泉南アスベスト国賠訴訟第一陣大阪高裁判決要旨/2011年8月25日

判決主文

1 第1審被告の本件控訴に基づき、
(1) 原判決中、第1審被告敗訴部分(原判決主文第1項)をいずれも取り消す。
(2) 第1審原告らの請求のうち、上記取消しに係る部分の請求をいずれも棄却する。
2 第1審原告らの当審において拡張した請求をいずれも棄却する。
3 第1審原告らの本件各控訴をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は、第1、2審とも、第1審原告らの負担とする。

理由の要旨

第1 事実経過等

1 戦前から、石綿粉じんを職業的に吸入(ばく露)することによって、石綿肺等の重篤な肺疾患を発症する危険性があることは知られていた。また、戦前に国が行った保険院調査によっても、石綿粉じんの吸入と石綿肺の発症との間には、いわゆる「量-反応関係」があることが示唆されていた。

2 戦後の民主化政策により、昭和22年に制定された旧安衛則では、石綿粉じんを除外することなく、粉じん作業については、事業者に対し、「密閉、局所における吸引排出その他換気等の適切な措置」を講じるべき義務が定められ、労働者に対しては、適切な呼吸用保護具を使用すべきものとされた。なお、旧安衛則所定の「局所における吸引排出」とは、局所排気装置の設置を含むものであるが、当時、効果的に粉じんを捕集するための局所排気装置の設置に必要となる実用的な工学的知見は明らかになっておらず、そのような工学的知見の確立及び普及については、将来の研究、開発、技術的進展等に委ねられるものとされた。

3 戦後間もない時期の職業病としては、金属鉱山におけるけい肺が深刻な社会問題となっており、法整備についてもけい肺対策に関するものが中心として進められ、昭和30年、けい肺特別保護法が制定されたが、国の調査により、石綿肺を含むけい肺以外のじん肺についても予防対策及び救済の必要性があるとして、昭和35年、じん肺法が制定されるに至った。

4 局所排気装置については、昭和28年ころ、その機能、構造等を理論的に説明した書籍が海外から輸入され、労働省は、昭和30年から昭和31年にかけて、局所排気装置に関する労働衛生試験研究を行い、その成果としての技術書を「昭和31年資料」として作成し、昭和33年通達により、「昭和31年資料」を参考として、石綿製品の製造、加工等の作業の一部にも局所排気装置を設置するよう指導するようになった。もっとも、昭和31年資料は、局所排気装置を設計するにあたって考慮すべき基本的な考え方(設計上の基本事項)を抽象的かつ理論的に説明したものにとどまり、実際に局所排気装置を設置する一般の技術者が理解するには困難な部分が多く、直ちに局所排気装置の製作、設置を実務的に可能とするものではなかった。

5 泉南地域には、石綿製品の製造、加工等の作業場が多数存在したが、遅くとも昭和30年ころには、石綿粉じんの職業的な吸入(ばく露)によって石綿肺等の重篤な肺疾患を発症する危険性のあることが事業者及び労働者の間においても知られており、現に、昭和34年には、昭和30年代初めころに労働省が実施した全国的な健康診断によれば、上記作業に従事する労働者のうち約10%に異常所見が認められたことや、長年にわたって上記作業に従事した後に石綿肺を発症し、就労不能な程度の呼吸困難等に至った労働者が存在していることなどを具体的に伝える新聞報道がなされ、昭和33年には、このような状況に危機感を抱いた地元の事業者らが、「アスベスト振興会」を結成し、各作業場に局所排気装置を設置すること及び労働者に防じんマスクを着用させることの申し合わせがなされていた。

