『アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年』(2007年発行) 6 石綿規制法案をめぐる攻防

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業界まかせでは進まぬ代替化

アスベスト・パニック、学校パニックが、石綿除去・処理等事業の拡大や新規参入等(1988年7月16日には日本石綿処理工業協会が発足している)とともに、代替化を一定促進したことは事実である。例えば、1989年12月29日付け日本経済新聞は、「発がん性物質であることが問題になっているアスベストについて、日本自動車工業会は92年までに乗用車、小型商用車用に1切使用しないようにする、との自主規制案をまとめた」と報じている。クボタ・ショック後、同工業会が運輸省、通産省、環境庁に対して、同年4月には、1994年までに全ての自動車について切り替えを完了するとした「自動車における石綿材部品の非石綿材への切り替え計画策定の件」、1994年には、乗用車・小型トラック(GVW2・5トン以下)について切り替え完了、大型車・2輪車用等は計画に遅れが出ているとの「中間報告」、1996年には「完了報告」を提出していたこともわかっている

建設省は、すでに1973年に官庁営繕工事における技術指針のひとつである「庁舎仕上げ標準(暫定修正版)」(現在は「建築設計基準」に統合)で内部仕上げの方法から石綿吹き付け材を削除、1987年9月に、同省所管の官庁施設における方針として、「石綿及び石綿を含む材料・機材の取扱に関する当面の方針について」地方建設局に連絡し、吹き付け石綿等のみならず、将来の解体時等における飛散防止のためのコスト増等を考慮して、やむを得ない場合を除きできる限り石綿スレート等の通常の使用状態では飛散するおそれのない石綿含有建材も使用しないこと等を指示している。しかし、これはあくまで自らが直接所管する施設限りのことであって、1987年に建築基準法関連告示において耐火構造の規定から吹き付け石綿を用いた構造の規定(この規定があったがために、1975年の特化則改正において吹き付けを禁止できなかった)を削除したことを除けば、自ら以外を対象とした建築行政に反映されることはなかった(1989年9月には、建設中の東京新都庁舎に石綿含有の外壁耐火目地材が使用されていることが発覚して問題となっている)。

この間の労働省の「代替化促進」対策は、1983~84年度の石綿取扱い事業場等実態調査研究、1987・90年度の石綿代替物質の有害性・生態影響に関する研究、1988~93年度にかけて石綿代替繊維の工程や取扱い上の労働衛生対策として必要な事項についての調査研究(1996年に中央労働災害防止協会から『石綿代替繊維とその生体影響』として出版)といった調査研究に限られていると言ってよい。

「クロシドライトを優先的に代替」のはずだったものが、「クロシドライトだけが使用中止になればよい」という方針に転換したかのごとく、1989年に実施した調査的監督でクロシドライトを使用している事業場は存在しなかったこと、また、石綿協会が1987年からクロシドライトの使用を中止していると言っているのをよしとして、状況確認以上の努力は払わなかったと言ってもよいだろう。しかし、1989年度に実施された「石綿製品製造事業場に係る調査的監督調査結果」の全国集計でクロシドライトを使用している事業場は存在しなかったとされていたにも関わらず、当時大阪労働局が取りまとめていた集計表には同局管内におけるクロシドライト使用量122トンと記載されていたことが発覚して、2006年11月に厚生労働省がその事実及び事実関係を調査すると発表するという事態が生じている。

環境庁も、1988年度「アスベスト(石綿)代替品の開発及び普及状況に関する調査中間報告」及び1989年度の資料集「アスベスト代替品のすべて」(日本環境衛生センター)など、状況確認以上のことは行っていない。

通産省は、1992~2004年に石綿協会に「石綿含有率低減化製品等調査研究」を委託するなど、代替化促進を図ってきたというが、中小企業の経営支援という側面が主であった。

