苑』 薄磯海水浴場」と書かれていて、200㍍先を示す赤い矢印がついている。看板を横目に小さくなだらかな坂道を下りた。

息をのんだ。
言葉をうしなった。

向こう側に、太平洋の白波が寄せては引いている。視線を落とすと、惨状が飛びこんできた。
たしかに、瓦屋根の大きめの民家はいくつかぽつぽつと残っているし、工場のような建物もつぶれてはいない。ただ、それ以外がめちゃくちゃなのだ。民家の木材とひしゃげた車とおそらく海岸から流されてきた砂とがこね回されて、あたり一面にばらまかれている。集落の入り口も壊れた車が横向きになってふさいでいる。津波によるものなのだろうとは思った。一方で、津波はこれほどまでに人々の営みを破壊し尽くすものなのかとも思った。

薄磯集落の全景(左)、広がる廃墟の向こう側に塩屋埼灯台が見える(右)=いずれも福島県いわき市平薄磯で撮影

そんなことを考えつつ集落に入ると、すぐに「何しに来たんだ。お前はNHKか」という怒声をあびせかけられて、我に返った。自宅の前でがれきを片付けていた男性だった。

「ここには記者が誰も来ないんだ。みんな原発のことや相馬の方の話ばっかりしかしない。後は出ないんだ。ここのことはちっとも取材しねえ。もう受診料は払わなねえよ」と言うのだった。

わたしはNHKの記者ではないこと、しかし、ほかの地域での取材に追われて今日までこの集落に来ることができなかったことをわびた。ひとりで福島県全域を回ることも、ひとりで被災者全員に会うことも物理的に不可能なことだ。ただ、どんなに懸命に取材をしているつもりでも、それはあくまでも取材する側の都合であって、被災者には何の関係もないことだ。ただただわびるしかなかった。

あの日、2011年3月11日。230世帯がひとつの家族のように寄り添って過ごすのどかな集落を津波が襲った。
115人が亡くなった集落を歩いた。

2階建て集合住宅の1階部分は、窓や戸が打ち抜かれている。その前には、コンクリート製の電柱やタンスや車や折れた木が、砂と泥と一緒に山となっている。
なんとか外形だけは残った民家の中もめちゃくちゃだ。
かまぼこ工場の外枠は、津波の後に火災でもあったのだろうか、黒く焼け焦げている。工場の前には車が3台。1台はひっくり返っていて、もう1台は横倒しになっていて、赤い車はドアの扉が引きはがされている。どれもぼこぼこだ。

「薄磯公民館」という石碑が建っている。しかし周りに公民館らしき建物はない。

集落内でひときわ目立つ3階建ての建物はいわき市立豊間中学校だった。ここもまったく廃虚のようだ。校舎の壁に「祝 第40回 東北中学校バレーボール大会 出場 会場 秋田市立体育館」。同校の男子バレーボール部の出場を喜んでいる。

ところどころにかごが置いてあって、中をのぞくと男の子や女の子の砂だらけになった写真が入っている。家族が必死に捜したのだろう。

瀟洒ないわき信用組合塩屋崎支店の建物も、傾いてはいないものの1階部分はタイルの壁が粉々に壊されていた。その前に看板が建てられている。
「いわき沖の渡航の安全を見守る塩屋崎(ママ)灯台をモチーフとした、当支店も無残な姿と化してしまいましたが、我々は、地域を照らし、地域の安全を見守る灯台として、塩屋崎支店の早期再建をお約束します」

もともとはこの薄磯の集落は、北洋サケ・マス船団に乗り込む海の男たちが集まった半農半漁のムラだった。
住民の話によると、200カイリ規制で漁業が不振におちいったが、住民は生活の糧をやはり海に求めた。おもに関東からの海水浴客を相手に民宿をつくり、漁師が沖合で取ったヒラメ、スズキ、タイ、イナダを供した。冬のアンコウ鍋も名物だった。集落内には大小5軒の水産加工場もあった。

