クボタショック-アスベストショックの記録~弾けた時限爆弾アスベスト<1>原点-クボタ・ショック

対策の行方-被害者への補償の確立急務

古谷杉郎(全国労働安全衛生センター連絡会議/石綿対策全国連絡会議・事務局長)

はじめに

すでに4か月以上、日本全国でアスベスト問題が大きな社会問題となっている。
言い訳にはならないのだが、全国安全センターもその真っただ中で様々な対応をせざるを得ず、本誌の発行に大きな支障を来してしまっていることを、読者の皆様にお詫びしなければなりません。

しかし、アスベスト被害者とその家族、労働組合や市民団体、様々な関係者の努力の積み重ねがようやく国や企業を突き動かしているわけであり、私たちとしても、最善の努力を傾注していきたいと考えています。

まだまだ事態は流動的だが、この間の経過と現状を報告したい。関係者が集まって総括するという余裕もないため、筆者の承知している限りでの報告になることをお断りしておきたい。

クボタショック

俗に「クボタ・ショック」と言われるように、大手機械メーカー「クボタ」の旧神崎工場(尼崎市)の労働者に多数のアスベスト被害者が発生しているばかりか、工場周辺住民にも複数の中皮腫患者が出ていることが明らかにされたことが、今回の事態の引きがねとなった。

それは、6月29日付け毎日新聞大阪本社版夕刊の特ダネ記事から始まった―これを受けてマスコミの取材が殺到して、クボタは同日夕方に急遽記者会見を実施、翌30日には全国のマスコミが追随し、以降1か月以上もメディアがアスベスト問題を取り上げない日はないという状態が続いたという意味では、この言い方は正しい。

しかし、ここに至るまでには経過があった。また、多くの国民には、クボタが突然情報を開示したかのように受け止められていると思われるのだが、それは明らかに間違っている。

関西労働者安全センターの片岡明彦事務局次長の文章(「関西労災職業病」2005年7・8月号所収)をお借りして、その経過を紹介しておきたい。

● ばく露原因がわからない中皮腫患者

6月29日、毎日新聞夕刊がクボタ旧神崎工場働者と下請労働者の中に、アスベスト被害が多発していること、同時に、近隣居住歴のある中皮腫患者3名にクボタが見舞金を支払う見込みであることを報じた。

2005年6月29日付毎日新聞夕刊(右・一面、左・社会面)

報道関係者がクボタに殺到、夕方、大阪市浪速区にあるクボタ本社で記者会見が行われた。この日を境に、これまで「世間」の目に触れることのなかった大規模なアスベスト被害の実相が一つまた一つと報道され、企業、行政の問題点が少しずつ明らかにされた。

ただ、この「クボタ・ショック」に至るまでには、若干の経過があった。

6月30日に見舞金を受け取り、記者会見に臨んだのは、前田恵子さん、土井雅子さん、早川義一さんの3名だった。

前田さんは、1953年に見合い結婚で神崎工場の近くに来て、現在まで居住。経営するガソリンスタンドも、神崎工場のすぐ近くにある。

土井さんは、1948年に神崎工場から東に少し行ったところに生まれ、神崎工場のすぐ近くの浜小学校に通った。1968年まで20年間、生まれたところに住んでいた。

早川さんさんは、前田さんたちより(神崎工場からは)少し遠いところに1951年に生まれ、1969年にいったん尼崎を離れたが、その後、1981年にクボタにほど近い叔母の酒屋をつぎ、そこに居住するようになって現在に至っている。叔母の酒屋でのバイトは中学、高校時代の日課であった。

神崎工場では、石綿水道管(青石綿、白石綿ほぼ半量ずつ使用)を1954年から1975年、住宅建材(白石綿使用)を1971年から1997年まで生産し、1995年で石綿使用を中止したとのことである。有害性が相対的に高い青石綿の使用は1957年からとされ、1960年には約5,000トン、当時の石綿輸入量の1割以上を消費していた計算になる。

古い時代ほど労働環境も劣悪で、したがって外部への飛散状況も悪かったと考えられるが、その時期に青石綿使用時代が重なる。

3人は2003年から2004年にかけて胸膜中皮腫を発症しており、30年以上といわれる平均潜伏期間を考えると、この青石綿使用時代が発症に関連していると考えられている。

