泉南アスベスト国家賠償訴訟大阪第二陣大阪地裁判決(2012.03.28)-国の責任認めるも第一陣地裁判決とは異なる判示、控訴審へ

澤田慎一郎(全国労働安全衛生センター連絡会議 事務局次長)

民主主義を愚弄する民主党の意思決定者たち~泉南アスベスト問題解決の先送りから見えたもの~

はじめに

本稿では2012年3月28日に出された大阪・泉南アスベスト国家賠償請求第2陣訴訟の判決をめぐる小宮山洋子厚生労働大臣の言葉と、本件に関わった他の意思決定者たちの言葉を考察の材料としたい。判決内容の最低限の紹介はするが、判決自体の詳細な法的評釈は他の文献を参照いただきたい。なお、本件をめぐる動きについては本誌2010年7月号2011年11月号にも報告があるので参考とされたい。

これまで、本件をただちに解決しないことを良とする、論理的で正当性を持つ理由が、政府関係者の誰からも示されず、司法判断を積み重ねようとしている。それは実質として、政治が持つべき責務を放棄しているに等しい、ということに意思決定者たちは気づかなければならない。同時に、偏重した司法への委任体質が、民主主義社会が持つ力と可能性を減退させることにもつながっていくことを自覚しなければならない。

原告団が訴訟のスローガンに掲げている、「知ってた、できた、やらなかった」というものがある。被害を知っていながら、それを放置してきた政府の<過去の責任>を表現するものだ。現在、問題の解決を図らない政府の対応は、進行形の積極的な加害行為の継続として「知ってる、できる、やらない」とも言うべく、上記のスローガンと同義語的な過ちを犯している。

政治が自らの役割を放棄するならば、政治家たちは要らない。行政と司法だけの二権分立の社会であり、民主主義社会の否定でもある。これまで泉南アスベスト訴訟の原告たちが置かれている状況は、二権分立とも言える悲惨な構造の中にある。意思決定者たちには、そのことを理解し、問題解決を実現していく勇気と実行が求められている。いま原告たちが彼(彼女)らに求めているのは同情だけにとどまらないだろう。

判決の要点

3月28日に出された大阪地方裁判所の判決は、国が局所排気装置の設置を義務付けなかった、じん肺法制定後の1960年4月1日から1971年4月28日の旧特定化学物質障害予防規則の制定までを違法性のある範囲とした。この点は、第1陣訴訟の大阪地裁判決と重なる。

一方、第1陣訴訟で裁判所が認定した、特定化学物質障害予防規則等の法令が1972年に作業環境における粉じん濃度の測定を義務付けた後、その実施を担保するために測定結果の報告を義務付けなかったことは違法であるとした点は、国の施策に著しく合理性を欠くとは認められないとして、原告の主張を退けた。

また、国の責任について第1陣訴訟では、企業と国の共同不法行為であると認定したが、今判決は国の責任を企業に次ぐ第2次的なものと認定し、損害の3分の1を負担するよう命じた。判決によれば、石綿関連疾患の罹患及び症状の増悪に最終責任を負うのは使用者であり、省令の制定や行政指導の実施もされており、違法とされる期間も一部に限定され、違法がなければ損害がすべて回避できたとはいえない、といった点を総合考慮して、損害の公平な分担の見地から損害に対する責任は3分の1を限度とするのが相当とした。

上記が基本的な判決の骨格を形成する判断であるが、他に、第1陣訴訟の大阪地裁と異なる点もある。

1点目は、労災保険の受給対象となっている原告の損害額が一律に1割の減額とされた。第1陣訴訟大阪地裁判決では言及されていない。
2点目は、企業との紛争解決によって和解金等を受け取った原告は、その際に受け取った金額の11分の10の額を、本件訴訟の認定損害額から減額するとされた。この点も第1陣訴訟大阪地裁判決では言及されていない。
3点目に、第1陣訴訟大阪地裁判決では使用者として(一部の期間、あるいは全期間)被害を受けた原告は減額の対象とされたが、今回の判決ではその限りではなかった。第1陣及び第2陣訴訟で共通の減額対象とされたのは喫煙歴であった。

