職業がんをなくそう通信21/大久野島の歴史展・ビスクロロメチルエーテル(ビスクロ)
2020年1月31日
職業がんをなくす患者と家族の会https://ocupcanc.grupo.jp/
もうひとつの広島:戦争中地図から消されていた島の歴史・大久野島の歴史展開催さる
本年1 月 4日~1 月9 日広島市中区袋町 5-21 旧日本銀行広島支店にて大久野島の歴史展が開催されました。大久野島と言えば今ではうさぎの島で有名ですが、かつては日本帝国陸軍が毒ガスを製造した島でもあります。
大学で医学や生物学を志す人が 731 部隊を、物理を志す人が原水爆や原発問題を学ぼうとするのと同様化学を志す人が足尾銅山や様々な公害問題、大久野島の毒ガス製造や中国での実戦使用・後処理問題などの歴史を学ぼうと自主ゼミを開催することがありました。
私も公害問題は学習してきましたが大久野島はいつか行こうと思いつつこれまで訪れる機会がありませんでした。昨年12 月初めて島を訪れ毒ガス資料館や製造場所・発電所・貯蔵タンク跡地などを見てきました。陶器で作られた反応器や導入管、バルブ類や工場の図面・写真などを見ると長年化学現場で開発製造をした経験があるだけに当時の製造現場がリアルに想像できます。
第一次世界大戦で毒ガスが大量に使用されあまりの被害に非人道兵器として1925年ジュネーブ議定書で使用が禁止されましたが、帝国陸軍は27 年より広島県竹原市大久野島で工場建設を開始し29年より44年まで製造を続けて、敗戦が決まると資料の焼却や設備の解体をし証拠の隠滅を図ります。
その間総量約 6600t 学徒動員や徴用工を含め男女のべ6500人以上が製造に従事したとされています。大久野島で製造された毒ガスは北九州小倉の曽根製造所で砲弾に充填され大陸へ運搬され実戦で使用されたり或いは大量に投棄されました。毒ガスの被害者は製造・充填に関わった者、攻撃を受けた者、大量に遺棄された毒ガス砲弾の処理時や漏洩したり誤って曝露を受けた者など広範です。
余談ですが 8 年前私が求職活動をしていた際に化学兵器の砲弾処理を紹介されたことがあり、国内でも遺棄された砲弾の処理は完全には終わっていないのだろうと思います。毒ガス資料館の通路には小学生が見学にきた時の寄せ書きや千羽鶴がたくさん展示されていますが、「大久野島の歴史展」のチラシ(下)があり当時製造に従事された藤本安馬さんの証言があるとのことなので、1 月5 日広島へと出向きました。
午前中は展示物を中心に当時使用されていた毒ガス製造に関するテキスト、女子勤労学徒動員の作業の様子が描かれたパネル類、実戦使用が明るみに出た時の新聞記事、朝鮮戦争で米軍が化学兵器を用いたことを示す資料、中国の被害者を伝える資料等々、映像鑑賞も2 本観させて戴きました。
鬼にされた元養成工の証言
元養成工(技能者養成所を経て工員に)藤本安馬さんの証言が始まる午後 2 時が近づくと会場は200 名を超えそうな人で溢れ旧日本銀行客フロアだけでは入りきらず行員フロアまで席が設けられました。
給金を貰いながら勉強ができると言われ毒ガス製造をすることも知らされずに15歳で養成工になったこと、毒ガス製造に関わったことを親にすら口外してはならないと言われたこと、化学兵器は人を殺さない人道兵器だと教えられその製造をする自分は英雄だと思い込んだこと、気管支炎をはじめ皮膚疾患やがんなど様々な症状に悩まされること、戦後実戦使用されたことが判明し自分は被害者だと思っていたら加害者でもあることに気づかされたこと、鬼にされてしまった自分が中国の被害者へと謝罪に行った時のことなどを93歳とは思えないほどかくしゃくと証言され、難しい化学反応式を諳んじてこれは自分が鬼にされた証拠だから忘れようにも忘れることができないと訴えられました。
それらの化学式は午前中に見たテキストに書かれていたそのものでしたが藤本さんの頭に深く刻み込まれているのだと胸が苦しくなりました。お元気で活動を続けて行って戴きたいです。会場には地元広島だけでなく関西関東などまた多くの若い方々も拝聴されてました。現在に続いているこのような歴史を忘れることなく学んでいきたいと思います。
以前、ビスクロロメチルエーテル(ビスクロ)等発がん物質に曝露され咽頭がんを患いその労災認定を争った宮野裁判に関わってきました。ビスクロは毒ガスであるマスタードガスと化学構造も類似し動物実験も同様な結果を示し様々な臓器に発がんし得ると主張しましたがその時大久野島で毒ガス製造に関わりがんで亡くなった方々の剖検報告を広島大学山田教授が出されており証拠として提出しました。口腔や鼻腔などの上気道、気管や肺、胃や肝臓などにも発がんが見られ化学物質の怖さがわかります。10 年以上前の裁判がここに繋がっているのだなあと帰りの電車から夜景を眺めていました。
大陸輸送へのもう一つの製造所
小倉・曽根製造所
さて大久野島は毒ガスの製造場所でしたが、北九州小倉の曽根製造所では砲弾への詰め替え作業がされ中国大陸へと大量に運ばれて行きました。曽根製造所で作業された方々は後遺症に苦しむ中、大久野島の被害者が救済されて自分達が救済されないのはおかしいと補償を求めますが、軍がその取り扱いを隠ぺいしたためそもそも取り扱い作業自身がなかったことにされてしまい、補償対象者として認定させることに大変な苦労をされています。
この問題が注目されたのは 89年ですから戦後44年も経ってからのことで、毒ガスへの曝露以来の体調不良を訴え治療等の補償を国に要求した患者らに当時の厚生省担当者は曽根製造所で毒ガスを扱った記録が存在しないとし
- 曽根製造所で毒ガスを充填したという「歴史的証拠」
- 曽根製造所で働いたという「雇用関係を示す証拠」
- 毒ガスによる障害
という「医学的証拠」を要求します。症状に苦しむ被害者にこれら証明を負わすのはあまりに酷というものです。
お国のためと頑張らすだけ頑張らして問題が発生すると記録を処分してしまい無かったことにする・・・こういった構造は現在の職業がん認定にも当てはまります。作業の指示をなかったことにする。曝露作業自身をなかったことにする。発がん性は知らなかったことにする。
被災者は何も知らされずに作業を行い発がんし、それは知らないとそっぽを向かれ、幾重にも裏切られ踏みにじられています。
ビスクロによる発がんと労災認定の関係
マスタードガスに匹敵するような強い発がん性を持つビスクロは製造禁止物質に指定されています。
米国産業衛生専門官会議(ACGIH)の許容濃度はわずか 0.001ppm。
かつては洗顔料やイオン交換樹脂の製造時に使用されました。
強い発がん性を持つビスクロですが業務上曝露があって発がんしても労災認定がされるのは肺がんに限られており、他の臓器がんの労災認定には高い壁があるのが現状です。