泉南アスベスト国賠訴訟の経緯と意義について

片岡明彦(関西労働者安全センター)

泉南はじめアスベスト国賠訴訟についての当サイトの関連情報

1 泉南にはじめてのアスベスト(石綿)工場設立(1907年)からクボタショック(2005年)後の最後の石綿工場廃業まで

泉南地域にアスベスト(石綿)工場がはじめてできたのは1907年(明治40年)にさかのぼる。
1907年、日本アスベスト株式会社が水車動力工場を大阪府泉南郡北信達村に建設した。この工場建設に関与した栄屋誠貴(愛媛県松山市出身)は同社を退社し、この工場を「栄屋石綿紡織所」として引き継いだ。
この「栄屋石綿紡織所」が泉南の石綿工場第1号である。

以後、世界大戦、戦後の朝鮮戦争、高度経済成長を経る中で、石綿一次産品の日本最古、最大の生産地域として日本の産業を底辺から支え続けていくことになる。
そして、2005年6月のクボタショックを契機に社会全体が一気にアスベスト被害の大きさ、深刻さを知るに及び泉南地域の石綿産業は幕を閉じる。
最後に廃業したのは「栄屋石綿紡織所」である。

永尾俊彦氏が著した『国家と石綿 ルポ・アスベスト被害者「息ほしき人々」の闘い』(現代書館2016年)には、泉南アスベスト国賠訴訟について、訴訟に至る泉南アスベストの歴史や重要なエピソードが訴訟原告、弁護士、支援者たちの個人史を織り交ぜながらわかりやすく書かれている。2006年5月26日提訴から2014年10月9日最高裁判決に至る訴訟の大切なポイントが関係者の証言を軸にして詳述されている。泉南アスベスト問題、そして、永尾氏が「群像の勝利」と書いた泉南アスベスト国賠訴訟の全体像を知ることができる決定版である。ちなみに同書には最後の石綿工場となった栄屋石綿紡織所の益岡治夫代表のインタビューが紹介されている。

2 医師・研究者の警告

泉南地域の石綿被害を指摘し、明らかにし、甚大になることを予見し、警告する医師たちがいたことが、泉南アスベスト国賠訴訟に至る中で再発見され、訴訟においても詳細が明らかにされた。

第一は、「アスベスト工場における石綿肺の発生状況に関する調査研究」。
保険院社会保険局健康保険保健指導所大阪支所・助川浩支所長(医師)ら六名が1937~1940年に行ったもので、1940年に報告書がまとめられている。アジア・太平洋戦争が始まる直前である。保険院調査は泉南地域のアスベスト被害を明らかにしたが、戦時下であるためか国、行政としての対策はとられなかった。

戦後には、泉南の地元にあった国立療養所大阪厚生園(のち国立近畿中央病院)の瀬良好澄医師の研究活動がある。
さらに、特筆すべきこととして、泉南で生まれ育った開業医の梶本政治医師の情熱的な活動があった。大阪大学医学部同窓の瀬良医師と梶本医師は協力して石綿被害を調査研究したということである。

