泉南アスベスト国家賠償訴訟大阪第一陣大阪高裁判決(2011.08.25)-行政追随判決で原告逆転全面敗訴 人命軽視の経済発展優先政策を容認 。殺人容認判決を引き出した政治の責任も問われる

澤田慎一郎(全国労働安全衛生センター連絡会議 事務局次長)

2011年8月25日、大阪高等裁判所(三浦潤裁判長)は、大阪・泉南アスベスト国賠訴訟の国の責任を認めた大阪地裁判決を全面的に取り消し、原告らの請求を棄却する不当判決を言い渡した。

今回の判決について訴訟を担当する弁護士の一人は、「何の迷いもなく、この判決を書きたいという意欲に満ちた判決内容」であると述べている。

判決数か月前の4月18日には、裁判官らによって泉南市の工場跡地の現場検証が実施され、一審の大阪地裁判決で請求が棄却された原告が直接、裁判長に当時の状況などを説明する機会が控訴審での審理過程では得られた。いまとなっては、その検証作業が裁判官たちにとって何の意味を持っていたのかも、今回の判決内容からは判然としない。

とにかく、原告の期待をことごとく打ち砕いた無残な判決である。本稿では判決内容にふれることはもちろんだが、昨年の大阪地裁判決から大阪高等裁判所の和解勧告、そして、判決までの政治の動きも含めた流れを簡単に振り返ってみたい。

大阪地裁判決

2010年5月19日、大阪地方裁判所は泉南地域のアスベスト紡織作業に従事していた労働者、原告23名(被害者単位。総被害者単位原告数は26名。3名は請求棄却)の健康被害に対する国の責任を認めた。大阪地裁判決が国の違法性を認定したポイントは、以下の3点に集約される。

  • 石綿関連疾患の医学的、疫学的な知見が集積されたのは石綿肺については1959年、肺がん及び中皮腫は1972年であるから、その時点で石綿粉じんの職業ばく露を防止する措置を講じる必要性があった。
  • したがって、1960年に旧じん肺法が成立するまでに局所排気装置の設置を中心とする石綿粉じん抑制措置を使用者に義務付けることを省令で定めることが求められており、1971年の旧特定化学物質予防規則(以下、旧特化則)の制定においてその設置を義務付けるまで、義務付けを行わなかったことは違法である。
  • 1972年に制定された特定化学物質予防規則(以下、特化則)では、石綿の製造・取り扱い作業場において石綿粉じん濃度の測定・保存が義務付けられたが、実行を担保する措置としての測定結果の報告と改善措置を義務付けなかったのは違法である。付随して、国民に対して石綿被害の適切な情報提供を怠ったことも違法である。

これらを砕いて言えば、1959年には石綿関連作業における健康被害がわかっていたのだから、1960年以降に制定した法令で健康被害を防止する具体的な対策を国は義務付けるべきであったのに、それらをしてこなかったので違法、ということになる。

一方で、1960年以前に石綿関連作業を終えていた原告1名の請求は棄却した。さらに、近隣ばく露の原告2名(1人は幼少時の工場への立ち入り、もう1人は工場の隣で農作業)の請求は、ともに石綿関連疾患であることを否定されると同時に、農作業歴のある原告については、旧労働基準法及び労働安全衛生法によって保護される地位にないとされて棄却された。

控訴断念を求めた行動

原告らは大阪地裁判決当日の19日から国会議員会館内で報告集会を開催し、翌20日からは厚生労働省・環境省前や首相官邸前で控訴断念を求める要請行動を展開した。勝訴を受けて原告団も上京してきたが、その中には体調面で無理を押してきた患者原告もいた。初めて東京に来る原告や、東京に来たのは新幹線が通ってない時代に寝台列車で来た時以来という原告など、高齢の方も含まれていた。

