アスベスト問題から学ぶ公衆衛生/車谷典男~クボタ周辺中皮腫疫学調査で因果関係を明らかにしたキーパーソン講演(2009.10.21)抄録【クボタショック・アスベストショックの記録】

2005年6月29日からはじまったクボタショックの進行過程において、クボタ旧神崎工場周辺の中皮腫疫学調査をおこなったのが車谷典男氏(当時・奈良県立大学地域健康医学講座教授)と熊谷信二氏(当時・大阪府公衆衛生研究所生活衛生課長)である。この調査は、クボタショック直後から行われた。2005年8月28日の中間報告以後、幾度かの途中報告を経て、最終的に査読のある英文医学雑誌の掲載論文として結実する。

クボタは2006年4月に周辺被害者を対象とする救済金制度を発足させたが、この疫学調査は周辺中皮腫被害の因果関係を明らかにしたこと、被害者救済にとって大きな役割を果たした。

車谷典男(左)熊谷信二(右)の両氏(2006年4月10日@エルおおさか・大阪市)

ここに紹介する講演抄録は、2009年10月21日に車谷氏が行った第68回日本公衆衛生学会総会(@奈良)における学会長講演のものである。このなかで車谷氏は、ご自身のアスベスト問題の経験を通して得た傾聴すべき重要な考えを述べておられる。

以下、その貴重な講演抄録の全文である。

アスベスト問題から学ぶ公衆衛生

車谷典男

(奈良県立医科大学地域健康医学講座教授)
第68回日本公衆衛生学会総会・学会長講演(2009年10月21日)

兵庫県尼崎市にあったクボタ旧石綿管製造工場の周辺住民に発生した中皮腫の疫学調査の途上、公衆衛生専門職として今さらながら考えさせられたことが多くあった。それらを少し整理することで学会長講演の任を果たしたいと思う。個人的な考えや感想が多分に含まれるので、批判的吟味をしていただければ幸いである。

1. 発端

私は、もともとアスベスト問題に関心があり.アスベストのリスクアセスメントに関する米国連邦公報(Federal Register)を翻訳出版(1990年)したり、神奈川県横須賀基地で艦船修理のためにアスベストばく露作業をしていた労働者の歴史的コホート研究(1995年)をしたりしていた。日本産業衛生学会のアスベストの職業性ばく露に関する評価値の提案作業(2000年)にも小委員会委員として携わった。

そうした経験もあったためであろう。職業性アスベストばく露歴がない複数の一般住民に発症した中皮腫の原因として、共通の居住歴をもとにクボタ旧石綿管(アスベスト管)製造工場を疑ったあるNGOから、近隣ばく露の可能性についての相談を受けた。2005年の正月のことであった。相談はその場限りであったが、後日談として、そのNGOは患者とともにクボタと交渉を重ねた結果、およそ半年後の6月29日、クボタの記者会見に到ったことを知る。

新聞報道された会見内容はわが国の社会に大きな衝撃を与えた。旧石綿管製造工場の従業員が過去10年間でアスベスト関連疾患により51名死亡していること、さらに近隣住民5人の中皮腫患者を確認していて、そのうち療養中の3人に対してクボタが見舞金を支払うというものであった。アスベストの使用時期や種類、石綿管の生産量などのいわば内部情報も公表された。発がん物質アスベストを使用していた企業としての社会的責任(CSR)を一定果たした格好となった。これが今に続く一連のアスベスト問題の発端である。

2. 疫学調査の遂行

新聞報道直後から、職業性ばく露がないとする中皮腫患者や遺族からの問い合わせが、当該NGO、尼崎市当局、クボタに殺到する。予想を遥かに超える事態が次々と展開していく中、NGOが問い合わせ者の名簿を作成していたことが分かり、疫学調査の実施を提案したq複数症例の共通項の検討(case series analysis)は原因候補の当りはついても決め手にはならない上、全くの見当違いの場合も多分にある。他のアスベストばく露の可能性を統一した判断基準で除外した上で、中皮腫の死亡リスクを定量化し、しかもそれが推定するばく露源との関係で合理的かつ矛盾ないものであることを示す必要がある。提案は受け入れられた。わずかばかりの大学の研究費を投入して、連日の洪水のごときアスベスト報道を横目に、問い合わせのあった人たちへの面接調査を大阪府立公衆衛生研究所の熊谷信二現衛生化学部長とともに開始した。7月30日のことである。中皮腫の診断根拠を確認するための診療情報の開示請求と閲覧、病理組織の再診断、中皮腫の死亡リスクの疫学的解析、風向など当時の気象条件を組み入れた死亡リスクの評価という順で作業を進めた。

