クボタショック/熊谷信二~クボタ周辺中皮腫疫学調査で因果関係を明らかにしたキーパーソンの報告【クボタショック・アスベストショックの記録】

2005年6月29日毎日新聞社大阪本社夕刊の特報からはじまったクボタショック

直後の7月からクボタ旧神崎工場周辺の中皮腫疫学調査をおこなったのが車谷典男氏(当時・奈良県立大学地域健康医学講座教授)と熊谷信二氏(当時・大阪府公衆衛生研究所生活衛生課長)である。2005年8月28日の中間報告以後、幾度かの途中報告を経て、調査の成果は、最終的に査読のある英文医学雑誌の掲載論文として結実する。

クボタは被害者団体等との協議を経て、2006年4月に周辺被害者を対象とする救済金制度を発足させたのであるが、両氏のこの疫学調査がクボタ旧神崎工場(尼崎市)周辺の中皮腫被害に関する因果関係を明らかにしたことは被害者救済にとって大きな役割を果たすこととなった。

車谷典男(左) 熊谷信二(右)の両氏(2006年4月10日@エルおおさか、大阪市)

ここに紹介するのは、熊谷信二氏が「労働の科学」2019年2月号(74巻2号、P38-43)に書かれた報告を一部熊谷氏が修正したものである。クボタショック核心部の調査を行った研究者自身による貴重な報告である。

クボタショック

~産業保健の仕事に携わって 第7回~

熊谷信二

クボタショックとは

第5回で述べたように、1980年代後半から石綿が社会問題となり、その世論を背景に1992年に石綿の使用禁止法案が議員立法の形でまとまったが、日本石綿協会と自民党の反対で廃案となった。その後、再び石綿が社会問題になったのは13年後のことである。2005年6月に、兵庫県尼崎市のクボタの旧石綿管工場の周辺住民に中皮腫が多発していることが発覚したのであるが、この事件を「クボタショック」と言う。

中皮腫とは、胸膜、腹膜、心膜、精巣鞘膜の悪性腫瘍である。原因はほとんどが石綿と言われている。潜伏期間は20年から60年と非常に長い。中皮腫は治療が困難で、生存期間が短いがんであるが、それが住民に多発していることが発覚したので、多くの人がショックを受けたのである。

写真7.1は操業当時の同工場を上から見たものである。すぐ横を国鉄(現JR)の線路が走っている。この工場では、1957年から75年まで石綿管を製造していた。写真7.2が石綿管であるが、水道管として全国で大量に使われていた。セメントとシリカに石綿(青石綿、白石綿)を20%程度混ぜて固めたものである。したがって製造工程で大量の青石綿と白石綿が使われていた。

毎日新聞のスクープ

クボタショックの始まりは、2005年6月29日の毎日新聞の記事(写真7.3)であった。クボタのこの工場では、1995年から2004年までの10年間で従業員51人が中皮腫や肺がんで死亡していたというものである。ものすごい数字であるが、もうひとつショックだったのは、周辺住民5人も中皮腫になっているという情報だった。翌日には、中皮腫患者3人が記者会見をした。前田恵子さん、土井雅子さん、早川義一さんである(写真7.4)。この後、洪水のようなマスコミ報道が起こり、大きな社会問題になったのである。

クボタショック前史

世間の人には突然クボタショックが起こったように見えたであろうが、当然であるが、そこに至る過程があった。クボタショックの立役者は中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会(以降「患者と家族の会」)の副会長(当時)の古川和子氏である。患者と家族の会は患者同士の交流や、企業や国との交渉などを行うために、2004年2月に設立された。古川氏は夫を石綿肺がんで亡くしている。

クボタショックの前年の2004年10月に、古川氏は兵庫医科大学で中皮腫患者の土井雅子さん(当時57歳)に出会う。一般に中皮腫の原因はほとんどが石綿だと考えられているが、土井さんには石綿に曝露される機会が見当たらなかった。20歳まで、JR尼崎駅の近くに住んでいた。仕事は新幹線のワゴン販売やタコ焼き屋である。在籍した小学校や中学校にも吹付け石綿はなかった。

古川氏らは原因がわからないまま、土井さんが以前に住んでいたJR尼崎駅付近の地図を見ていた。その時、一緒に地図を見ていた関西労働者安全センターの片岡明彦氏が、以前に石綿を使用していたクボタの工場があることに気付いた。そして「もしかしたらクボタから飛散した石綿が原因ではないか」と考えて、古川氏らは尼崎駅周辺で聞き込みを始める。そしてあるガソリンスタンドに行った時に、2番目の患者さんと会うことになる。2004年12月のことである。それが前田恵子さん(当時72歳)である。名古屋市生まれで、結婚後、JR尼崎駅の近くに住んできた。前田さんにも仕事で石綿に曝露される機会はなかった。