28日には日本経済新聞の「国、石綿訴訟控訴せず 関係閣僚 きょう調整」との記事が出るなど、国の控訴断念に向けた気運が高まって来たかに思えた。同日には、小沢鋭仁環境大臣(当時)が控訴断念の意向を表明し、同時に長妻昭厚生労働大臣(当時)も同じ意向であることも明らかにした。

ところが、5月31日の夜に開催された関係閣僚会合の結果、国は控訴を決定した。控訴にあたっての最終判断は仙谷国家戦略相(当時)に一任されたとも言われている。判決から国の控訴決定までの原告団と政治の展開については、本誌2010年7月号に詳細な報告がされているので、ご確認いただきたい。

控訴審から大阪高裁判決まで

2010年9月12日、原告団は原告団総会を開催し、11月17日に開始が予定されていた控訴審に向けて裁判所に和解勧告を求める方針を決めた。

11月4日には裁判所に上申書を提出し、裁判所に和解勧告することを要請した。同時に、各原告が裁判官宛てに早期の解決を要望する思いを書いた直筆の手紙を提出した。

第1回口頭弁論で大阪高裁は、「早期終結を目指すが、本日は和解勧告しない」と所見を述べたと報道されている。ただし、原告代理人らが法廷内で再度、強い要請をしたとされ、裁判長との激しいやり取りがあったと、法廷内にいた原告側関係者からは聞いている。

原告側と裁判所の間では、その後も訴訟進行に伴うあり方をめぐって齟齬がみられた。

第2回口頭弁論で原告団が法廷に遺影を持ち込んだことを後日、裁判所から書面で「遺憾」と伝えられる、原告および代理人の法廷内での座席数を厳密に指定される、進行協議(裁判所、原告と被告双方の代理人のみでの実施される非公開での訴訟進行に関する協議の場)を開催しない(後に開催されるが、参加人数を制限される)、などがあった。大阪地裁の訴訟進行のあり方とは違う職権主義的な対応であり、三浦裁判長の適格性をめぐる議論も関係者の間ではされていた。

年が明け、2011年1月13日の第2回口頭弁論では大阪高裁は国側に対し、2月22日に予定されている進行協議で国の態度を明らかにするよう求めた。この時点で事実上の和解勧告がされたことになる。ところが、2月22日の進行協議で国は明確に和解協議に応じることを拒否した。国の見解は「大阪アスベスト訴訟控訴審における和解についての国の考え方について」(http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r985200000131cp.html)で表明している。

和解交渉が決裂したこの日の進行協議で裁判長は「ベストを尽くして判決を書く」と代理人に伝えた。いまとなっては、とんでもないベストの尽くし方をしてくれたものだと呆れるしかない。
和解拒否前後に当時の仙谷官房長官や細川厚生労働大臣や菅直人首相が見解を国会答弁等で述べているが、どれも政治の強い意思を秘めた発言ではないので、あえてここでは紹介しない。当時から感じていたことではあるが、民主党政権は政治主導をうたっていながら、この泉南アスベスト訴訟の対応をみていると、それが露骨に官僚主導であることを痛感する。

細川厚生労働大臣など、元厚生労働大臣の長妻氏と比較すると主務大臣でありながらまったく政治の意思を表明しない、「名ばかり大臣」であったと強く感じている。被害者の実情をまったく見ず、政府内の権力者の顔色をうかがうばかりで、主務大臣として十分な意思を持って決断をしてこなかった点で責任はきわめて大きく、将来的に大阪高裁判決と同時に政治家の姿勢に対する批判の総括がされるだろう。

大阪高裁不当判決の内容

前述したように、大阪高等裁判所は原告らの請求を全て棄却した。判決文には次のような一節がある。

「弊害が懸念されるからといって、工業製品の製造、加工等を直ちに禁止したり、あるいは、厳格な許可制の下でなければ操業を認めないというのでは、工業発展及び産業社会の発展を著しく阻害するだけではなく、労働者の職場自体を奪うことにもなりかねない」。

