『アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年』(2007年発行) 3 石綿肺から発がん性、公害問題も

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石綿肺予防の粉じん対策

1934年に出版された杉山旭『石綿』は、「石綿工場の衛生」という項目をたてて、「工場内の塵芥の程度は、筆者の見たる範囲に於いては実に甚だしいもの」であり、紡績工場と比べて「未だ余り重大視されない石綿工場は、衛生設備尚不完全であり、従って不健康者を出している様である」と記している。石綿肺は、戦前からその危険性が知られていたのであり、1937~40年に内務省保険院社会保険局の医師らによって、大阪・泉南地域を中心とする石綿工場等19工場千余名を対象に実施された衛生学的調査では、石綿肺罹患率が実に12%にも及んだと報告されている。

しかし、戦後1955年に成立した珪肺法では石綿肺は対象とされず、1960年のじん肺法によって、初めて労働現場の石綿粉じん対策がとられるようになった。1958年には、労働省労働衛生試験研究として「石綿肺の診断基準に関する研究」報告書が取りまとめられ、1962年には、日本産業衛生協会が許容濃度等委員会粉じん班を組織し、1965年に、石綿を含む第1種粉じんの許容濃度を2㎎/m3(33繊維/cc相当とされる)と勧告している。

1958年12月21日付け朝日新聞の記事

1971年に制定された特定化学物質等障害予防規則(特化則)でも石綿が対象とされ、その前後に石綿取扱事業場の総点検・監督指導が実施されているが、指導の重点は、マスクの着用、局所排気装置の設置等であった。同装置の性能要件として、フード外側における石綿粉じん濃度が、2㎎/m3を超えないこととされ、これを抑制濃度と呼んだ。

特化則制定に先だってまとめられた労働省の労働環境技術基準委員会報告書では、「抑制濃度の値としては、当面、社団法人日本産業衛生学会が勧告する許容濃度の値を、これに定めていないものについては、米国労働衛生専門官会議(ACGIH)等で定める値を、それぞれ利用することが適当」(この考え方は現在も維持されている)とされていたのだが、ACGIHは、同じ1971年に石綿の許容曝露限界値として5繊維/ccを採択し、さらに2繊維/ccという緊急提案も行っている。イギリスではすでに1969年に、石綿肺発症のリスクを1%以下にする環境基準濃度として、2繊維/cc(クロシドライトは0・2繊維/cc)と定められ、これが各国で採用されるようになっていたのである。

残念ながら、石綿肺を含めたじん肺は、今もなお毎年千件を超える新規労災認定があるという状況であり、減少する傾向が見られないことから判断しても、わが国のじん肺対策の内容・執行の実効性には問題があったと言わざるを得ない。

発がん性・公害に関する報道

1970年に、「ショッキングな報道が3つ続いた。最初は、堺市長曽根町、国立療養所近畿中央病院の瀬良好澄院長が、大阪府泉佐野、泉南両市の石綿紡績、紡織工場で、最近11年間に8人の肺がん患者が出て、6人が死んだ事実を発表したことだ。…これを追いかけるように、都衛生研究所公害衛生第1研究室の溝口勲主任研究員が、東京・本郷3丁目の大気中から、微量だが石綿を検出した。同時に、ニューヨーク市環境保護局が、きびしい『大気汚染規制条例案』を議会に提出、この条例で石綿の吹き付けを禁止することが伝えられた」(同年12月11日付け朝日新聞、別掲)。この記事は、石綿肺だけでなく肺がん、中皮腫の研究の歴史を簡潔に紹介して、「1950年代には、疫学的にも石綿が肺がんを起すことがはっきりしてきた」、「1962~67年にかけて各国で、ネズミやニワトリを使って、石綿でがんを起すことに成功、発がん物質であることが確定した」こと、また各国で、鉱山や工場だけでなく「問題は一般の住民にまで広がってきた」状況も報道している。1972年10月5日には、NHKテレビで「あすへの記録~アスベスト追跡・肺を冒す粉塵」が放映されている。

1970年12月11日付け朝日新聞の記事

こうしたマスコミ報道に対して、「行政当局の対策はきわめて消極的」(1971年2月1日付け日本経済新聞、同じ記事で、「もはや石綿が発ガン物質であることは、疫学的に疑う余地がなくなった」という、米マウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮博士の発言も紹介している)、自動車部品各社や摩擦材協会が「アスベスト公害防止対策に動く」(1972年9月29日付け日本経済新聞)一方で、『石綿』紙は「石綿粉じんは大気汚染の決定的因子ではない」(1972年12月)という記事を掲載したりしている。

