被災現場がわからない:韓国人労働者に悪質な労災隠し/神奈川

川本浩之(神奈川労災職業病センター

「みつかったです」。電話のAさんの声を聞いたとき半ば信じられなかった。白分の被災現場の正確な場所がわからないために補償されず、会社は完全にとぼけて逃げる…。あまりにも長すぎた4か月。労災隠し、しかも会社が労組や労働基準監督署を欺くという極めて悪質なもの。その全容がようやく明らかになる。

ペンキ塗替作業中落下、骨折

韓国人労働者Aさんが腰の骨を折るという労災にあったのは91年12月8日こと。
同年11月2日から日本石油根岸製油所の孫請にあたる浜畑光業(浜畑斉)の現場で平貿という親方に雇われ、塗装作業などに従事していたが、12月8日は浜畑の紹介で、いつもとは違う初めての現場に「応援」に行き被災した。高架道路の下の部分のペンキの塗り替え作業で、午後5時頃後片付けでペンキ缶を持ってはしごを下りているときに約2メートルの高さから落下。

平質の住んでいる川崎に戻り、そのまま病院に1週間入院。
まだ治療中の12月24日、平賀と会ったところ「お前はもうクビだ」と言われる。すでにこの日までに神奈川シテイコ.ニオンに相談に来ていたが、ユニオンが平賀に会うと、他の同僚がクビを切られるということで、自分だけで会いに行っていわれた言葉である。

外国人は労災は「なし」じゃ

29日朝、根岸駅で平賀に神奈川労災職業病センターの川本が会う。
休業中の被災者の首は切れないこと、きちんと労災申請することを求めたが、全く話にならない。
「外国人は労災はなしという契約じゃ」「おまえには元請は教えん」という対応。
すぐに根岸製油所にも連絡したが、もう年末休暇に入っているようでつながらない。労基署も休みに入ってしまった。
翌年早速日石やその下請(浜畑の元請)、横浜南労基署に連絡。事故隠しをやめさせようとした。が、監督署からの連絡にも平賀と浜畑は応じようとしない。一方で平賀からユニオンに電話が入った。

「川本おるか」と切りだし、「元請から仕事を切られた。浜畑も日石も関係ないやろ。おまえはヤクザか、云々」。盗人猛々しいとはこういうことを言うのだろうか。のちに浜畑も大いに関係あることがわかったが、このときは仕方なく、何度かけても出ない平賀の留守番電話に、「私(川本)と話をするのがいやなら、監督署に電話すればいいでしょう。きちんと手続を教えてくれます」と録音しておいた。監督署の方も連絡をくれるように録音したらしいが、音沙汰はなかったようだ。

事故現場はどこ

さて、なぜ事故現場がわからないと困るのか。
労災事故であることもはっきりしているし、事業主もはっきりしているのでは…??。まずAさんの場合、「応援」で行っているので、その日の現場の雇用関係は応援先の会社になる。さらに元請でなされている塗装業は、元請会社が労災補償の義務を負う。どちらについても、平賀と浜畑が口を閉ざす限りわからない。ただ現場さえわかれば、道路は公共のものだから役所ルートで会社もわかるはず。ところが川崎から車で約1時間ということしかわからない。監督署にも管轄があり、現場もわからないとなると、どの監督署も「うちは関係ない」となる。

現場不明でも、まず申請が大事

1月27日、川崎南労働基準監督署にとにかく申請。受け付けてもらうことにした。川崎南署に受け付けさせた根拠は、普段の雇用者の平賀が川崎在住という理屈である。平賀と浜畑を監督署に調べてもらうことに主に目的はあった。
同時に現場探しをやることにした。
Aさんによると「みさと」の方だったと記憶しているようだ。三郷(埼玉県)の高架道路…国道、県道、市道、高速道路、ありとあらゆる役所に電話をした。それらしい高架道路を見っけ次第元請を教えてもらい、下請を尋ねた。まる2日間1日中電話したが、結局わからずじまい。三郷市まで出かけて1日中探し回ったがやはり見つからず。(じつはAさんの記憶違いでペンキの色が違っていたとわかったのは少し後のことである。)