以下、「国家と石綿」から引用する。

梶本政治さんは、1914年に堺市で生まれた。
10歳の時に両親の出身地である現在の泉南市に移り住む,父は小学校の教師、母方の祖父の家業が堺で代々続く漢方医だった。
長男の逸雄さん(1948年生まれ)によれば、政治さんは五年制の旧制中学(岸和田中学)を飛び級(4年)で卒業した「岸校一の秀才」と.旨われ、旧制大阪高等学校を経て大阪帝国大学医学部に進んだ。
政治さんが幼い頃、叔父さん(母親の兄弟)三人が全員結核で死去した。当時結核は「不治の病」と恐れられていた。それで、政治さんは「結核の薬を作ろうと幼児から」考えていた。
阪大卒業後、阪大第一内科に入局、結核を治す薬の研究開発に情熱を傾ける。
しかし、日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけて軍医として二回召集され、中国戦線に送られた。
「生きて帰ってこられたのが(同じ部隊の)三分の一」と逸雄さんは政治さんから聞いたことがある。その点では幸運だった。だが、貴重な研究の時間を奪われた、
その問、1944年に米国の生化学.細菌学の研究者セルマン・ワクスマンが土中の放線菌から結核の特効薬となる抗生物質、ストレプトマイシンを発見した。この「世紀の大発見」に対して52年にノーベル医学・生理学賞が贈られた。
政治さんも1950年に『結核の化学療法・その合成的研究」という論文で阪大から博士号を授与されだが、ワクスマンに先を越された。当時、政治さんは「戦争に負けて、またアメリカに負けた」と悔しそうだったという。
その後、40歳になって泉南で内科の医院を開業した。その際、政治さんは阪大から「石綿をテーマにしてはどうか」と勧められたと逸雄さんは聞いている。
当時、政治さんと同じ阪大出身の瀬良好澄(よしずみ)医師(2002年に死去)が泉南にあった国立療養所大阪厚生園で石綿被害の調査をしており、政治さんも協力した。
その調査(1954~57年)で、32工場814人中88人(11%)が石綿肺であることが判明、60年に石綿肺と肺がんを併発した症例を日本で初めて報告する成果をあげた。
大阪厚生園が堺市に移転統合されて国立療養所近畿中央病院(現・近畿中央胸部疾患センター)になった後も、瀬良医師は院長として石綿の研究を続けた、政治さんはよく院長室を訪ねては、石綿疾患の話をしていたそうだ。
他方、探検帽のような帽子をかぶり、原付バイクで石綿工場を回っては、工場主らに石綿の危険性を説き、集じん機をつけるよう注意して回った。
その際、石綿の危険性や世界各国の石綿規制の情報などについてB4版の紙に手書きで横書きに書いたプリントを持参して渡した。

「国家と石綿」(永尾俊彦著)163-164頁

瀬良好澄・梶本政治両医師の泉南の石綿被害についての調査・研究活動は新聞記事でも紹介された。

3 クボタショックから「泉南地域の石綿被害と市民の会」立ち上げ、そして提訴

2005年6月にクボタ・ショックと称される事件が起こり、以後、アスベスト・ショックとも言われる状況が出現した。

その中で、泉南では、いままで見過ごしてきた石綿被害を掘り起こし、これに取り組もうという人たちが動き始めた。これが、泉南アスベスト国賠訴訟へとつながっていく。

元泉南市議の林治さん(1937年生まれ)は、紡績工場の女性労働者の労働組合づくりを支援するなど労働運動に関心が深かったが、石綿工場の労働者のことは意識にのぼらなかったという。市議会で問題になったこともほとんどなかった。
しかし、2005年6月、兵庫県尼崎市にあったクボタの旧工場周辺の一般住民に中皮腫など石綿の病を発症している人がいるという「クボタショック」が起きた。
その年の8月、親戚にあたる柚岡一禎さんから電話がかかってきた。
「治さん、尼崎より泉南の方が石綿の中心地や。実際大変なことになってるんやないか」
林さんも全く同感だった。
「これはほっとけんな」
林さんは、柚岡さんや現役の大森和夫市議、元石綿工場労働者の山下甲太郎さん(1936年生まれ、2013年死去)他数人の地元住民らと「泉南の石綿被害と市民の会」(以下、「市民の会」)を設立し、被害者を捜し出し、労働環境や被害の実態がどうなっているのか把握しようとした。

「国家と石綿」(永尾俊彦著)146-147頁

市民の会は、昔の住宅地図、業者団体の名簿などをさがし、地元の古老の話を聞きまわり、石綿被害の事実に近づいていった。

一方、大阪じん肺アスベスト弁護団はクボタショックを契機として、2005年8月23日にアスベスト疾患やじん肺の専門家の海老原勇医師を講師とする勉強会を開き、アスベスト問題への取組を本格化させようとしていた。この集会には柚岡一禎氏が参加し、泉南の状況を報告している。

そして、2005年10月14日に「泉南地域の石綿作業と隠れた被害」と題する講演会を水嶋潔医師(現・みずしま内科クリニック、当時・大阪民医連東大阪生協病院勤務)などを講師として開いた。定員の3倍、約140人が集まった。これを皮切りに地元での集会と相談会、健診を重ね、石綿被害者がひとり、またひとりと掘り起こされていった。「泉南地域の石綿被害と市民の会」は10月14日正式発足となった。