 もっとも、石綿粉じんを含め、鉱物性の粉じんについて局所排気を効果的に行うには、粉じんの種類、発生態様等の特徴等をもとに、個々の作業現場によって異なる作業実態に合わせてそれぞれに適合する局所排気装置の設計及び製作を要するものであり、既製品をもって対応することが困難であって、局所排気装置を有効に機能させるには、それぞれの作業現場における試行錯誤及び創意工夫に委ねざるを得ないものであった。中でも、石綿製品の製造、加工等の作業工程は多種多様な作業内容及び特徴的な作業用機械が多数ないし連続的に組み合わさったものである上、そのいずれもが石綿粉じんを多量に発生させる作業であって、それぞれの作業の種類及び内容に適合したフード等を個々に設置する必要があるだけではなく、そのようにして設置された局所排気装置が全体として有効に機能するよう適切に設計及び製作するには技術的に相当困難であった。

 そのようなことから、国は、労働基準監督署を通じて、各作業場に対し、局所排気装置の設置を推奨するだけではなく、設置された局所排気装置の性能改善の指導を行うとともに、局所排気装置の実務的指導書として、「昭和41年資料(基本編)」、「昭和47年資料(応用編)」、「昭和52年資料(石綿編)」を順次作成し、昭和43年通達によって、石綿製品の製造、加工等の各種作業において、局所排気装置を設置すべき作業部分を拡大するなどして局所排気装置の設置の普及に努めた。また、昭和40年代半ばころまでには石綿が発がん性を有することが明らかになってきたことを受けて、昭和46年通達により、石綿製品の製造、加工等の各種作業については原則的にすべて局所排気装置を設置すべきものとし、昭和46年に制定した旧特化則(同規則は昭和47年特化則として再整備された)において、法令上、局所排気装置の設置を原則的に義務付けるものとした。

 その他の粉じん対策として、国は、昭和25年に国家検定による防じんマスクの規格化を開始し、その後も防じんマスクの高性能化に併せた普及に努め、昭和37年には、石綿製品の製造、加工等の各種作業については特級又は1級の防じんマスクを使用するよう指導する旨の通達(昭和37年通達)を発出し、その後も、労働基準監督署を通じ、各作業場に対し、局所排気装置の設置と併せて労働者に防じんマスクを着用させるよう指導を行った。

6 しかしながら、上記のような石綿製品の製造、加工等の作業工程に局所排気装置を設置することの技術的困難性に加え、局所排気装置の設置及び稼働には高額な費用を要することや、泉南地域に多く所在した中小規模の作業場は資金力が十分でなかったこともあって、昭和30年代には、石綿製品の製造、加工等の作業場において、粉じん対策としての局所排気装置の設置はあまり普及しなかった。昭和40年代前半ころに至って局所排気装置を設置する作業場(但し、1台でも設置する作業場)がようやく半数近くになったものの、設置した局所排気装置の集じん率は悪く、発生した粉じんの多くが適切に捕集されることのないまま、窓から屋外に排出されるという状況にあった。また、防じんマスクの着用率は極めて低く、布(ガーゼ)マスクさえ着用しない労働者が多く、事業者もこれを容認、放置し、労働基準監督暑が立入検査等を行うときに限り、労働者に対して防じんマスクを着用するよう指示するにすぎなかった。このような実態は、局所排気装置の設置が原則的に義務付けられた昭和47年以降も続いていた。

7 その一方で、国は、昭和47年以降も、労働基準監督署を通じて、局所排気装置の普及とその性能改善及び防じんマスクの着用等の指導を継続的に行い、これに全く応じようとしないいくつかの作業場に対しては刑事罰をもって対処したほか、作業場が遵守すべき粉じん濃度についても、海外諸国の動向に併せて規制数値を強化するなどの措置を講じたところ、昭和60年ころになって、泉南地域に所在する作業場のほとんどにおいて局所排気装置が設置されるようになり、特化則が定めた石綿粉じん濃度の規制数値についても多くの作業場において達成されるに至った。

