福井県内の化学工場で発生した膀胱がんに関する災害調査-労働安全衛生総合研究所-平成28(2016)年5月
目次
災害調査報告書A-2015-07(一般公開版)福井県内の化学工場で発生した膀胱がんに関する災害調査
平成28(2016)年5月
独立行政法人労働者健康安全機構 労働安全衛生総合研究所
Ⅰ 災害ならびに調査の概要
福井県の化学工場においてオルト-トルイジン、2,4-キシリジン等を原料として染料・顔料中間体を製造する作業に従事する労働者5 名に膀胱がんが発生したとの報告を受けて、厚生労働省労働基準局安全衛生部長から「芳香族アミンによる健康障害の防止対策について」(基安発1218 第1 号、平成27 年12 月18 日)が発出され、関係団体に注意喚起が促された。これに先立ち、労働基準局化学物質対策課長から災害調査等への協力が依頼され、当研究所として当該工場におけるオルト-トルイジン等の芳香族アミン類と膀胱がん発症との関連について災害調査を実施した。
まず、研究所から3 名の研究員が12 月16 日に福井県に赴き、福井労働局及び所轄労働基準監督署が収集した膀胱がん発症に関連した情報や当該工場の操業概要、取扱っている化学物質等に関する情報、作業内容や生産工程、作業環境等について事前に確認した後、実際に当該工場へ赴いて作業環境や作業工程等、化学物質の取扱い状況等を調査した。これらの視察結果を踏まえて翌1 月20~21 日にかけて本格的な現場調査を実施した。
当該工場では、原料に溶媒として有機溶剤を加えて、ジケテンを滴下しながら染料・顔料中間体を製造しており、原料としてはアニリン、オルト-トルイジン、2,4-キシリジン、オルト-アニシジン、オルト-クロロアニリン、パラ-トルイジンの6 種類を扱い、製品を製造している(オルト-トルイジン、2,4-キシリジン、アニリンを用いた製品をそれぞれ製品A、製品B、製品C とした。)。製造工程は大きく反応工程と乾燥工程に分かれる。製造課は第1 グループと第2 グループに分かれるが、原料として用いてきた芳香族アミンは第1 グループで主としてオルト-トルイジン、2,4-キシリジン、オルト-アニシジン、オルト-クロロアニリンを、第2 グループではアニリン、オルト-アニシジン、オルト-クロロアニリン、パラ-トルイジンである。膀胱がんが発生した5 名の労働者(12 月10 日時点)の職歴等について検討した結果、第1 グループに所属して反応工程や乾燥工程に長く従事していたこと、膀胱がんを引き起こす芳香族アミンの中でもIARC が発がん性分類グループ1 としているオルト-トルイジンが第1 グループで使用されていること等から、現場調査の対象を主として第1グループの製造工程(第1 グループの反応工程は第1 反応棟で、乾燥工程は第1 乾燥棟で行われる)における作業及び従事する労働者とした。
現場調査では主に①作業環境測定、②個人ばく露測定、③尿中代謝物(オルト-トルイジン)の測定を実施した。また、作業環境測定は第1 反応棟、第1 乾燥棟、第2 乾燥棟で作業内容等を考慮して7 カ所で実施した。個人ばく露測定については、事前申告された当日の作業内容を参考にして、オルト-トルイジンの移し替え(準備作業)、オルト-トルイジンのドラム洗浄、第一反応棟で製品A の有機溶剤洗浄、第一乾燥棟での製品A の乾燥作業、製品A の製袋作業等を考慮し、これらの作業に従事する6 名の労働者に対象に、作業内容が変更する際には捕集するサンプルのヘッドを交換することで、それぞれの作業単位ごとに個人ばく露測定を実施した。今回の作業環境中のオルト-トルイジンはガス状のもの以外にも、製品A に付着している可能性のあるオルト-トルイジンも捕捉するために、作業環境測定と個人ばく露測定のサンプラーのヘッドを工夫して使用した。尿中代謝物の測定は現場調査を実施した当日に実際の作業についた13 名の労働者と全く工場に入らず事務作業に従事していた1 名の労働者(非ばく露者)を対象として就業前後で尿を採取し、尿中オルト- トルイジン及びその代謝物を測定して就業前後での増分について検討した。なお、個人ばく
