泉南国賠訴訟最高裁判決その後:泉南型国賠訴訟、泉南・紡織以外でも提訴続く-<石綿製品製造工場に必ずしも限定されない>。国側は「石綿ばく露状況」の立証要求
目次
泉南アスベスト国賠訴訟和解から「泉南石綿の碑」建立
200人の参加で建立式
アスベスト国賠訴訟に対する昨年10月9日の最高裁判決から半年がたち、4月19日に約200人が参加して「泉南石綿の碑」建立式が執り行われた。
式は冒頭、泉南地域の石綿被害と市民の会の柚岡一禎代表が、碑の建立に至る経緯と趣旨を説明した後、元原告の岡田陽子さんと石川チウ子さんの手で除幕、おひろめされた。
柚岡さんは、「憎むべき悪魔のような石綿ではあったが、この地で石綿の事業が起こり、人々は石綿に関わって生活してきた。『石綿はからだを壊したが、石綿があったから子供を学校に通わせられた』と言って亡くなった原告もいる。怒りだけでも悲しみだけでもない、複雑な気持ちを『泉南石綿の碑』の6文字に込めた」と語った。
「泉南石綿の碑」の背面には、「大阪泉南アスベスト国家賠償請求訴訟原告団、泉南地域の石綿被害の市民の会、大阪アスベスト弁護団、泉南のアスベスト国賠訴訟を勝たせる会」の名前と、「2015年4月19日」の日付け。パネルに書かれた「『泉南石綿の碑』由来」は、以下のように言っている。
「大阪府泉南地域は、明治末から石綿(アスベスト)紡織産業が隆盛した。戦前は軍需に、戦後は船舶自動車鉄鋼等に耐熱耐摩耗資材を供給し、わが国の経済発展を下支えした。ここ泉南市信達地区は工場が集中立地する石綿紡織産業の中心地で、戦前『いしわた村』と呼ばれた。
一世紀にわたり生産が続いた結果、地方出身者や在日コリアンを含む労働者、事業主、家族、周辺住民に石綿被害が多発した。泉南石綿産業100年の歴史は、石綿被害100年の歴史でもあった。しかしその被害は埋没し、自覚されることもないまま拡大した。
国は、1937年から実施した大規模な実態調査や戦後の継続調査によって、当地の深刻な被害の実情を早くから知っていた。地元にも警告を発し続けた医師がいた。にもかかわらず国は、経済成長を優先し、有効な規制・対策を行わずこれを放置した。
2006年5月、被害者と遺族が国の責任を問う国家賠償訴訟に立ちあがった。裁判は粘り強く闘われ、敗訴判決による困難な局面にも遭遇したが、2014年10月9日、最高裁は、わが国で初めて石綿禍に対する国の責任を認める最終判断を下した。翌年1月には厚生労働大臣が来泉し原告らの前で謝罪した。
8年半に及んだ裁判の勝利を記念し、無告無念のうちに逝った者たちの鎮魂と、すべての石綿禍根絶の願いを込めて、石綿産業と被害の原点の地信達に『泉南石綿の碑』を建立した。」
また、かたわらの小さな碑には、
「新緑を
吸い込みいや増す悲しみぞ
息ほしき人のあるを知るゆえ」
と刻まれ、もうひとつのパネルには以下の詩。
「帰らぬ母に
帰らぬ母に
わたしは問いかける
そこに花は咲いていますか
暗く小さな工場の中
白い塵(ちり)が舞っていましたね
帰らぬ父と
帰らぬ夫に
わたしは問いかける
そこに陽はさしていますか
油で汚れた作業場で
働きづめの日々でしたね
子供たちのために
帰らぬ友に
わたしは問いかける
そこに風は吹いていますか
せわしく行き交うシャトルの音
がんばりやの織り子さんでしたね
なにも知らされずに
遺されたわたしは誓う
もう涙は流さないと
いしわたの町に生まれ
いしわたの町で育ち
わたしは今顔をあげて
五月の空へ
あるきはじめる
石綿紡織百年、大勢の人が理由も分らず、知られることもないまま亡くなりました。
この詩を犠牲になった人々に捧げるとともに、アスベスト被害のない社会の実現に向けて、力を合わせることを誓います。
泉南アスベスト裁判原告一同」