さて、2003年秋から、東京に中皮腫・じん肺・アスベストセンターと中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会が活動をはじめた。神奈川、東京方面の運動が結実したもので、関西労働者安全センターもこれに参加し、患者と家族の会の世話人の古川和子さんといっしょに、中皮腫などの患者・家族の支援活動を開始した。

2003年末、NHKラジオがアスベスト問題の特集を放送した。この放送がきっかけで旧国鉄のディーゼル車補修での石綿曝露が原因で中皮腫を発症した立谷勇さんと出会った。その後、わりと早く立谷さんは労災認定されるが、のちに、このNHKラジオ放送をドキュメンタリー制作会社「ドキュメンタリー工房」の鈴木昭典社長が聞いて関心をもち、アスベスト問題の取材がはじまったということを、取材に来たディレクターの野崎朋未さんから聞かされることになる。

野崎さんは、古川さんの紹介で立谷さんを取材した。そして、古川さんから中皮腫患者の集まっている病院が兵庫医大であることを聞き、兵庫医大の呼吸器内科に取材を申し入れ、手術取材を許可されたのが土井雅子さんだった。

土井さんは、曝露原因が不明だった。野崎さんは、古川さんに土井さんとの面談をすすめ、古川さんは、野崎さんと一緒に土井さんの病室を訪ね、患者と家族の会や病気のこと、原因のことなどいろいろな話をして帰ってきた。筆者も古川さんに同行したが、曝露原因は見当がつかなかった。

土井雅子さんを見舞う古川和子さん

土井さんの職歴は、新幹線食堂車のウェイトレスと旦那さんと一緒にやっていたたこ焼き屋だった。

尼崎市内で就学した市立小・中学校の吹き付けが原因かと思い、尼崎労働者安全衛生センター事務局長で阪神医療生協出身の市会議員(当時)・飯田浩さんにお願いして、尼崎市教育委員会と面談して資料提供を受け調べたがこれも当たらず、途方に暮れていたある日、地図を二人で見ていて、土井さんの通った浜小学校のすぐ近くにクボタがあることに気づいた。

「クボタちゃうかな」云々と筆者(片岡明彦氏)が言うのを聞いた古川さんは、強い疑いを抱いた。

実は、クボタ内部で中皮腫などのアスベスト被害が多く出ていることは専門家の間では常識であり、筆者もそれは知識として知っていたが、被害が住民にまで及んでいるという意識はなかった。飯田さんたちへの相談の中にも過去にクボタやクボタ下請け会社の被災者がいたが、クボタ内部の状況はわからなかったということである。クボタ関係者の口は堅く閉ざされていた。

古川さんはほどなくして、近辺の聞き込み調査に赴いた。

● さらにふたり

昨年の10月28日、たまたま野崎さんたちがカメラを持って同行していた。調査に歩く古川さんを撮影するためである。クボタから東に行ったところにある土井さんの通った浜小学校の北隣に位置するガソリンスタンドに、休憩のために入った。

たまたま入ったそのガソリンスタンドの男性店員から、古川さんは重要な事実を聞き出す。

ガソリンスタンドの社長が「肺がん」だというのである。

聞き出すシーンを、Nさんたちのカメラが偶然フィルムにおさめた。

ガソリンスタンド店員から2人目の患者の情報
いずれも、朝日放送のテレビ番組から

この日、古川さんたちは、「社長」に会うことはできなかった。野崎さんたちは病院ルートで調べてみたが、患者に行き当たらなかったという。

2004年11月に世界アスベスト会議(GAC2004)が東京で開催され、マスコミもそこそこアスベスト問題に注目しだした。そこで知り合ったある東京のテレビ会社の担当者が、東京会議後に大阪に取材に来た。

古川さんは、この担当者と再びガソリンスタンドに行き、そこで偶然、別の男性に会う。その男性が「(社長は)わたしのおふくろ」と語った。なんと社長は女性だったのである。

野崎さんたちも、社長は男性と早合点していた。見つかるはずがない。

この女性社長が、前田恵子さんだった。(結局、東京のテレビ局は前田さんが断ったので取材できなかったが、大阪での取材をもとに今年1月6日に朝のワイドショー「とくダネ!」が15分程度でアスベスト問題を取り上げた。東京会議、アスベスト除去工事の実態、中皮腫になった電気設備会社事務員など、内容のある報道だった。)