石綿協会はまた、1984年に自主的に吹き付け石綿を中止したとし、1989年以降は、会員企業が製造する石綿含有(5重量%を超える)建材の1枚1枚に自主的に「a」マークを表示するようになった。また、日本石綿製品工業会が1987年9月に『吹付け石綿の対応等について 石綿繊維飛散防止処理の留意点』(1988年には『吹付け石綿除去工事マニュアル』)を、石綿協会としては、1987年『アスベストあれこれ』、1988年『せきめんの素顔』、1989年『石綿建築材料の取扱いマニュアル』、1990年『石綿と健康』及び『石綿粉じん排出抑制マニュアル』、1991年『石綿をよく知るために アスベストQ&A』(『アスベストあれこれ』の改訂版)を発行。最後の小冊子は「はじめに」で、「一部のマスコミが、石綿の恐怖のみをあおりたてた記事に惑わされることのないよう切望してやまない」と記している。代替化よりも、「管理使用」の促進が業界の基本的姿勢であったと言えるだろう。

結果として、例えば、1989年5月12日付け日本経済新聞は、「発ガン性叫ばれているが…石綿の輸入が急増 建材用に大量消費」という見出しで、「環境庁がアスベスト工場の大気汚染防止対策に乗り出し、アスベストを多く使う建材業界などでも使用量削減を目ざしているのとは裏腹に、内需景気で住宅やオフィスビルの建設にアスベスト入り建材がひっぱりだこになっているからだ」と報じているような実態であった。同記事では、「通産省は学識経験者や業界関係者らを集めて対策委員会をこのほど発足させた。今年度中に代替製品開発の方法などをまとめる」としており、通産省は同年4月に石綿対策検討委員会(生活産業局長の私的諮問機関)を設置し、同委員会での検討も踏まえつつ、翌90年3月、委託調査において石綿代替製品開発ガイドラインを作成したという。また、1992年5月30日付け読売新聞には、「石綿建材なお大量使用 国、業者は規制に消極的」という記事が掲載されている(同記事には、石綿全国連の伊藤彰信・事務局長の「法規制以外に解決策はない」というコメントも掲載されている)。

1989年5月12日付け日本経済新聞の記事
1992年5月30日付け読売新聞の記事

実際、わが国の石綿輸入量は、1974年に35万トン強でピークに達した後、漸減しながらも1984年以降漸増に転じ、1988年には32万トン強と第2のピークをつくっていたのである。いくら「代替化の促進」を唱えて行政指導に努め、管理使用の規制強化をしていると主張しようとも、現実の状況がこのようであったことに対する反省はいまだに国からも、関係企業からも聞こえてきていない。

アスベスト規制法案

このため石綿全国連は、「全面使用禁止を目標に、製造から廃棄までの総合的な対策の確立」を求める立場から政策提言を行うことに力を入れた。1989年9月にはシンポジウム「アメリカ消費者運動リーダーラルフ・ネーダーとアスベスト・環境問題を考える 有害物規制と労働者・市民の知る権利」を開催(この成果は『環境をまもる 情報をつかむ』(第1書林)として出版されている)。同年11月15日の石綿全国連第3回総会で政策提言(案)の討論が行われているが、検討を進めるなかで、縦割り行政のもとでの既存の法令の改正で対処するのでは不十分で、新たに「アスベスト規制法(仮称)」を制定する必要があるとの認識に達していた。

1990年1月10日、石綿全国連は、「アスベスト対策の政策提言―アスベスト規制法(仮称)制定に向けて―」を発表した。これは、1994年までに原則禁止、2000年までに完全禁止することを目標に、段階的な使用禁止や許可制度と代替の促進や抑制の強化を行い、労働現場の対策をはじめ、使用禁止後も継続する一般環境における汚染対策、さらには健康対策など、輸入から製造、使用、廃棄に至るまでの総合対策を確立する。そのために、政府レベルにおいては労働、厚生、環境、通産、建設、文部、運輸、自治、防衛の各省庁による「アスベスト対策委員会(仮称)」を総理府に設置して、労働者、市民の代表の意見を聴きながら対策を進めることとし、「アスベスト対策基本計画(仮称)」を策定して調査、教育訓練、広報啓蒙、許認可、資格認定など活動を総合的に実施する。また、石綿に関する情報を公開して、労働者・市民の知る権利を確立する。以上のことを推進するために「アスベスト規制法(仮称)」を制定することを提言した。

