『アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年』(2007年発行) 5 石綿の本格的な社会問題化
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わが国での先駆的な取り組み
わが国では、1986年から89年にかけて各種メディアが石綿問題を大きく取り上げ、本格的な社会問題化が始まった。「アスベスト・パニック」、あるいはとくに1987・88年に学校の吹き付け石綿が焦点になったことから「学校パニック」とも呼ばれる。
これには、わが国での実態把握等の調査研究や、被害の掘り起こし、対策を求める先駆的な取り組みがあった。
厚生省がん研究助成金「地域がん登録による予防、医療活動の評価に関する研究 昭和55年度報告書」には、大阪府がん登録及び日本病理剖検輯報等をもとに1967~78年の大阪府における中皮腫の罹患率及びその推移をわが国で初めて報告(同期間に59例の中皮腫症例を確認)して諸外国と比較、また各国の中皮腫登録の活動も紹介した「大阪における中皮腫の疫学」(森永謙二他)が収録されている。1980年7月には大阪中皮腫研究会(代表、世良好澄・国立療養所近畿中央病院院長)の準備会が組織され、翌年6月に第1回目の中皮腫パネル(病理学的検討)が行われており、1980年3月15日付け朝日新聞は、「研究者の間では『そろそろ石綿関係労働者だけでなく、一般の人にも肺がんや中皮腫が増える恐れがある』として自主的な監視、研究体制を作る動きが出てきている」と、このような動きを報じている。
全港湾では、1974年の神戸港での集団健診で初めて石綿肺を確認。1976年に石綿肺と診断された労働者2人のじん肺管理区分申請を行ったが、港湾荷役作業は粉じん作業ではないという理由で却下されてしまった。その後、全国的な調査結果をもとに、1981年に、109人のじん肺申請を1斉に行うとともに、労働省に港湾荷役作業を粉じん作業とすることを要求し、1985年に実現させた。また、喉頭がん、胃がんについても石綿曝露によるものと認めさせるために労災申請を行ったが認められず、以来、わが国ではまだ認定事例がないままである。
石綿含有建材を取り扱う機会の多い労働者の立場から、全京都建築労働組合は1981年に、日本における石綿使用の全廃を求める方針を決めている。各地の建設労組に石綿被害の掘り起こしや被害を防止する取り組みがひろまり、全建総連は1987年に、アスベスト対策委員会を設置、他団体とも連絡を取り、全面使用禁止を求めていくことを決定した。
1982年5月8日付け読売新聞夕刊は、「石綿肺ガンの恐怖 5年で39人死んでいた 基地や造船関係」という見出しで、横須賀共済病院で1976~82年に入院・死亡した患者の病理解剖結果と石綿曝露歴の追跡調査の結果を報じた。このニュースに衝撃を受けた全造船浦賀分会と退職者の会は、神奈川労災職業病センター等と協力して退職者の会会員330名を対象に健康アンケート調査を実施。翌年4月からは自主健診を開始し、1984年からは全駐労横須賀支部も加わって調査・健診対象者を米海軍横須賀基地退職者(約6千人)に拡大するとともに、発見された石綿肺患者の労災認定等にも取り組み、1985年11月、全国じん肺患者同盟横須賀支部・横須賀地区じん肺被災者の会が結成された。この間、横須賀地区労、神奈川県評等とともに横須賀市、神奈川県等に石綿対策に取り組むよう要請も行われ、全造船は同年の定期大会運動方針のなかで石綿製品の全面使用禁止を掲げるに至った。
また、この横須賀での取り組みの中から、石綿肺に罹患した住友重機械工業の元労働者8人が、1988年7月に横須賀石綿じん肺訴訟を提起することになるが、わが国における先行する石綿訴訟としては、日本アスベストで吹付工として働き石綿肺に罹患した2人の労働者に係る損害賠償請求訴訟が1980年3月に東京地裁で和解しており、また、後述の長野じん肺訴訟が1977年に提訴されている。