建立式では最初に、竹中勇人・泉南市長があいさつ。前泉南市長の向井通彦氏、阪南市長代理として市民部長、他にも両市及び両市議会関係者多数が列席した。
韓国からは「感謝牌」贈呈
続いて、石綿対策全国連絡会議・古谷杉郎事務局長と韓国石綿追放ネットワーク(BANKO)のチェ・エヨン執行委員長があいさつ(BANKO執行委員の鈴木明氏が通訳)。エヨンの本来の所属団体である環境保健市民センターは毎年末「環境市民賞」の授与を行っているが、2011年12月20日に腹膜中皮腫のため亡くなった環境アスベスト被害者レイチェル・リーさんを記念した賞を、昨年柚岡一禎氏に贈ることを決めた。今回、合わせて市民の会に対して、韓国だけでなくアジア(A-BAN)の仲間の連帯と感謝の気持ちを込めて記念のプレートを用意し、建立式で贈呈した(前頁写真)。プレートに刻まれた文章は次のとおりである。
大阪・泉南地域の石綿被害と市民の会は、『石綿村』と呼ばれてきた大阪府泉南地域で発生した多数の石綿被害の責任が日本政府にあるという点を、国家賠償訴訟の最高裁確定判決を通じ確認する快挙を挙げました。これは一級発がん物質石綿から労働者と住民の生命を保護しなければならない責任が、企業とあわせて国にもあるという点を法的に確認したという点で、日本はもちろん韓国とアジア、ひいては全世界的にも非常にまれな被害者運動の模範事例です。とくに泉南地域の石綿被害者の中には多数の在日韓国人が含まれており、韓国と国際社会の関心が大きいです。泉南訴訟は、すべての原告と弁護人そして支援団体が一丸となって長い間闘った結果ですが、一部の敗訴原告らが除外されずともに結果を共有したという点で、一層意味深い石綿被害者運動として評価されます。よって激励と感謝の心を込めて感謝牌を贈ります。
柚岡一禎氏へ贈呈された環境市民賞プレート より
弁護団は、今回招かれて参加するゲスト側だったが、多くの弁護士が家族連れで参加。代表して、芝原明夫・弁護団長があいさつした。
建立式にはその他、水嶋クリニック、阪南医療生協、疾走プロダクション、中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会の関西支部・尼崎支部、建設アスベスト大阪訴訟原告団をはじめ、地元と関西地区で裁判を支えた多くの関係者が参加。
さらに何人かのあいさつと、元原告による前出の「帰らぬ母に」の朗読、最後に元原告・山田哲也さんの「アスベストによる被害者はいまもいます。これを礎に、公害被害をこれ以上出さないという強い思いを後生に伝えていきたい」という訴えで、建立式は終了した。
その後参加者は、近くの老人会館に移動して懇親会(写真左)。泉南原告団名物(?)の手作り料理、さらに患者と家族の会関西支部のメンバー約20人が会場で揚げたてを提供するてんぷら(写真右)を堪能した。会場のあちこちで、これまでの苦労をふりかえり、なごやかな交流が行われた。発言をした元原告が声をそろえて、「問題が終わったわけではない」「まだまだ取り組まなければならない課題が残っている」と今後のことを語っていたのが印象的だった。
最高裁判決から謝罪・和解
ここで時計の針を昨年10月9日の最高裁判決のときに巻き戻したい。
原告団・弁護団と支援団体、地元泉南・阪南市長、超党派の国会議員らの早期解決を求める声のなかで、10月21日夕方に塩崎恭久・厚生労働大臣が緊急の記者会見を開いて、①原告と直接会って謝罪、②大阪高裁に差し戻された二陣訴訟について和解申し入れ、③泉南訴訟の原告と同様の状況にあった被害者が起こしている裁判の和解も検討、と表明した。
10月27日には、塩崎大臣らが原告団代表12名と大臣室で面談し、頭を深々と下げて謝罪した(ここまでは2014年12月号参照)。