野崎さん、古川さんは、しばらくして前田恵子さんに会い、前田さんが以前からクボタに強い疑いを抱いていたことを知った。かつて、クボタ神崎工場の一角から白い煙のようなものが立ち昇るのを見たことがあるというのである。

野崎さんたちが撮影したガソリンスタンドのシーンは、立谷さんの取材とあわせて、2005年1月19日の報道ステーション(テレビ朝日)で放映された。同番組では、アスベストの危険性をクローズアップし、中皮腫被害者として立谷さんと土井さんのことを取り上げた。番組の終わりの方で、尼崎市のクボタの映像が流されたが、クボタという名前もロゴも一切出なかった。しかし、尼崎の人がみればわかっただろう。

この内容を拡大しまとめて、ドキュメンタリー番組「終わりなき葬列」として1月29日深夜に大阪の朝日放送が放映した。「終わりなき葬列」には前田恵子さんが登場したが、それを早川さんの知人が見ていた。知人は早川さんに、「前田さんという同じ病気の人が映っていた」と連絡してきた。早川さんは、前田さんのすぐ近所に住んでいたのである。これは早川さんにとって驚きであり、入院時から抱いていたクボタへの疑念を強めることになった。早川さんは、前田さんに連絡した。

こうして、私たちは同時期に悪性胸膜中皮腫を発症し、クボタ近隣居住歴ぐらいしか曝露原因が見あたらない、年齢の違う3名の患者さんに出会った。

● クボタで何が

実は世界アスベスト会議前に、別ルートで45歳の男性胸膜中皮腫患者Bさんと面談し、職業曝露歴なし、しかし、クボタ近隣に中学校1年まで居住し、近隣の小中学校に通っていたということを聞いていた(Bさんの近隣居住期間は1959年から1974年、後に開示されたクボタ資料によると、神崎工場での青石綿使用期間にすっぽり入る)。土井さん、前田さんに会う中で、Bさんの発症はクボタが関係しているのではないかと疑うようになり、今年(2005年)1月下旬の患者と家族の会関西の会合で、このことをBさんに伝え、当時のことを家族にも確かめてみてください、とお願いした。(だが、残念ながらほどなくして容体が急に悪化、3月初旬に亡くなられたことを、死後しばらくして知ったのだった。)

このBさんの件で、私たちの確信はさらに深まるとともに、切迫感が強まった。

とにかく、クボタで何が行われてきたのか、何が起こっているのかを知ることからはじめるしかない。

クボタの内部事情は、尼崎の知り合いに聞いてもわからなかった。被害者が出ていることは間違いない、だからといって、いきなり、尼崎市外の市民団体が質問してもきちんとした答えが返ってくる可能性はなかった。それで、飯田さんにクボタとの話し合いの仲介を頼んだ。

前田さん、土井さん、早川さんに、「どうもクボタと関係があるように思う。まず、クボタの内情を知る必要がある。私たちはクボタとの話し合いを申し入れることにしたんですが、一緒にクボタと会いませんか。少なくとも、みなさんにはクボタに対して説明を求める権利があると思う」と打診したところ、皆さん「いっしょに話をききたい」ということだった。

飯田さんは、クボタ労組出身の米田守之尼崎市議に相談し、クボタ担当者との折衝がはじまった。今年の3月終わりから4月はじめにかけてのことである。

飯田さんによると、はじめのころの折衝では、目的とする情報開示は望めない雰囲気だったが、飯田さん、米田市議から、情報開示についての強い働きかけもあってか、突如、情報開示と患者さんとの話し合いに応じると返事があった。しかも、事前に、内部被害者の詳細な内訳を含む情報が文書で飯田さんに伝えられた。その内容にはさすがに驚かされた。しかも、公にしてはならないということではなかった。

● せめて内部の労働者なみの扱いを

情報開示と話し合いというのは、トップ判断であるとのことだった。

そして、4月26日、3名とクボタ担当者の話し合いが実現した。古川さん、飯田市議、米田市議、筆者(片岡明彦氏)も参加した。クボタの説明を聞き、3名と家族は自分たちの気持ちと考えを述べた。「(せめて)内部の労働者なみの扱いをしてほしい」という声もあった。