同年4月18日、石綿全国連の呼びかけで、「アスベスト規制法制定をめざす会」(めざす会)の結成総会が開催された。青山英康・岡山大学医学部教授、佐野辰雄、竹内直1、田尻宗昭、天明佳臣・労働者住民医療機関連絡会議議長(当時、現全国労働安全衛生センター連絡会議議長)、広瀬弘忠の各氏を代表に選出し、特別国会提出をめざして法案作成を進めるとともに、アスベスト規制法(仮称)制定を求める国会請願署名運動に取り組むことなどを決定した。

さらに同年11月27日に、石綿全国連第4回総会に続いて、「アスベスト規制法制定をめざす全国集会」を開催し、①石綿及び石綿含有製品の製造、輸入、販売の原則的禁止、②既存石綿製品の飛散防止、③市民、労組代表が参加する石綿対策審議会の設置、を骨子とする「石綿の規制等に関する法律案要綱(案)」を発表した。6百人が参加し、集会終了後、保護衣着用者を先頭に国会前をデモ行進した。また、1990年9月には、アスネットが『アスベストなんていらない』(リサイクル文化社)を出版している。

翌1991年3月22日に開催された「アスベスト規制法制定をめざすシンポジウム」では、社会党政策審議会の「石綿の規制等に関する法律案要綱(案)」の説明があり、4月下旬には社会党の法律案がまとまった。4月24日にはめざす会が参議院議員会館で集会を開き、約63万人分の国会請願署名を紹介議員になった全野党の国会議員に渡して衆参両院議長に提出した。めざす会はまた、3月22日には国会議員と市民の共同政策ネットと協力して関係省庁とのヒアリング、前年末から9月にかけて日本石綿処理工業会、日本石綿製品工業会、日本硝子繊維工業会、石綿スレート協会、石綿協会有志との話し合い、7・8月には全国建設業協会、日本自動車工業会、日本建築士事務所連合会、新日本建築家協会に石綿を使用しないよう申し入れを行うなど精力的な活動を展開した。

めざす下位が3万人分の署名をていしゅつ(1991年4月24日)
社会党(上)と石綿協会(下)の懇談会(1992年5月18日)

11月5日には、石綿全国連の第5回総会が開催され、日本石綿処理工業協会(NAA)の宮川隆司・運営委員が「アスベスト処理の現状について」特別講演を行っている。

業界の反撃で法案は廃案に

規制法案に対する石綿業界の反応は、これまでとは打って変わった激しいものだった。これが、「管理使用」の強化という「程度」の問題ではなく、「使用禁止」への転換という本質的な問題提起をしたものだったからである。残念ながらすでに後退していたメディアは、この本質的問題に敏感とは言えず、政治家、官僚を巻き込んだ業界と労働者・市民との対決を十分カバーできなかった。

石綿協会はまず1991年4月号から『せきめん』の誌面を1新して、「石綿の正しい認識、使い方などを協会内外に普及し、コンセンサスを作り上げることにその努力を集中する」こととした。同年8月1日には、「環境・健康に影響を与えないよう安全衛生面に十分配慮して使用してまいります」とうたった「石綿協会のポジション・ステートメント」を発表した。このなかでは、労働安全衛生法令による管理濃度2繊維/ccより厳しい1繊維/ccという協会独自の石綿粉じん自主基準値を設定して、翌年5月までの達成をめざすと表明。同時に製品別の「代替化の状況及び今後の動向」を示すことで、業界による自主規制に委ねるべきで、法令による「使用禁止」措置は不要と主張した。続いて10月には、『インフォメーション・ブレティン 石綿の動向』第1号を発行。これをマスコミを含めた「世のオピニオン・リーダーの方々」に送るようになり、1999年2月の第39号まで継続されることになる。

1991年11月には、「第3回日本石綿シンポジウム」が開催され、「最近のアスベスト研究と話題」及び「アスベスト代替品に関する最近の知見」が取り上げられたほか、「アスベストの有効利用と規制について」と題して、石綿協会とめざす会の報告及び討論が行われている。

