泉南アスベスト国家賠償訴訟最高裁判決(2014.10.09)-国家責任を認定、提訴約8年半、司法判断確定/国が謝罪し同様被害の裁判含め和解へ
澤田慎一郎(全国労働安全衛生センター連絡会議 事務局次長)
大阪・泉南アスベスト国家賠償請求訴訟の最高裁判決が2014年10月9日に出た。原告側が裁判所前で掲げた旗は、「勝訴」と「最高裁国の責任を断罪」であった。
2006年5月24日の提訴から約8年半が経過し、司法の判断が確定した。提訴時に生存していた被害者が係争中に14名死亡した。原告の死亡がこれほどまでに膨らまずに紛争の終結がみられたのではないかと思わずにはいられない。本稿で紹介する以前の経過については、本誌2011年11月号及び2014年3月号の筆者の報告をご確認いただきたい。
最高裁の判断
判決が出されるにあたっては、原告・被告双方に審理すべき2つの論点(審理事項)が最高裁から指定されていた。
①1971年に特定化学物質等障害予防規則(以下「特化則」)の制定によって局所排気装置の設置が義務付けられたが、その時期が適切であったか否か。②特化則の制定以降、1995年まで労働者に防じんマスクの着用を義務付けなかったことやそれに関連する労働者教育の実施を義務付けなかったこと、1974年に産業衛生協会が勧告した工場内の粉じん作業に対して定めた規制基準値と同等の規制を1988年まで施さなかったこと、これらが適切だったか否か。
上記以外の論点である、国の責任の割合、2陣訴訟の原告にいた石綿紡織工場へ出入りしていた原料・製品等の運搬業労働者に対する国の責任の有無については事実上、審理の対象としないものとしていた(すなわち国の責任が認められれば、2陣高裁判決の判断を踏襲)。
一方で、1陣訴訟の論点であった非労働者の損害における原告2名(被害者単位。以下同じ)の請求、2陣訴訟に該当者がいた提訴時段階で死亡からすでに20年を経過して請求権が消滅しているとされる「除斥」の対象となっていた原告2名の請求については、上告を受理しないことが弁論再開の通知が来た段階で確認されていた。
さて、そのような中、最高裁は、上記の論点①の国の違法性を認めたものの、②については「著しく合理性を欠くとまでいうことはできない」との判断で原告の請求を棄却した。下の表は、今回の最高裁判決も踏まえて作成した、これまでの判決内容を一覧としてまとめたものである。経過を簡単に振り返っておきたい。
判決経過と内容
2010年5月に1陣訴訟において大阪地裁判決が出された。国と企業の共同不法行為責任によって国の責任が認定されるかたち(ただし、原告は企業を訴えていない)で、日本で初めてアスベスト健康被害における国の責任が認められた。一方で、非職業性の被害者に対する国の責任は退けられた。
2011年8月には1陣訴訟の大阪高裁判決が出されるが、一転して原告側の全面敗訴となった。この判決では、アスベストに関する規制は高度の専門性を有するものとして国の規制権限における裁量権が広く認められた。
特筆すべきは、判決文に「弊害が懸念されるからといって、工業製品の製造、加工等を直ちに禁止したり、あるいは、厳格な許可制の下でなければ操業を認めないというのでは、工業発展及び産業社会の発展を著しく阻害するだけでなく、労働者の職場自体を奪うことにもなりかねない」という痛烈な主義・主張が示されていたことであった。
2012年3月、2陣訴訟の大阪地裁判決が出された。第1陣訴訟の大阪高裁判決で原告が敗訴してから約半年後の判決であったが、大阪地裁は再び国の責任を認定した。国の責任は、事業者に次いで2次的なものとして責任の範囲を3分の1とした。ただ、国の違法時期を非常に限定的にとらえるかたちとなり、一部の原告の請求が退けられた。
2013年12月25日、2陣訴訟の大阪高裁判決が出された。前年の大阪地裁判決以上に国の責任を強く認定した。事業者の責任を認定しつつも、国が負うべき義務を事業者のそれとは完全に独立したものとして位置づけ、国の責任を2分の1とした。国の違法性の開始時期も、それまでの判決よりも前倒しをして、争点となっていた特化則制定以降の国の責任も認定した。