沖縄では、1994年から米軍基地に使用されている石綿及びその解体による健康被害、大気汚染等が社会問題化し、全駐労沖縄地本は基地内立ち入り調査の徹底、全面撤去、健康対策等を要求、問題は県庁舎解体対策等にも及び、石綿対策を講じた建築物解体の必要性がひろく県民に浸透するところとなった。
総評・春闘共闘には「労災職業病対策会議」があったが、1980年代はじめに関係単産と研究者による「職業がん研究会」が発足、各単産や地方での取り組みと同研究会の存在、そしてILO石綿条約の討議に代表を派遣したことが、後述の石綿全国連の結成呼びかけにつながった。
また1985年末には、わが国初めての石綿問題の一般向けの啓蒙書として、広瀬弘忠(東京女子大学教授)『静かな時限爆弾―アスベスト災害』(新曜社)が発刊されている。
アスベスト・パニック
1986年になると、まず1月に、アメリカでEPAが石綿の段階的全面禁止の方針を打ち出したことが大きく報じられた。4月には、大阪府北部で石綿糸・布等を製造し1981年に閉鎖された小規模な石綿紡績工場の全従業員208人を1983年末まで追跡調査した結果、石綿関連疾患で7人が死亡(肺がん3人、中皮腫1人)、肺がん死亡は一般の6・8倍等と明らかにした「日本初の疫学調査」の結果が公表された。
6月には、前述のILO石綿条約が採択され、また、長野市内の石綿紡績工場に勤務し石綿肺になった元従業員と遺族計24人が、雇用主の平和石綿工業と親会社の朝日石綿工業、国の3者を相手取って損害賠償を求めていた長野石綿じん肺訴訟の判決が長野地裁で下された。同判決は、国の責任は認めなかったものの、被告2社の安全配慮義務違反を認め1億9千万円の賠償金の支払いを命じた(7月に和解が成立)。
10月には、米海軍横須賀基地で空母ミッドウェーの改修工事(別掲写真)に伴う石綿廃棄物が路上に不法投棄されていたというニュースが報じられた。被害者の掘り起こしを進めていた神奈川労災職業病センター等が、春から行われていた同空母の改修工事で排出された石綿廃棄物の行方を追跡する中で発覚したもので、米軍基地内では「石綿廃棄物専用」コンテナで他の廃棄物と区別されていたものが、基地から運び出されたとたん横浜市内の中間処理場で粉砕されて他の廃棄物と混ざり、さらに千葉県内の最終処分場に無防備に捨てられている実態も曝露され、大きく報道されて、廃棄物処理法の不備も明るみに出した。結局、米軍はミッドウェーから出た石綿廃棄物を本国(クェーク島)に持ち帰った。
このようななかで11月には、石綿問題に取り組んできた研究者が中心になって、名古屋大学で「第1回日本石綿シンポジウム」が開催された。「石綿研究の歴史と最近の知見」及び「わが国の石綿問題の現況」が報告され、全京都建築労組や沖縄からの報告も行われている。ニューヨーク・マウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮教授の特別講演も行われた。なお、3年後の1989年9月に「第2回日本石綿シンポジウム」が開催され、世界の石綿研究のリーダーであったマウントサイナイ医科大学のセリコフ教授が来日して特別講演を行った他、1987年に結成された石綿全国連の中心メンバーであるアスネット、全港湾、全建総連からの報告も行われた。「第3回日本石綿シンポジウム」は、石綿規制法案が争点となった1991年11月に開催されている。
翌1987年2月18日付け朝日新聞夕刊は、「石綿を使う工場の近くに住んでいた主婦が、石綿が原因とみられるがん・中皮腫にかかっていたことが、文部省の『環境科学研究班』(代表、原一郎・関西医科大教授)の調査で明らかになった。大気中に出た石綿が中皮腫の原因であれば、日本で初めての例という」と報じた。これは、大阪中皮腫研究会が収集した中皮腫症例の肺組織内石綿繊維数等を検討した結果のなかで示されたもので、同年4月7日付け読売新聞夕刊も、この検討結果を紹介している。