廃虚となった集落のはずれ、南側の絶壁の上に白亜の塩屋埼灯台がある。海面からの高さ73㍍にある灯火は約40㌔先まで照らすことができたという。
1899(明治32)年12月に完成。当時はれんが造りだった。
1938(昭和13)年の福島県北方沖地震で灯器やレンズが大破し、灯塔にも多数の亀裂が入ったため取り壊された。
1940(昭和15)年に鉄筋コンクリート製となって復活したが、太平洋戦争中には米軍機の標的とされて再び大きな被害を受けてしまう。
1950(昭和25)年に修復。松竹映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年、木下恵介監督)は、ここの灯台長の妻の手記がもとになった。

鈴木政貴さん(33)の自宅は海沿いにあった。父博さん(67)、母タイ子さん(61)、妻、長男、長女美空ちゃん(4)の6人で暮らしていた。

3月11日、鈴木さんは、自宅から自転車で2~3分の集落内にあるかまぼこ工場で働いていた。工場の2階でだて巻きを作るすだれの手入れをしていた。
携帯電話の地震警報が鳴り、「何だ」。その瞬間、おそらく1分も過ぎないうちに強烈な揺れに襲われた。すぐに工場の1階に下りた。工場の外の家は軒並み崩れ落ちていて、大きな地割れも起きていた。自転車に飛び乗って自宅へ向かった。

仏壇・食器棚・冷蔵庫と、立っている物すべてが倒れていた。なぜかテレビとパソコンだけは元の位置にあった。倒壊を免れた自宅の近くにタイ子さん、長男、美空ちゃんの3人がいた。2人の子どもが「怖かった」と泣きながら駆け寄ってきた。鈴木さんは「大丈夫だよ」と声をかけた。父と妻は外出中だったが、母、子ども2人の無事に安心し、鈴木さんはかまぼこ工場に戻ることにした。

鈴木さんが勤め先に戻ったのは消防団員だったからだ。団の班長でもある工場の同僚にこれからの活動の指示を仰ごうと思った。班長の姿が見えなかったため、鈴木さんは再び自転車で自宅に帰った。タイ子さん、長男、美空ちゃんの3人の姿が見えないことで「無事に避難したんだな」と安心し、また工場に戻った。

自宅からかまぼこ工場へ向かう途中、自転車からふと海を見た。波が引いていた。それでも津波のことは全く頭になかった。工場で班長と落ち合い、「広報はどうしよう」と話していた時、波が防波堤を越えたのが見えた。

無我夢中で駆けあがった工場の3階から見た光景

ゴゴゴゴゴという地鳴りのような――あるいは木造の家同士がこすれ合う音だったかも知れない――音とともに、集落の家すべてがいっせいに内陸側へと横滑りしていた。「あり得ない景色だった」。押しつぶされていく家の屋根の上から「助けて」という声が聞こえた。その声に向かって助けに走る住民の姿が見えた。声は地鳴りのような音にすぐにかきけされた。

集落のがれきから水がはけたのは夕方になってからだった。
その日は一気に真っ暗になった。
夜、雪が降った。

集落の近くにあるゴルフ場へ避難した鈴木さんは、翌日の3月12日、タイ子さん、長男、美空ちゃんの3人が身を寄せているはずの豊間小学校へ向かったが、いなかった。近所の人が「神社の裏に避難しているよ」と連れていってくれた。そこには長男しかいなかった。近所の人によると、一度は避難したタイ子さんは、夜は冷えるだろうからと、美空ちゃんをおぶって自宅へ衣類を取りに戻ったという。

津波の直前に自宅へ戻る途中、自転車をこいでいる鈴木さんの視界のなかに、見慣れた車が自宅の方向に走っていくのが見えた。「実はあれは父かも知れないという車を見かけていたんです」。建築会社で働いていた父博さんも地震の直後、「ちょうど仕事が終わったからなのか、地震で家のことが心配になったのか分からないけれど」、勤務先を車で飛びだして自宅に向かっていた。
(この頁つづく)

安全センター情報2014年1・2月号

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