そして、10月9日の最高裁の判決では、先に述べた論点①の特化則制定までの違法を認めた。1・2陣訴訟地裁判決はともに1960年のじん肺法制定を違法の開始時期としたが、2陣高裁が示した1958年に労働省が発出した「労働環境における職業病予防に関する技術指針」を基準としてそれが違法の開始時期であるという判断を踏襲した。
②の抑制濃度の規制に関しては「抑制濃度の規制値が、粉じんのばく露限界を示す許容濃度等の値よりも緩やかなものであるとしても、そのことから直ちに当該抑制濃度の規制値が著しく合理性を欠くものということはできない」とした。
防じんマスクの着用についての使用者・事業者への義務付けについても、1972年制定の労働安全衛生規則とそれに伴って再制定された特化則は、事業者に工場での備え付けを義務付けると同時に違反した場合の罰則を課しており、あくまで粉じん対策の補助的手段にすぎないものであるとの認識のもとに国の違法性を否定した。また、労働安全衛生法などで安全衛生教育の実施が義務付けられており、防じんマスクの使用を義務付けるための石綿関連疾患に対応する特別安全教育を義務付けなかった点についても違法はないとした。
したがって、上告受理をされた原告については、1陣訴訟では原告2名、2陣訴訟では原告1名の請求が退けられた。また事実上、1・2陣訴訟ともに統一的な判断が示されて国の責任が確定したものの、最高裁で損害額の計算をしないという慣例上、高裁で敗訴している1陣については、形式的に大阪高裁へ差し戻された。
泉南アスベスト国家賠償訴訟( 一陣、二陣)最高裁判決 2014年10月9日
振り返ると、1陣大阪高裁判決がどれほどこの訴訟の展開と解決に大きな影響を及ぼしたことかとあらためて痛感する。
これは最高裁判決後に弁護団関係者を通じて聞いた話ではあるが、1陣高裁判決を書いた三浦裁判長は、最高裁判決を受けて、原告側に近い関係者に「よかったですね」などと話していたようだ。あのような判決を書きながら、白々しいにもほどがある。
一方、2陣高裁判決を書いた山下裁判長は、30年以上にわたる裁判官生活の中で印象に残る事件としてこの問題を紹介している(2014年9月15日神戸新聞)。もともとは1陣地裁の小西裁判長の判決から始まったものだが、彼はこの事件に関わる前から四日市公害裁判のような判決を書きたいという思いを持っていたと聞く。
ー人ー 神戸地裁所長に就任した 山下 郁夫(やました いくお ) さん
神戸新聞 2014年9月15日
裁判官に必要なのは「聴くカ」という。法廷に立つ人が本当に話したいことは何か、言葉に表れていないところまで聴き取る力だ。
「裁判というのは事実認定だが、まず人の話をしっかり聴き、正確に理解することが欠かせない」
大阪市出身。父が自衛官で転勤が多く中学の3年間は宝塚市で過ごした。昔から自分の意見を主張するより、周囲の声に耳を傾け、議論をまとめる方が好き。高校星徒会でも、調整役の調整務めた。
1979年に任官し、主に民事事件を担当してきた。印象に残る裁判は昨年、大阪高裁で担当した泉南石綿(アスペスト)集団訴訟の第2陣控訴審という。元労働者ら60人近い原告に、膨大な記録。争点も多かったが、国による規制の不備を認め、約3億4千億円の支払いを命じた。
10月には、アスベストの健康被害をめぐる国の責任の有無について、最高裁が第1陣との統一判断き示す見通しで「原審の裁判官として注目している」。
神戸地裁への赴任は初めてになる。「全国的にも管轄の範囲が広く、規模の大きな裁判所」と印象を語り、「裁判の手続きについて詳しく、広く知ってもらい、親しみやすい裁判所を目指したい」と意気込む。
趣味は、広島の司法修習生時代に始めたテニス。テレビ観戦も好きで「錦織選手がジョコビッチに勝ったとたん、みんな騒ぎ出したよね」と笑いつつ、さらなる飛躍に期待する。
官舎で妻と2人暮らし。59歳。(長谷部崇)
最高裁判決は決して手放しで喜べるものではないが、原告の訴えに触発されるかたちで心ある裁判官たちによってそれが汲み取られた結果が、総論としての「勝訴」に結びついたととらえることもできる。