また同年12月28日付け毎日新聞は、「兵庫県内にある石綿関連工場の従業員、元従業員3人が昨年から今年にかけ、このがん(中皮腫)で相次いで死亡していることが明らかになった」との記事を掲載した。「問題の工場は、大阪に本社のある大手会社の住宅建材、パイプ製造部門で、作業過程で石綿を使っている」―すなわちクボタ旧神崎工場のことであり、後に明かされた同社資料によれば、「勤労課より、各職場毎に記事の説明を実施した」と記載されている。旧神崎工場における労働者の石綿関連疾患による累積死亡者数は1987年までに6人、86年に初めて中皮腫患者が出ており、同年に「石綿取扱い経験者リストを作成」、翌87年には「他事業所への転出者の追跡調査」、「定年退職者は、OB会組織で健康状態を把握」したとされている。しかし近隣住民は、企業名が匿名の報道だけでは、自らに関わりのある事態とは知るすべもなかった。
1987年に入ると、2月に大阪大学環境工学科研究棟で、続いて東京大学工学部、神戸市の公共上屋(港湾倉庫)、川越市の教職員住宅、小松市の自衛隊基地周辺の小中学校等々で吹き付け石綿がみつかり、メディアでも取り上げられ、また、利用者や住民の取り組みが始まるなど、建物内の吹き付け等の石綿、建築物解体時の石綿粉じん飛散防止対策に対する関心が全国各地で急速に高まった。
とりわけ学校の吹き付け石綿に対する社会の関心が集まり、地方自治体も調査せざるを得なくなって、結局文部省が全国の公立・私立の学校・幼稚園、国立学校等における吹き付け石綿の実態調査を指示、公立学校(小中高等)合計約4万校のうち千3百余校でみつかるなどの結果が公表された。厚生省、建設省、防衛庁等も同様に、所管・関連する施設・建物等における吹き付け石綿の実態調査を行うこととなった。こうした結果、とりわけ1988年の夏休み期間中に集中して、発見された吹き付け石綿の除去等工事が全国で行われるという状況の中で、各地で混乱やトラブルも頻発している。
さらに1987年7月には、ベビーパウダーに石綿が混入しているという分析結果が、ショッキングなニュースとして大々的に伝えられた。分析を行った産業医学研究所・神山宣彦氏が1975年に行った分析結果ですでに確認されていたにも関わらず、石綿に汚染されたベビーパウダーが流通し続けていたという事実も関心を煽ることになった。厚生省(薬務局審査第2課長)は「ベビーパウダーの品質確保のための検討会」を設け、11月に、今後輸入、製造にあたって原料に石綿が含まれていないことをメーカー側に確認させるよう、各都道府県に通知した。また、学校で使用される石綿金網や石綿含有水道管のことなども問題になった。
石綿対策全国連絡会議の結成
1985年以前からの先駆的な取り組みも含めて、1986~87年の諸事件の現場や関係者による取り組みが急速に広がっていた。住民、市民の立場からの運動も新たに生まれてきたわけで、日本消費者連盟が1987年春に発刊したブックレット『グッバイ・アスベスト』は、各地で活用された。
1987年9月に東大全学職員連絡会議と東大自主講座が開催したシンポジウム「石綿(アスベスト)問題は今」を契機として、11月にアスベスト根絶ネットワーク(アスネット)準備会が結成され、1988年2月に正式に発足した。アスネットは、建物の石綿問題に取り組む市民らが結集する場となり、また、各地の住民、市民団体等の相談に応じていった。
また、横須賀での取り組みの中心となった神奈川労災職業病センターの田尻宗昭所長の呼びかけで、鈴木武夫(国立公衆衛生院院長)、佐野辰雄(元労働科学研究所副所長)両氏をはじめ研究者、医師、弁護士らによってアスベスト問題研究会が組織され、その成果が『アスベスト対策をどうするか』(日本評論社)として1988年7月に出版された。