そして12月26日、大阪高裁において一陣訴訟の和解が成立した。「泉南勝たせる会ニュース」は次のように伝えている。
和解の法廷では、はじめに原告を代表して岡田陽子さんが意見陳述しました。
泉南勝たせる会ニュース
『この裁判が始まるまでも、裁判が始まってから今日までも、とても長く、苦しい日々だった。その間に、母を含めて、14人の原告が今日のこの解決を見ることなく亡くなっていった。私たちが裁判に立ち上がっていなければ、泉南の石綿被害は、いまもまだ埋もれたままになっていたでしょう。この法廷で、国は、泉南の石綿被害者の掘り起こしに努力することを約束するが、泉南の石綿被害者がひとりでも放置されることのないよう、一人残らず救済されるよう、切に希望する』と陳述しました。
弁護団を代表して村松弁護士が意見陳述。
『この8年半余りの間に、14人の原告が、最終解決を見ることなく亡くなったが、弁護団としても痛恨の思いだ。国は、何故、少しでも早く最終解決を決断できなかったのか、何故、国は、訴訟の一方当事者という観点からだけではなく、国民の生命健康を最大限尊重すべき国の責務から解決を検討できなかったのか、国には、是非、私たちの痛恨の思いを正面から受け止め、対応の誤りを今後の重要な教訓にすることを要望する』と訴えました。
続いて裁判長が、『和解勧告と和解条項』を読み上げ、原告と被告国の双方が同意して和解が成立しました。裁判長は『長い間ご苦労様でした』と原告をねぎらいました。
和解の内容
和解条項はおおむね以下のような内容です。
① 厚生労働大臣は、大阪・泉南アスベスト国賠一陣訴訟、二陣訴訟の最高裁判決において、昭和33年5月26日から昭和46年4月28日まで、石綿工場における石綿粉じんばく露防止のために旧労働基準法に基づく規制権限を行使して局所排気装置の設置を義務付けなかったことが国賠法の適用上違法と判断されたことを厳粛に受け止め、被害者、遺族ら関係者に深くお詫びする。
② 国は、原告らに対して既に最高裁判決で確定した二陣訴訟と同様の基準で賠償金を支払う。
③ 厚生労働省は、大阪・泉南アスベスト国賠1陣訴訟及び二陣訴訟の最高裁判決において国の責任が認められた者と同様の状況にあった石綿工場の元労働者らについても、同判決に照らして訴訟上の和解の途を探ることについて、周知徹底に努める。
④ 厚生労働省は、大阪府泉南地域における旧石綿工場の残存アスベストに関し、地方公共団体の対応の促進について関係省庁に伝達する。
というものです。
しかし、昭和47年以降に就労を開始した被害者についての責任が認められなかったことや、近隣住民や家族被害の責任が認められなかったことなど、不十分さも残りました。この時期、大量のアスベストが消費され被害者も増えていますが、そのことに対する国の責任を明らかにすることは、建設アスベスト訴訟などに引き継がれています。
原告らは、8年半をかけての勝利、それも国を相手にした闘いでの勝利を誇らしく思っています。
泉南アスベスト訴訟は終結します。そして、この勝利を、すべてのアスベスト被害の救済と根絶の闘いの新たなスタートにすることが求められています。
この最終和解を受けて、年が明けた2015年1月18日、塩崎厚生労働大臣らが地元を訪問し、泉南市総合福祉センター「あいぴあ泉南」において、泉南・阪南市長らも同席のもと、元原告と面談・謝罪したほか、両親を肺がんで亡くした元原告の岡田陽子さんの自宅を訪れて仏壇に焼香して謝罪、また、3日前に亡くなった元原告の松本幸子さん宅も弔問に訪れて謝罪した。
類似事案も訴訟上の和解
このような経過を踏まえて厚生労働省は、ホームページ上で「アスベスト(石綿)訴訟の和解手続について」以下のように知らせるとともに、ポスター・リーフレット等による周知を開始している。