一例を挙げれば、1陣地裁の審理で原告であった佐藤健一さんが亡くなってひと月ばかり後にあった遺族原告の佐藤美代子さんの尋問は、覗き窓から見た筆者からも独特の空気が法廷内を包んでいたことを思い出す。傍聴席からはむせび泣きが聞こえていたが、傍聴した関係者からは、裁判官はおろか被告の代理人からも目に涙を浮かべる姿が見られたと聞いた。
時々、やや形式的に「原告の訴えが勝利を導いた」というようなフレーズを運動の建前上、筆者も含めて不用意に口にすることがあるが、振り返ると、嘘偽りなくそこに大きな力があったと思わずにはいられない。
判決前の各党の動き
判決を受けて、多くの政治家がこの問題の解決を求めて動いてくれたが、その前段としての動きをわずかにであるが筆者が知る範囲で振り返っておきたい。
2014年1月下旬、筆者は、泉南市議会議員の竹田光良議員(公明党)と初めて会うこととなった。
前年12月25日に出された2陣高裁判決も上告され、舞台は完全に最高裁に移り、いずれにしても最高裁判決まではしばらく時間があり、地元の議員との関係を密にしておくことが大切だと考えた。
面会のために泉南市議会まで行くと、同会派で議会議長の中尾広城議員も同席してくださり、これまでの裁判の経過に対する思いや支援の取り組みなどについてざっくばらんに話をしてくれた。とりわけ両議員にとっては、同党の国会議員が厚生労働副大臣に就いている中で、2陣高裁判決が上告されてしまったことを非常に残念がっていた。その後も竹田議員とは定期的に連絡を取らせていただく中で、どんな動きがつくれるかを検討してくれた。
6月上旬には最高裁で弁論が開かれるという情報が筆者の耳にも入り、竹田議員にも情報提供したところ、市長に状況報告をしてほしいとの要請もあったので、7月上旬に竹中泉南市長と意見交換も兼ねた面談の機会を得ることができた。さらに同日の午後には、阪南市の福山市長との面談を、阪南市議会議員の三原伸一議員と連携を図っていただく中でセットしてくれた。
面談で率直に感じたことは、両市長ともに訴訟の動向を強い関心を持って注視しており、自らの生活史との関わりにおいても石綿の問題が他人事でもないという意識を持っている、というものだった。両市長は、7月下旬には原告団とも面談し、引き続き市としても支援をしていくという態度を明確に示してくれた。
さらに最高裁の弁論が近くなる状況で、竹田議員とは国会議員団への要請をさらに強める必要があるとの共通の認識を持ち、窓口として参議院議員の石川ひろたか議員本人との面談ができるよう調整を図ってもらった。
8月下旬、原告の満田ヨリ子さん、村松昭夫弁護士ほか弁護団のメンバーに加えて、中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会の関東支部で精力的に活動されており、最高裁まで訴訟を続けた被害者遺族の小菅千恵子さんにも応援に来ていただいて、石川議員と面談することができた。石川議員は2010年の当選以来、泉南訴訟の動向には関心を持ってくれていたが、この席での意見交換と原告の訴えに応えてスピーディーな動きをつくってくれた。
9月11日には公明党アスベスト対策本部としてのヒアリングが実施され、江田康幸本部長を筆頭に6名の議員が対応してくれた。同時に、対策本部では原告と入れ替わりで厚生労働省へのヒアリングを実施したが、その席で原告側が求める解決イメージや原告の病状等を踏まえた早期解決に対する強い要望があることも率直に伝えていただいた。原告と厚生労働省が入れ替わるためのわずかの時間、部屋の外まで石川議員が出てきて、退席した原告の佐藤美代子さんの訴えに真剣な眼差しで向き合っていた姿が印象的であった。
与党関係の動きでは、自民党の佐田玄一郎議員が石綿健康被害救済法の成立過程以降の尽力と泉南訴訟で原告が敗訴した1陣高裁判決当日の院内集会で、「判決はおかしい!」と真っ先に自身の態度を表明し、最大限の支援をし続けてくれたことは周知の事実だが、自民党19選挙区支部長の谷川とむ氏の尽力にもふれておかねばならない。
