伝票複写等で頸肩腕障害、労災認定-正確な調査を労基署に再三要求●広島

記事/広島労働安全衛生センター

M農協に勤務するYさんは「右腕の痛み、しびれ。頸、背中の痛み、集中力低下」を訴えて、重度の頸肩腕障害のため90年12月、広島県三次労働基準監督署へ労災lll請を行っていたが、92年10月に業務上と認定された。

Yさんの業務は、伝票複写作業及び電卓作業。これら2つの職種は日本産業衛生学会においても頸肩腕障害発症が報告されている。しかし、このように認定作業に長期を要した理由は、労基署の調査の不備がある。

Yさんは、入社後電話交換手をしていたが、89年4月から配置替えとなり、一般事務員として複写伝票や電卓作業に従事している。伝票複写作業は、4枚複写伝票を1日に100枚記人(約3,500文字)していた。また、電卓での伝票の小計、合計を出す作業も行っていた。

90年4月、建設課へ異動。ここでもボールペン作業による伝票複写、電卓作業をしている。作業の内容は、見積書や受入伝票等の計算のため、1日中電卓作業をし、また、ペテランの前任者が他部署に異動、業務の引き継ぎが行われないままの作業となり、ミスが重なり、やり直しが多く、夢中で作業を行っていた。

89年5月9日頃から、右手から右肩にかけてのしびれや痛みを感じ、また、無意識にボールペンが手から落ちるようになり、自宅でマッサリージや湿布薬治療を行って勤務を続けたが、90年5月、右手から右肩にかけてのしびれのため目が覚めるようになり、痛みのため手が動かせなくなって医療機関を受診している。

ボールペンは、筆圧を高めて高かざるを得ない筆記用具であり、1枚書きの作業でもサインペンに比して1.2倍から1.3倍の前腕~手指の筋負担があり、頸肩腕障害が発生することが知られている。そのうえ、ポールベン複写作業では、複写枚数に比例して筆圧が高くなり、Yさんの使川した4枚複写では、3~4倍の筋負担となり、上肢の負担は極めて大きくなる。Yさんは、このような複写作業を1日平均100枚も行っており、明らかに過重な負担が認められます。

電卓作業の負担は、打鍵作業の負担と同じ。一般のキーボードに比較して、キーが小さいため、手指の負担は大きくなる。このような作業を定まった休憩もなく、1日中行っており、上肢を反復使用する負担のため、本障害が休業を要するまでに急激に悪化したものと考えられる。

労災申請を行うと、労基署が職場に出向き、作業負担の調査を行う。作業負担の調査は、当然、最も作業内容を熟知している本人の立会いのもとに行う必要があるが、今回は立会いが行われていない。そのため、実際2枚以上の複写があるにもかかわらず、4枚複写以上の伝票枚数だけが作業として取り上げられていた。また、支所と本所の問で伝票のやりとりが行われるため、本所と支所の伝票枚数を調査する必要があるところを、本所のみの伝票で調査を行っていた。また、農協の事務作業は、農繁期との関係で作業の集中する時期があるにもかかわらず、比較的暇な時期の作業量だけを調査していた等の調査の不備が次々と明らかになり、そのたびに調査をやり直すといった状態を繰り返し、認定までに長期を要した結果となっている。

労災申請を行った場合は、事情聴取、現場調査には必ず本人の立会いを要求することが、正確な調査を行う第一歩。労基署まかせにせず、必ず立会いを要求しよう。

●認定を受けて、今思うこと
 被災労働者 Y

平成2年6月、いろいろな検査、問診そして診察のあと、「これは頸肩腕障害という職業病ですよ」と宇土先生のこの一言を聞いた時、「他の人もあちこち痛いのだからと我慢せずにもっと早く友和クリニックに来ていれば」という思いが頭の中をグルグルまわりました。それからの通院で最初の症状は簿らいできたものの、天候が悪い日は、口では言い表せないような痛さが出ることがまだまだあります。

2年4か月かかってやっと認定。どうなるのだろうかと思いながら悩む毎日が長く続いただけに、正直言ってホッととすると同時に、宇土先生やスタツフの皆さんや労組でいろいろお骨折りいただいた方々にどのようにお礼を申しあげれば私の胸のうちがわかってくださるかと思い、感謝の念が頭を去りません。この時の気持ちをいっまでも忘れずに治療に専念して、一日も早くもとの身体に戻るように努力したいと思っています。

●認定に至るまでの交渉経過
 M農協労働組合

90年5月頃、本人より訴えがあり、労組は職業病の疑いがあると判断して友和クリニックへの受診を指示した。

90年6月、本人は初診において「頸肩腕障害」と診断され、3週間の休業・加療の指示を受け、休業した。その後も更に3週間休業する。
90年9月、総務部長と労組の話し合いの中で、前2名の労災認定者の移送費問題と合わせYさんの移送費や通院日の有給化、労災申請の交渉をする。 90年10月、交渉で経営者責任を追及し、労組の意見書も作成し、90年12月、三次労基署へ労災申請する。

91年2~3月にかけ労組の問い合せに、三次労基署は調査中と回答。その後人事異動で担当課長が替り、引き継ぎが十分行われず、認定作業ははかばかしく進展しなかった。

調査に不備があることを本人が指摘、同年6月、再度調査が行われ、さらに労基署は、呉労災病院への受診を促してきたが、専門医がいない病院での受診を拒否。

友和クリニツクの紹介で岡山大学への受診を強く希望した。92年5月、労基署より岡山大学(衛生学・甲田先生)への受診を指示してきた。6月には3回目の調査(8か月間にさかのぼって)が行われ、調査結果が8月に提出された。その後、92年10月に労災として認められた。

安全センター情報1993年1月号