国際的知見の日本への紹介・反映

ここで紹介されたような科学的知見は、ワグナーらが南アフリカのクロシドライト鉱山の労働者だけでなく付近の居住者等の多数の中皮腫発症例を発表した1959年の国際じん肺会議(ヨハネスブルグ)、1964年のニューヨーク科学アカデミー「石綿の生物学的影響」、国際対がん連合(UICC)「石綿とがん」に関する国際会議、1972年のILOの「職業がんに関する専門家会議」、国際がん研究機関(IARC)「石綿の生物学的影響」に関する研究会議(リヨン、別掲図)、IARC「人に対する化学物質の発がんリスクの評価に関する研究グループ報告、1973年のILO「石綿の安全使用に関する専門家会議」、1974年のILO「職業がん条約」などの国際的な場でも確認されてきたものである。

日本の行政文書では、労働省の1971年1月5日付け基発第1号「石綿取扱い事業場の環境改善等について」が、「最近、石綿粉じんを多量に吸入するときは、石綿肺を起こすほか、肺がんを発生することもあることが判明し、また、特殊な石綿によって胸膜などに中皮腫という悪性腫瘍が発生するとの説も生まれてきた」と記述している。

また、「昭和47年度環境庁公害委託研究費によるアスベストの生態影響に関する研究報告」(労働省労働衛生研究所・坂部弘之)は、前出のIARCリヨン研究会議のレビューに沿って作成されたものだった。同じく環境庁の1972年度委託研究「人(ママ)肺の病理組織学的研究」では、国内での調査研究結果から、一般環境でも石綿汚染がある可能性も指摘されている。1979年度には「大気中発がん物質のレビュー(石綿)」がまとめられ、出版されている(日本科学技術情報センター)。この報告書では、近隣汚染や非職業的家庭内曝露からも中皮腫が出現することは明らかであることから、わが国の現状把握のための組織的な活動を直ちに開始すること、一般大気中への石綿放出の防止、とくに石綿鉱山、粉砕所、造船所、石綿加工工場の近隣地区の大気汚染防止対策に向かって具体的行動をとることなどが提言されている。

1972年のIARCリヨン会議のプレスリリース

しかし、1972年に、労働基準法から分離・独立して労働安全衛生法が制定されたことに伴い、特化則も再制定され、石綿関連規定も若干強化されたものの、その内容は石綿肺予防対策の枠内にとどまるものであった。

1973年には、石綿配合作業に従事した労働者に発生した肺がんが労災認定されている(わが国における石綿肺がん労災認定第1号。初めての石綿肺労災認定は1954年、中皮腫は1978年であるという)。これより後の事例になるが、1975年7月5日付け基収第2302号「石綿肺がんによる死亡労働者の業務上外の認定例(1件業務上、1件業務外)」によると、「石綿粉じんと肺がんとの関連が明らかにされている」、「ばく露開始から発症までの期間については…10年が当面の認定基準上の目安とすべきと考えられる」、「喫煙は石綿肺がんの労災認定上業務外とする要素とは取り扱うべきでない」等と述べられている。

1973年7月11日付け基発第407号「特定化学物質等障害予防規則に係る有害物質(石綿及びコールタール)の作業環境中の濃度について」では、「最近、石綿が肺がん及び中皮腫等の悪性新生物を発生させることが明らかとなったこと等により、各国の規制においても気中石綿粉じん濃度を抑止する措置が強化されつつある」として、当面、石綿粉じんの抑制濃度を5繊維/ccとするよう指導することとされた。

一方、日本産業衛生学会は1974年になって、他の粉じんから石綿を独立させ、クロシドライト以外の石綿の許容濃度については、イギリスの考え方(石綿肺抑制の観点)に沿って2繊維/cc、「クロシドライトの許容濃度については、これらの濃度をはるかに下回る必要がある」と改訂する勧告を行った。「石綿粉じんの許容濃度の改訂勧告」理由には、国際的に「石綿肺のみでなく肺及び消化器のガン及び中皮腫が注目されるよう」になった一方で、「現行(1965年)許容濃度」は外国に比べ「きわめて高い」ことが述べられている。なお、1981年の再改訂により、クロシドライトの許容濃度は0.2繊維/ccとされた。

