手話通訳者の頸肩腕障害-県立ろう学校で公務災害認定●広島

記事/お問合せ:広島労働安全衛生センター

1992年に頸肩腕障害と診断され、3年半かかってやっと認定になった。

1980年に29歳で広島県立ろう学校に赴任。当時はまだ、ろう学校では手話禁止時代の名残りで手話のできる教員がほとんどいず、また手話を使うことが生徒にとってはよくないという罪悪感もある中で、手話通訳業務がごく数人の者に集中し、その数人も転勤や育休のためにいなくなり、ひとりという年もあった。

その頃は社会的にも手話通訳の必要性は叫ばれても手話通訳を行う際の肉体的精神的疲労など考える余裕もなかった頃であった。だから何時聞も連続して通訳を行うことは当然であり、何の疑問も持たなかった。1984・85年頃、疲労がたまり体中が痛くなり、特に首や肩、背中の痛みと凝りが慢性化していた頃、北海道で手話通訳者が頸肩腕障害となり、公務災害を申請するが認められず、やっと手話通訳者の健康が聴覚障害者の権利を保証していく際、同時に考えていかなくてはならないこととして全国的に問題になりだした。

1991年頃右肩に時々激痛が走るようになり、ついに腕を上に挙げることができなくなった0友和クリニックで頸肩腕障害の診断を受け、病休をとることになった。

診断を受けてからはすぐに職場を中心に組合での取り組みをはじめてもらった。幸いにも職場に長い間、頸肩腕障害による公務災害申請の闘いを進めていた方がおられ、結局認定にはならなかったが彼女の闘いから得られた教訓を生かして県内の障害児学校の職員の全員署名など、敏速な取り組みを組んでもらえ、また復帰後の職場でも仕事の軽減など、手厚い援助をしてもらえた。

このように、職場を中心として所属する組合(高教組広島)で十分な取り組みを行ってもらえたということは、長い闘いの、また先輩の方々のご努力をばじめ皆さんのおかげだと思う。また、私の活動が学校を中心としたものであったので、このように教職員組合を中心とした取り組みとなったが、それ以前に長年の聞こえない人たちの手話通訳を求める運動、そしで闘こえない人どともに生きようとする通訳者たちの運動の歴史の上に立っての全国的な要望があったということも忘れてはならない職場の仲間である聴覚障害者が、ろうあ連盟の役員の立場で公務災害の認定を求める現認証明書や意見書を書いてくださったことも、大きなカになっていると思う。

ここ数年で全国的にも手話通訳者の労災の認定は進んできているが、未:だに公務災害での認定の壁は厚く、今回の認定がその壁を破るものになればと思っている。私も3年班の間.病院と鍼治療院で治療を続け、少しずつ回復してきている。これからも治療を続けながら、また頑張っ
ていきたいと思っている。

安全センター情報1995年11月号