様々な努力を結集させるかたちで、1987年11月14日、労組、市民団体、様々な分野の専門家をはじめ関心を持つ個人で構成される石綿対策全国連絡会議(石綿全国連)の結成総会をかねて、同準備会と総評の共催による「労働者・住民のいのちと健康の破壊を許さない石綿(アスベスト)シンポジウム」が開催された。集会では、横山邦彦・近畿中央病院医長の記念講演、国労、日本消費者連盟、全駐労、全建総連、全港湾、日教組、東大全学職員連絡会議、自治労、神奈川労災職業病センター、全水道、全国じん肺弁護団、廃棄物を考える市民の会等の参加団体からの報告も行われ、結成された石綿全国連の代表委員には、黒川武・総評議長、江口利作・全建総連委員長、竹内直1・日本消費者連盟代表、田尻宗昭(前出)、佐野辰雄(前出)の5人が就任した。
石綿全国連は早速、①石綿の全面使用禁止をめざし、当面、極めて発がん性の高いクロシドライトの使用禁止、その他の石綿の抑制基準濃度を0・2繊維/ccとすること、②石綿に関する労災認定を石綿肺、肺がん、中皮腫以外にも拡大し、労働者以外の石綿被害者の補償制度を確立すること、③関係省庁を1本化した石綿対策機構を直ちに設置すること、④ILO石綿条約を批准すること、⑤公立学校など教育施設において石綿による健康被害者が発生しないよう、石綿の除去及び健康対策を確立することなどを申し入れて、労働、環境、厚生、通産、文部、建設の6省庁との交渉を行った。しかし、関係省庁間の連携はまったくなく、いずこも新たな対策の着手には消極的な対応であった。
翌1988年3月には、社会党に提言する会公害・環境プロジェクトチーム(田尻宗昭・代表)が、前出と同じ6省庁の担当部局の課長クラス約40名を1堂に集めて石綿問題合同ヒアリングを実施、社会党から土井たか子・委員長らと石綿全国連参加団体など、全国各地で石綿問題に取り組む団体の代表ら約50名が参加した。
石綿全国連としても、夏休みに全国1斉に行われる見込みの石綿除去等工事に対して高まっている不安に応えることも目的に、同年6~7月に石綿問題連続講座(テーマは、①石綿による健康障害、②吹き付け石綿と環境汚染、③ILO条約と諸外国の石綿対策、④石綿廃棄物と有害物対策)と「アスベストの追放を求める労働者、市民のつどい」の開催(集会後、保護衣着用者を先頭にわが国ではじめての石綿追放デモも実施)、文部科学省、東京労働基準局、東京教育庁との交渉、都道府県に夏休み中に工事の行われる学校名を公表させる働きかけ、また3月大阪、10月福岡での石綿シンポジウム開催、と精力的に活動を開始した。10月27日には、第2回総会と合わせて、スウェーデン労働総同盟顧問医のウェスターホルム博士を招いて、国際シンポジウム「アスベストによる健康・環境破壊防止対策―スウェーデンにおける対策を参考に」を開催したが、これはわが国の今後の政策提言に向けた取り組みの第一歩でもあった。
労働者・市民を代表して、石綿の全面使用禁止をめざして、総合的な石綿対策の強化・確立を求める石綿全国連が登場したことはわが国の歴史上画期的なことであり、様々な現場で問題に取り組む全国の労働者・市民を結集し、取り組みを立ち上げ・展開し、またそれを支援するというかたちで、石綿全国連は1987~88年の全国各地の運動に大きな影響を与えた。
行政の学校パニックへの対応
しかし、政府の対応は鈍かった。石綿全国連第2回総会は、政府の基本的態度を、①石綿は安全に使用すればよい、②一般環境のリスクは少ない、③低濃度ならば安全である、④吹き付け石綿の対策だけが問題である、というものと要約している。加えて、縦割り行政のなかでの各省庁まかせということも指摘できるだろう。