金詰まりの苦境

Aさんは非常に苦しい状況に追い込まれた。12月からお金が1銭も入らない。一緒に働いていた同僚も彼を避けるようになる。お金を貸してくれる友人にも限度がある。貸してくれた友人にも合わせる顔がない。ドヤの家賃も支払えず、真夜中にこっそり戻る日々が続いた。とうとう電気も止められた。Aさんは地図を手に、高架道路をしらみ潰しに痛い腰を引きずって現場を探し回った。

さて監督署に対して、平賀は、自分は応援を頼まれただけで、相手のことは全然知らないと言っている。おまけにAさんが寿で酒を飲み歩いているなどと言ったそうだ。Aさんはほとんど酒を飲めない。ましてや金もなく、1日の食事がインスタントラーメン1つの日も少なくなかった。

浜畑は、自分は関係ないと言い張る。2月25日、再び川崎南署へ。もっと積極的に平賀と浜畑を問いただせないのかと要請。しかし建設省ルートで該当する現場を探してもらうとか、Aさんの記憶を再び問い直すような対応。Aさんも不満そうであった。しかし監督署にも言い分はある。どうしても「結局のところうちの管轄ではないでしょう…」となってしまうのだ。

「みつかったです」

そうこうしていると、3月になって浜畑に仕事を出した可能性の高い堅伸総業の存在が明らかになった。住所を確認し、監督署にも伝えた。これでようやく何とかなると思ったが、監督署の文書による呼び出しに応じようとしない。

3月18日、Aさんは雨が降っているのに、「なんとなく」外へ出た。すでにドヤには住めなくなり、ユニオンの事務所に寝泊まりするようになっていた。そして川崎駅で、全く偶然に浜畑に会った。平賀のところへ行けと言われ、平賀は浜畑のところに行けと言う。ユニオンも浜畑と連絡をとり、一度は会うことを約束したが、細かいことを尋ねようとすると、一方的に電話は切れた。そして約束の日の前日に細かい時間を決めるための連絡をくれというので深夜まで何度も電話したが、誰も出なかった。

4月7日、被災現場を見っけたのは、監督署でもユニオンでもなく、Aさん本人、そして同僚が社長に角ビンで頭を殴られ意識不明になり、一緒に逃げてきた韓国人労働者のBさんだった。Bさんは国際免許を持っており、プロの運転手もしていたと言う。レンタカーを借りてAさんと探し回ってくれた。

被災現場は梅島陸橋だった

午後3時頃現場が見つかり、東京都の道路とわかるとすぐに電話を入れた。
ところが東京都は元請を教えようとしない。どうも事態の重大性を把握していないようだ。そういう労災の事実があったら元請から連絡させると言う。そのくせどういう労働組合ですかといらぬおせっかい。元請の山岸塗装工業も最初自ら名乗ろうとしない。事実がはっきりしないと言う。事実がはっきりした段階でも、当初は休業補償の仮払いもしないと言っていた。

ついに団体交渉

4月10日、21日の団体交渉である程度のことがはっきりした。
12月8日、山岸塗装の下請の堅伸総業が浜畑に応援を頼んだ。堅伸総業の従業員は、Aさんのケガがそんなにもひどいものとは知らなかったと言う。どこまで本当なのかははっきりしないが、労災補償について何も知らない平賀が「俺がなんとかする」と浜畑に言い、浜畑は知らぬ存ぜぬを決め込んだ。補償にっいてはユニオンの要求通り慰謝料も上積み補償も満額支払うとのことであるが、それにしてもひどい連中である。

支えはCさん

この間誰よりも大変だったのはAさん本人であるが、だれよりもそれを支えてくれたのは、通訳を努める江東ふれあいユニオンのCさんである。
「もう補償もいい。自殺してしまいたい」というほど追い詰められたAさん。
そんな彼に、監督署のこと、会社のこと、治療のこと、ユニオンのしていることを正確に伝えることはもらうん、何よりも大切な当該との信頼関係を作ってくれたのはCさんである。いつもいつもお世話になり放しであるが、皆さんにも知ってほしくてあらためてこの場を借りてお礼を言いたい。

安全センター情報1992年7月号