「弊害」とは、労働環境および生活環境における死傷事故や健康被害を指している。

判決文にあるこの文言が、この判決を書いた裁判長の本訴訟に対する立場を鮮明に表している。
そして、判決の理由も、国側の主張を踏襲した行政追随の姿勢である。判決は、戦前に実施された内務省保険院による泉南地域を中心として実施された石綿肺の調査等によって、石綿粉じんばく露による健康障害が生じる危険性が認識されていたとしつつも、その後の国の規制に問題はなかったとするものだ。

大阪地裁が認定した1960年までに省令を改正して局所排気装置の設置義務付けをしなかったのは違法であるとした点について今回の判決は、「設置例及びその経験的な技術の集積が少なく、その実用的な工学的知見として確立されていない段階にあった」との認識を示した。その上で、「局所排気装置を原則的に設置するよう義務付けることは、各作業場に対して著しい困難を強いるものであったというべきであるから(中略)、工学的知見が確立していない段階において局所排気装置の設置を法令上原則的に義務付けたとしても、その実効性は極めて乏しかった」と技術的な基盤が整っておらず、1970年頃まで局所排気装置の設置の実用的な工学的知見がなかったとし、1971年の旧特化則制定時に義務付けをした行政施策を正当化している。

一方で、仮に設置に関する工学的知見があったとしても、1947年に制定された旧労働安全衛生規則において粉じんを発散する屋内作業場において「局所における吸引排出、機械又は装置の密閉、換気等適当な措置を講じること」の規定があり、各事業者が「行政指導の下で局所排気装置を設置しなかったのは、当該事業者の自主判断に基づく結果であって、国の規制不備に起因するものではない」とした。

原告らの主張は、上記の文言は抽象的で設置基準等に関して具体的な記載がなかったので実効性もなく、遵守及び監督もできないのだから、義務付けていないのと同様である、というものだ。

さらに今回の判決は、事業者はもとより、労働者にも被害の責任を押し付けているきわめて悪質性の高い判決である。

同じく、大阪地裁が認定した1972年の特化則制定時において、作業場内での石綿粉じん濃度の測定結果の報告と作業環境の改善を義務付けなかった点についても、半年以内に1回の粉じん濃度測定と記録の保存を義務付けており、その趣旨は使用者が自発的に衛生的な労働環境を維持確保することにあり、労働環境の確認には粉じんの濃度測定が必要不可欠であったとして、「測定結果の報告が義務付けられていないが故に測定を行わなかった(怠りがちになった)というのは、使用者が、自らの怠慢行為についておよそ筋違いな正当化をすること」として、国の対策に違法性はなかったとした。

作業環境の改善を義務付けなかった点についても、上記の趣旨から局所排気装置が有効に機能しているかを確認する必要があり、粉じん濃度の測定が作業環境の改善と同義であったと誤った拡大解釈をして筋違いな正当化をしている。

大阪高裁はこれらの判断をより正当化するために、次のような見解も示している。
「社会的にも、昭和30年代前半には石綿肺の症状及びその進行的特徴に加えて発症者数が増加傾向にあること等が特集記事として新聞報道されたり、泉南地域の業界団体であるアスベスト振興会によっても石綿肺の防止の必要性が訴えられ、局所排気装置による粉じん対策の実行及び労働者に対する防じんマスクの着用指導についての申し合わせがなされるなどしていた」。

さらに、防じんマスクの国家検定が1950年には開始され、高性能のマスクも実用化されてきたとし、「労働者が作業従事中に防じんマスクを適切に使用することによって、かなりの割合で粉じんの吸入を防止することが可能であった」、被害者らは「防じんマスクを適切に使用することもなく、石綿製品の製造、加工等の各種作業に従事していた」と事実認定した。