アスベスト被害で「市民の会」結成へ

石綿関連工場が集まっていた大阪府南部の阪南地域で被害調査を進めてきた「大阪じん肺アスベスト弁護団」が、14日午後6時半から、同府阪南市尾崎町の市立文化センターで集会「泉南地域の石綿産業と隠れた被害」を開く。政府の「石綿新法」の検証や石綿産業の歴史に関する講演などがある。集会終了後には「泉南地域のアスベスト被害を考える市民の会」(仮称)を結成する予定。問合せは、同弁護団事務局(06-6365-1132)へ。

2005年10月10日 毎日新聞

泉南地域
6割強、石綿障害
関連職歴者など83人中


大阪じん肺アスベスト弁護団と「泉南地域の石綿被害と市民の会」などは12日、大阪府泉南地域でアスベスト(石綿)による健康被害の不安を抱える人を対象にしたエックス線検査で83人中53人に石綿肺などの症状や所見など健康障害がみられたと発表した。同弁護団などは「被害は想像以上に深刻」として早急に疫学調査をして救済策を取るよう府に申し入れた。
検査は先月27日、石綿関連工場が集まっていた同府泉南市で実施。健康障害がみられた53人のうち、じん肺の一種で肺がんや中皮腫を合併しやすい石綿肺(疑い含む)が42人、肺を包む胸膜が部分的に厚くなる胸膜肥厚斑(同)は28人、胸膜肥厚は23人で、複数の症状があった人もいた。相談に訪れた約100人のうち約7割が石綿関連の職業従事者だったが、周辺住民や出入り業者らも約3割いた。
会見した同会の柚岡一禎代表世話人は「石綿工業が盛んだった岸和田や東大阪などでも同様の被害が考えられる。政府や行政の責任でまず被害の実態を明らかにし、被害を最小限に抑えるべきだ」と訴えた。
【一色昭宏】

2005年12月13日 毎日新聞

石綿産業の町 被害深刻
検診者の6割 レントゲン異常

泉南地域の石綿被害と市民の会、大阪じん肺アスベスト弁護団、大阪民主医療機関連合会が12日に公表した、独自の医療・法律相談会の集約結果は、レントゲン撮影を受けた人の六割以上に異常が見つかるなど、かつて石綿工業が地場産業として栄えたこの地域の健康被害の深刻さを示しました。記者会見の内容と、配布された資料から、具体的な被害の特徴を紹介します。

泉南地域

医療・法律相談会は先月27日に泉南市で行われ、泉南、阪南両市を中心に99人が訪れました。

レントゲン診断の結果、受診した83人中、53人に石綿に由来する異常が認められました。(表参照)
今回レントゲン撮影を行わなかった人のなかには、肺がん2人、中皮腫2人、じん肺3人、肺繊維2人など病気の人も含まれています。
さらに、石綿産業に従事したことのない周辺住民の受診者の3分の1に石綿肺の異常が見つかりました。この結果について市民の会などは「驚くべきこと」で「この地域のかつての石綿の健康被害が想像以上に大きいことを示すものであると思われます」としています。

工場が集中立地粉じん大量飛散

泉南地域の石綿産業の歴史は、約100年におよびます。石綿の紡績・紡織工場が集中立地し、そのほとんどは中小零細企業とその下請けの家内工業でした。石綿をほぐして木綿などと混ぜ、糸によったり布状に織ったりする工程のなかでは、工場内に石綿のほこりや粉じんが大量に発生し、職場はきわめて悪い環境でした。1メートル先の人の顔が見えないほどだったという証言もあります。工場の外にも粉じんなどが大量に飛散していました。
親族が経営する石綿工場で1967年から16年間働いた55歳の男性は、現在肺がんで入院中で、労災申請したいと相談に訪れました。この男性は、石綿のかたまりを手やスコップで混綿機という機械に入れる作業をしていました。この作業は最も石綿粉じんのひどい作業で、窓を開け、大きな集じん機を五台使っても、工場内は石綿の粉末が舞い散り、白く煙っていました。
床に落ちたり集じん機に付着した石綿も拾い集めて再利用していましたが、集める際にほうきで床をはくと、石綿の粉がもうもうと立ち上がり、目の前が見えなくなるほどだったといいます。