露測定については作業内容とばく露量との関連を検討するため、安衛研の研究員が個人ばく露測定を行った労働者の行動や作業内容を終始観察・記録して、ばく露量との関連を後日検討した。尿中代謝物を測定した労働者には、就業後にその日の作業内容を聞き取り、測定結果との関連について検討した。
さらに、化学物質の取り扱いに係る過去の作業内容や使用していた個人保護具の種類や保管状況等に関する詳細な情報を確認するため、当該企業の管理部門や担当者とコンタクトを重ねた。さらに、3 月24 日には生産部門に従事する労働者全員を対象とした今回の調査結果の説明と調査に協力していただいた労働者への結果報告を行うために福井工場に赴いて、再度関連する情報を入手した。
作業環境測定の平均値は、ガス状オルト-トルイジンは12.6µg/㎥(0.003ppm)、アニリン9.9µg/㎥(0.003ppm)、2,4-キシリジン9.1µg/㎥ (0.002ppm)、粉体の製品A は37.5µg/㎥であった。個人ばく露測定は、ガス状オルト-トルイジンの平均値は56.6µg/㎥ (0.013ppm)、アニリン18.8µg/㎥と538.5µg/㎥(0.005ppm と0.141ppm、2 つのサンプル以外はNDであったため、平均値は算出しなかった)、2,4-キシリジンはND、粉体の製品A の平均値は2115µg/㎥であった。就業前後での尿中のオルト-トルイジンの増加分の平均値は89.9µg/Lであった。いずれの場合においても粉体の製品A中のオルト-トルイジンはND であった。オルト-トルイジンのばく露限界については日本産業衛生学会の許容濃度が1ppm(皮)、ACGIH(米国産業衛生専門家会議)のTLV-TWA が2ppm(S)、OSHA(米国労働基準局)のPEL が5ppm(S)である。アニリンについては日本産業衛生学会の許容濃度が1ppm(皮)、ACGIH(米国産業衛生専門家会議)のTLV-TWA が2ppm(S)、2,4-キシリジンについては現段階でばく露限界が提案されていない(注:(皮)と(S)は、空気からの経気道ばく露の他、皮膚からの吸収による健康影響が無視できない物質であることを示す記号)。
オルト-トルイジンの作業環境測定及び個人ばく露測定の結果からはばく露限界、とりわけ最も低い日本産業衛生学会の許容濃度である1ppmと比べても極めて低いばく露量であることを確認した。また、製品Aについては粉じんとして吸入するリスクを考慮して測定したが、製品Aに付着しているオルト-トルイジンは重量比でわずか21.7ppm であることから経気道的に生体内に取込むオルト-トルイジンも極めて軽微であると言わざるを得ない。これに反して、多くの労働者の就業後の尿からオルト-トルイジンを検出している。今回の調査では個人ばく露測定を行った労働者には研究員が常時マンツ-マンで付いて作業内容等の記録を行ったが、呼吸用保護具は全員が防じん防毒マスクを着用しており、この点からも経気道ばく露で生体内に取込んだオルト-トルイジンが尿中代謝物として検出されたとは考えにくい。
オルト-トルイジン等の芳香族アミン類の生体への取込みで留意しなければならないものに経皮吸収の存在がある。今回の調査ではオルト-トルイジンの経皮吸収の可能性について調査検討した結果、原料であるオルト-トルイジン(99.9%)の反応釜等への仕込み作業、反応釜から取り出された母液中の製品A の結晶掘り起こしと蒸留した有機溶剤での洗浄作業(母液及び蒸留有機溶剤中にオルト-トルイジンが不純物としてそれぞれ0.35%、0.1%程度含まれている)、乾燥機へ製品A を投入する作業(蒸留有機溶剤で湿った「ろ布」を作業者が取り扱うことで作業着等が汚染する)等の経皮吸収の危険性が確認された。さらに、後日、回収したゴム製手袋から高い濃度のオルト-トルイジン(3 月の聞き取り調査でかなりの労働者が蒸留有機溶剤で手袋を洗っていたことが判明した)を検出したため、尿中代謝物との関連を確認すると、統計的に有意ではないが両者に一定の関連を認めた。従って、今回の調査で検出した尿中代謝物は汚染された手袋の着用等による可能性が示唆された。この他、製品A を生体内に取込んだ場合、体内でオルト-トルイジンに分解する可能性もあるが、今回の災害調査では確認できなかった。
