2011年3月25日、南相馬市の避難所となっている鹿島中学校の体育館を訪ねた。県外避難が相次ぐなかで避難せずに地元に残っている人々に「残る」理由を聞いて歩いた。

阿部アヤ子さん(88)は、いったん新潟にいる娘のところに避難したが、4日前に帰ってきたという。水道水が復活したのは翌日の3月22日夕方だった。「なんだか避難しろと言うけれど……」と言葉を濁す。ずっと住み続けている地元を後にすることなど、この年になって考えられないという。

鹿島区の大工の鈴木重治さん(63)の理由は明快だった。
「動物がいるんだ。猫。チビっていうんだ。4歳」。「あの日」は揺れに襲われて、同居の祖母(94)と弟(57)は市が用意したバスに乗って新潟市へ避難したが、鈴木さんだけは残った。「まさか猫は持ち込めねえし、かといって置いていかれんしね」。自宅にあるものを食べていたが、冷蔵庫が空になり、しょうゆをかけただけのご飯を食べ、そのしょうゆも底をついた。それで「飯だけいいかな」と鹿島中学校の体育館に通うようになった。
鈴木さんはどこか素朴な雰囲気だ。「3月11日はけっこう揺れたよ。タンスをつかんでいたね。外には逃げなかったな。それから数日間だけ『さくらホール』(鹿島区にある鹿島生涯学習センター)に逃げて、ちょこちょこ家に戻って、そうしたら原発の騒ぎになった。それでさくらホールからここの鹿島中学校に来て、夜は家に戻っているんだ」
長男は小高区で所帯を持っていて宮城県に避難した。長女は就職先の東京都にいる。次女は爆発事故を起こして放射能をまき散らした東京電力福島第一原発がある大熊町に住んでいたので、郡山市を経由して三重県に向かった。三女は嫁ぎ先の岩手県にいる。「とくに三女が『逃げてこい』って言うんだけれど、『様子みっから』と断っているんだ」
猫のために残っている鈴木さんに、娘たちはカンカンだという。いつの間にか回復していた電話での会話は例えばこんな感じだ。

「昨日、テレビで見たけれど、原発の3号機で黒煙が出ていたじゃん」
「よくなってきているようだ」
「本当によくなってきているのっ。危なくなってからじゃあ遅いんだよ」
「でも大丈夫だ」
「ガソリンだって今度はいつ入れられるか分からないしっ」
「もう少しだけ様子を見るよ」

そうしていつも娘の「なにかあったら連絡してね」で電話は終わる。
鈴木さんは、娘たちの心配に感謝しつつ、「あきらめるしかねえな。爆発したら終わりだもの」
生まれ育ったのはもちろん鹿島区だ。「いいところだよお。雪はそんなに降んないし、台風の被害もないし。でもこんな津波が来るとはなあ……。津波で終わったらよかったんだけれど、原発まで……」

ふるさとへの愛と、そしてなによりも猫のことが心配なのだ。
チビはもともと野良猫だった。「ちっちゃいのを誰かが投げていったんだよ。3年ぐらい前になるかな」。エサをあげたらなついてしまって後を追いかけてきた。それで鈴木家の家族に迎え入れた。だから年齢の4歳は推定だ。「地震が起きてもどこにも行かねえんだ。いま妊娠しているみたいでね。かごにおとなしくしているよ。今はこたつにもぐっているんじゃないかな」
鈴木さんはちょっといたずらっ子のように語った。
「実はね、体育館や親戚宅に避難した人で、ここに戻ってきている人もいるんだよ。知っているだけで5~6軒はあるね。だって夜になると電気がつくから分かるんだ。昨日もみんなと話したんだ。役所の人とは話にならんと。今朝も官房長官が30㌔圏は避難しろって言っていたけれど、南相馬の住民はやんねえよ」

2週間後の4月8日に鈴木さんに電話をしたら、「ばあちゃんも弟も自宅に帰ってきているよ。チビ?よく食べているね。物資の配給も進んできて自分もようやく食べられるようになった。チビは自分のそばから離れないよ。俺が外に出ようとすると追っかけてくるんだ」

「この子を置いていくなんてできないよ」。
鹿島中学校に身を寄せている小高区の電気工事業田中隆雄さん(68)とノリ子さん(69)夫婦が訴える。かたわらには愛犬ダックスフントの雄レオ(7)。「この子がかわいくてね。投げていけないのよ。孫と一緒なのよ」とノリ子さんは重ねて訴えた。
3月11日、激しい揺れに家の中の台所はぐちゃぐちゃになり、屋根も壊れた。仕事中だった隆雄さんは焦った。女房とレオは原町区に用事に出ているはずだ。大丈夫なのか。しかし携帯電話は通じない。ようやく2時間後に帰宅すると、ノリ子さんと「この子」レオが家の外にいた。隆雄さんのきょうだいやいとこは行方不明のままだ。

翌日、原町区にある石神中学校の体育館に避難したが、南相馬市職員に「犬はダメだ」と繰りかえし迫られた。隆雄さんが「確かめてくれ」と何度も求めても、「そんなことはできない」「人間優先だから」とはねつけられた。「もうちょっと親身になって欲しかった」と涙を流しながらふりかえる。
それで体育館の外にならば置いてもいいという鹿島中学校に移ってきた。田中さん夫婦は体育館で過ごし、レオは駐車場に置いてある車の中で過ごしている。午後6時になるとレオの時間だ。最低2時間、「親子3人一緒」の時を楽しむ。「ご飯を作ってあげて、私が食べさせているんだ」と隆雄さん。レオは体調が悪いときはドッグフードを食べないのでソーセージを刻んだりヨーグルトを飲ませたりする。「元気になると食べてくれるんだ」