今後も誠実に対応するというクボタ側の表明があった。この日以降、正式な申し入れをして話し合いをはじめようというのが、面談を終えた私たちの気持ちだった。

ところがほどなく、クボタ側から見舞金(200万円)の打診があった。今後の交渉と無関係であること、誠意を示したいという内容であった。3名は受け取ることを決め、その後、クボタ内部の調整、3名からの必要書類の提出が行われ、6月30日に見舞金の支払いが行われることになった。

● 「終わりなき葬列」拡大版

この間、ドキュメンタリー工房と朝日放送の取材が平行して進められていた。できあがった番組から推測すると、奈良県王寺町にあるニチアス王子工場周辺の取材もしていたようである。

朝日放送はクボタ本社の取材を実現し、結局、クボタ資料も入手することになるのだが、おそらく、クボタから情報開示を受けたのは私たちの方が先だったろう。クボタ側からみると、患者から話が持ち込まれ、一方で、マスコミも取材に動いている、ということで、かなり悩んだかもしれないが、マスコミはマスコミの都合で動いていた。

ドキュメンタリー取材については古川さんを中心に積極的に協力したので、「終わりなき葬列」に登場する患者さんたちは、私たちの知り合いだった。

5月28日の放映は、1月29日の内容にクボタ取材、新たな患者が加わった、45分拡大版となり、土曜日午後とはいえ日中に放映されるということで私たちはテレビを心待ちにした。あらかじめ患者と家族の会のメンバーには放映予定が伝えられていて、皆さん、様々な思いで番組を見たと思う。神崎工場に石綿を運んだ元日本通運社員の古嶋美代司さん(すでに故人)も、取材依頼を快く受け入れてくれた一人だった。1月29日の放送では伏せられたクボタという企業名が、今度は明らかにされると思っていた。クボタは、匿名を取材の条件にはしていなかった。

「終わりなき葬列」拡大版の出来は素晴らしかった。たくさんダビングして多くの人に渡した。だが、クボタ、日本通運、ニチアスという企業名はすべて伏せられ、患者だけが実名で登場して懸命に語ってもいた。クボタの名前を伏せたのは、「尼崎には他にも石綿関連工場があり、今の段階ではクボタが原因だとは言えない、と判断したため」(朝日放送担当ディレクター)ということだった。
正直、わけがわからなかった。

● クボタからアスベスト問題全体へ

クボタと患者さん3名が初めて会った前日の4月25日は尼崎列車事故が起きていて、尼崎もマスコミも騒然としていたが、事故現場からほど近い公民館の一室では静かに話し合いが行われていた。その約1か月後の「終わりなき葬列」放映、関西の人間であれば、あれがクボタであることはわかる可能性が高い。しかし、マスコミ関係者はほとんどこの
放送を見ていなかったのだろうか。その後、夕方のニュースでもダイジェスト版が放映されたが、マスコミの反応は全くなかった。

ところが、6月中旬ころだったか、ある記者が「(ビデオを見たが)あれはクボタですか」と電話で問い合わせてきた。「自分で確かめたらどうか」とだけ答えた。この記者が毎日新聞だった。

6月29日夕刊で毎日新聞がクボタ問題をスクープ報道した(前掲)。見舞金支払いの前日であったこともあって、大きな記事になり、マスコミはこぞって、クボタ問題、アスベスト問題を報道しはじめた。私たちは、突如、準備もなく嵐にこぎ出した船同然の状態となった。

10年で51人死亡
アスベスト関連病で
社員らを支援、クボタが開示

アスベスト(石綿)を材料に水道管や建材を製造してきた大手機械メーカー「クボタ」(本社・大阪市浪速区)の社員(退職者含む)や出入り業者の間で、がんの一種「中皮腫(ちゅうひしゅ)」や肺がんなど石綿関連病の発症が急増し、過去10年で51人が死亡していたことが分かった。石綿水道管を長年製造した兵庫県尼崎市の旧神崎工場での勤務経験を持つ人が大半という。石綿関連メーカー内の被災実態が明らかになったのは国内で初めて。石綿関連がんの潜伏期間は約20~50年とされ、他の石綿企業でも発症者数が急激に増加するとみられる。発症者への対応や救済が課題となりそうだ。(13面に関連記事)

