『アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年』(2007年発行) 2 日本における石綿の使用

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石綿利用の始まりと産業化

わが国で石綿が初めて成書に登場するのは、平安時代の『竹取物語』に出てくる、火に燃えない「唐土(中国)にあるという火鼠の裘(かわころも)」であると言われる。実際に石綿で燃えない布「火浣(かん)布」をつくったのは、江戸時代の平賀源内で、実物が京都大学図書館に保管されている。その後、新潟、長崎、熊本等で小規模ながら石綿が採取され、石綿布が作られたが、わが国で石綿が産業利用されるようになるのは明治20年代に入ってからのことで、同じ頃、石綿及び石綿製品の輸入も始まった。

平賀源内のつくった火浣(かん)布(( 社)日本石綿協会『THE ASBESTOS せきめん読本』(1996年))

咸臨丸、朝陽丸をはじめ幕末から日本に輸入された軍艦の蒸気機関の保温材やパッキン等に石綿製品が使用されており、1885(明治18)年に、日本造船所で石綿布を生産したという記録も残っている。本格的国産化は、1891(明治24)年の物部式石綿保温材の製造に始まり、、1896年には、会社組織で石綿製品の製造加工を行う初の試みとして、日本アスベスト株式会社が設立された(当初の主力製品は石綿保温材だったが、衛帯(シール)、布団、塗料、板、布、糸等も製造した)。

1900年にオーストリアのハチェックが石綿セメント製造技術を開発し、その製造法をエタニットと呼んだが、ハチェック式による石綿セメント製品製造は急速に世界中に広まった。日本にも4年後に、この製造法で作られた石綿スレートが輸入されているが、石綿スレートの国産が開始されたのは1914(大正4)年(浅野スレート株式会社、当初はハチェック式ではなかった)、高圧用石綿管を製造する日本エタニットパイプ株式会社が設立されたのが1931(昭和6)年のことである。石綿ジョイントシート製造も1930(昭和5)年に始まっている。

以降、まさに「富国強兵・殖産興業」の波に乗って、軍備や産業施設の拡張、各種車両の増加、建設需要や水道整備等々に応じて、石綿製品の生産も用途も拡大していった。その結果、石綿製品の輸入を駆逐したと豪語できるようになっただけでなく、海外輸出にも積極的だった。一方、原料石綿は輸入に依存していたが、北海道でクリソタイル鉱床が発見され、多くはないものの産出されるようにもなった(別掲写真は富良野産の原石)。戦前の輸入量のピークは、1939年の4万4千トン強である。

ところが第2次世界大戦により、「輸入の杜絶による既存品の繰延使用と内地石綿の積極的開発、外地石綿の移入並びにこれらを総合しての消費統制の強化及び石綿代用繊維事業の拡充等」を講じなければならないという事態になった(後述の石綿協会の機関紙『石綿』創刊号)。物資統制令に基づく石綿配給統制規則が施行され、大日本石綿統制株式会社による配給制のもとで、海軍省、鉄道省、航空会社等の言わば下請け工場と化したわけである。石綿は軍に押さえられ、質のよいものは海軍が持っていたと言われる。

途絶した輸入の穴を埋めるために、全国各地及び韓国、中国、台湾等でも石綿鉱床の開発が行われた。しかし、国内の石綿鉱山は量質ともに劣り、採掘の採算性が悪いため、戦後間もなくほとんどが閉鎖された。

北海道富良野産の石綿原石

第2次世界大戦後の急成長

敗戦後も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領下、(旧)軍に代わって商工省による、また臨時物資需給調整法に基づく指定生産資材として、石綿の配給統制が続いた。石綿業界は軍需産業であったので、機械没収や工場閉鎖等されたところもあったが、食料増産が至上命令とされるなか、肥料(硫安)製造に不可欠な電解隔膜用石綿布の生産が急務ということで、1転して平和産業に衣更えということになった。旧軍保有(隠匿)石綿の配分だけでは需要をまかないきれず、廃石綿の回収や代用石綿の開発なども行われている。

1946年4月に、石綿製品業者、石綿セメント製品業者、石綿開発業者、石綿貿易業者とそれらの共同団体による日本石綿協会(石綿協会)が設立された(1947年6月末の会員名簿には、143社・事業所と日本鉱物繊維製品工業協同組合、石綿鉱山協議会の名が連ねられている)。復興計画や内務省の火災予防新対策に対応して石綿及び石綿セメント製品の用途拡張並びに効用宣伝、払拭してきた石綿の輸入促進(懇請)等が設立当初の主要課題だった。

日本石綿協会機関紙『石綿』創刊号

1949年に戦後初の石綿が横浜港に入荷し、翌年以降本格的に輸入が再開されて供給の足枷が緩和されるのと同時に、1950年の朝鮮戦争勃発に伴う特需(保温材、パッキンやトラック用のブレーキライニング、クラッチ等)をはじめ需要も急速に拡大した。国鉄のSL機関車向けジョイントシートや布・糸、防熱布団等の需要があったり、1950年9月に関西を襲ったジェーン台風は石綿スレートの在庫を1掃して、スレート業界にとっての神風と言われた(その後品質も向上して、台風が来ると需要が増えるという現象は少なくなったという)。


1954年12月の石綿協会機関紙『石綿』紙上には、早くも「造船ブームに期待する石綿業界―造船は石綿製品の最大の需要家」、翌年11月には「造船・自動車を中心にして上げ歩調―原料不足で価格も上昇?」、「新製品の台頭目立つ―石綿スレート上半期実績」等の記事がみられる。電力業界も大口需要者であったし、各種産業等による需要が、多様化、大型化も伴いながら、拡大していった。

ビル建設、住宅建設の大幅な伸長と、防火・耐火規制の強化も、各種石綿含有建材の需要を拡大した。1955年石綿含有吹き付け材、1957年パーライト板、1961年石綿含有屋根材(化粧スレート)、1967年窯業系サイディング、1970年押出成形セメント板、等新たな建材の製造も始まっている。1950年に建築基準法が制定された時点では、石綿含有建材は例示されていなかったのだが、品質・性能の改善、新製品開発と並行した業界の精力的な働きかけの結果、国が防火・耐火材等として公認し、その普及を促進していったという経過がある。

石綿の輸入は、とりわけ1962年に自由化されて以来、まさに経済成長と歩を合わせて急激に増加し、1974年に35万トン超でピークを迎えることになったのである。この間は、品種別の協会、工業会がそろい、活躍した時代とも言われる。

●アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年
はじめに
1 石綿被害の本格化はこれから
2 日本における石綿の使用
3 石綿肺から発がん性、公害問題も
4 管理使用か禁止か
5 石綿の本格的社会問題化
6 石綿規制法案をめぐる攻防
7 被害の掘り起こしと管理規制強化の積み重ね
8 石綿禁止が世界の流れに
9 日本における原則使用禁止
10 地球規模での石綿禁止に向けて
11 クボタ・ショックと日本の対応
12 石綿問題は終わっていない
●石綿対策全国連絡会議(BANJAN)の出版物