石綿(アスベスト)工場の元労働者やその遺族の方々に対する和解手続による賠償金のお支払いについて<厚生労働省HP>
1 大阪泉南アスベスト訴訟について
大阪泉南アスベスト訴訟は、大阪府南部・泉南地域の石綿(アスベスト)工場の元労働者やその遺族の方々などが、石綿による健康被害を被ったのは、国が規制権限を適切に行使しなかったためであるとして、損害賠償を求めた事案です。
この訴訟については、平成26年10月9日の最高裁判決において、昭和33年5月26日から昭和46年4月28日までの間、国が規制権限を行使して石綿工場に局所排気装置の設置を義務付けなかったことが、国家賠償法の適用上、違法であると判断されました。
2 今後のアスベスト訴訟における和解について
石綿(アスベスト)工場の元労働者やその遺族の方々が、国に対して訴訟を提起し、一定の要件を満たすことが確認された場合には、国は、訴訟の中で和解手続を進め、損害賠償金をお支払いします。
(1)和解の要件は、次のとおりです。
ア 昭和33年5月26日から昭和46年4月28日までの間に、局所排気装置を設置すべき石綿工場内において、石綿粉じんにばく露する作業に従事したこと。
※労災保険や石綿健康被害救済法による給付を受けている方であっても、上記期間内に労働者として石綿粉じんにばく露する作業に従事した方は対象となります。
イ その結果、石綿による一定の健康被害を被ったこと。
※「石綿による一定の健康被害」とは、石綿肺、肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚などをいいます。
ウ 提訴の時期が損害賠償請求権の期間内であること。
※期間内であるかどうかについては、法律の専門家である弁護士などにお聞きください。
(2)訴訟においては、前記(1)の要件を満たすことについて、日本年金機構発行の「被保険者記録照会回答票」、都道府県労働局長発行の「じん肺管理区分決定通知書」、労働基準監督署長発行の「労災保険給付支給決定通知書」、医師の発行する「診断書」などの証拠によって確認できることを条件として、和解手続を進めることになります。
3 和解によりお支払いする賠償金について
(1)和解により国がお支払いする賠償金の額は、疾患の種類や病状によって異なります。
(2)また、最高裁判決では、国による賠償義務は、賠償基準額の2分の1を限度とすると判断されました。
(3)このため、和解により国がお支払いする賠償金の額については、疾患の種類や病状に応じた賠償基準額の2分の1を限度として、算定を行います。
4 お問合せ先
詳細については、最寄りの法テラスや弁護士会などにご相談ください。
※法テラスとは、総合法律支援法に基づいて設立された日本司法支援センターの略称であり、司法制度をより国民に身近なものとし、全国どこでも法による紛争の解決に必要な情報やサービスを受けられるようにする総合法律支援機関です。
広告弁護士事務所よりも、経験豊富な弁護団へ
なお国賠訴訟の相談・問合せは、泉南アスベスト国家賠償訴訟の弁護団でありこのタイプの国賠裁判に最も詳しい大阪アスベスト弁護団など長年アスベスト裁判に取り組み各種の判決をかちとった経験のある弁護団に行われることが適切である。
泉南第三陣訴訟の提訴
最高裁判決後の厚生労働大臣の緊急記者会見で「泉南訴訟の原告と同様の状況にあった被害者が起こしている裁判の和解も検討」とされたものには、神戸地裁と埼玉地裁で係争中の事件があったが、前者については3月23日に原告敗訴の判決が出されて高裁に舞台を移し、後者-エタニットパイプ第5次訴訟は、2月19日に第6次訴訟も提訴されているが、原告側が国側の方針に沿った和解に応じるかどうか、本稿執筆時点では不詳である。