同年12月の『石綿の動向』第2号では、10月にアメリカの連邦高裁がEPAの禁止規制を無効とする判決を下したことを紹介するとともに、これを追い風に一層強気に転じて、「石綿は管理すれば使用できる」という協会会長表明を掲載。翌1992年3月には、「EPA、連邦最高裁判所への上告を断念」と伝える速報(号外)も発行した。

1992年4月に、めざす会が石綿協会に規制法案についての意見交換の場をもつことを求めたが、協会は話し合いを拒否。めざす会は5月には、ノンアス車を公表するよう国内の自動車メーカー12社と主な外車総代理店4社に要請(10社から回答あり)、EU輸出仕様乗用車にはすでに石綿は使用されていないことや、前述の代替化計画の一部も明らかにされた。

アスベスト規制法制定を訴える街頭宣伝

石綿協会は、社会党が呼びかけた規制法案国会提出前の事前懇談会には5月18日に応じたが、協会側は、「自主規制の継続によって対応可能、石綿業界ならびに産業界(工業及び建築)にはなはだ大きな影響を及ぼすものと考えられ、規制法制定には反対」との態度表明を行った。また、その立場を説明した「石綿製品の規制等に関する法律の制定について」、「法律案に対する石綿協会の見解」も提示している。

同年6月の『石綿の動向』第5号では、「1993年6月よりアモサイトの使用廃止を決定」を発表するとともに、規制法案に対する反対表明を掲載。8月の『石綿の動向』第6号では、「会員の約97%が自主基準値達成―作業環境における石綿粉じん濃度調査結果まとまる―」と報告している。協会はまた、『天然の贈りものアスベスト』と題した冊子等(1994年にはビデオ『社会に貢献する天然資源アスベスト』)も作成するなどして、各方面に強力な逆宣伝を行った。

PKO協力法案や佐川疑惑等で国会審議が混乱するなかで法案提出のタイミングを探ってきた社会党は、1992年12月3日に社会民主連合との共同提案により、「石綿の規制等に関する法律案要綱(案)」を議員立法として衆議院に提出した。議事運営委員会で法案の取り扱いが協議されたが、厚生委員会への付託を要求した社会党に対して、自民党は「どこの委員会に付託するか検討したい」と時間稼ぎをしたあげく、社会党以外の野党議員も継続審議を主張したにも関わらず、態度を急変させて廃案に追い込んだ

クボタ・ショック後に明らかにされたところによると、「大気汚染防止法の改正等を受けて、石綿粉じんの飛散等に関する国民の関心が高まってきたことから、関係省庁相互間において必要な情報交換、意見交換を図るため」、1990年10月に第1回石綿対策関係省庁連絡会議が開催され、①石綿の使用禁止を求める意見について、②石綿代替品の開発状況について等の内容が話し合われた。また、1993年5月の第2回会議では、1992年の臨時国会に社会党が提出した石綿規制法案に関する動き等について情報提供、意見交換等が行われたという。構成員は、防衛施設庁、環境庁(事務局)、文部省、厚生省、通産省、運輸省、労働省及び建設省の課長クラスであったというが、詳しい内容は明らかにされていない。

厚生労働省は「過去の対応の検証」の中で、(同法案に対して)「特段、賛否の意を表明していない。ただし、石綿の代替品の使用促進については…その安全性が確立されていない中では、慎重であるべきとの立場であった」と、行政通達等で表明していた代替化の促進に積極的ではなかったことをはからずも自ら告白している。

●アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年
はじめに
1 石綿被害の本格化はこれから
2 日本における石綿の使用
3 石綿肺から発がん性、公害問題も
4 管理使用か禁止か
5 石綿の本格的社会問題化
6 石綿規制法案をめぐる攻防
7 被害の掘り起こしと管理規制強化の積み重ね
8 石綿禁止が世界の流れに
9 日本における原則使用禁止
10 地球規模での石綿禁止に向けて
11 クボタ・ショックと日本の対応
12 石綿問題は終わっていない
●石綿対策全国連絡会議(BANJAN)の出版物