民主主義を愚弄した小宮山厚生労働大臣

上述したように2012年3月28日、大阪地方裁判所は泉南アスベスト第2陣訴訟において、国の不作為責任を認定し、原告の損害を賠償するよう命じた。判決直後に出された原告団・弁護団らの声明では、「再び責任を厳しく断罪されたことを真摯に受け止め、(中略)最高裁に係属している1陣訴訟を含めた泉南アスベスト被害者全員の早期解決に応じることを強く要求する」、と政府に迫った。

2012年4月6日、小宮山厚生労働大臣は「政府として、事案・争点が共通している最高裁で係争中の先行訴訟と同様の対応をとる必要があることから、上級審の判断を仰ぐため、今日、控訴手続きを行うことにしています。控訴審では、私がリーダーシップをとりまして、裁判所の訴訟指揮に従い、迅速な主張立証に努めることで、早期に判決をいただけるよう最大限努力をしたいと思ってい」ると、閣議後会見で控訴するとの方針を発表した。

同大臣はまた、「控訴いたしますが、何としてもやはりご高齢になられた皆さまでもありますので、長い間苦しんでおられるので、1日も早く解決ができるように、私としても努力をしていきたい」と原告への配慮らしきものを示し、最高裁の判決を待つのかという記者からの問いかけには、「判決を待つと言うよりも、最初に私が『迅速な主張立証に努めることで、早期に判決をいただけるように』ということは、そういうことです」との見解を示した。

小宮山大臣は解決に向けて努力すると語っているが、問題は努力する範囲が限定された領域に限ることだ。つまり、司法判断を早期に得る努力はするが、政治的に解決を目指すことはしない、ということである。少なくとも会見の発言からはそのような判断をせざるを得ない。

大臣の配慮らしき言葉は、原告たちには言い訳にしかとらえられないだろう。大臣と直接、話をしない限り真意はわからない。基本的に、有権者は発せられた言葉を素直に受け取って解釈することで考えを推し量ることしかできない。だからこそ政治家の言葉には価値が生み出される。真意が如何にしろ、それを軽んじて用いることは原告やその他の国民との信頼関係を悪化させてしまう。

具体例を出して後述するが、民主党政権はこれまでに本件に関して発信してきた言葉を軽く扱ってきた。その多くが官僚の作文であることは百も承知であるが、有権者との信頼関係の構築は基本的にそれのみを持ってしかできないのである。

小宮山大臣の会見直前、自由民主党の佐田源一郎議員をはじめとする野党内超党派の議員有志たちが、大臣に申し入れの面談をしていた。面談は非公開で実施されたので、そのときの状況は限られた情報でしか得ることができない。

例えば、みんなの党の川田龍平議員はブログで、小宮山大臣が面談時にはすでに控訴の決定を下していたと明らかにしている。さらに、解決の決断には法務省や財務省、官邸との調整を求める必要がある旨の発言があったようである(http://ameblo.jp/kawada-ryuhei/entry-11215523808.html 2012年5月6日取得)。

日本共産党の宮本たけし議員のブログには、小宮山大臣が原告を逆転敗訴させた昨年8月の第1陣訴訟大阪高裁判決について、「自分も個人的にはひどい判決だと思った」と語っていたとある。( http://miyamoto-net.net/column2/diary/1333688822.html )

野党の共同した行動は第1陣訴訟の大阪地裁判決の際には見られなかった動きである。小宮山大臣は党派を超えた解決を求める声を受け止めて、検討するべきであったのだが、その作業をしなかった。選挙に勝利した与党は野党の声に耳を傾けなくとも良い、というものが民主主義における政治ではないはずだ。

小宮山大臣は熟議の上での意思決定に不可欠とも言える、意見の傾聴を拒んだのである。面談終了後の記者会見で自由民主党の佐田議員が「国会で徹底的に追及する」と怒りを露わにしていたことからもわかるように、申し入れに言った議員たちは職責上の面目を完全に潰されたのである。もっと言えば、小宮山大臣の取った行動は、議論そのものを作らなかったという意味において議会制民主主義の否定である。

政治理念の溶解と意思なき言葉

「政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない」、「必要なのは、まず、何よりも、人のいのちを大切にし、国民の生活を守る政治です」、「今回の選挙の結果は、このような『もっとも大切なこと』をおろそかにし続けてきた政治と行政に対する痛烈な批判であり、私どもはその声に謙虚に耳を傾け、真摯に取り組まなければならない」。2009年10月26日、鳩山元首相は友愛精神に基づく上述の政治理念を打ち出した。