泉南について言えば、一陣・二陣訴訟の被災者数は計59名で、そのうち昭和33年5月26日から昭和46年4月28日までの国の責任期間に労働者として石綿にばく露した者として52名の請求が認められた(7名の請求は認められず-3名は昭和47年以降の就労、2名は除斥期間、2名は環境ばく露)。
3月24日に、泉南アスベスト国賠第三陣訴訟が大阪地裁に提訴された。原告の数は19名(生存原告8名・遺族原告11名)。被災者の数では14名で、中皮腫2名、肺がん5名、石綿肺7名。請求金額は、最高裁判決-和解の基準に沿った以下のとおりで、合計1億6,555万円となっている。
- じん肺管理区分管理2で合併症がない場合 550万円
- 管理2で合併症がある場合 700万円
- 管理3で合併症がない場合 800万円
- 管理3で合併症がある場合 950万円
- 管理4、肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚の場合 1,150万円
- 石綿肺(管理2・3で合併症なし)による死亡の場合 1,200万円
- 石綿肺(管理2・3で合併症あり又は管理4)、肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚による死亡の場合 1,300万円
以下に、提訴時記者会見用に弁護団が作成したメモを紹介しておきたい。
泉南石綿被害の救済に関してのメモ(配付資料:大阪アスベスト弁護団)
1 被害の甚大さと新規患者発生の可能性について
- 泉南の石綿紡織工場は、各種の石綿製品製造工場の中でも、石綿疾患による危険性が特に大きかったので、その被害も甚大だったが、泉南地域の石綿紡織工場での被害は、基本的に過去の被害であり、新規発生の可能性は限定的である。
2 被害発生が甚大であった理由
- 日本の石綿紡織業は、1907年、泉南地域(栄屋石綿)で開始され、石綿紡織業における石綿被害が最初に判明したのも泉南地域であった(1940年)。世界的にも、石綿による健康被害は、1930年前後、石綿紡織工場で明らかになり(英国:1928~1930年、米国連邦政府・州:1930年代~1940年代、ドイツ:1930年代)肺がんについての報告も、1950年代から各国でなされている。
- 石綿紡織業においては、各種石綿製品製造業の中で、①純度100%の石綿を扱っていたこと、②石綿粉じんが飛散する工程が多いこと、③産業構造上、小規模零細工場が多いことから、石綿被害が多発した。この点も世界各国で共通している。
3 泉南地域への石綿紡織工場の集中(全国の80%前後)
- 工業統計と岸和田労基署の記録によれば、石綿紡織製品の生産量は、大阪が全国の8割前後、岸和田管内が大阪の70~100%を占めており、泉南地域の比重は、時代が後になるほど増大した。事業所数でも、岸和田管内が全国の80%以上を占めていた。
*昭和60年頃の労働局内部資料
大阪府下の石綿紡織業は、現在は岸和田署管内に集中している38社(427名)が全てである。大阪府下の石綿労働者の健康障害の約8割が岸和田署管内の石綿紡織業に集中している。
*平成元年の労働局内部資料
府下の石綿紡織業は全て岸和田署管内に集中しており、事業所数26(278名)
*平成7年の岸和田労基署内部資料
岸和田署管内の石綿紡織事業場は、15社16事業場、シェアほぼ100%
4 泉南地域への石綿被害の集中
- 戦前から昭和30年代にかけて、全国の石綿紡織工場に対する公的調査が多数回行われているが、泉南地域での調査報告が最も多い。
昭和32年調査(大阪)- 814名中88名発症 発症率10.8%
昭和33年調査(岸和田署管内)- 521名中96名発症 発症率18.4% - 国の人口動態統計を見ても、平成元年頃まで、全国の石綿肺死亡者数の過半数を、岸和田署管内が占めている。