6月下旬、初めて筆者と面談の機会を作ってくれた。父親の谷川秀善元参議院議員が国会質問でアスベスト問題を取り上げていた関係もあり、訴訟の状況をすぐに理解してくれた。驚いたことに、その場ですぐに北川イッセイ議員の事務所へ連絡を取り、数日後には議員本人と筆者が面談できる段取りをつけてくれた。北川議員も、大阪選挙区選出の議員として以前からこの問題には関心を持って支援をしてくれていたが、最高裁をめぐる動きが出てきた中ですぐに情勢報告ができたことは良かったし、党内でこの問題に対する機運が高まるようその後も尽力してくれた。
9月4日の最高裁弁論が終わった数日後、判決日の報告も兼ねて原告の赤松タエさんと満田ヨリ子さんと谷川氏の事務所を訪問したことがあった。当初、本人は予定が立て込んでおり秘書の方が対応してくださる予定であったが、予定を変更してお会いしてくださった。原告との面談を踏まえ、その後も陰に陽に知恵をいただく中で支援してくださった。
同じ頃、泉南市・阪南市ほか近隣自治体の選挙区から選出された維新の会(現・維新の党)の丸山穂高議員とも上記二人の原告と面談し、泉南地域の選出議員として野党各党と連携して動きを作ってほしいと要請した。議員本人はスケジュールの関係で短時間の対応であったが、同席してくれた秘書の方が、人身事故の影響で到着が1時間ほど遅れた筆者が事務所に行くまでの間に、原告から丹念に話を聞いてくれていた。筆者が到着したときには、「この問題はもちろん承知していましたが、原告の方から直接話を聞いてあらためて早く解決をしないといけないと感じました」と神妙な面持ちで話してくれた。
それに応えてくれるかたちで10月2日には、与党時代から支援をしてくれていた民主党の近藤昭一議員など、野党10党から呼びかけ人を出してもらうかたちでのヒアリングを開催してくれた。丸山議員も秘書の方も、「この問題が解決するのが一番」という思いを先行してくださり、筆者が言うのは大変恐縮ではあるが、野党としての立場を冷静に見極めてその後も支援にあたってくれた。
ここで名前を出すわけにはいかないが、上記のような支援に加えて、与野党問わず何人かの議員秘書の方が、貴重な意見をくれたことだけはここに記しておきたい。
最高裁判決当日
判決言い渡しは午後3時であった。
筆者は1時過ぎには最高裁に着いたが、すでに多くの報道陣が押し寄せていた。傍聴を求めて150名くらいの人が並んだ。原告の家族は裁判所の規則上の理由で傍聴が確保されていなかったので、岡田陽子さんの息子の英祐さん、敗訴が確定していた南和子さん、父が原告の谷光弘子さんも並んでいた。筆者は判決を受けて裁判所前での「旗出し」を撮影するためにもともと傍聴の意思はなかったが、3人の保険として抽選に加わった。奇跡的に3人とも抽選で傍聴券が当たり、「当たっても、(その3人には)譲らない」と豪語していた泉南地域の石綿被害と市民の会の柚岡一禎代表は見事に外れた。それを気にかけた支援者から傍聴券の提供が申し出されたが、律儀に断っていた。
15時10分前後だったと思うが、冒頭に紹介した文字が書かれた旗が法廷に入っていた原告側の弁護士から掲げられた。勝訴判決は当然だが、判決ばかりは良くも悪くも出てみないとわからないというのが、この裁判の支援をしてきての率直な思いでもあったので、何はともあれ「勝訴」の旗が掲げられたのはよかった。あまり感慨にふけっている時間もなく、記者会見と院内集会(下写真)の会場設営のために一足先に議員会館内の会議室に移動した。1972年以降に就労した原告の請求が棄却されたのを聞いたのは、その場に遅れてきた関係者からであった。
会見で敗訴原告となった佐藤美代子さんは、「今日、仏壇の前で、パパ行ってくるね。どっちになっても怒らんといてね。パパが反対した裁判やけども、一生懸命頑張ったことだけはわかってねって言って来ました」、「私なりに一生懸命やってきたから、悔しいけど悔いはありません。みんなが勝ち取ったことは、私はうれしく思います」と語った。
原告の会見が行われていたのと同時刻、自民党アスベスト問題プロジェクトチームの座長である佐田議員、公明党アスベスト対策本部の本部長である江田議員を筆頭に、与党関係議員らで塩崎厚生労働大臣と面会し、早期の解決を求める要請書を渡した。佐田議員から、院内集会でもその報告がなされた。