7月30日以来、今日まで200人近い中皮腫患者と家族を中皮腫で亡くした遺族に対面してきた。

3. 結果の公表

調査を開始して1か月足らず50人ほどの面接調査が終了した時点で、熊谷部長と予備的解析を行った。その結果、旧石綿管製造工場を中心とした半径500m以内の地域での中皮腫死亡のSMRは全国を基準にした場合に9.5の有意な過剰死亡を示すとともに、工場から遠ざかるほど低下する傾向が認められた。

調査協力を得るにあたって中間発表の約束を当該NGOと交わしていたことに加え、旧工場周辺での中皮腫発生が極めて大きな社会問題となっていたことから、記者発表に踏み切ることにした。内容は8月28日に一斉報道された。解析結果についてpeer reviewerの査読を受けていないこと、待機中の面接予定者を含めた時の最終解析が全く違った場合のクボタへの対応などを考えると、一大決心がいる記者発表であった。発表後、数日経たずしてクボタのCSR担当者から速達が届き、到着を確認するかのように電話もあった。発表内容の詳細を知りたいので面会を希望するというものであった。第三者立ち会いのもとなら諾と返事したが、それ切り連絡はなくなった。

その後、土日祭日も返上して2年ほど調査を重ねた。予備的結果を裏付けるばかりか、より強固な結論が得られ、合計162人(男性96人・女性66人)の2006年12月現在の分析結果をAJRCCM(米国胸部疾患学会誌)に投稿し、5人のpeer reviewerとのやり取りを経て昨年掲載された。患者発生の居住地が旧工場周辺2㎞超まで広がっていることを示した論文中の図は、掲載号の表紙にも採択された。近隣ばく露による中皮腫リスクに関する数少ない疫学研究である。

Kurumatani N, Kumagai S. 2008. Mapping the risk of mesothelioma due
to neighborhood exposure to asbestos. Am J Respir Crit Care Med178:624–629.が掲載された雑誌表紙

なお、クボタは2005年12月25日、経営トップが被害住民に謝罪し、救済金の支払いに応じることを約束した。今なお、周辺地域に居住歴を持つ住民に中皮腫の新規発生は続いている。

4. 米国のアスベスト問題

年が明けた2006年の確か春頃だったと思うが、宮本憲一先生から共同研究のお誘いがあり、米国EPA(環境庁)と北米最大のアスベスト製品製造会社Johns Manville社の工場跡地、そして年を変えてEPAで教えてもらった米国モンタナ州のリビーを訪れた。以下はリビーの話である。

西海岸寄りのカナダ国境に近いリビーは人口3000人程度の小さな町である。1930年前後に車で半時間ばかり離れたアスベスト鉱山の操業が本格化し、1990年に閉山している。町はずれの駅近くに建設された加工工場からのアスベストを含んだ製品屑は、断熱性や水はけの良さなどが重宝されて、町の野球場や学校のグランド、道路、多くの個人宅の庭の土壌に埋められ、住宅の屋根裏には断熱材として敷き詰められていった。

そして、半世紀近くたった1999年、近隣ばく露が疑われる中皮腫発生が新聞で取り上げられたことで、急速に社会問題化する。アスベストの汚染源はリビーの町中いたる所にあり、EPAは、個人宅の庭も含めて12000以上の土壌サンプルを分析し、基準値を超える区域の土壌の撤去と、屋根裏の断熱材の撤去を決定した。私たちが訪問した時は、さらに5年10年は優に続くという浄化計画の途中であった。必要経費は当初見積もりでも1億8千万ドルに達していた。