(昭和30年から63年までの石綿肺による死亡者数合計)
岸和田管内:112名 全国:170名 約66%
5 石綿労働者数の減少と被害発生の減少
- 岸和田労基署及び過去の疫学調査の記録によれば、泉南地域の石綿紡織工場の労働者数は、昭和30年代から50年代の時期には400~1,000名程度が把握されていたが、昭和50年代以降急速に減少し、平成10年には、95名まで減少し、平成17年に栄屋石綿が廃業した時点(従業員6名)でゼロとなった。
- 岸和田労基署の統計を見ても、石綿紡織労働者の労災認定のピークは昭和50年代であり、平成5年から10年までは、毎年2名前後しか認定されていない(平成11年以降の統計は存在しないとして、国が開示していない)。
6 救済対象者数について
- 以上の事情を考えれば、泉南地域は甚大な被害発生ではあったが、現在の時点では、泉南地域の石綿紡織工場に勤務し石綿疾患に罹患した労働者(又はその遺族)で、補償が必要な対象者数は、きわめて少ない。
- 仮に、昭和35年から平成10年までの間に1年以上、石綿紡織工場で稼働したため、労災認定対象となる石綿疾患を発症した労働者(又はその相続人)を補償対象とする場合、その数は、最大に見積もっても、この時期の全労働者数(岸和田労基署の記録から4,000人以下と推定)の12%程度と考えられ、そうすると、被害者数で600名程度となる。しかも、その多くは、死亡して相続人が存在しなかったり、就労状況や疾病の疎明が不可能であると考えられ、現実的には、原告を除き、救済対象となり得る被害者数は600名の1割、60名程度と推定される。
なお、三陣原告のなかには、九州から集団で泉南の石綿工場に就職し、退職後に地元に戻って石綿関連疾患を発症。患者と家族の会による全国での被害の掘り起こしと新支部設立の努力のなかで、南九州支部に加わった患者さんもいる。また、一陣原告のなかには、島根県から泉南に集団就職された方もいた。石綿にばく露したのは泉南であっても、現住所は別という事例が存在しているわけである。
泉南以外での提訴
また、これに先立つ3月20日には、同じく大阪地裁に、泉南以外の類似事例が提訴されている。原告は、2013年5月に胸膜中皮腫のため亡くなった故菊池武雄さんの妻・良子さんである(写真は提訴時記者会見、新聞記事は提訴翌日の2015年3月21日毎日新聞朝刊)。
武雄さんは、北海道北見市出身で、18歳のとき集団就職で大阪へ来て、昭和37年3月から昭和38年6月まで、東大阪市にあった「五稜石綿紡織所」の稲田工場で働いた。五陵石綿では、石綿布などの製造に従事し、石綿の粉じんにばく露した。その後、念願だった大阪府警に入って定年退職まで勤務した(白バイ隊員として交通機動隊中隊長も務められた)。しかし、定年退職後の2012年10月、胸膜中皮腫と診断され、翌2013年5月19日、69歳で亡くなった。東大阪労働基準監督署は、2013年11月に労災認定した。
武雄さんは、50年前にたった1年あまり働いた石綿工場でのばく露が原因で中皮腫を発症し、良子さんと2人でまだまだ楽しく過ごすはずであった老後の生活を失ってしまった。そのうえ、労災保険による補償は、石綿にばく露した若年時を基準とする低賃金で算定されることとなってしまっている。
武雄さんは、国が示した和解要件は、いずれも満たしていると考えられる。一方で、五陵石綿はすでに廃止され、企業相手の責任追及が事実上不可能である。そこで今回、国を単独で相手取った損害賠償請求提訴となったものである。
これにより、泉南地域にとどまらない被害者に対する国家賠償が行われることになった。泉南国賠訴訟を闘った原告団、弁護団、支援の皆さんの大変なご努力によって、この道が開かれた。