その上で個々の労働者や事業者が「石綿関連作業に従事したことで重篤な石綿肺を発症した労働者が現実に存在するという客観的事実についての認識が全くなかったものとは到底考えられない」とし、国が「事実等を隠ぺいしたり、ことさら過小評価したような情報しか公表しないという態度であったとは認められない」と事実を歪曲している。
原告の中には就労当時、事業者自らが「食べても大丈夫」と言いながら石綿を口に含んだところを見せられた体験を持つものや、石綿の危険性を知らずに幼少時のわが子を工場の中に連れ込んで子守をしていた者が複数いる。

小規模零細事業所が多く、当時は社会的に恵まれた立場とは言えない在日韓国人の経営者、労働者も多かった事実も、問題の背景を捉える重要な事実ではあるが、上記の生き証人たちによる証言が大阪高裁の判断理由が詭弁であることを証明している。
そもそもマスクは使用効果が大きい反面、装着したままの苦しさなどがある面から短時間の作業や暫定的な作業などに限って有効なのである。

大阪高裁判決の影響

現在、日本ではアスベスト被害の集団訴訟における国家賠償請求訴訟が大阪・泉南アスベスト訴訟以外に、尼崎のクボタと国を被告とした訴訟、東京・神奈川・北海道・大阪で建材メーカーと国を被告とした訴訟が起きている。これら訴訟の先頭を走っているのが泉南国賠訴訟であり、他の訴訟とは論点に差異があるものの、今回の結果が他の裁判所にも何らかの影響を及ぼす可能性は否定できない。

2012年の春にも判決が出される予定の東京・神奈川の両地方裁判所における建設アスベスト訴訟の結果が注目される。

また、少し見方を変えて3月11日以降の原子力事故の復旧作業員の問題と絡めてみたい。例えば、以下は先に紹介した今回の判決文の一節を原子力発電や事故の問題を想定した文言に置き換えてみたものだ。

「弊害が懸念されるからといって、厳格な規制の下でなければ就労を認めないというのでは、事故の収拾、工業発展及び産業社会の発展を著しく阻害するだけではなく、労働者の職場自体を奪うことにもなりかねない」、「弊害が懸念されるからといって、原子力発電所の稼動を直ちに禁止したり、あるいは、厳格な許可制の下でなければ稼動を認めないというのでは、工業発展及び産業社会の発展を著しく阻害するだけではなく、労働者の職場自体を奪うことにもなりかねない」。

読者によって他の問題にも置き換えることができると思う。今回の判決は何が恐ろしいかと言えば、人権救済の砦と言われる裁判所が経済優先・人権軽視の思想を打ち出したことだ。このような論理の下では、社会的弱者が何を訴えようとまったく救済される道が開かれない。

さらに新聞報道によって危険性を知っていた、マスクをしっかり付けなかったという物言いも、仮に福島第一原子力発電所の事故の復旧作業にあたっている者が将来的に放射線の影響によるガンを発症したとしても、同じような論理で置き換え、切り捨てることができる。過大な自己責任論を振りかざしている点からも、今回の判決内容を看過することはできない。

今後の泉南訴訟

今後、原告団は最高裁の判断を仰ぐことになる。また、第2陣訴訟の大阪地裁判決も2012年の春以降に控えており、目先の課題としてはそこで大阪高裁判決を覆すことができるのかが焦点となってくる。提訴時に生きていた原告が既に5人も亡くなった。しかも1人は、大阪高裁判決が出される日の早朝であった。

最高裁の結果を待つにしろ、高齢の患者原告はこれまでにも増して判決が確定するまでに生きていられるかと不安を感じていることだろう。国権の最高機関は国会のはずであるが、当の政治家や政権政党に最高裁判決を得ずに解決できる力量があるとは全く思えない。今回、原告勝訴の結果が出ても果たして終結する能力があったかどうか。直接的に今回の判決を書いたのは大阪高裁14民事部の三浦潤、大西忠重、井上博喜であるが、その判決は解決を図ってこなかった体たらくな政治姿勢が導き出したことを政権政党の政治家はしっかり自覚すべきである。頼りない政治の世界においては、最高裁の判断が注目される。

安全センター情報2011年11月号