労働省は、1986年9月6日付け基安発第34号「建築物の解体又は改修の工事における労働者の石綿粉じんへのばく露防止等について」を発出、法令による措置に加えて、石綿等の使用箇所・使用状況の事前調査の実施、解体作業場所の隔離等を指示した。これを踏まえて建設業労働災害防止協会が1987年7月に、「建築物の解体又は改修の工事における石綿粉じんへのばく露防止のためのマニュアル」を作成、1988年3月30日付け基発第200号「石綿除去作業、石綿を含有する建設用資材の加工等の作業等における石綿粉じんばく露防止対策の推進について」も示された。
1987年10月24日に環境庁は文部省に対して、また同月26日には都道府県等に対して、「吹付け石綿で覆われた天井等が存在する学校施設の改修、解体等を実施する場合には、アスベストの環境大気中への排出抑制が適切に実施されるよう、施設管理者への指導」を要請(環大規第214号)。文部省は、同年11月11日付けで都道府県教育委員会施設主管課長等宛てに「アスベスト(石綿)による大気汚染の未然防止等について」通知(62国施指第4号)した。
翌1988年1月20日には、厚生省の建築物内における健康に影響を及ぼす粉じんの実態とその抑制に関する研究班(前年8月に設置)の「当面の建築物内アスベスト対策について(中間報告)」がまとめられ(同年3月に最終報告、同月に「生活衛生領域におけるアスベストの測定・評価法に関する研究報告書」もまとめられている)、同年2月1日には、環境庁大気保全局大気規制課長と厚生省生活衛生局企画課長の連名で、「建物内に使用されているアスベストに係る当面の対策について」通知された(環大規第26号・衛企第9号)。なお前後して、文部省、厚生省は、石綿処理工事等を国庫補助の対象とすることも決定、通知している。
1988年6月に、建設省住宅局建築指導課、建設大臣官房官庁営繕部監督課監修『既存建築物の吹付けアスベスト粉じん飛散防止処理技術指針・同解説』が日本建築センターより発行され、建設省は、「既存建築物の吹付けアスベスト粉じん飛散防止対策の推進について」通達、同年10月には上記技術指針・同解説を踏まえて、建設省所管官庁施設における調査方法や標準的な仕様書の内容等を示した「吹き付けアスベスト粉じん飛散防止対策暫定方針」を定めて地方建設局等に通知、11月には、都道府県宛てに公共住宅においても的確な対策を継続するよう通知している(なお、上記暫定方針の内容について一定の実績を得たことを踏まえてとして、1998年度版の「建築改修工事共通仕様書」に吹き付け石綿に係る規定が追加された)。
関係省庁から新たな行政指導通達等が乱発される一方で、施設・建物等の所有者・管理者等に対する教育・指導は徹底されず、生徒・児童や父母、利用者等に石綿とその対策に対する理解も徹底されないままに調査や工事の迅速さのみが強調され、法令にも違反する工事が少なくない実態であった。まさに「学校パニック」と呼ばれた所以である。
調査指示に誤りがあったり、調査から漏れた吹き付け石綿も少なくなく、吹き付け以外の石綿含有建材等はほとんど調査もされないまま。また、除去されなかったものも、調査結果の記録が文書保存期間終了後に破棄されてしまい、情報が引き継がれずに後に問題を生じさせたなどの例も少なくない(建設省は、自らが所管する建物については、調査結果とその後の処理・対策の経過を継続的に把握し続けたが、同じことを自ら以外のものには求めなかった)。建設省の対応が相対的に遅れたようにも見えるが、逆に他省庁の対応の方が拙速なものであったと言うこともできる。いずれにしろ、省庁間の連携のとれた対応とは到底言い難かった。
東京都の「アスベスト対策大綱」、大阪府の「アスベスト対策基本方針」など、独自の対策を定める地方自治体も出てきている。
廃棄物対策・濃度基準
1987年10月26日には、環境庁水質保全局長と厚生省生活衛生局水道環境部長の連名で「アスベスト(石綿)廃棄物の処理について」通知している。「アスベスト廃棄物の処理に関する基準について、今後、必要な調査検討を行う」としつつ、当面留意すべき事項を示したものであった。厚生省は、(社)日本廃棄物対策協会に依頼して、「建築、解体工事に伴うアスベスト廃棄物処理に関する技術指針・同解説」を取りまとめ、翌(1988)年夏に、工事業者、産業廃棄物処理業者、医療関係団体等に周知、「アスベスト廃棄物の適正処理について」指導した。