一方、野党は院内集会終了後、議員会館において、土屋安全衛生部長が対応するかたちで野党9党、総勢14名の議員の連名で早期解決の申し入れを塩崎厚生労働大臣宛てにした。
野党が申し入れをしている頃、原告団らは厚生労働省に移動して、早期解決の申し入れと交渉に臨んでいた。しかし、この問題を扱う担当者が出てこずに、まったく関係のない部署の職員が出てきて対応にあたるという誠意のないものであった。1陣高裁が差し戻されたことを理由に、「係争中なので担当者は会えない」という理由だった。
さらに、塩崎厚生労働大臣も、報道カメラを通じて「国の責任が認められた原告については」という前置き付きで謝罪する旨のコメントを発したために、2陣の勝訴原告にだけ謝罪するような意味にも取れる反応に疑念を持たざるを得なかった。
交渉では原告はもちろんだが、普段物静かな弁護団関係者も声を張り上げてこのような対応を批判していた。筆者が我慢できずに部屋を出て厚生労働省の石綿対策室に電話し、「なんで判決が出たのに担当者すら出てこないんですか?」などと言い、ああでもない、こうでもないと不毛なやり取りをしている電話の向こうから、別の人間の笑い声が聞こえてきた。
ただでさえ苛立っているところに聞こえてきた笑い声。「誰や、笑ってるのは!?」と怒鳴ると、電話の相手が小声で「ちょっと、笑わないで」と言うのが聞こえた。「誰も笑ってないです」、「別の部署の人間です」などと抗弁してきたが、そのあと30分以上にわたって筆者の怒りの電話は続いた。
実は、野党申し入れの際には、議員らに対しては配布されたものの、正式には公表していない判決当日の大臣談話がある。
そこには「原告の方に対して国の責任が認められたことについて、重く受け止めております」と書かれている一方で、「判決で国の責任が認められた原告の方に対しては、誠に申し訳ないという気持ちであります」というものであった。野党申し入れ時も、何人かの議員からこの点が指摘され、安全衛生部長は真意を問われていたが、明言は避けていた。結局、原告らと厚生労働省は押し問答を続けたが、夜の9時になっても平行線だったので打ち切られた。翌日も午前11時から交渉が再開されたが、事態の進展は見られなかった。
厚生労働省の頑なな態度
翌週15日から原告は再び上京してきた。この日、原告は厚生労働省と交渉しなかった。というのも、厚生労働省から弁護団に原告抜きの面談をしたいという要望が伝えられ、弁護団の一部が厚生労働省の担当者とそれに臨んだ。筆者は何か進展が見られると思いつつ、動向を見守っていたが、厚生労働省側から何かが持ちかけられるわけでもなかった。何の進展もなく、ただただ原告側の苛立ちを増すだけの結果となった。
ただ国会では同日以降、塩崎厚生労働大臣をはじめ関係大臣に対して、この問題についての姿勢を問う質問が相次いだ。名前を挙げるだけでも(敬称略)、15日には古屋範子(衆・厚生労働委員会)、中根康弘(同)、浦野靖人(同)、丸山穂高(衆・法務委員会)、16日には津田弥太郎(参・厚生労働委員会)、東徹(同)、小池晃(同)、福島みずほ(同)、川田龍平(参・経済産業委員会)、山下よしき(参・内閣委員会)、17日には近藤昭一(衆・環境委員会)の各委員がこの問題に触れた。
判決から質問までの時間が非常に限られていたので、中には事前通告なしで急遽、取り上げてくれる議員もいた。
例えば、古屋範子議員は質問で取り上げてほしいという要請をした段階では、質問が確定していたので、対応するのが難しいという返事を事務所の方からはいただいていた。ところが当日になって、古屋議員が質問していたという話を聞いたので驚いた。事務所の方に聞いたところ、古屋議員本人の判断で冒頭に事前通告なしの質問として対応してくれたようだ。
また委員会質問ではないが、佐田議員は議員会館の自室に個別に安全衛生部長を呼んで早期の解決をするように説得にあたってくれたと聞く。このような柔軟かつスピーディーな対応も政府を動かす原動力になったと想像する。