政権交代以前の産業発展のみを優先させてきた政策に対して、社会的弱者に焦点を当てたものへの転換を図ろうとしていたことが前掲の所信表明演説からは読み取れる。民主党政権発足当初は本件の解決を図る土台となるべき理念があったのである。私はこれらの言葉と理念を評価しているし、それを具現化しようとする形跡があったことを認めている。

すなわち、2010年5月19日に出された泉南アスベスト訴訟1陣訴訟判決後の小沢元環境大臣と長妻元厚労大臣の控訴断念の意思表明、民主党アスベスト議員連盟や個々の議員の控訴断念を求める意思表示がそれにあたる。しかし、当時の議論は最終的に5月31日深夜に行われた関係閣僚会合に持ち込まれ、最終的に仙谷由人元国家戦略担当大臣の判断に委ねられ控訴が決定されたと一部の報道では伝えられている。その後の政府関係者の発言からは、政治理念そのものが崩壊していく過程を明瞭に読み取ることができる。

2010年6月14日、鳩山首相の退陣によって新たに首相に就任した菅直人氏は衆議院本会議で、「新内閣においても、人の命を大切にし、国民の生活を守る政治を実施することは当然と考えております。(中略)アスベスト訴訟やB型肝炎訴訟については、被害者の方々を切り捨てるというつもりは全くありません。裁判や和解協議の過程を通じて、公正で広く国民の理解と協力が得られるような解決を目指したいと思っております。特に申し上げたいのは、裁判をしておられる方だけでなく、その背景にたくさんの被害者が存在しているケースが多いわけでありますので、そういう皆さんも含めて、最終的にどのような形で、国としてどういう形でそういう皆さんに対して役に立つことができるか、そういうことを考えて対応していただいている、あるいはしているつもりでありまして、切り捨てるという考えは全くないことを重ねて申し上げておきたい」と述べている。

「公正で広く国民の理解と協力が得られるような解決」、原告以外の「たくさんの被害者」も含めた問題の解決、を図らなければならないという言葉からは熟議民主主義社会における政治の役割と可能性に言及しているようにも受け取れる。しかし、その後もそれらの欺瞞に満ちた言葉はたびたび意思決定権限のある政治家が使うようになる。

例えば、細川律夫前厚前労働大臣の「第二審の裁判の過程におきまして、公正で国民の皆さんの理解も得られるような、そういう解決を目指して取り組んでいきたい」(2010年10月21日、参議院厚生労働委員会)というものや、仙谷由人元官房長官の「苦しい状況にある方も大変多い、多数いらっしゃるというふうなことから、解決が公正で広く国民の理解と協力が得られる、そういう解決方法でなければならない」(2010年11月19日、参議院予算委員会)などがそれにあたる。

上記の言葉を、なぜ欺瞞に満ちた言葉と私が言い切るかと言えば、それらを考慮した解決を目指すための行為が政治・行政の世界で微塵もなかったからである。結果が伴っていないことを批判しているのではなく、言葉に沿った行為の形跡がないことが問題なのである。振り返ればそれらは私が本稿で最も批判したい、政治領域における意思決定者が司法を、解決を長引かせるための道具として利用する姿勢が芽吹いてきた兆候であったように感じる。

2011年3月10日、参議院予算委員会で細川氏は、「この(筆者注―泉南)アスベスト訴訟のこれは確かに判決が出て、そしてそのときにいろいろな検討もいたしました。しかし、政府といたしましては、これはいろいろな法律的な問題があって、司法の判断を受けるのが妥当だと、こういうことで控訴したわけでありますから、したがってそういうことで控訴して判断をいただくということになっておりますから、今度は裁判所の判決もそんなに遠い将来になるんではなくて、大体審理ももう済むというようなことでございますから、そこで、私どもとしてはこれは判決をいただくということにいたした」と、第1陣訴訟において実質的な和解拒否の決定をした直後にこのような発言をした。

前掲した2010年10月21日の細川氏の言葉と明らかに整合性が取れないのである。法律的な問題があることは控訴時からわかっていたことだ。それでも「公正で国民の皆さんの理解も得られる」という政治の世界で解決を図る可能性を示していた。裁判所の判決をもらうという言葉もなかった。それが、控訴時から判決をもらう予定でいたと言わんばかりの発言になっている。