発がん物質としての労働対策

1975年の特化則改正により、石綿はヒトに対する発がん性が明らかになった特別管理物質として位置付けられ、がん予防の観点からの曝露防止対策が講じられることとなった。主な内容は、吹き付け作業の原則禁止、記録の保存期間の延長(30年間)、特殊健康診断の実施等である。ただし、規制対象は、石綿及び石綿を5%を超えて含有する製品等であった(後に、1995年に1%超含有、2006年0.1%超含有へと拡大される)。

合わせて、局所排気装置の性能要件を定める告示が改正され、抑制濃度を5繊維/ccとして、行政指導が法令レベルに格上げされた。同時に、新たな行政指導―1976年5月22日付け基発第408号「石綿粉じんによる健康障害予防対策の推進について」で、日本産業衛生学会の1974年許容濃度を踏まえて、2繊維/cc(クロシドライトは0.2繊維/cc)以下を目途として指導するよう指示されている(既述のとおり、2繊維/ccは石綿肺抑制の観点から導き出された基準であり、発がん抑制の観点に立った基準への転換は、わが国では2005年まで待たなければならなかった)。

抑制濃度に関してはがん抑制の観点を貫けなかったものの、同通達には、代替化の促進(クロシドライトは優先的に代替措置)、汚染した作業衣の家庭持ち込みによる家族曝露の防止、自動車のブレーキ修理業務関係者に対する指導(1978年9月28日付け基発第543号「自動車のブレーキドラム等からのたい積物除去作業について」も示されている)等が盛り込まれ、また、前出の「昭和47年度環境庁公害委託研究報告」の一部が参考資料として添付され、その中には、中皮腫患者には石綿作業従事者の身内親戚者や工場近隣居住者も存在する報告したイギリスのニューハウスの1965年の論文の内容等も含まれていた。

一方、労働省は1976年以来、「業務上疾病の範囲等に関する検討委員会」を設置して検討を進め、1978年に、職業病リスト(労働基準法施行規則(別表第1の2(第35条関係))を改正した。これによって、第7号の7「石綿にさらされる業務による肺がん又は中皮腫」という例示が新設され、労災認定基準(同年10月23日付け基発第584号「石綿ばく露作業従事労働者に発生した疾病の業務上外の認定について」)も策定された。1977年度以前の累計労災認定件数は、肺がんが10件で、中皮腫は1978年度に最初の労災認定事例が出ている(石綿肺は、第5号「じん肺又はその合併症」に含まれる)。同年、労働省労働基準局編『石綿による健康障害の評価』(労働法例実務センター)が発行されている。

1976年通達で示された資料のひとつ 注 労働の場における石綿ばく露歴のある者に発生した肺がん等の悪性腫瘍について現在までに把握された事例である(※、※※以外は肺がん)

また、1977年から作業場の気中有害物質の濃度管理基準に関する検討が進められ、わが国独特の管理濃度による規制を導入することとされて、1984年に「作業環境の評価に基づく作業管理要領」(1984年2月13日付け基発第69号)が示されたが、石綿の管理濃度は、抑制濃度時代の行政指導と同じく、2繊維/ccのままであった。

一般住民・環境対策は動かず

なお、1972年6月7日の衆議院科学技術振興対策特別委員会で、労働者にがんが多発していることを踏まえた石綿製造工場周辺住民対策が問われ、厚生省公衆衛生局長が、「過去のそのような工場が地域社会に粉じんをまき散らしたというような状態はかなり改善されていると思うのでございますが、問題がそういうように発展する可能性は防がれているとは思いますが、あれば一般住民の健診についてはわれわれのほうで考慮する必要がある」等と答弁している。しかし、厚生省が実態の把握なり、監視に向けた検討等を行った形跡はない。

環境庁では、1975年度から一般環境中の石綿測定法の検討を開始し、「昭和50年度環境庁委託研究環境中に浮遊するアスベスト粉塵の測定方法に関する委託研究報告書」(労働科学研究所・木村菊二)がまとめられ、これに基づいて1977~78年度に、石綿含有製品製造工場の排出口及び敷地境界での濃度測定を行った。その結果を受け1978年末に(第1次)「アスベスト発生源対策検討会」を設置、1980年に報告書がまとめられ、石綿発生源として石綿製品製造工場、自動車のブレーキライニングの摩耗、建築・解体作業等があげられたが、得られた情報の整理にとどまり、具体的な対策を打ち出すには至らなかった。
1976年末に行田労働基準監督署が実施した曙ブレーキ羽生製造所に対する労働衛生監督に際して、下請事業場周辺住民に肺がんによる死亡例があることを把握。同監督署は、行田保健所及び羽生市役所に協力要請して肺がん死亡者の追跡調査を実施した。この件は、埼玉労働基準局及び労働省労働基準局長宛てにも一度ならず報告されていたにも関わらず、上部機関が腰を上げることはなかった。

