石綿曝露-四国電力アスベスト中皮腫労災死事件/第1部 第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ-第6章 和解

第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ

第6章 和解

鈴木教授の解説はそれほど見事なものだった。

北川鑑定も愛媛大学病院の病理解剖所感も否定されたのではない。鈴木教授の行った精細な検査と推論の中に共に見事に包み込まれるように位置づけられたのだった。止揚されたと言うべきか。

その論理の中に上甲さんの悪性中皮腫による死がからむように決定づけられた。それはちょっと見事な専門家の仕事だった。分かり易い言葉で語られる鈴木教授の解説には溢れる経験と年来の思索が畳み込まれていた。

この法廷が始まる直前に「先日、学会である先生と話した際、レントゲンで経過をみると、肺内から発生しているように見えるのに鈴木先生はどうして悪性中皮腫と断言できるのかなぁ、と言っておられました」と一人の医師が述懐しているように、日本国内の医師の間では鈴木教授の言葉はどうしても解けない謎のように思われていた。

国内では何故解けないか、鈴木教授には何故解けたか。

そのことに対して鈴木教授は量の違いの問題ですよ、能力の差ではありませんよ、と断言した。私は圧倒的な数の症例に接している、それだけのことですよと恬淡としている。

戻川陽一はそれだけではあるまいと思った。遠くから全体性を眺める衛星の視線が行使されている、その「外からの視線」が保持された上で内部の精細な検索が行われているように感じられた、それが大きい、と。

また戻川陽一の印象によれば、アメリカの裁判で非専門家の陪審員に対していかに分かり易く語るかという鈴木教授のアメリカでの苦心の経験が見事に生かされた答弁だった。

実際、翌日の夕方から全国労働衛生安全センター連絡会議と愛媛労職対の世話で開催された「アスベストをなくす松山集会」で、裁判に引きつづいて講演をして貰った時も同じ印象だった。

まだ二度しか会っていなかったが、専門家にありがちな難解な用語の押しつけは今回もなかった。またなにより、この異郷の地にいる老病理学者が世界的権威の学者でありながら、四国の松山まで満足なお礼もなく来てくれて、なお気さくで権威ぶらない態度でいることに人格としても第一級の風格を感じさせ、戻川陽一の舌を巻かせた。そして傾倒した。

上甲百合子さんの姿は傍聴席に無かった。まだ脚が良くならないのだった。

娘さん達がこの日の出来事を西条の自宅にいる百合子さんの元に届けた。

鈴木教授は集会と勉強会に出席した後、21日の午後の全日空584便で予定通り松山空港を飛び立ち、成田を経由してニューヨークへ帰った。

そして、藤田育子弁護士はこの日を最後に瀬戸内法律事務所を辞めたということである。

そればかりか、日本での弁護士としての活動もこの裁判を機会にすっぱりと辞めてペルーに渡ったのである。

入れ替わるように草薙弁護士が全面に立った。

しばらくは次の法廷期日をいつにするか、北川教授にも法廷に立って貰った方がよいですね、もし来られないようでしたらこちらから富山に出掛けて行って聞くようにしないといけないですかね、などと裁判所は代理人を含めた打ち合わせで語っていたが三ヶ月目に入った平成12年6月、突然、和解勧告を両代理人に対して告げた。

森田弁護士はこの前後の事情を、「・・・裁判所の考え方はこの鈴木証人尋問で大きく変わったようだった。被告側もこのままではまずいと、北川鑑定人の尋問を求め、これを実施する前提で打ち合わせの期日が六月にもたれた。
しかし、この席上で、裁判所は突然、双方に和解勧告した。
被告弁護人は吃驚(びっくり)して《まず、北川尋問をやってからにしてほしい》と抵抗。
原告側もこの段階での和解が妥当か迷ったが裁判所が基本的には原告側有利にと考えて北川尋問前に勧告したことを尊重して、和解の席に着くことにした。裁判所の重ねての勧告で被告も和解を検討することとなった・・・」と書いている。

このあと和解条件が裁判所から提案され具体的な金額も提示された。

弁護団から戻川陽一に、上甲さんがこの裁判所の和解提案について承諾をするかそれとも当初の原告訴状に記載された額の損害賠償を全面的に獲得するまで裁判を続行して行くかの考えと態度を聞いて欲しいと依頼した。

和解の金額は裁判所の提案で500万円であった。人の死亡の損害としてはとても充分とは言えなかった。

戻川陽一はとんでもないとも思った。

しかし考えてみると、被告に責任がないことを前提にした「見舞金」の額は優に超えていた。

実質的に被告側は責任を認めたことになる。上甲百合子さんは裁判のことは私わかりませんからと弁護士に一任する旨の返事をしてきた。

その後、新居浜にいる戻川陽一のもとに「和解決定」の知らせが入ってきたのは平成12年10月26日午後のことであった。

和解手続き後、被告代理人が原告本人らにたいして「あいさつ」をすることで「弔慰」の一端を示した、という。

なによりこの裁判を始めて六年、最初の協議から数えるとすでに八年の長さになる。

上甲百合子さんも七〇歳を越えた。脚も悪い、とてもこれ以上は進める状況ではない。

もともと上甲百合子さんは金額の多寡よりご主人の病気が職業から発したもので四国電力にそのことを認めてもらい、人がアスベストの被災で苦しまないで済むようになることを願っていたのだから。

戻川陽一は、日本で最初の電力労働者のアスベスト曝露訴訟に実質勝利を収めたことに満足すべきだと自分に言い聞かせた。

「・・・遠いところを裁判の証人に来日して頂いたり、病理の鑑定証言のおかげで一〇月、長い年月を経て和解が成立いたしました・・・(中略)・・・先生を始めいろいろな支援団体の皆様に支えられて長い裁判を耐え今日があることを感謝しております・・・(後略)」

上甲百合子は和解が成立した後、ニューヨークの鈴木教授に手紙で報告した。

最後に、この裁判で小さな身体ながら上甲さんの無念を晴らし、三月の鈴木教授の証人尋問を弁護士生活の区切りと決意し、裁判の途中で日本を離れた藤田育子の消息について報告しておく。

彼女は弁護士を辞めて、結婚し、ペルーの人と現地で一緒に暮らしている。

交際は五年におよぶというからこの四国電力石綿事件訴訟と並行して恋が進行していたことになる。あらためて資料を見ると一九九八年の『水平線』に「ペルー紀行」を書いている。

文章によれば4月13日から約二週間滞在している。友人宅に泊めて貰って、各地を旅したとある。観光ホテルに泊まったのでは感じられない地元の人情や食べ物、ペルー人の人当たりや気質が記されている。

その文章には親密さが溢れている。

ペルーという国や人に対する好意が書かせた体温のある文章である。

だが恋であるとは一言も書かれていない。

そして8ヶ月後の1999年の1月、「私事で恐縮ですが、2月8日~2月17日まで海外に行きますので」と緊張の高まってきた裁判関係者に不在を詫びる断りを入れている。本人に確認したわけではないが、おそらく二度目のペルー入りだろう。

上甲さんのアスベスト労災死事件と同様の重みで藤田育子個人にとってこの恋と結婚は人生上の大事件だった。

手弁当の支援者たちのタッグとあしかけ八年におよぶ長丁場の裁判を支えたものは、先進国の中ではまだまだ明るみに出ていない日本のアスベスト被災の実態追求に賭けた人々のそれぞれの情熱だった。

裁判の進行中には地味な努力の積み重ねの物語に見えたが、出来上がったものはまぎれもなく、ひとつの輝かしい群像伝説であった。

(本文中の人名は一部架空の名前を使用しております。御了承ください。)

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