今回の災害調査は、膀胱がんの事案の発生後に福井労働局及び所轄労働基準監督署が調査に入り、ほぼ一ヶ月以上製品A の生産工程をストップさせた後の再開4 日目に実施され、さらに、発がんのリスクを伴う作業であるということを考慮して、最大限の個人保護具を装着した環境下で実施した。しかしながら、就業後に尿中代謝物を検出し、その原因としてオルト-トルイジンに汚染された手袋の着用等に伴う経皮吸収によることが懸念された。当該工場における過去の操業状態、作業環境、労働者の作業着や個人保護具の着用・管理状況等から考えると、オルト-トルイジンのばく露の可能性は十分にあったと推察される。しかしながら、オルト-トルイジンの取扱いが完全自動化されていない職場において、今後、どのようにしてばく露防止のためのリスクアセスメントを行っていったらよいのか、更なる研究を進める必要がある。
Ⅱ 作業環境測定及び個人ばく露測定等
当該事業場で取扱っているオルト-トルイジンを含む6 種類の芳香族アミン類のうち、使用量の最も多いオルト-トルイジン、アニリン、2,4-キシリジンの三つについて、そのばく露状況を検討するために、作業環境測定及び個人ばく露測定を実施した。作業環境測定は第1反応棟(環境1、洗浄作業近辺)、第1乾燥棟(環境2~4、2 階乾燥機上部と1 階フレコン(搬送用の袋)取出口の裏、1 階秤量近辺)、第2 乾燥棟(環境5~7、1 階フレコン取出口の裏、1 階秤量近傍壁面風上と風下)で作業内容等を考慮して7 カ所選定した。個人ばく露測定は6 名の労働者(労働者ID:A~F)の協力を得て実施したが、作業内容の違いによるばく露レベルを評価するため、異なる作業ごとでサンプラーのフィルターを交換して個人ばく露測定を行い、15 サンプルを得た。
今回の測定にあたり、ガス状のオルト-トルイジンと製品A(粉体)に付着しているオルト-トルイジン双方のばく露を評価するために、サンプラーは3 段構成とし、1 段目で製品A(粉体)を濾過捕集し、2 段目でガス状オルト-トルイジンを捕集し、3 段目でガス状オルト-トルイジンの漏れの確認を行った。1 段目で濾過捕集した製品A は秤量した後に、100℃に加熱し、気化する製品A 中のオルト-トルイジンをガスクロマトグラフ/質量分析計(以下、GC/MS とする)にて測定した。2 段目では硫酸含浸ろ紙によりガス状のオルト-トルイジンを硫酸塩にして捕集し、GC/MS 法(NIOSH 法及びOSHA 法の一部を改変)にて測定した。
作業環境測定及び個人ばく露測定結果を表1 と表2 に示したが、作業環境測定でガス状オルト-トルイジンはND~35.2µg/㎥(0.008 ppm)、アニリンND~11.7µg/㎥(0.003 ppm)、2,4-キシリジンND~14.0 µg/㎥(0.003 ppm)、製品A(粉体)はND~45.2µg/㎥であった。個人ばく露でガス状オルト-トルイジンはND~234 µg/㎥(0.053ppm)、アニリンND~538.5µg/㎥(0.141ppm)、2,4-キシリジンND、製品A(粉体)はND~9940µg/m3であった。
これらの作業環境測定及び個人ばく露測定結果を、それぞれのばく露限界(オルト-トルイジン:日本産業衛生学会の1ppm、アニリン:日本産業衛生学会の1ppm)と比べても極めて低いばく露量であった。また、製品A については粉じんとして吸入するリスクを考慮して測定したが、製品A に付着しているオルト-トルイジンは重量比でわずか21.7ppmであることから、粉体としての製品A ばく露が最も多かったD 氏の場合でも経気道的に生体内に取込むオルト-トルイジンの総量は0.14μg と軽微であると考える。従って、作業環境測定や個人ばく露測定結果から得られた最も高い値を提案されているばく露限界と比較しても遙かに下回る値であり、オルト-トルイジンによる健康障害が発症するほどの環境にあるとは考えにくい状況にあった。
今回の災害事案では、被災者より製品の乾燥工程や製袋作業の際の粉体ばく露が膀胱がんの原因につながっているのではないかと指摘されている。現段階では製品A などの製品そのものによって膀胱がんを引き起こされるという有害性情報はない。そこで、製品A を対象として、身体への付着や生体への取込みを通じて、オルト-トルイジンが分解・生成するかどうかを実験室で確認した。実験条件は、蓋付き試験管内に10mg の製品A に3mL の水あるいは塩酸を加えて、18 時間37℃で加熱後、溶液中のオルト-トルイジンを分析した。その結果を表3 に示したが、汗や胃液などと混和して長時間放置すると製品A からオルト-トルイジンが発生する可能性があるが、化学的な効果だけで速やかに分解されることはなかった。実際に体内で製品A がどのように変化するかについては、動物実験等の新たな検証が必要になるだろう。