第2 判 断

1 労働関係法の主務大臣である労働大臣は、労働災害を防止し、労働者の安全確保及び健康維持を図る旧労基法(現在の安衛法)の趣旨、目的を達成すべく、同法の委任に基づき、使用者が講じるべき措置について、必要な省令を制定ないし改定したり、労働行政に関する一般的責務に基づき、それらを行政指導することのできる権限を有するものと解される。そして、上記措置の内容が多岐にわたって専門的、技術的な事項であること、労働環境における安全及び衛生のあり方はその時々の科学技術及び医学的知見等の進展状況と密接に関係するものであることなどにかんがみれば、労働大臣としては、それまで使用者が講じるべきものとされてきた措置が、新たな科学技術の進歩や医学的知見等に適合しないものとなっている場合には、それらに応じた適切な措置となるように必要な省令の制定ないし改定等の権限を行使することが求められているものというべきである。

 近代以降の労働環境においては、産業技術の進展に基づく工業化及び機械化が発達し、様々な工業製品が大量かつ短時間のうちに製造、加工等することができるようになった一方で、各種作業の継続的かつ過酷な負担によって発症する身体的ないし精神的な疾患だけではなく、機械、器具その他作業用設備の操作ないし使用によって発生する死傷事故や、工業製品の製造、加工等に伴って発生する有害な化学物質による衛生状態の悪化による健康被害の危険性が増大することになったところ、このような労働環境上の危険から労働者を保護する必要性があることは当然である。

 もっとも、上記のような危険を完全に防止することは現実的に極めて困難であり、特に、工業製品の製造、加工等にあっては、その性質上、本来的な自然ないし生活環境においてほとんど存在しない新たな化学物質の生成ないし排出を避けることは不可能である上、それらの弊害が懸念されるからといって、工業製品の製造、加工等を直ちに禁止したり、あるいは、厳格な許可制の下でなければ操業を認めないというのでは、工業技術の発達及び産業社会の発展を著しく阻害するだけではなく、労働者の職場自体を奪うことにもなりかねないものである。

 したがって、工業製品の製造、加工等に関してどのような規制を行うべきかについては、当該工業製品の社会的必要性及び工業的有用性の評価と、当該工業製品の製造、加工等の工程において発生が懸念される労働者の健康被害等の危険の重大性及び周辺の生活環境等に対する悪影響の程度、それらの防止方法の有無及びその有効性等を多角的な見地から総合的に判断することが要求されるものであり、そのような規制を実行するにあたっては、対立する利害関係の調整を図ったり、他の産業分野に対する影響を考慮することも現実問題として避けられない場合があることは否定しがたいものというべきである。

 そして、上記のような判断要素となるべき諸事情は、健康被害の実態及び原因を明らかにする研究及び調査によって得られた医学的知見や、健康被害を防止するのに有効な対策技術を可能とする工学的知見の進展等によって常に変わり得るものであり、また、当該工業製品の社会的必要性及び工業的有用性の評価についても、代替可能な他の工業製品ないし産業技術の開発その他社会情勢等によって変化するものである。

 そうすると、労働関係法の主務大臣である労働大臣が、労働者に発生することが懸念される健康被害等を防止すべく、特定の工業製品の製造、加工等に関して規制権限を行使するにあたっては、上記のような医学的知見及び工学的知見の進展状況、当該工業製品の社会的必要性及び工業的有用性の評価についての変化、その時点においてすでに行われている法整備及び施策の実施状況等を踏まえた上で決定すべきものであり、その時期及び態様等については、当該大臣によるその時々の高度に専門的かつ裁量的な判断に委ねられているものと解するのが相当である。

 労働大臣が上記のような判断に基づいて労働関係法上の規制権限を行使すべきものであることを考慮すると、工業製品の製造、加工等に伴って必然的に生成ないし排出される有害物質によって労働者に健康被害が発生した場合であっても、労働大臣が当該有害物質の発生を防止又は抑制をするための規制権限を行使しなかったことが直ちに国家賠償法1条1項の適用上違法になるものではなく、問題とされる時点における上記のような医学的知見及び工学的知見の進展状況や当該工業製品の社会的必要性及び工業的有用性についての評価の変化、その時点においてすでに行われている法整備及び施策状況等を踏まえた場合に、労働関係法の趣旨、目的及び労働大臣に付与された権限の性質等に照らし、労働大臣の上記権限の不行使がその許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときに限り、その不行使は上記有害物質によって健康被害を受けた者との関係において同項の適用上違法となるものというべきである。