ノリ子さんがつぶやく。「本当は避難すればいいんだけれど」。
隆雄さんもため息をつく。「地震だけならば家で過ごせたはずなんですが。原発さえ無ければ。レオはおりこうさんでねえ。おとなしいし吠えないんです」。
この鹿島中学校にも新潟行きの避難バスに乗るかどうかの募集があった。
「でも、やっぱり犬はバスに乗っけられないって言うんだ。それなら自分の車で行くよっていっても今度は新潟側が受け入れ態勢がないって。避難したいけれど、それが(残っている)一番の理由です」

長男が茨城県に、長女は東京都にいる。その長女から「すぐに来い」という電話がひんぱんにかかってくる。しかし車に入れるガソリンがない。車を動かせなければレオを置いていくしかない。夫婦にそんな選択肢は全く無い。
レオは生後2カ月の時に友人からもらった。犬好きの夫婦は、それまでは外飼いだったが、レオのときからは家の中で飼うことにした。隆雄さんが語る。「それで夫婦2人だけで7年間、この子を育ててきたんだ。この子を置いて移動するなんて考えられないよ。この子は放したら誰が飼ってくれるんだ。それにレオは私を信頼していると思う。だからよけいに置いていけないよ」

やはり2週間後の4月8日に田中さん夫婦に電話をかけて近況を聞いた。鹿島中学校を出てデイサービス施設に移り、さらにそれから南相馬市鹿島保健センターに来ているという。どこも犬は屋内に入れていけないと言われているので、田中さん夫婦はレオと一緒に車の中で寝泊まりしているという。

鹿島区のネギ・ハクサイ・ダイコン農業星トキ子さん(64)も、市が用意した避難用バスについて「乗らない」ときっぱり言った。「ここで、ずっと鹿島区で暮らしていこうと思っているから」。鹿島区に嫁に来て42年か43年になる。もうふるさとも同然だ。
3月11日の津波で家は崩壊した。その日から鹿島中学校暮らしだ。会津若松市に避難していた三男も戻ってきたという。「もう自宅には住めないけれど、あと10年生きればいいのでアパート生活を考えている」

堀込畳店をいとなむ堀込秀信さん(62)は「死ぬまでここにいる」と言った。
堀込さんの自宅は鹿島中学校の裏側にあるから体育館暮らしはしていない。日中は体育館に来て地域住民とおしゃべりをしながら情報交換をしている。
畳店は妻(60)や息子らとの家族経営で、2007年7月にあった新潟県中越沖地震では仮設住宅用の畳1000枚を4日間で作ったという。長男と次男、孫の計3人は原発事故をうけて新潟県妙高市に避難した。
「だって行くとこないもん。自宅は風呂場のタイルは割れているし基礎も下がったけれど、高台にあったからなんとか無事だ。それに住めば都って言うだろ。ここで生まれ育ったから、ここしか知らねえんだ、生活をする場所としては。住民同士は仲がいいのかって?そりゃあどこに行っても派閥ってものはあっぺ。仲いいものはいい。悪いものは悪い。どこに行っても同じだっぺ。いろいろだわい。それよりも商売を何とかしていかないと。今の時点でどうしようか考えつかない。家にいて、テレビ見て、原発どうなっていると。原発が安定したら妙高に迎えに行こうと思っているよ」

鹿島中学校の壁際で小さな子どもが走りまわっていた。さくらホールから1週間前に移ってきた森さん一家だった。
3月11日、海沿いにある自宅が津波に襲われた。父親の吉安さん(51)、母親の智子さん(46)、長女の早世果さん(22)、次女の希美さん(21)、早世果さんの長男の優真くん(1歳7カ月)の5人暮らしだった。友人宅に遊びに行っていて逃げ遅れたらしい希美さんが亡くなった。

早世果さんが語る。
前日まで39・5度の高熱を出していた優真くんが原町区にある南相馬市立総合病院に行けたおかげでようやく鼻水だけに落ち着いてきたという。
「妹はわがままでしたね。仲はよかったし、この子(優真くん)の面倒をよくみていてくれたし、この子も懐いていましたし」

母親の智子さんがしのぶ。
「家は海のそばで、津波が来たらどうしようかって話をしていました。そうしたらこんなになっちゃって。希美は1週間ほどして見つかりました。やっと見つかったね。寒かったね。そんな声をかけました。口の中が泥だらけになっていました。年子なんでわがままでしたけれど、でも優しい子でした。希望を持って美しい子に育って欲しいとつけた名前でした。希望はがたがたですけれどね」

森さん一家が残っている理由。それはただひとつ、「希美さんを火葬するまでは離れない」というものだった。

もしも希美さんに言葉をかけるとしたら、と聞いた。
智子さんは「希美がいなくなったけれど、これからがんばって生きていくからね。できればこの地区で」と話した。そして地域への思いを続けた。「私はもともと原町(現在は南相馬市原町区)です。結婚して鹿島区に来ました。もう離れられない場所ですね。どこかに避難しちゃうと生活の不安があるし、ここにいると復旧する姿も見られますので」と気丈に言葉を紡いだ。

安全センター情報2015年7月号

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