同社は昨年10月に国が出した石綿使用の原則禁止措置を受け、石綿使用企業の責任として情報開示方針を決定。毎日新聞の取材に応じ、初めて実態を明らかにした。
同社によると、社員の石綿関連病による死者は78年度から出始め、これまでに75人に達した。旧神崎工場の構内請負協力会社でも石綿関連病で昨年度までに4人が亡くなり、計79人になった。年齢は40~70歳代。このうち95~04年度には51人が死亡。04年度は過去最多の11人の死者が出たほか、発症して現在治療中が18人おり、対応を迫られているという。死者79人のうち半数以上の43人は、胸や腹部にできる中皮腫が死因とされ、16人は肺がんだった。社員の死者は1人を除き旧神崎工場で働いていた。

旧神崎工場では、1954年以降、水道に使う石綿管などを製造し、累計約24万トンの石綿を使用。危険性が高いとされる青石綿も、規制が厳しくなる75年まで使用していた。71年から95年には屋根や壁に使う建材を白石綿を使って製造。また、小田原工場(神奈川県)や滋賀工場(滋賀県)でも白石綿使用の建材の生産を01年まで続けていた。

同社は01年から石綿労災関係の専任担当者を置き、相談や労災申請の支援を行い、認定されれば、労災保険とは別に会社でも補償しているという。
同社は「石綿康連病で亡くなった社員のほとんどは、青石綿を使った石綿管製造にかかわった人。法令は守っていたが、75年以前はほとんど規制がなかった」と説明している。【大島秀利】

<視点>他の企業も積極公開を

過去にアスベスト(石綿)製品を生産していた「クボタ」が明らかにした社員らの石綿関連病の被災状況は、石綿被害のすさまじさを物語っている。
と同時に、政府の規制が後手に回ってきたことが今後、深刻な結果をもたらすことを予想させる。
同社の資料によると、75年以前に入社して旧神崎工場での石綿水道管の生産にかかわった在籍1年以上の社員は626人で、そのうち11.7%が中皮腫などの石綿関連病で亡くなった。石綿水道管製造で職種別の石綿関連病死亡者の比率は、研究(23.8%)、修理・据え付けなど保全(18.4%)、原料供給(17.9%)、製管(14.4%)の順だった。
こうしたデータは、これまで外部には全く知らされていなかったものだが、関係者のリスクを知る上でとても貴重なものだ。今後、同社にならい他の企業も積極的に公開するべきだろう。
青石綿と茶石綿が原則禁止になるのは95年、白石綿にいたっては昨年だった。断熱、耐腐食などの石綿の利便性が強調されるあまり、国などは安全性をおろそかにしてきたとも指摘されてきた。関連がんの中皮腫などは、潜伏期間を経て突然、発症する。企業、政府とも早急に実態を広く知らせるべきだ。【大島秀利】

2005年6月29日毎日新聞大阪本社夕刊1面

クボタ、アスベスト旧工場
住民5人も中皮腫
見舞金検討、2人は死亡

アスベスト(石綿)製品の製造に関係した社員らの石綿被災状況を初めて明らかにした大手機械メーカー「クボタ」 (大阪市浪速区)。被害の大半は同社旧神崎工場(兵庫県尼崎市浜)に集中していたが、その周辺住民5人も「中皮腫」を発症し、うち2人が死亡していたことが、民間団体「関西労働者安全センター」(大阪市中央区)の調べで判明した。クボタ側は因果関係は不明としながらも「誠実に対応したい」として治療中の3人に対する見舞金支給などの検討を始めた。【大島秀利】

旧神崎工場は1954~95年、石綿水道管や石綿使用の建材を製造。社員(退職者含む)ら計78人が中皮腫などの石綿関連病で死亡しているが、半径1キロ以内に住んでいた住民2人も最近1年以内に中皮腫で亡くなり、別の50~70歳代の3人も被害を訴えていることが分かった。

3人は自営業の女性、主婦、男性商店主。自営業の女性は結婚して以来約50年間、旧神崎工場の約300層以内の自宅に住んでいた。一昨年11月に突然、「胸膜中皮腫」と診断された。主婦と男性も、同工場操業時に15年以上、周辺で生活していた。