2 前記認定事実によれば、国は、石綿製品の製造、加工等の各種作業において発生する石綿粉じんによって重篤な肺疾患(石綿肺)の生じる危険性があるという認識の下で、そのような健康被害を防止又は抑制すべく、昭和22年に制定された旧安衛則では、石綿粉じんを除外することなく、事業者に対しては、作業場内の粉じん濃度が有害な程度にならないように局所における吸引排出その他換気等の適切な措置を講じること、作業場には呼吸用保護具を備え付けることなどを義務付けるとともに、労働者に対してはそれを使用すべき義務があることなどを定め、国家検定による防じんマスクの規格化及び普及を図る一方で、鉱物性粉じんの局所排気を効果的に行うには、粉じんの種類、発生態様の特徴等をもとに個々の作業ごとに異なる局所排気装置の設計及び製作を要することを踏まえ、局所排気装置の技術的指導書として、「昭和31年資料」、「昭和41年資料(基本編)」、「昭和47年資料(応用編)」、「昭和52年資料(石綿編)」の作成を順次重ね、労働基準監督署を通じて、作業従事中における防じんマスクの着用、局所排気装置の普及とその性能改善等の指導を継続的に行っていたものである。このような国の対応が、第1審原告らが主張するような、石綿粉じんの有害性を認識しながら、石綿の工業的有用性を重視して石綿関係産業の保護育成を優先するあまりに労働者の健康被害を軽視した法整備ないし施策態度に終始していたものであったとは認められない。

 第1審原告らは、昭和20年代前半ないし遅くとも昭和30年代前半の時点において、局所排気装置を原則的に義務付ける罰則を付した規制を定めるべきであった旨主張するが、そのころは、局所排気装置の設置に必要となる実用的な工学的知見が確立していない時期にあったものであり、上記のような規制を設けることが必ずしも適切であったとはいいがたく、国が、局所排気装置の設置を原則的な義務とまではせず、選択的ないし他の手段と重畳的に行うべき粉じん対策の一つとした上で昭和30年代前半以降に行政指導による普及を図ったことが著しく合理性を欠くものであったということはできない。

 そして、結果的に石綿製品の製造、加工等の各作業場に局所排気装置が普及するのに相当の年数(昭和40年代半ばころまで)を要した原因ないし理由としては、石綿製品の製造、加工等の作業工程が、他の粉じん作業と異なって多種多様な作業内容及び特徴的な作業用機械が多数ないし連続的に組み合わさったものであり、それぞれの作業に適合した局所排気装置を設置するには経験的な技術及び様々な設置例の集積並びに有効に機能しない場合の性能改善等を重ねていくことが必要であったことに加え、局所排気装置の設営に要する初期投資費用及びランニングコストの高さ等もあって事業者がその導入に積極的ではなかったという事情があったことが認められ、国の規制態度が著しく緩慢であったことにその主な原因があったということはできない。

3 石綿については、その有害性に関する医学的知見(石綿のがん原性、石綿肺の不可逆性、進行性等)の進展に併せて石綿に対する規制の強化を重ねながらも、結局、最終的には全世界的に使用が禁止されるに至ったものであるところ、現在、過去に受けた石綿粉じんのばく露によって深刻な健康被害が現実化していることを考えれば、戦後の復興期から高度経済成長期にあったとはいえ、石綿粉じんのばく露がもたらす健康被害について、長期的かつ将来的な危機管理として必ずしも十分ではない部分があったことは否定できず、そのような視点に基づく検証は今後のあらゆる行政上の課題というべきである。