撤去された汚染土壌を厳重に覆ったトラックの行き先、すなわち廃棄場所は何と、露天掘りで段々畑状になった、広大なかつてのアスベスト鉱山跡であった。完全防護服を着た運転手がトラックを往復させ、跡地では同じく完全防護服で身を包んだ作業者がブルドーザーで地ならしをし、積荷を捨ててきたトラックは検問所で丁寧に水洗いされていた。

環境を一旦汚染してしまうと、その回復には途方もない時間と経費と人力がかかることを象徴する衝撃的な光景であった。

5. アスベスト問題で考えたこと

こうした経験の中で多くのことを考えさせられた。企業の社会的責任(CSR)はどうあるべきか、環境を汚染することの深刻さゆえの予見の重要性は言うまでもない。

アスベストの有害性は早くから分かっていたのに、なぜそれを使用し続けたのであろうか。このことは、専門学会が社会的役割をどう考え、期待された責任を果たしていたのかという疑問に突き当たる。行政に対しても同様である。

工場内のアスベスト濃度はアスベストが飛散した周辺地域より当然高く、中皮腫患者の発生も5年から10年早い。工場内の最初の中皮腫発生は1985年で、近隣ばく露による中皮腫発生が知見として確立されて20年余り経過した時点での出来事であるから、工場内の中皮腫発生は、住民の健康を守るための情報として地域の保健行政に伝えられるべきであったろう。伝達されていたなら、その後の地域での経過はきっと異なっていたに違いない。いわゆる縦割り行政の中で、対応が遅れたといってよい。職域から地域への公式な報告制度は現在もない。

クボタ問題を契機に、潜在していたアスベスト問題が一気に白日の下にさらされた。アスベストの健康影響が広く認識されることによって、アスベスト被害者が名乗りをあげたり発掘されたり、救済されるべき人の多くが救済されるようになった。政府もアスベスト関連疾患の労災発生企業名の公表と、石綿健康被害救済法の制定を余儀なくされた。こうした一連の経過に大きな牽引力となったのは行政でも専門家でもなく、NGOであった。アスベストに限らず、今、様々な分野でNGOが活動している。行政が十分対応できていない領域に特化した団体であったりするため、時に鋭い意見対立が生まれるかも知れない。しかし、傾聴すべき意見、実行力、救済の理念の有無を見極め、協働していかに相補的に社会的公正を実現していくか、その実質化が今まで以上に保健行政に求められているように思える。

こうした社会問題の場合、とりわけマスコミの役割が大きいことも実感した.あれほどの報道がなければ、アスベスト問題は国民にこれほど迄に認識されなかったであろう。ただし、適切なリスクコミュニケーションが前提である。問題の大きさを定量化して伝える態度が求められている。マスコミに情報伝達する専門家のリスクコミュニケーション能力も問われていることになる。

そして何よりも、「現場」に足を運び、自分の目で見て、自分の耳で聴くことの大切さを再認識させられた。患者を苦しめる絶え間のない心身の痛み、夫や妻を亡くした人たちの慟哭は、心を揺さぶる。集計されてきた結果を机上で眺めているだけでは、決して理解できない核心である。「現場」を知らずしては、問題の本質を見落とし、解決しようとする情熱も原動力も湧いてこないであろう。このことは中皮腫に限らない。すべての公衆衛生課題に共通した行動原則ではないだろうか。

6. さいごに

公衆衛生は、あらゆる有害物・有害事象から社会に生きる人々の安全と健康をまもる社会基盤を構築していくための組織的な行動と言える。今回のアスベスト問題はそのことを改めて教えてくれたように思う。

略歴

1976年3月奈良県立医科大学卒。同大学公衆衛生学教室助手、講師を経て、1999年10月から衛生学講座教授。2006年4月講座名変更により現職。University of Texas School of Public Health客員講師(1991-92年)。日本産業衛生学会理事(2006-09年)・近畿地方会会長(2009-11年)。
専門分野は産業疫学・地域保健。現在、健康高齢者のQOLと生活機能に関するコホート研究(藤原京スタディ)を主宰。

日本公衆衛生雑誌 第56巻第10号 特別付録
第68回日本公衆衛生学会総会抄録集 30-31頁 2009年

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