3月10日の同委員会では菅直人前首相も「この種類の裁判としてはたしか一件目の裁判でありまして、今後どういう形でそれが、ある程度広がることは当然広がってくると思いますが、そういう中で、やはり裁判所の段階でのきちっとした議論があることが、例えば後に和解ということに進むにしても、その方がやはり必要ではないかという、そういう判断を総合的にした、あるいはされたと、こういうふうに理解して」いるとの見解を示している。

上記の発言にある「議論」という文言は、「結論」であり、司法を道具として利用することをごまかす言葉である。この時点で明確に政治の役割を放棄した対応が露呈し、2010年8月25日の1陣訴訟大阪高裁判決や2陣訴訟大阪地裁判決を生み出し、小宮山厚生労働大臣の政治理念のかけらもない対応につながっていくのである。

原告団の未来

「僕の命は1週間か10日もったらいい方だと思う。解決を見届けて死にたいです」。2陣訴訟の患者原告の赤松四郎さんは、判決直後に野田首相と小宮山大臣へ向けて書いた手紙の中でこのように記した(原告団の手紙は以下を参照されたい。http://www.asbestos-osaka1.sakura.ne.jp/kataseru/supporter/post-105.html 2012年5月6日取得)。その他の原告からも、早期解決を求める訴えが記されたが、原告団の気持ちが小宮山大臣の正当な決断を促す契機にはならなかった。

川田議員のブログの中では、小宮山大臣が手紙に直接、目を通したとされている。原告たちが切迫した状況に置かれていると認識していながら、そして原告を逆転敗訴させた昨年夏の判決の不当性を主務大臣が認識していながら、解決の方向に舵を切れないのが政治の現状なのである。

野党が申し入れをした前日の夕方、民主党アスベスト議員連盟も小宮山大臣に申し入れをしている。その日の午前中に開催された民主党アスベスト議員連盟の総会において、原告団・弁護団からの、不満の残る点もあるが今回の判決を基準とした解決のテーブルを設けてほしい、という要請に応えたものだ。野党からの申し入れも基本的には同じ内容であった。

これらは民主主義社会の本丸である政治の世界に、意思決定の場を移していこうという意思の顕れでもある。司法判断を長きにわたって得続けることは、政治家が担うべき責務を放棄させることにつながり、熟議を基軸とした民主主義の権威を失墜させ、弱体化させる。司法の力が増してくる状況も、一面においては憂慮すべきことではあるが、それを政治が解決困難な紛争の逃げ場とする道具的な利用をすることも考えなおさねばいけないだろう。

繰り返すが、筆者は結果(成果)が出ていないことを責めるつもりはない。指摘したいのは、結果を生み出す原動力となっていくべき意思決定者たちの用いてきた言葉が粗末であったのではないか、ということだ。

今回の小宮山大臣の会見1つを取っても、先行訴訟との均衡を図るという建前は理解しつつも、原告団からの手紙にあるように、非常に切迫した状況が一方ではある。そういった要素を含めて控訴の決定をし、上級審の判断を待つとしたならば、それなりの言葉を提示すべきなのである。小宮山大臣の言葉からは熟考したと取れる文言も意思も感じられない。熟考した形跡の提示の欠如は、原告や多くの国会議員、そして国民に「何を考えてるんだよ」、「やっぱり民主党は駄目だな」といった初歩的な批判を生むに過ぎず、意思決定の是非や問題の内容について熟議を創造させない思考停止の連鎖を生みだしていく。

政治家が嘘を付くのはいまに始まったことではない。ただし、少しでも実直な政治の姿を求めて多くの国民が民主党に政権を託したはずだ。そして私たちの行く末に、私たち自身が責任を持てる社会(「新しい公共」という理念に代表される)へ移行しようと鳩山政権では舵を切ろうとしていたはずだ。筆者はそういった社会の在り方に共感を覚えつつも、その土台となる熟議を創造していく言葉を政治家たちが軽んじてきたこれまでの状況に不満を隠さずにはいられない。

一日でも早く、原告団が司法と決別し、原告団自らが責任を持てる枠組みを政治が用意することを望む。そして、原告団にその用意があると信じたい。

安全センター情報2012年6月号