しかしながら、粉じん作業上の安全衛生の確保及び健康被害の防止に関する施策として昭和22年以降に行われてきた一連の法整備及び行政指導等は、石綿粉じんを他の粉じんと区別することなく、その時々の医学的知見の進展状況を踏まえたものであったほか、高性能化がいち早く進んだ防じんマスクの適切な使用と局所排気装置の設置に関する実用的な工学的知見の確立及びその普及を目指したものとして一定の効果を上げたのも事実であり、また、局所排気装置の普及があまり進んでいない時期にあっても、各作業場において少なくとも国家検定に合格した防じんマスクを適切に使用されていたとすれば、石綿粉じんの吸入をかなりの割合で防止することができ、現在、発生している石綿粉じんによる健康被害についても相当程度減少させることができたものということができる。そうすると、戦後の復興期から高度経済成長期ころにかけての石綿粉じんばく露による健康被害に関する医学的知見及びそれを防止するための技術的対策に関する工学的知見の進展状況、その当時における石綿製品に対する社会的必要性及び工業的有用性についての評価等に基づく限り、国が行ってきた上記各措置は、その目的及び手段において一応の合理性を有するものと認めるのが相当である。

 これに対し、第1審原告らは、事業者及び労働者に対する石綿の危険性情報の提供がなされず、労働者に対する安全衛生教育の義務付けも法令上不備であったことを主な理由として、労働者は防じんマスクの使用等による防衛的な粉じん対策を実行することができなかったなどと主張する。しかしながら、前記認定事実のとおり、戦前においてすでに、石綿取扱作業に従事する労働者には石綿粉じんに起因するものと考えられる肺疾患の生じることが知られていたところ、昭和22年に制定された旧労基法及び昭和35年に制定されたじん肺法においても、労働者に対する安全衛生教育の実施は義務付けられていたものである。そして、社会的にも、昭和30年代前半には石綿肺の症状及びその進行的特徴に加えて発症者数が増加傾向にあること等が特集記事として新聞報道されたり、泉南地域の業界団体であるアスベスト振興会によっても石綿肺の防止の必要性が訴えられ、局所排気装置による粉じん対策の実行及び労働者に対する防じんマスクの着用指導について申し合わせがなされるなどしていたほか、労働者に対する定期的な健康診断や各作業場に対する行政指導等が繰り返されていたことを併せ考えるならば、個々の労働者及びその使用者である事業者が、石綿粉じんのばく露についての警戒心あるいは危機感を具体的にどの程度抱いていたか、どうかは別として、石綿粉じんの有害性に関する情報及び長年にわたり石綿関連作業に従事したことによって重篤な石綿肺を発症した労働者が現実に存在するという客観的事実についての認識が全くなかったものとは到底考えられないところであり、国がこれまでに実行してきた石綿粉じんを含む粉じん対策に関する法整備及び施策の経過等を振り返ってみても、国が上記のような事実等を隠ぺいしたり、ことさら過小評価したような情報しか公表しないという態度であったものとは認められない。そうすると、少なくとも使用者である事業者としては、石綿粉じんを職業的に吸入することによって石綿肺という重篤な肺疾患を引き起こす危険性があること及びその具体的な対策を講じる必要のあることを認識していたのであるから、上記作業に従事する労働者に対しては、法令上義務付けられた安全衛生教育として、上記のような健康被害の危険性があることを前提に、それを防止するには作業従事中に防じんマスクを適切に使用することが必要であることなどの指導を行うことは十分に可能であったというべきである。その他本件全証拠を検討しても、使用者が本来であれば当時の労働安全衛生に関する必要的基礎知識の提供として労働者に行うことができたはずの安全衛生教育が国の法令ないし施策の不備によって実施することが困難な(あるいは、期待できない)状況にあったものとは認められない。