専門家の反応

古川氏らは年が明けて直ぐの1月5日に専門家に相談した。それが奈良県立医科大学の車谷典男氏と私である。この時のことは今でも鮮明に覚えている。

相談の内容は次のようなものであった。クボタの旧石綿管工場の周辺で中皮腫患者 3人を見つけた(この時点で土井さんと前田さん以外にもう1人を確認していた)。3人とも仕事での石綿曝露はない。クボタの工場から飛散した石綿が原因ではないか。

我々の反応は、「中皮腫は確かに稀な病気です。しかし 3人では多いとは言いきれないですよ。新しいことがわかれば、また連絡してください」というものであった。古川氏にすれば実に冷たく感じたと思う。しかしその時点の情報では我々はこのように反応せざるを得なかった。

クボタとの接触

しかし患者と家族の会は諦めずに調査を続けていった。そして早川義一さん(当時53歳)など新たな患者に出会う。さらには尼崎労働者安全衛生センターの飯田浩氏らと一緒に、クボタと接触を始める。こうして4月26日にクボタとの1回目の話し合いが持たれた。クボタショックまで2カ月の時点である。その後、クボタ内部では相当の議論があったようであるが、因果関係とは関係なく、見舞金200万円を出すことになった。患者と家族の会の中でも受け取るべきかどうかの議論があったようであるが、これを出発点としようということで、受け取ることになる。

そしてこの情報を毎日新聞が入手し、6月29日の夕刊のスクープになるのである。従業員51人が石綿関連疾患で死亡していることと、周辺住民5人が中皮腫であり、見舞金を検討しているというものである。その日にクボタは記者会見をした。翌30日に患者さんらが見舞金を受け取り、記者会見を行った。患者さんらの感想は「クボタに誠意を感じました。しかし謝罪はありませんでした。これが出発点だと思います」というものであった。

連日の報道

こうしてクボタショックが始まり、連日の報道が続く。それは石綿による健康被害を広く知らせるのに大いに役立った。後で聞いた話であるが、あるご夫妻は夕飯時にテレビのニュースを見ていて、驚いて顔を見合せたそうである。夫が中皮腫であったが、「なんでこんな珍しい病気に自分がなってしまったのだろうか」と悶々と考えていた。そしてニュースで記者会見を見た時に、自分もクボタの工場の周辺に住んでいた過去が蘇ってきたのである。それは悶々と考えていた答えが突然わかった瞬間であった。霧が晴れたように感じたとのことである。

このようにして多くの中皮腫患者が「もしかしたら自分も」と思い、患者からの問い合わせが、患者と家族の会、尼崎市、クボタに殺到する。尼崎市は患者に患者と家族の会を紹介していた。またクボタは見舞金の支払い交渉の窓口を尼崎労働者安全衛生センターに指定していた。こうして、被害情報が患者と家族の会などに集中し、被害の全貌が見えるようになったのである。

もし我々専門家と称するものが言った「3人では多いとは言いきれない」で終わっていたら、つまり、患者と家族の会が次の行動に進まなかったら、被害は闇の中に埋もれたまま、時間が経過し何事もなかったことになったはずである。そして被害者は、原因を知ることなく亡くなっていったと思われる。この事実は、専門家には限界があること、そして患者と家族の会のような非政府組織(NGO)や非営利団体(NPO)が重要な役割を果たすことを示している。

疫学調査の開始

車谷氏と私は、直ぐに疫学調査を始めた。通常の仕事もする必要があり、調査は平日は仕事が終わって夕方から、土日は朝から夜までということで、結構大変であった(写真7.5)。

調査方法は患者本人や遺族からの聞き取りである。病気のこと、職歴、居住歴、同居家族の職歴について、診断書、社会保険記録、住民票などの公的資料を基に聞いていった。公民館などで聞くことが多かったが、来られない方もおられ、自宅を訪ねたり、場合によれば、病院のベッドの横で聞き取ったりした。

聞き取りをした数日後に亡くなられた方もあった。調査時は比較的元気に受け答えされていたのであるが、それは最後の力を振り絞っていたのだと、後になって理解した。また、息子さんが中皮腫で闘病中の母親は、病気のことで頭が一杯で、こちらの質問にうまく答えてもらえなかった。しかし疫学調査を進めるためには、聞く必要があり繰り返し同じ質問をした。このような時、しつこく質問する自分をとても冷酷に感じることがあった。

社長の謝罪と補償制度の確立

こうして調査を進め、8月下旬に車谷氏が調査結果の中間報告を行った。写真7.6はその時の新聞記事である。見出しは「近所ほど中皮腫死亡者、居住500メートル以内9.5倍」となっている。