Ⅲ 尿中代謝物測定等
オルト-トルイジン等の芳香族アミン類の取扱い作業による生体内への取込みの程度を評価するため、就業前後での尿を採取し、代謝物測定を実施した。今回の災害調査では反応・乾燥工程で主として使用されていたのはオルト-トルイジンであることから、尿中代謝物の測定はオルト-トルイジンのみを対象として、オルト-トルイジンあるいは製品A を取扱う作業に従事する13 名の労働者の協力を得た。また、当日、全く工場建屋に入らず事務棟で事務作業に従事していた1 名を非ばく露者(コントロール)とした。尿中代謝物の測定は外部委託によったが、具体的にはGC/MS を用いて、オルト-トルイジンとその尿中代謝物を計測し、さらに就業前後での増分を求め、就業後に本人より聞き取ったその日の作業内容との関連について検討した。
尿中代謝物と個人ばく露の測定結果を表4 に示したが、就業前後の尿中代謝物の差がゼロであったのはコントロールのN 氏を含めて3 名のみで、その他の11 名からはオルト-トルイジンを検出した。尿中代謝物の測定値にバラツキはあるものの、高値を示した4 名(C 氏、D 氏、F 氏、H 氏)の作業内容は、第1 乾燥棟で午後から製品A の転倒作業や乾
燥機への投入作業への従事(C 氏、F 氏、H 氏)、製品A 製袋作業(C 氏、D 氏、F 氏)などで、4 名全員に共通した作業内容は確認できなかった。また、3 名(C 氏、D 氏、F 氏)の個人ばく露測定結果をみてもばく露限界の40 分の1 以下と極めて低い値であった。逆に、原料としての高濃度のオルト-トルイジンを取扱ったB 氏ではガス状オルト-トルイジンは比較的高いものの、尿中代謝物は検出していない。このようにみていくと、尿中代謝物の測定結果が個人ばく露の程度や高濃度ばく露が疑われる作業との間に合理的な関連性が認められなかった。
そもそも、今回の調査では全ての労働者が防じん防毒マスク(作業によってはエアラインマスク)とゴム製手袋、化学防護服等を着用しており、尿中代謝物としてオルト-トルイジンを検出すること自体、通常の化学物質へのリスク管理を行った職場では理解しがたい状況といえる。
そのため、本件を当該企業の管理者等に相談した結果、尿中代謝物が高値であった2 名(F 氏、H 氏)へのヒアリングから、かれらは就業後に自らの手袋を蒸留有機溶剤で洗浄していたとの証言が得られたため、その時点で廃棄されずに残っていた労働者のゴム手袋に付着していたオルト-トルイジンの総量を測定してオルト-トルイジンによる汚染の程度と判断し(表5)、尿中代謝物との相関関係を確認したところ(図1)、例数が少なく(n=6)統計的に有意な関連は認められなかったものの、Pearson の相関係数は0.752 と高い値が得られ、今回の尿中代謝物に影響を与えた一因として当日使用していたゴム手袋がオルト-トルイジンに汚染されていたことによる可能性が考えられ、オルト-トルイジンの経皮吸収による生体への取込みはガス状オルト-トルイジンの経気道ばく露による生体への取込みに比べても軽視できないことが懸念された。
Ⅳ 過去の有機溶剤に係る作業環境測定及び尿中代謝物測定結果から
当該工場の第1 反応棟において製品A の取出し、結晶掘り起こし、蒸留有機溶剤による洗浄等の作業が行われることは前述したとおりである。その際に、蒸留有機溶剤を大量に用いることから有機溶剤中毒予防規則に則った労働衛生管理が過去20 年近く行われてきた。福井労働局及び所轄労働基準監督署が収集したそれらの記録を分析した結果、特殊健康診断における有機溶剤の尿中代謝物検査の結果をまとめたものを表6 に示したが、平成3 年から平成17 年まで尿中代謝物の分布2 以上の有所見者の比率は現在に比べて高く、その当時有機溶剤へのばく露レベルが高かったことが推察される。