 以上によれば、国において、国家賠償法1条1項の適用上違法となるような安全衛生教育に関する法令ないし施策の不備があったものとは認められない。

4 また、第1審原告らは、それぞれに石綿粉じんばく露による健康被害が生じたのは国が規制権限を適切に行使しなかったことに基づくものであるとして、上記以外にも様々な主張(①昭和47年に制定された特化則において局所排気装置の性能要件として定められた抑制濃度の基準数値が著しく不合理であったことの違法、②同規則において粉じん濃度の測定及びその結果の保存を義務付けるだけではなくその報告義務を定めなかったことの違法、③石綿製品の製造、加工等の作業工程を密閉、機械化し、工程間分離するように使用者に義務付けなかったことの違法、④それらの作業に従事する労働者に防じんマスクを着用させることを使用者に義務付けなかったことの違法、⑤労働者の作業従事時間を短時間に制限しなかったことの違法、⑥作業衣を作業場外に持ち出すことを制限しなかったことの違法、⑦昭和45年に改正された大気汚染防止法においてアスベスト工場を「特定粉じん施設」と定めなかったこと及び作業場の換気設備に除じん装置を設置するように義務付けなかったことの違法、⑧石綿を毒劇法上の「劇物」に指定しなかったことの違法に関する主張等)をするが、下記のとおり、いずれも採用することはできない。

(1)作業場に設置すべき局所排気装置の性能要件としてどのような基準数値を定めるかは、対象となる化学物質である石綿によって生じる健康被害に関する医学的知見及び局所排気装置の性能に関する工学的知見等と密接に関係するものであり、主務大臣である労働大臣の上記のような専門的知見等に基づく裁量的な判断に委ねられているものというべきである。

 特化則が制定された昭和47年当時、石綿製品の製造、加工等の作業工程に設置すべき局所排気装置の性能要件として定められた抑制濃度である「1m3あたり2mgという数値は、社団法人日本産業衛生学会が、昭和40年に石綿粉じんに対する許容濃度として勧告したものであり、専門的知見の根拠のない数値ではなく、英国や米国においても、昭和40年代(1970年前後ころ)まで、同程度の基準を採用していたことに照らしても、国の定めた抑制濃度の数値が、著しく不合理な程度に緩やかであったということはできない。

(2)第1審原告らは、事業者に対して粉じん濃度を測定してその結果を保存することを義務付けるだけではなく、それを国に報告するように義務付けなかったことは著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、事業者としては、測定結果の記録を報告することが義務付けられているか否かにかかわらず、局所排気装置が有効に機能していることを確認するためには同装置の稼働中に粉じん濃度を測定することが必要不可欠なはずであり、測定結果の報告が義務付けられていないから測定を行わなかった(怠りがちになった)というのは、単に事業者が自らの怠慢行為についておよそ筋違いな正当化をすることにほかならず、国が測定結果の報告を法令上義務付けなかったことに基づくものでないことは明らかであるから、第1審原告らの主張は失当である。

(3)第1審原告らは、石綿製品の製造、加工等の作業工程を密閉、機械化し、工程間分離するように使用者に義務付けなかったことは著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、そのような作業工程を完全に達成するのは当時の技術的にも費用的にも極めて困難であった上、作業工程のうち、どの部分を密閉、機械化ないし工程間分離するのかについては、個々の事業者が、各作業場の規模及び作業実態、すでに行われている局所排気装置の設置状況とのバランス、密閉、機械化ないし工程間分離を実施するのに要するコスト等様々な事情を考慮した上で、経営者としての合理的判断に基づいて実施すべきものであって、国があらかじめ画一的ないし詳細に指定するのが適切であるとはいえず、第1審原告らの主張は採用することができない。

(4)第1審原告らは、石綿製品の製造、加工等の各種作業に従事する労働者に防じんマスクを着用させることを使用者に義務付けなかったことは著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、国は、昭和22年に制定した旧安衛則において、石綿粉じんを除外することなく、粉じんの発生する作業場の事業者に対しては、作業場には粉じん作業に従事する労働者に着用させるための呼吸用保護具を備え付けることを義務付け、労働者に対しては、それを使用すべき義務があることを定めた上、昭和25年には防じんマスクの国家検定による規格化を開始し、その普及を図ってきたものであり、昭和37年通達では、石綿製品の製造、加工等の各種作業に従事する労働者に対しては特級又は1級の国家検定を受けた防じんマスクを使用させるように指導していたのであって、これらの規定等は、事業者が石綿製品の製造、加工等の各種作業に従事する労働者に対して防じんマスクを適切に着用するように指導すべき法令上の義務を負うことを前提にしていることは明らかであるから、第1審原告らの主張は失当である。