この後も患者と家族の会はクボタと交渉を続け、ついに12月に社長が謝罪する。そして翌年4月に補償制度を発足させることで合意した(写真7.7)。問題発覚から1年以内に補償制度ができたのは、公害補償としては画期的なことであった。そのもっとも大きな要因は、患者がひとつにまとまってクボタと交渉したことであるが、我々が素早く調査を行い、中間的結果を早く公表したことも重要な要因と考えている。

調査結果は語る

我々はその後も調査を続け、2008年に論文を公表した。対象者は2006年までの中皮腫患者162人である。その中から、1995年から2006年までの死亡者で、職業曝露や家族曝露がないもの、さらに自宅が工場から1500m以内のものを解析対象とした。男性35人、女性38人、計73人である。

表7.1は工場からの距離別に見た中皮腫死亡リスクである。女性で見ると、工場から300m以内では、中皮腫死亡者は6人で、標準化死亡比(SMR)は41.4となった。つまり全国平均の41倍である。工場から離れるとSMRが低下する傾向が見られる。男性も同様の結果であった。

図7.1は、当時の気象条件を基にして、工場周辺の石綿相対濃度を推定したものである。この地域では北東の風が卓越しており、工場の南西の石綿濃度が高くなっている。同図には中皮腫患者の居住地(クボタが青石綿を使用していた時期)をプロットしているが、工場周辺に多数の患者が発生したことがわかる。

これだけ沢山の患者が出れば、誰かが中皮腫の多発に気が付きそうに思うが、プロットした場所はクボタが青石綿を使用していた時期(1957~1975年)に患者が住んでいた場所である。中皮腫を発症したのはその時から40年も50年も経過しているので、引っ越している方もたくさんいる。またこれらの人がある時期に一斉に発症したわけではなく、時期が少しずつずれながら、長期にわたって発症しているので、本人たちには多発していることが分からなかったのである。

図7.1の濃度別の各区域での中皮腫のSMRを算出して、石綿相対濃度との関連を見たものが図7.2である。石綿濃度がもっとも高い地域、つまり工場の直近の地域であるが、女性のSMRは47.7である。また石綿濃度の増加とともに、中皮腫死亡リスクは上昇している。両者には直線関係があり、これまでの石綿の疫学調査での知見と一致している。このことは工場から飛散した石綿が原因であることを示している。

記者会見をした3人のその後

前田さんは2006年3月27日に亡くなられた(享年74歳)。それはちょうど、クボタショックを受けて制定された石綿健康被害救済法が施行された日であった。土井さんは2007年10月に亡くなられた(享年59歳)。その3か月前の新聞には、土井さんの肺組織から青石綿が検出されたという記事が載った。我々の肺にも少しは石綿繊維が入っているが、それは白石綿であり、青石綿はめったに検出されない。まさに青石綿を大量に使用していたクボタが原因と言える証拠である。早川さんは2011年6月に亡くなられた(享年59歳)。

被害の全貌

図7.3はクボタのこの工場での石綿使用状況と周辺住民の中皮腫死亡状況を時系列で見たものである。仕事で石綿に曝露された方は除外している。石綿を使用し始めて、約30年後に患者が出始め、60年経過してもまだ発生が続いていることがわかる。あまり報道されないが、現在でも、周辺では、仕事で石綿を使用したことがない住民の中から毎年15人前後の中皮腫患者が発生している。そして患者と家族の会が彼らのためにクボタと交渉を行っている。この活動がなければ被害者が救済されなかったことを忘れてはならない。

なお、クボタの旧石綿管工場での、2016年12月時点の周辺住民の石綿被害者は累計317人であり、そのうち296人が既に死亡している。我々が聞き取り調査をした患者さんもほとんどの方が既に亡くなられている。また、クボタの従業員の石綿被害者は累計206人である。従業員の数値はクボタの他の工場も含めた数値であるが、被害の大きさに唖然とする思いである。

文献

7.1 Kurumatani N, Kumagai S.  Am J Respir Crit Care Med 2008; 178: 624–629.

くまがい・しんじ

1953年愛媛県生まれ.1971年京都大学工学部入学,1975年卒業.1977年京都大学大学院工学研究科修士課程修了.同年社団法人関西労働衛生技術センター,1985年大阪府立公衆衛生研究所,2010年産業医科大学,2018年3月定年退職.博士(工学)
主な著書
・『統計学の基礎から学ぶ作業環境評価・個人曝露評価』労働科学研究所,2013年.
・『産業安全保健ハンドブック』(共著)労働科学研究所,2013年.

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