1987~89年に厚生省が(財)日本環境衛生センターに委託した、「最終処分場におけるアスベストの挙動に関する研究報告書」では、上記技術指針・同解説に対する評価として、(廃棄物について)石綿かどうかの識別が困難である、不適正処理への罰則がないなどの問題点を指摘しているものの、「このような問題点はあるが、吹付けアスベスト等飛散性の高い大量発生アスベスト廃棄物は、当面この技術指針に即した適正処理の推進を図る必要がある」として、法令による対応は勧告していない。
厚生省、環境省は1981~89年度に廃棄物最終処分場の敷地周辺(最高濃度8.37繊維/l)及び埋立作業場所周辺(最高濃度33.31繊維/l)の大気中石綿濃度を測定しているのであるが、当時の判断としても「当時の石綿の紡績品製造工場の敷地境界(最高濃度378(平均99.3)繊維/l:昭和62年度環境庁調査結果)等と比較して低いものであった」とする評価を妥当というわけにはいかないだろう。
1988年に、労働大臣が作業環境評価基準を新たに作成、労働安全衛生法改正により作業環境測定結果の評価は同基準に従って行われなければならないこととされた。同基準で示された石綿の管理濃度は2繊維/cc(クロシドライトの場合は0.2繊維/cc)で、1976年から行政指導で行われてきたものを法令による規制に格上げしたにすぎず、翌年度の労働省の委託研究「石綿の諸外国における許容基準に関する文献的研究」でも確認されている、1繊維/ccがこの時点での大勢、アメリカではすでに0.2繊維/cc(1986年から、1990年からは0・1繊維/cc)と比べて高すぎる数値であった。
日本産業衛生学会によると、1981年の許容濃度について、「その後、1986年に改訂の動きがあった。…1987年に石綿に関する小委員会が発足し、発がん物質についての小委員会と並行して進めることになった。小委員会の担当委員が大学の要職に就き、その後健康を害したこと、日本バイオアッセイ研究センターでの吸入実験が実施中であったこと等の理由で、検討は行われたが提案に至らなかった」という。
いずれにしろ、現在に至るまで、作業現場の濃度規制は屋内作業場にしか適用されず、問題となってきた建築物の解体・改修現場や廃棄物処分場等の屋外作業は規制の網から漏れたまま放置され続けている。
環境庁が1981~83、87~89年度に建築物解体現場の大気中の石綿濃度を測定しているが(解体工事後最高濃度8.52繊維/l)、これまた、当時も現在も「石綿製品製造工場周辺と比較して相当に低濃度であった」という評価で、建築物解体等現場周辺の環境濃度は今日に至るも規制されていない。
1989年度には、厚生省が(財)ビル管理教育センターに「室内空気環境リスクアセスメントに関する研究」を委託しているが、室内空気環境の濃度基準が今なお策定されていないことも同様である。
環境庁のモニタリング等
環境庁では、1980年の「アスベスト発生源対策検討会報告書」の後も調査・研究が継続されている。1980~83年度には石綿健康影響に関する委託調査が行われ、これは、1987年度に「アスベスト健康影響調査」としてまとめられている。1981~83年度には、全国規模の大気環境モニタリング(「アスベスト環境濃度の立地特性別相対評価調査」)も行われ、石綿製品製造工場散在地域、道路沿線、蛇紋岩採石場、工業地域、住宅地域等における大気中の石綿濃度が測定された。この調査に助言を与え、結果を評価するために1981年に第2次「アスベスト発生源対策検討会」が設置され、1984年末に報告書がまとめられて、翌年『アスベスト排出抑制マニュアル』(ぎょうせい)として発行された。環境庁は1985年2月に、厚生、通産、労働、建設の各省、都道府県、石綿協会等に、同報告書を送付し、「アスベストによる大気汚染が長期的には問題となる可能性があるので、本報告書の趣旨を踏まえて石綿の大気環境中への排出の抑制等について配慮するよう取り計らう」ことを依頼している。