(5)第1審原告らは、労働者の作業従事時間を短時間に規制しなかったことは著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、石綿粉じんめばく露によって健康被害が生じる危険性を最も左右する要因は「作業時間の長さ」ではなく「粉じん濃度」であって、労働環境の安全衛生化を図る観点からすると、優先 すべき規制の対象は「粉じん濃度」の抑制であり、作業時間を規制することが当該事業の経営や労働者の賃金等に多大な影響を与えることを考えても、「作業時間の長さ」の制限を図ろうとすることが直ちに合理的であるとはいえないから、第1審原告らの主張は採用することができない。

(6)第1審原告らは、労働者の同居家族を粉じんばく露から保護する観点に照らし、作業衣を作業場外に持ち出すことを規制しなかったことは著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、粉じんが大量に付着した衣服等が衛生的に良くないことは明らかであるところ、仮に、労働者が洗濯等のために作業衣を自宅に持ち帰ることがあったとしても、それを大量の粉じんを付着した状態で自宅に放置することを避け、自宅内で粉じんを払い落すような行為をしないなど、同居の家族らが作業衣に付着した石綿粉じんを安易に吸入することがないようその取扱いに注意することが通常期待できるものであって、労働者としてもそれが常識的な行為であったというべきである。また、昭和40年代の国内では、石綿製品の製造、加工等の作業場に勤務する労働者の家族らを含む近隣住民等において石綿粉じんに起因するものと考えられる健康被害が生じた例はなく、石綿肺が基本的には高濃度の石綿粉じんを長期にわたって吸入することによって生じる職業性の疾患であることを併せ考えれば、その当時、労働者と同居する家族らとの関係で、第1審原告らが主張するような対策を法令上講じなければならないほどの具体的な事情があったとは認められない。そして、国は、その後の昭和51年通達により、作業衣を作業場外に持ち出さないように指導しているところ、このような施策が労働者の同居家族を石綿粉じんのばく露から保護する観点に照らして著しく合理性を欠く程度に遅れたものであったとはいえない。

(7)第1審原告らは、昭和45年に改正された大気汚染防止法においてアスベスト工場を「持定粉じん施設」と定めなかったこと及び作業場の換気設備に除じん装置を設置するように法令上義務付けなかったことは、いずれも著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、昭和40年代までの石綿製品の製造、加工等の作業場における局所排気装置の設置率及びその集じん状況はあまり良好でなく、衛生的な環境が確保されていたとはいい難いのが実態であったことを考えれば、当該作業場において上記作業に従事する労働者を高濃度の粉じんばく露による健康被害から保護するためには、作業場の換気を行って少しでも屋内の粉じん濃度を低下させることはやむを得ない手段であったというべきであり、逆にこれを禁止ないし厳しく規制することは、かえって衛生状態の悪化及び労働者の健康被害を生じさせる結果を招くことになったものと言わざるを得ない。また、石綿肺は高濃度の粉じんばく露(職業性の粉じんばく露)によって生じるものであって労働者以外に発症する可能性は極めて低いものとされており、昭和40年代当時、日本では作業所の近隣住民ないし労働者の同居家族等が石綿粉じんに起因するものと考えられる具体的な健康被害を発症した例は存しなかったことのほか、昭和47年以降は、特化則によって局所排気装置の設置が原則的に義務付けられ、事業者は、石綿粉じんを除じんすることなく屋外に排出することは許されなくなり、それによって高濃度の石綿粉じんの排出は次第に抑制されることが想定されていたことが認められる。そうすると、昭和45年の大気汚染防止法の改正に伴って石綿製品の製造、加工等の作業場を開法所定の「粉じん発生施設」として同法に基づく規制の対象としなかったことや、作業場の換気設備に除じん装置を設置するように法令上義務付けなかったことが著しく合理性を欠く規制権限の不行使であったとはいえない。