石綿業界の反応、AIA加盟

以上みてきたような健康・環境問題(内外での発がん性、公害の可能性の焦点化と規制の強化等)は、1973年秋からの第1次石油ショックと重なって、わが国の石綿業界を直撃した。石綿スレート業界の不況カルテルの実施や、石綿紡織品業界における中小企業事業転換法に基づく事業転換の促進等といった事態に陥ったのである、そのような中で、一方で、脱石綿(や海外移転)の道を探る動きが出始めるとともに、他方では、業界全体として規制強化に抵抗して延命を図る動きが活発化していく。

1976年初めに、日本石綿製品工業会は『石綿あれこれ』というパンフレットを発行[『石綿』No.365(1976年)に全文掲載]。ここでは、「昔のひじょうに悪い作業環境の時代のものが現在問題になっている…最近のように管理が行き届いていれば、今後ほとんど影響はないと考えてよい」(2005年夏のクボタ・ショック時の業界の主張と全く同じである)、「石綿による害は公害ではなく、職業病」等と主張している。

同年8月には、日本石綿紡織工業会が、5月に発出された前述の行政通達「石綿粉じんによる健康障害予防対策の推進について」の緩和を求める陳情書を労働省に提出している。そのなかでは、「代替措置の促進については是非取止められたい」、抑制濃度について「『改正特化則』にて5繊維/ccと規制されて間もないのに、その結果も見ずして更に2繊維とすることを打出させることについては承服できない」等と主張した[『石綿』No.367(1976年)]。

また、同じ1976年の3月には、日本石綿製品工業会と石綿スレート協会の2団体が1本化したかたちで、1974年に設立されていた国際石綿情報会議(IAIC)に加盟した。「IAICの発足は、1972年に国際ガン研究機構の医学シンポジウムで石綿の発ガン性が報告されて以降、石綿に対して極端な認識を持たれる傾向が生まれ、石綿製品への正しい理解がゆがめられるおそれが出たため、世界的な規模のなかで石綿に関する情報の交換を行おうという趣旨による」。「すでに主要15か国が加盟しており」「日本は米国、英国とならぶ3大石綿消費国であり、IAICへの参加をかねて要請されていた」(『石綿』363号)。翌1977年には、IAICが改称したAIA(1976年設立、加盟国34か国)に、業界全体―石綿協会として参加することになり、同協会内にAIA部会が設置されて活動が開始された。

この事情は、『せきめん』誌389号(設立満30年記念号、1978年)に寄せた会長挨拶で次のように説明されている。「当局御了解の下に石綿協会が中心となって本件処理に当ることとなり、昨(1977)年は石綿国際協会(AIA)へ加盟致し、本(1978)年4月には日本経営者団体連盟(日経連)に加盟、今後労働衛生問題につき会員及び当局間の一層緊密な連絡の保持に心がける決心で居ります」。

「品種別の協会・工業会が活躍した時代」から、健康・環境問題、規制強化に対抗するために再び石綿協会が前面に出てくる時代になったとも言えよう。1982年に同協会内に安全衛生委員会が設置されているが、当初はAIA部会の下部組織であったことも、協会における安全衛生問題の位置づけを反映しているものと考えられる。

ちなみに1981年、日本アスベストは、社名をニチアスに変更した。同社百年史によると、「石綿が健康障害の原因の1つとして取り上げられ始めたこと、一方では当社製品・商品に占める原料としての石綿の割合はすでに約10%に低下しており、石綿という1つの物質を社名とすることは適切ではないということであった」と説明されている。

●アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年
はじめに
1 石綿被害の本格化はこれから
2 日本における石綿の使用
3 石綿肺から発がん性、公害問題も
4 管理使用か禁止か
5 石綿の本格的社会問題化
6 石綿規制法案をめぐる攻防
7 被害の掘り起こしと管理規制強化の積み重ね
8 石綿禁止が世界の流れに
9 日本における原則使用禁止
10 地球規模での石綿禁止に向けて
11 クボタ・ショックと日本の対応
12 石綿問題は終わっていない
●石綿対策全国連絡会議(BANJAN)の出版物