長年農作業中に石綿を吸い込み

今年1月に肺の病気で亡くなった高齢の男性の遺族からの相談もありました。
この男性は戦後間もないころから泉南市で農業を営んでおり、自宅と農地のすぐとなりには、泉南地域で最も大きな部類に属する石綿工場がありました。工場の壁に並んだ窓は開け放たれ、そこから石綿の白い繊維がまき散らされていました。
その窓の下の農地で、長年農作業をしてきた男性は、工場が石綿製造をやめた1977年まで毎日のように石綿を吸い続けてきたことになります。男性は、89年ごろ血たんが出て病院に行ったところ、医師から「石綿が肺に突き刺さっている」といわれました。
工場の敷地内には、社宅や女子工員の寄宿舎もありました。肺の病気になる労働者も少なからずいて、何人かは将来を悲観して近くの池に身を投げたといいます。

泉州地域の被害 重層的で深刻

このように、泉州地域の石綿被害は、石綿工場の従業員、家族、周辺住民、零細事業主とその家族と、重層的かつ深刻なものになっています。現在は発症していなくても、数十年の潜伏期間を経て多くの被害者が発生する可能性もあります。
しかし、効果的な対策も、住民全体を対象にした健康診断も疫学調査もとられないままです。補償についても、ほとんどが中小零細で、しかもほとんどが廃業していることから、事業主の責任能力には疑問があります。労災を申請しようにも、医学的所見が確認できない場合が少なくありません。
こうしたことから、市民の会などは、「政府・行政の責任で問題を解決する必要性がきわめて大きい」と強調しています。

2005年12月14日 赤旗

さらに詳しく→隠された泉南アスベスト (石綿)、被害の現場を歩く 柚岡一禎 ~「アスベスト惨禍を国に問う」より~泉南アスベストの記録

4 泉南アスベスト国賠訴訟の意義

長期にわたる泉南の石綿産業の歴史とともに進行し、拡大した石綿被害、これを調べ警告し続けた人たちがいたにもかかわらず、地元自治体や国が対策に本気で取り組むことには至らず、泉南地域を管轄する岸和田労基署や大阪労働基準局内での一定の努力がなされたが、それらは、甚大な石綿被害を食い止めることはできなかった。地元市民の問題意識も育たなかった。筆者の所属する関西労働者安全センターなどの労災職業病・安全衛生関連の民間NGOにおいても、従来より労災職業病や環境問題に関心の高かった法律家においても同様であった。

そして、反転の契機は2005年6月のクボタショックだった。

泉南アスベスト問題にクボタショック後に取り組み、泉南アスベスト国賠訴訟の弁護団として原告団とともに最高裁判決を闘い取った大阪アスベスト弁護団(旧・大阪じん肺アスベスト弁護団)の現在の団長である村松昭夫氏が提訴当時、及び最高裁判決後に書かれた論文をを紹介する。

5 泉南アスベスト国賠訴訟を詳しく知るには

本稿で引用させていただいた「国家と石綿」のほかに、訴訟を準備段階から担い、現在は建設アスベスト訴訟をたたかいながら、泉南アスベスト国賠の救済方式での提訴・和解事案や企業に対する損害賠償請求事案にも多数取組んでいる「大阪アスベスト弁護団」のホームページでは、泉南アスベスト国賠訴訟の解説、泉南国賠型の被害救済方式がわかりやすく解説されているので参照されたい。

泉南アスベスト国賠訴訟とは(大阪アスベスト弁護団)

 泉南最高裁判決に基づく和解基準
 泉南アスベスト国賠訴訟とは
 被害者・原告の声
 泉南アスベスト被害の歴史(写真で見る大阪・泉南アスベスト)
 各判決要旨、最高裁判決
 裁判活動の記録(国会通信、勝たせる会ニュース)

(参考文献)
「国家と石綿」永尾俊彦著 現代書館2016年