(8)第1審原告らは、石綿を毒劇法上の「劇物」に指定しなかったことは著しく合理性を欠くものとして違法である旨主張する。しかしながら、石綿は体内蓄積性及び長期侵襲性の特徴を有した有害物質であり、石綿粉じんのばく露によって生じる健康被害は、急激な毒性作用が発現したものではないから、石綿を「劇物」として規制することは困難であって、第1審原告らの主張は採用することができない。

5 ところで、一般に、有害な化学物質等による重大な健康被害の対象が広く国民に及ぶ恐れのある事案については、その被害の大きさ、深刻さを考えれば、例えば、国が、①重大な健康被害が現実に生じている(生じる危険性が高い)ことを認識しながら、合理的な理由もなく当該化学物質等を規制の対象から除外したとか、②発生の危険が予想される健康被害については、医学的ないし工学的な知見に裏付けられた効果的で実用可能な防止手段が存在するにもかかわらず、それを実行させるような法整備ないし施策を具体的に講じなかったとか、逆に、③上記のような効果的な防止手段が物理的に存在せず、仮に存在するとしてもその実行が事実上不可能ないし著しく困難であるなどの事情により、健康被害の発生を防止するには、国が当該化学物質等の使用及び排出を即時ないし一律に禁止するか、極めて厳格に制限する以外に方法はないにもかかわらず、そのような法整備ないし施策を合理的な期間内に講じなかったことにより、健康被害が拡大した(あるいは深刻化した)ような場合には、国が行政権に基づいて上記のような規制権限を行使しなかったことは、その根拠となる法の趣旨、目的に照らして著しく合理性を欠くものとして、国家賠償法1条1項の適用上違法と判断される余地があるようにも思われる。

 しかしながら、本件事案では、昭和22年に制定された旧安衛則においても、石綿は事業者が講じるべき粉じん対策の対象から除外されることなく規制の対象とされていたこと、その後も国は石綿粉じんを含めて粉じん作業上の安全衛生の確保及び健康被害の防止に関する施策としてその時々の医学的知見の進展や工学的知見の普及に併せた法整備や行政指導等を順次行ってきたこと、石綿製品の製造、加工等の各種作業に適合する局所排気装置を設置するにあたって実務的な工学的知見が普及するまでに相当の時間を要したのにはやむを得ない事情があったこと、局所排気装置の普及があまり進んでいない時期にあっても防じんマスクの適切な使用により石綿粉じんの吸入はかなりの割合で防止することができたものであったこと、優れた工業的有用性と生物学的有害性という両面を併せ持つ石綿については海外諸国においても長らく使用禁止とまではされず、日本が石綿を使用禁止した時期についても海外諸国と比較して特に遅れたものではなかったことなどの事実が認められるものであり、上記①~③のような場合に該当するものとはいえない。

 したがって、本件が、結果的に、石綿という有害な化学物質によって石綿取扱作業に従事した労働者及びその周辺関係者等に重大な健康被害が生じた事案であることを考慮したとしても、これまでの認定判断の結果を左右することはできない。

6 以上の次第で、国が、昭和22年以降、石綿粉じんのばく露によって健康被害が生じる危険性のあることを踏まえて継続的に行ってきた法整備及び行政指導等を含む諸施策に基づく一連の措置は、労働関係法上の趣旨、目的及び主務大臣に付与された権限の性質等に照らし、その許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くものであったとは認められず、第1審原告らが国に対して責任原因として主張する様々な事実等は、いずれも国家賠償法1条1項の適用上違法となるような規制権限の不行使に該当するものではない。

 したがって、その余について判断するまでもなく、第1審原告らの請求はいずれも理由がない。

第3 結 論

よって、第1審原告らの請求を一部認容した原判決は相当でないから、第1審被告の本件控訴に基づき、原判決中の第1審被告の敗訴部分を取り消した上、第1審原告らの請求のうち、上記取消しに係る部分についての請求をいずれも棄却するとともに、第1審原告らの当審における拡張請求をいずれも棄却することとし、第1審原告らの本件控訴をいずれも棄却して、主文のとおり判決する。

安全センター情報2011年11月号