16日の夜には再び原告団と厚生労働省の交渉の場を設けたが、出てくる担当者が労働安全衛生部の総務課長に変わっただけで、実質的に何の進展もみられなかった。交渉では参加した原告団から、最高裁判決が出ているのに事務的な手続きの問題だけで解決を先延ばしして、その間に原告が亡くなるようなことがあったら、どのように責任を取るのか?と、対応にあたった厚生労働省の総務課長に問う場面もあった。
その日の厚生労働委員会では、「他の訴訟」も含めて解決の検討をしているという大臣答弁が出てきたことから、ここに来て建設訴訟で一定の結論が出てくるまで泉南も解決できないと考えているのではないかという、新たな疑念が原告側に生まれていた。その日の交渉を最後に、後日開かれた厚生労働大臣の突然の会見まで、交渉の席は設けられなかった。この時点で筆者は先行きがまったく見えないと感じており、判決後も意見交換をさせてもらった丸山議員が、「大臣答弁の印象から、役所は解決の方向で検討していると思う」と言っていた所見がにわかに信じ難かった。
突然の方針発表
さらに週が明けた月曜日、泉南市と阪南市の市長ならびに議長が谷川とむ氏がコーディネートするかたちで橋本厚生労働政務官と北村環境副大臣に早期解決の要請をした。
その影響もあってか、翌日の21日の午後6時過ぎになって、塩崎厚生労働大臣が急遽、会見を開くという情報が入ってきた。しかも7時からだという。とにかく正確な情報がほしいと思い、ネット中継ができる報道関係者の方へすぐに取材へ行ってもらうようにお願いした。会見が始まる少し前、別の記者の方から解決についての方針を話すようだ、という情報をもらった。ネット中継された会見を聞くと、たしかに前の週には想像もできないような前向きな方針を大臣が話している。
会見では談話も発表しており、談話の骨子は次の3点であった。
- 1陣・2陣の原告と会って謝罪する
- 大阪高裁に差し戻された1陣訴訟について和解の申し入れをする
- 泉南訴訟の原告と同様の状況にあった被害者が起こしている裁判(神戸地裁・埼玉地裁)も和解を検討していく
といったものであった。
27日の午後5時30分には、厚生労働大臣が1陣・2陣の原告団の代表と大臣室で面会することが決まった。筆者は写真撮影のために他の報道機関と同じように、冒頭の大臣の謝罪と原告代表の挨拶の場面だけ入室を許可された。30分前に大臣室の前の廊下に行くと、すでに撮影場所の確保のために20人以上が並んでおり、時間が迫るにつれてさらに報道関係者が増えた。また、「ペン部隊」と言われる記者は、撮影部隊のあとの入室で別に待機していたので、報道関係者だけで50人以上が待機していた。撮影部隊の最後尾のところで入室させてもらったが、人のあいだを掻き分けてなんとか撮影場所を確保できるような状況だった。
厚生労働大臣室には塩崎大臣、山本副大臣、高階政務官、仲介役の佐田議員と江田議員、ほかに石川議員などの与党の議員がすでにおり、原告の入室を待っていた。参加していた原告・家族12名が入室して着席すると、大臣からあらためて謝罪がされ、談話で表明した和解の方針を進めていくことがあらためて表明された。それを受け、原告の岡田陽子さんから「二度とこうした被害が起こらないように、アスベスト被害の救済や対策にしっかり取り組んでいただきたい」、山田哲也さんから「私たちの悔しさ、無念の思いを分かっていただきたい」といった言葉が参加者を代表して述べられた(下写真)。
ここで報道陣は退室し、その後約30分に及ぶ意見交換が原告団と大臣とのあいだでなされた。
意見交換の場で原告団からは要請書が大臣に手渡された。要請の骨子は、
- 現地に来て病床に伏せている原告への直接の謝罪
- 1陣の和解に向けた早急な協議の開始
- 未提訴被害者救済のための行政の支援
- 旧石綿工場に残存するアスベストの除去対策などの方針を決めるための協議の実施
を求めるものであった。面談後、会見に臨んだ原告団は一様に厚生労働大臣の対応を評価し、今後の厚生労働省の対応に期待を示していた。
今後、1陣訴訟の和解が順調に進み、早期の終結が図られることが目先の課題であるが、もう少し長期的な意味では、とりわけ泉南地域において訴訟に加わっていない被害者の救済をいかに図っていくのかが問題となってくる。厚生労働省としては、なによりも1陣訴訟の和解を完了させてそれを基準に未救済被害者の問題にも取り組んでいくという考えのようであるが、どれほど積極的な対応をしてくるのかは不透明である。