1982年度には、「大気汚染物質と遅発性健康障害」報告書もまとめられており、アスベストについても取り上げて、一般大気環境中の石綿濃度について、「日本においても、環境汚染の実態把握、発生源の探索、日本人についての生物学的データの収集など地道に努力を積み重ねる必要があろう」としている。1980年度「自動車より排出される排気以外の排出物に関する研究」、82~83年度「自動車より排出されるアスベスト調査」も行われている。
1986年度には、前出1979年の「大気中発がん物質のレビュー(石綿)」の大幅な増補が行われ、翌年度『石綿・ゼオライトのすべて』として発行された((財)日本環境衛生センター)。これには、1987年2月18日付け朝日新聞夕刊で報じられた石綿工場近隣居住主婦の中皮腫の事例も紹介されている。報告書は、「大気汚染物質としての石綿に関する一層の重点課題として取り組むべきである」と括り、「両疾患(肺がん・中皮腫)を対象とすることに異論の余地はない」ともしている。
1984年の検討会報告書で長期的に環境モニタリングを継続する必要があるとされ、また同年度「アスベストモニタリングマニュアル」がまとめられたことを受けて、1985年度から隔年で全国規模の大気環境モニタリング(「未規制大気汚染物質モニタリング」)が実施されるようになった(しかし、1995年度で打ち切られた)。
また、1987~89年度には、石綿製品製造工場の敷地境界、建築物解体・改修工事現場、廃棄物処分場に重点を置いた発生源精密調査、88~89年度には「アスベスト製品製造工場における排出抑制対策等実態点検調査」も実施された。前者の結果を評価するために1988年に「アスベスト対策検討会」が設置され、同年11月に報告書が取りまとめられた。同報告書は、次のような「まとめ」をしている。
「昭和62年度の調査結果を見ると、一部のアスベスト製品製造工場の敷地境界において最高値約100繊維/l(平均)のアスベスト濃度が測定されるなど排出抑制の十分な実施が疑われる場合のあることが判明した。このような濃度が今後とも継続した場合には、発生源周辺においてリスクが相対的に高まることとなる。したがって、発生源周辺におけるアスベスト濃度をWHOが検出できないほど低いリスクとしている濃度範囲におさえるため、アスベスト製品製造工場において、適正な維持管理等の実施を確保するよう、所要の措置を講ずることが必要であると考える」。
なお、1988年3月には、前出の『アスベスト排出抑制マニュアル 増補版』(ぎょうせい)が発行されている。
1989年大気汚染防止法改正
環境庁は、アスベスト対策検討会報告書を受けて1989年に、大気汚染防止法の改正を行って、石綿製品製造工場に対する規制に乗り出した。主な改正内容は、①特定粉じん(石綿)発生施設(解綿用機械、混合機等9種類)を設置する工場・事業場の規制基準(10繊維/l)を定める、②特定粉じん発生施設の設置・変更に当たっては事前に都道府県知事へ届け出ることととし、当該届出に係る施設について必要に応じ計画変更命令等を行うことができる、③規制基準に適合しない場合には改善命令等を行うことができる、④事業者に測定義務を課すほか、罰則等を設けることとする等である。同年11月には、規制対象施設、規模要件等の政省令事項を検討した「アスベスト対策推進検討会報告書」もまとめられた。