蒸留有機溶剤には不純物としてオルト-トルイジンが含まれており、労働者はオルト-トルイジンにもばく露していたと考えられる。今回の調査において第1 反応棟での作業中に検知管を用いて有機溶剤の気中濃度を確認したところ10~15ppm 程度検出したが、調査時期が冬期間であることなどを考慮すると、この結果は過小評価している可能性が高い。また、当該工場の第1 反応棟における作業環境測定結果をみると、100ppm を超えており、非常に高い濃度であると判定されている時期もある。ただし、当時はオルト-トルイジンの作業環境測定は実施されていないため、どの程度のばく露レベルであったかについては不明である。また、その当時は「防毒マスクの吸収缶はアミン類の臭いがするようになってから交換した」など、呼吸保護具の不適切な着用実態も労働者のヒアリングから得られている。従って、その当時においては、経気道ばく露によるオルト-トルイジンの生体への取込みがあったことが推察される。
Ⅴ 当該企業管理部門及び労働者に対する聞き取り調査結果
労働者が使用しているゴム手袋のオルト-トルイジンの汚染が経皮吸収によって生体内へ取り込まれる可能性を前項で指摘したが、3 月24 日に当該工場を再訪して今回の調査結果等を報告した際に、面接した当該企業の管理部門や担当者、さらには労働者から得られた関連情報を整理すると、以下のようになる。
- 蒸留有機溶剤を用いてのゴム手袋の洗浄はかなり多くの労働者が行っていた。しかも洗浄していた手袋は厚手のゴム手袋だけでなく、製袋作業で使用していた薄手のゴム手袋も洗浄していた。
- 今回、原料である99.9%のオルト-トルイジンを取扱っていたにもかかわらず尿中代謝物を検出しなかったB 氏は、調査当日に耐溶剤用の手袋を外側に、薄手の手袋を内側に装着して作業しており、明らかに他の労働者より防護性の高い保護具を着用していた。
- 今から10~20 年近く前は、夏場は半袖で作業しており、反応棟における製品の結晶掘り起こし作業や有機溶剤による洗浄作業では有機溶剤の飛沫が上体に飛び散ったり、乾燥機に製品を投入する際に「ろ布」に作業着が接触することで、作業着が濡れることがしばしばあった。しかし、直後にシャワー-等で体を洗い流すようなことはしなかったし、乾燥すればそのまま帰宅する労働者もいた。
- その他、原料であるオルト-トルイジンや蒸留有機溶剤等に接触するケース等を思い出していただくと、直接手指で原料に触れていたり、乾燥機や設備のメンテナンス等で水洗いの際に飛散する汚染水がかかったりした経験などが報告された。
事実、膀胱がんとして工場長に報告された労働者の中には、製品A の製袋作業に就いたことはなく、反応作業での99.9%のオルト-トルイジン等の原料の移し替えや準備作業等の反応作業がもっぱらの仕事であり、オルト-トルイジン等を取扱う際に直接手指で触れたことがあった者がいた。
これらのことから、過去の作業においてオルト-トルイジンの経皮吸収による生体への取込みはかなりあったのではないかと推測できる。
Ⅵ 過去の文献報告から
今回の災害調査においては、個人ばく露評価ではオルト-トルイジン等の芳香属アミン類の経気道による高濃度ばく露を確認することができなかった。これらの化学物質は空気からの経気道の他、皮膚からの吸収による健康影響が無視できないことが知られている。経皮吸収のある化学物質の生体への取込みについて、経気道ばく露と経皮ばく露、二つのばく露経路の定量的な寄与割合を判断できる基礎的な研究成果や情報が乏しいことなどから、尿中代謝物の測定結果を経気道ばく露・経皮ばく露の程度と比較検討することは困難となっている。ここで紹介する学術論文はオルト-トルイジンの個人ばく露測定と尿中代謝物測定に関する数少ない調査研究報告であり、今回の災害調査結果を考察する上で有用な情報を提供してくれている。
① Ward EM, et al : Monitoring of Amine Aromatic Exposures in Workers at a Chemical Plant with a Known Bladder Cancer Excess. J National Cancer Institute, Vol.88, 1046- 1052, 1996.