3人は今年4月、クボタ側に「中皮腫の原因は、工場操業による石綿の飛散が原因ではないか」と訴えた。死亡した2人についても、話合いが持たれる可能性がある。

クボタは「アスベストの飛散源はいろいろあり、現時点で旧神崎工場と住民の病気が関係あるとも、ないとも言えない。ただ、住民の訴えには誠実に耳を傾け、可能な限り工場でのアスベスト製品の生産などについて説明したい」と話している。

2005年6月29日毎日新聞大阪本社夕刊13面

この時点で、4名の他に、もう1名の中皮腫死亡者Cさんが浮上していた。Cさんは、1958年から1964年まで、神崎工場北側の前田さんの近所のアパートに居住していた。CさんもBさんと同様に職業曝露歴がつかめなかった方で、クボタ疑惑が持ち上がったときに居住歴を見直して、はじめてわかったのだった。新聞記事にある2名の死亡者は、BさんとCさんのことである。

発端の毎日新聞記事の主たるポイントは、加害企業が、被害者「かもしれない」人から説明を求められたに過ぎない段階で、積極的に内部被害情報の詳細を開示したという点にあった。この時点で見舞金を支払ったということも大切なポイントであるが、情報開示のタイミング、質、量についていえば前代未聞のことだった。クボタの言うように、それほど、周辺に中皮腫患者が複数発生している事実に「初耳で驚いた」ということかもしれないが、それが「真実」かどうかを確かめるすべは、今のところない。

● クボタ問題の原点

以上が筆者の知る「クボタ・ショック」までのいきさつであるが、もっとも決定的な要素は、患者と家族の会(古川和子さん)の活動、地道なマスコミ取材、そしてなによりも3人の患者さんの決意だった。情報を開示し、見舞金を払ったクボタの主観的判断は重大だったが、クボタが「早期」に開示した「事実」は、いずれは暴かれ、責任追及に至るのは、3人が決意した限りは、もはや時間の問題だったのである。

また、運動面では、アスベスト問題に専門で取り組む「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」、被害者組織の「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」のスタートが、非常に大きな役割を果たしたということは疑いもない。

クボタ神崎工場で多くのアスベスト被害者が発生していることは、アスベスト専門家の間では常識であった。しかし、クボタは詳細を一切外部に語らず、データを専門家にさわらせることをしてこなかった。むろん、産業医や保健担当者はおり、彼らはこれを知る立場にいたが、外部に報告したことはない。この点は、他のアスベスト企業も同様である。

国内のアスベスト企業を対象とした疫学調査報告はほとんどなく、まとまった曝露集団をもち、精度のよい調査が可能である大企業の疫学研究は皆無である。企業は故意にアスベスト被害を隠してきた、これがまぎれもない歴史的事実であり、社会がアスベストリスクを正しく認識することを妨げてきた根本原因である。中皮腫患者を多く診てきた近辺の大病院からの学会報告などもされてこなかった。

加えて、すべてを知っていた行政も情報を開示することはなかったのであるから、これは共犯に他ならない。このため、防ぎ得た将来の被害発生は確実なものとなった。

時をこえた、まさに、アスベスト犯罪、これが、クボタ問題、日本のアスベスト問題の本質だろう。

(以上「関西労災職業病」2005年7・8月号より)

アスベストが原因の稀な病気と聞かされ、どこでも曝露した覚えがないのに、なぜ自分がそのような病気にかかったのかと、悩みながらも孤立させられて病気と闘ってきた住民被害者たちが、自分以外にも同じ立場の中皮腫患者がいるということを知り、お互い知り合うなかで当然わき上がってきた疑問―「いったい工場のなかでは何が起こってきたのか」―を勇気を出して大きな会社相手にぶつけた。これが、「クボタ・ショック」の始まりだったことは、何度でも強調しておきたい。

2005年に各地の安全センタースタッフが尼崎に集まって緊急の打ち合わせを行った際のスナップ
前列左から土井雅子さん、前田恵子さん、早川義一さん(問題を提起した3人の住民中皮腫患者の皆さん)
後列左から飯田浩さん、天明佳臣医師、片岡明彦さん、古川和子さん(筆者写す)

安全センター情報2005年9・10月号(一部加筆)

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