また、先ほど紹介した大臣談話の③については、事業場の所在地を問わず、未提訴の被害者にも適用するとの方針が示されており、今後、どの程度の国賠訴訟が起こされて救済がどのように進んでいくのかも注目していく必要がある。
ただ厚生労働省は、今回の泉南の判決及び和解で示した方針と、建設アスベスト訴訟に関する問題はまったく別のものだと、この点はとりわけ強調している。
泉南最高裁判決も、建設アスベスト訴訟の動向を睨んだ最高裁の政治的判断の側面があっただろうことは否めない。今回の最高裁判決は今後のアスベスト訴訟における大きな分岐点となるだろうが、これがどのような解決の姿となっていくのかは、まだまだ予断を許さない状況と言える。
厚生労働省各都道府県局各監督署は2005年12月に発出された通達に基づいて、2000年12月から保管している石綿関連疾患に係る労災関係書類を、それ以前に定められていた5年間の保存から30年保存へと変更した(2012年には40年に変更)。このような資料を活用すれば、国の賠償の対象となり得る被害者の全体像を掴むことができる。国には保有する情報を活用して、積極的な周知活動に取り組むことが求められているだろう。
判決後から複数回にわたって、弁護団は相談会を実施しているが、泉南にはまだ多くの被害者がいることが、それらを通じても確認されている。双方が持つ情報を可能な範囲で共有するようなかたちで、また、関係自治体や保健所などの関係機関とも連携して、石綿救済法の理念と同じく「すき間のない救済」に向けて前進してほしい。
泉南アスベスト国家賠償訴訟最高裁判決を受けての原告団・弁護団声明(2014.10.09)/塩崎厚生労働大臣談話についての原告団・弁護団のコメント(2014.10.22)
おわりに
最高裁判決前の9月21日にも原告が一人亡くなった。
亀岡三郎さん。彼は泉南地域の中では大手の石綿企業であった三好石綿(現・三菱マテリアル建材)で働いていた。ここ数年はなかなか顔を合わせる機会がなかったが、筆者は学生時代から面識があった。口数が多く、なかなかクセのある方で、時には弁護士や支援者を困らせることもあったが、筆者には顔を合わせるたびに優しく声をかけてくれて、そんなときはいつもニコニコしていた。5年以上前になるが、まだ原告の岡田春美さんが存命していたとき、家にお邪魔した帰りに近くのスーパーで偶然お会いしたときがあった。
まだ三菱マテリアル建材との補償交渉が続いていた段階で、ああでもないこうでもないと、スーパーの駐車場でご馳走してくれた焼き鳥と缶ビールをいただきながら、他愛もない話をしたことがあったことを思い出す。彼は、アスベストの被害を真正面から訴える闘士というよりは、不真面目さ・いいかげんさを持つ被害者といった方だった。ただ、そんな不真面目な一面が何とも人間らしいというか、生身の人間と接しているような満足感を与えてくれていた。彼は天国で、「死んでから金もらっても意味ないわ」と笑いながら文句を言っているかもしれない。亀岡さん、素敵な時間をありがとうございました。
泉南とは縁のない、とあるアスベストの被害者の遺族が、塩崎厚生労働大臣の謝罪をテレビで観て涙が出たという話を知人から聞いた。1陣訴訟の大阪地裁判決のときも、筆者にわざわざ連絡を下さった、泉南地域で被害を受けたのではない被害者の遺族もいた。泉南の問題と言えども、国の責任が認められる、国が謝罪するということは、多くの被害者や遺族にとってわずかではあっても、何らかの救いになったのかもしれない。
この裁判の運動を振り返ると、最高裁で敗訴した原告も運動の中心となって精力的に活動してきた方々である。だからこそ、正直、残念な気持ちはある。だから言うわけではないが、判決の結果よりも、それに至る過程で泉南地域の被害とはどのようなものか、アスベスト被害はどのようなものか、一人でも多くの人に訴えてきたことの方が価値あるものであったのではないかとも思う。まだまだ問題は残っているが、先行き不透明な中で必死の訴えをしてきた原告団にあらためて敬意を表したい。
安全センター情報2014年12月号