五稜石綿には3工場-稲田工場(東大阪市)、津田工場(枚方市)、交野工場(寝屋川市)-があり、石綿関連疾患の労災認定等件数は15件ある。
「夫の無念晴らす」泉南石綿判決受け
毎日新聞社大阪本社2015年3月21日朝刊
菊池さん国賠請求
大阪・泉南石綿(アスペスト)被響国家賠償訴訟の最高裁判決で、石綿工場内の規制を怠ったと国の更任が認定された時期に石綿紡織工場で働き、13年5月に中皮腫で死亡した菊池武雄さん(当時69歳)の妻良子さん(66)が20日、国家賠償請求訴訟を大阪地裁に起こした。良子さんは「ずっと健康だったので『悔しい』と何度も口にしていた」とへ夫の無念を語っている。
弁護団は、最高裁判決に基づき、国が示した和解で賠償金を払う条件「1958~71年までに石綿工場で作業した石綿健康被害者に合致していると主張。請求額も最高裁が示した基準に従い1430万円とした。菊池さんは北海道北見市出身01962隼に東大阪市稲田上町の石綿紡織工場「五稜石綿稲田工場」に就職し、1年3カ月間、石綿布の製造に携わった。警察の白バイ隊が夢だった。63年に府警に入り、交通機動隊中隊長も務めて夢をかなえ、警部として04年に定年退職した。
良子さんは、退職後、ある告白をされた。報道番組を見ながら菊池さんが「石綿を触ったことがある」と漏らした。良子さんが「冗談でしょ」と言うと、工場にいた間「石綿で頭が真っ白でちくちく、口の中がざらざらに」なりながら働いていたと話した。
直後の2012年9月、菊池さんは階段で息苦しさを訴え、10月に中皮腫と診断された。労災認定に向けて動こうとしたが、約50年の潜伏期を経ての発症で、働いていた五稜石綿は既に廃業し、事業主の証明が取れない。困っていたところ「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」の古川和子会長(67)が入院先に訪れ事業主証明なしでも認定された例がある」などと助言した。
菊池さんは励まされ、「早期の治療で回復すれば、あ3年くらいは頑張って、古川さんたち支援団体のお手伝いができる」と話していたが、病状が急激に悪化して帰らぬ人となった。労災認定はその半年後だった。
良子さんは「夫の無念を思わない日はない」。そんな中、最高裁判決で国の規制権限不行使の責任を認めさせた泉南国賠訴訟を知らされた。良子さんは、夫の遺志や古川さんらの助言を考え、訴訟を決意した。「正義感が強かった夫がいたら必ず声を上げていた」。そう思うからだ。
家族の会への相談は、03・5627・6007か06・6943・1528。
【大島秀利】
紡織以外の石綿製品製造事例でも
続いて、上記事件の第1回期日に合わせて5月1日、同じく大阪地裁にもう一件提訴がなされた。
今回は、久保田鉄工株式会社(現・株式会社クボタ)の孫請けとして石綿水道管の加工を行っていた大阪市西淀川区の兄が経営していた藤田鉄工所で、昭和34年6月から昭和36年10月まで働き、胸膜中皮腫に罹患、2008年12月29日に亡くなられた故藤田良男さんの事例である(西野田労働基準監督署によって労災認定済み、原告は妻の良子さん)。
これで、紡織品以外の石綿製品製造労働者の事例にもひろがったことになるが、当時、久保田鉄工の下請けとして石綿水道管(継手)の溝を削る作業をしていた事業場だけでも、他に3か所あることがわかっている。
上記2件はいずれも中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会と関西労働者安全センターが支援し、アスベスト訴訟弁護団(関西)が担当しているが、さらに大阪で複数の事件の提訴を準備している。
全国300事業場超・千人以上?