たしかに、1970年頃から公害・一般環境対策が問題になり、調査研究だけを延々と続けてきた環境庁が法規制に乗り出した(一部ではあるが法の網がかけられた)ことになり、また、1986年以来全国的に石綿が大問題となってきて通達やマニュアル・指針ばかりが乱発されるなかで、初めての法令による対応ということではあった。メディアはこれを機に石綿問題を取り上げる機会が激減していった。
しかし、当時も石綿全国連等が指摘したように、①10繊維/lはWHOの基準でも安全基準でもない、②規制対象は石綿製品製造工場約4百事業所というが労働安全衛生法の特化則適用対象事業場は約3千、そのほか建築物の解体・改修、廃棄物処分場、幹線道路沿線などは対象になっていない、③職業曝露由来以外の健康被害に関する対策は含まれていない、④代替化・使用禁止の促進対策も盛り込まれてはいない、⑤関係省庁が連携する総合的な対策の一環になっていない、等の問題点、課題は山積みであった。
濃度基準は、この後も度々問題になるが、環境省は1996年に、生涯死亡率10万分の1(1生涯の曝露で10万人に1人が特定物質への曝露により死亡)を環境リスクの「当面の目標」にする(「環境リスクのレベルは本来低減されるべきであり、この基準まで許容されると受け止められるべきではない」ともしている)という考え方を確立している。にもかかわらず、すでに濃度基準を設定している物質については、この原則に照らした見直しをしないまま現在に至ってしまっていることが、石綿の濃度基準に関する混乱の元のひとつとなっているのである。
この原則にもとづいて石綿の環境濃度基準(リスクレベルに対応する評価値)を算出すれば、クリソタイル単独で0・2繊維/l未満、単独以外ならば0.05繊維/l程度になる。わが国における最近の住宅地の大気中石綿濃度は概ね0.1~0.2繊維/lであるから、この数字は、一般環境中の石綿濃度自体が健康に影響を与える可能性があるということを示唆するものでもある。いずれにしろ、10繊維/lが、一般大気環境中の石綿濃度の安全基準などと呼べる数字でないことは明らかである。
1991年廃棄物処理法改正
厚生省水道環境部では、1990年頃より廃棄物処理法の改正に係る検討を開始し、その一環として、毒性や有害性等を有し特別な管理を要する廃棄物の規制(特別管理廃棄物制度)についても検討を行った。そこでは、既出の1987年通知で処理方法等を指示していた廃石綿についても、当初から特別管理廃棄物制度の対象として想定して、処理基準の内容やその管理手法についての検討が行われた。
1991年に廃棄物処理法が改正されて特別管理廃棄物制度が導入され、①廃棄物の特性を踏まえた特別な処理基準を適用、②廃棄物の排出から最終処分に至るまでの管理体制の強化(排出事業者に管理責任者の選任、処分を委託する場合にはマニュフェスト交付の義務づけなど)等が図られた。廃棄物処理法施行令において、廃石綿及び石綿が含まれ、若しくは付着している産業廃棄物のうち一定の要件を満たすものを「廃石綿等」として特別管理産業廃棄物に指定するとともに、その処理基準を規定して、1992年から施行された。ただし、廃棄物処分場に係る大気環境中の石綿粉じん濃度規制は行われていない。
1993年には、厚生省水道環境部産業廃棄物対策室監修『特別管理廃棄物シリーズⅡ 廃石綿等処理マニュアル』((財)廃棄物研究財団編、化学工業日報社)、翌1994年には石綿協会『石綿含有廃棄物実務処理マニュアル』が発行されている。
●アスベスト問題の過去と現在-石綿対策全国連絡会議の20年
はじめに
1 石綿被害の本格化はこれから
2 日本における石綿の使用
3 石綿肺から発がん性、公害問題も
4 管理使用か禁止か
5 石綿の本格的社会問題化
6 石綿規制法案をめぐる攻防
7 被害の掘り起こしと管理規制強化の積み重ね
8 石綿禁止が世界の流れに
9 日本における原則使用禁止
10 地球規模での石綿禁止に向けて
11 クボタ・ショックと日本の対応
12 石綿問題は終わっていない
●石綿対策全国連絡会議(BANJAN)の出版物