米国ニューヨーク州のrubber chemical manufacture における研究結果であるが、この事業所では今までに7 名の膀胱がんが発症している(SIR:6.48、ただし、10 年以上の職歴でみていくと6 名に膀胱がんが発症し、SIR は27.2 に上昇する)。オルト-トルイジンにばく露していると考えられる28 名の労働者に実施した個人ばく露濃度は12±366 µg/㎥、ばく露群の就業前後(43→42)での尿中オルト-トルイジン濃度は15.4±27.1 µg/L → 98.7 ±119.4µg/L、非ばく露群(26→25)では2.6±1.1 µg/L → 2.8±1.4 µg/L であった。
② Korinth G, et al: Percutaneous absorption of aromatic amines in rubber industry workers; impact of impaired skin and skin barrier creams. Occup Environ Med, Vol.64, 366-372, 2007.
ドイツの自動車工場でタイヤ製造ラインに従事する51 名が調査対象であり、オルト-トルイジンの個人ばく露濃度は喫煙者で61.4(0.1~524) µg/㎥、非喫煙者で11.0(ND~93.9) µg/m3、就業後の尿中オルト-トルイジン濃度は喫煙者で38.6(ND~292.4) µg/L、非喫煙者で14.5(ND~242.9) µg/L であった。さらに、経皮吸収のリスク評価にRIE(尿中オルト-トルイジン濃度/オルト-トルイジンばく露濃度)を算出して重回帰分析を実施した結果、手袋着用状況(頻度や時間)、手洗い回数、保護クリーム使用回数が防毒マスク着用と同じくらい高い関与が認められた。その他、紅斑等皮膚所見を有する労働者は健常な皮膚所見の労働者に比べて尿中オルト-トルイジン濃度が高いなど、経皮吸収の重要性を強調している。なお、ドイツではオルト-トルイジンのばく露限界についてはtechnical exposure limit として500 µg/㎥を設定している。
これらの報告と比較すると、今回の災害調査結果では尿中オルト-トルイジン濃度に比して個人ばく露濃度が低い結果となっている。このことから、米国やドイツの報告に比べて、本事業所では経皮吸収のばく露経路の寄与が大きいことが懸念される。
Ⅶ まとめ
今回の災害調査結果では、調査対象事業場において、現在、膀胱がんを引き起こす可能性のあるオルト-トルイジン等の芳香族アミン類がばく露限界を超えるような経気道ばく露があることの確認はできなかった。
しかしながら、労働者は防じん防毒マスク、手袋や化学防護服等の労働衛生保護具を着用していたにもかかわらず、多くの労働者で尿中オルト-トルイジンが検出された。その後の聞き取り調査や手袋の汚染調査などから、オルト-トルイジンの経皮吸収による生体への取込みの可能性が示唆され、また、過去の作業内容や作業衣や保護具の使用・管理状況、さらには有機溶剤に係る過去の特殊健康診断や作業環境測定の結果等から考えると、オルト-トルイジンのばく露は長期間にわたって存在していた可能性が懸念された。
今後、オルト-トルイジンによる健康障害を予防するために、製造・生産工程の密閉化・無人化・自動化等を通じた経気道・経皮・経口ばく露を徹底的に防ぐとともに、事業者には化学物質のばく露や生体への取込みの特徴や特殊性、適切な保護具の使用・管理手法等について認識してもらい、適切な労働衛生教育を現場で提供していただく必要がある。また、オルト-トルイジンばく露防止のための効果的なリスクアセスメントを実施していくためには、作業環境測定や個人ばく露測定等のばく露評価に加えて尿中代謝物の測定等のばく露評価の手法を用い、これらの結果を労働者の健康管理に活用していく必要がある。