前出の泉南第三陣提訴時の弁護団メモでも救済対象者数の推定が行われているが、実際に和解要件にあてはまる労働者はどのくらいいるのだろうか。
厚生労働省が公表している2013年度までの労災認定事業場情報から作成したのがこのようだが、「石綿製品製造工場」で、「1971(昭和46)年までに操業を開始し」または「操業開始時期が不明」の事業所数は340ある。340事業場における労災認定件数は、時効救済分を含めて1,210件である。
この中には、2010年度以前の石綿肺による労災認定の場合や、和解要件には含まれているのに労災認定の対象になっていないじん肺管理区分が管理2または管理3であって合併症がない場合、は含まれていない。
つまり少なくとも、全国で300超の事業場、1,000名を超える和解要件対象者がいると言ってよいのではないかと思われる。
被告・国側の「対応方針」
さて、紹介した新規事案ではもっとも提訴の早かった五稜石綿・菊池事件で、国側は答弁書において「対応方針」を以下のように示した。
「被告は、平成26年10月21日付け厚生労働大臣談話に基づき、泉南二陣最高裁判決で国の責任が認められた者と同様の状況にあった石綿工場の元労働者についても、同最高裁判決に照らして、訴訟上の和解の途を採ることとしている。
したがって、本件訴訟における原告についても、被災者の労働実態等所定の事実関係を確認し、かつ、就労先からの企業和解金等の受領事実を確認した上、和解対象と認められた場合には、泉南二陣最高裁判決で確定した大阪高裁平成25年判決の基準に従って、訴訟上の和解を申し入れる予定である。
そのため、本件訴訟においては、当面、被告の主張は留保した上で、後記の求釈明に対する原告の回答を待つこととしたい。」
求釈明では、「被災者の石綿粉じん曝露の状況」について、以下のように言っている。
「訴状の記載(訴状「請求の原因」)からは、亡武雄が、いつからいつまでの間、具体的にどのような作業に従事したことにより石綿粉じんに曝露したのかが明らかでない。
そこで、亡武雄について、①訴外会社における具体的な作業内容(「石綿布等の製造作業」の具体的内容、「石綿布等の製造作業」以外に従事していた作業の有無、及び「石綿布等の製造作業」以外に従事していた作業がある場合には当該作業の具体的内容)、②上記作業に従事していた期間(「石綿布等の製造作業」以外に従事していた作業がある場合には、各作業ごとの従事していた期間)、③上記作業における石綿粉じん曝露の具体的状況について、原告の主張を明らかにされたい。」
「石綿粉じん曝露」が泉南地域の紡織産業である場合には、相対的に立証の負担が軽くなるかもしれないが、国の類似事案についての「訴訟上の和解」に臨む方針が一定わかったわけである。
同様の提訴を全国に拡大
私たちは、泉南アスベスト国賠訴訟の成果を引き継いで、できるだけ多くの同様の被害者・家族が国家賠償訴訟を提起し、現在進行中の甚大な石綿被害における国の責任がいかに大きなものであったのかを明らかにさせていくことが重要だと考える。そのためにも今後、石綿国賠訴訟提訴を全国的に拡大する運動を進めていきたい。
そして、この取り組みを通して、国家賠償責任の及ばないとされた被害者をはじめ、補償・救済の格差と隙間で苦しんでいる多くの石綿被害者のおかれた状況を広く明らかにし、これを変えていくため、すべての石綿被害者の声を結集していきたい。
可能性のある事案については、ぜひ各地の安全センターや患者と家族の会と、まずは連絡をとっていただきたい。そして、すべての関係者が連携、力を合わせて最大限の成果を獲得できるようにしていきたいと望んでいる。
各地で進行している建設アスベスト訴訟等すべてのアスベスト訴訟の勝利を含めて、泉南一・二陣を引き継いで、闘いは続いている。
安全センター情報2015年6月号