石綿曝露-四国電力アスベスト中皮腫労災死事件/ 第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ-第4章 三人の弁護士
第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ
第4章 三人の弁護士
この裁判に関わった弁護士は三名である。松山にある瀬戸内法律事務所は共同事務所で規約として定年制をしいている。平成11年の現時点で草薙順一弁護士は59歳、来年は60歳で退職である。弁護士にも「老害」があり、もし、そのかげで依頼者が泣いているとしたら、という自戒のために設けた事務所規定である。瀬戸内法律事務所に入って間もない、若い藤田育子弁護士にこの石綿曝露訴訟裁判の中心を担うように配慮したのもそうしたいきさつがあってのことだった。
また、上甲さんの訴訟を引き受けることになった平成5年(1993)当時、草薙弁護士は1985年に松山地方裁判所に提訴した「愛媛玉串料訴訟」の原告代理人を中心的に担っていた。松山地方裁判所の第一審は勝訴。高等裁判所での控訴審では逆転敗訴、その時点で八年経過していた。その裁判は、国家と宗教の分離を問い、信教の自由との抵触をめぐる注目の憲法裁判として最高裁で争われていた。草薙弁護士にとってどうしても負けられない裁判であった。
話はそれるが草薙順一はキリスト者である。1993年には伝道者パウロの足跡をたずねる旅を行っている。「愛媛玉串料訴訟」で高裁が逆転判決を出し、原告敗訴となり、最高裁に控訴した後のことである。パウロの生まれた土地はいまのトルコである。その旅で、ギリシャ哲学のストア派を背景にしたローマ時代のキケロやセネカらが、貪欲と悪徳に対するアンチテーゼとしてロゴスを説き、人間の平等性の理想を掲げたことにパウロが影響を受け、さらにパウロが無償性としての愛をつけ加えたことを現地に立ち思索している。パウロの伝道の遍歴は異なる宗教との軋轢の連続であり、被支配者の受ける苦難の途でもあった。それでも情熱を失わないパウロの姿とはどのようにして可能なのか、年来のテーマでもあった。
県知事が、県民の納めた県費の一部を玉串料として靖国神社に納める行動をとる。戦前のキリスト者も仏教徒も新興の宗教家も弾圧され、信仰の自由を抑圧した戦前の国家神道の象徴である靖国神社の大祭に公費を納入するという行為は、明らかに特定の宗教と国家の親密な結びつきを示す行為である。信仰者の苦難の歴史から何も学ばない行動である。
愛媛県の行動は現憲法下の「国と国家機関はいかなる宗教活動もしてはならない」とする条項に違反するものであり、直ちに玉串料の出費を中止し今までの納入額を返還するようにという内容が「愛媛玉串料訴訟」である。
一審は原告の訴えどおりであったが、高松高裁では、玉串料を納める行為は憲法と抵触しないという判断であった。白石愛媛県知事の毎年3回、16年に及ぶ玉串料納入の行為は戦没遺族会などの選挙民を喜ばせ、票を得るために行った実利行為であり、なんら国家機関の宗教行為などではないということである。
草薙順一はこの判決を聞いて法律論の観点から驚いたのはもちろんであったが一キリスト者として深い衝撃を受けた。
確かに上から俯瞰するように見れば、日本では一個の人間が神社の氏子であり同時に浄土真宗の檀家であり、結婚式を教会で挙げることはざらにあることで、こうした宗教の多層性がみられそのことが他人の宗教観に無頓着な風土を醸成している。日本社会と文化の成り立ちの雑居性と階層性を反映しているともいえる。だからといって個人の信仰や宗教観が多数者の名の下になおざりにされてよいということにはならない。高裁の判決文を読んで草薙順一は「分かってない」、と思った。
草薙順一には「信仰の自由」とは人間の精神の自由の絶対性と結びついており、現実の社会や政治的共同体の限界を超えるように存在しており、社会的圧力や国家的威力の下に踏みとどまるように築かれて危うく存在する精神の世界なのだ、という自明の実感がある。そのことは「人間の内心はいわば至聖所であり、人間の尊厳はまさにここを拠り所としている。内心の自由は法的にも保護されなくてはならない」という本人の言葉に表されている。ひとの信仰や思想はそのときの社会的偏見に絶えず晒され、その時点の政治的な動向の余波をくらい、無言の圧力に耐えながらしか存在できないのだということが高裁は分かっていない。
そもそも何の「自由」であっても、「自由」とは求めるように、獲得するように成り立っている概念である。求め続けなければ失われるものである。これは信仰者には自明のことである。
小なりといえども行政の首長が戦後憲法下では、単なる一宗派に過ぎない神道の靖国神社の大祭だけに「玉串料」として一六年間も住民の県税を納入するという行為は明らかに靖国神社を特別視する行為である。従って、国家機関と、ある宗教との特別の関係を住民に印象づける行為に該当するのは当然である。
神道を特別視し、他の宗教から超然と扱う態度は日本のかつての政治権力が行ったやり方と同じで、そのもとでほかの多彩な宗教が壊滅させられた。その歴史的反省の上に戦後憲法の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という条項が成立している。
高松高裁の判決文には原告団の苦渋の思いのかけらも含まれていない。
それだけではない。もし判決文がいうとおり、県知事は選挙目当てに玉串料を靖国神社に送り続けたに過ぎないと見過ごし、また日本人の信仰の雑居性と多層性の上に胡座をかいて、知事の行為を単なる社会生活上の儀礼に解消するなら、戦前に日本の政治権力が行った自由の抑圧が、日本人の底流に流れる古代からの汎神論的「イキガミ」信仰をオブラートでくるんで、多数者の幻想を装って日本国民を統合し、言論や信仰の自由を奪うために利用され、国家と宗教の接続を視えないように巧妙にしくんだ罠に由来するのだ、ということに未だに気が付いていないことになる。
個人の精神世界も分からない、日本的支配と被支配の政治的構造も分からない、二重の無知に基づいた判決であった。宗教が政治に利用されるのである。このことは実証済みなのである。ここに焦点を当てずしてこの「愛媛玉串料訴訟」の意義はない。これではおなじ事を何度も繰り返すことになる。それも無自覚に。「善意の臣民」が先頭に立って「非国民」をつくりだし、魔女狩りをしたことで日本人はすでに前科一犯なのである。そのことに思いを致さなくては戦後憲法の政教分離原則、「信教の自由」の精神は成立しない。
草薙順一は書いている、「個人の尊厳の原理こそが現日本国憲法の根元的なものである」と。1940年瀬戸大橋の架かっている香川県で生まれ、地元の高校を卒業した後、長く裁判所で働き、1976年、36歳で弁護士になって以来その精神は長い弁護士活動に一貫して流れてきている。それを守るための活動こそが司法に携わる者の使命であるという信念である。また自由の権利は獲得されてきたものであり、放置していては得られなかったものである。
従って高松高裁の判決文には憤懣を禁じ得なかった。最高裁に上告した。
そうした信念と努力が実り、この「愛媛玉串料訴訟」は1997年4月2日に憲法違反の判決で幕が下りた。原告側の全面勝訴である。実に15年の歳月であった。
草薙弁護士は平成12年になり満60歳になったのを機に、瀬戸内法律事務所を退所した。いまはひとりで相談を中心とした弁護士活動を続けている。平成8年には愛媛弁護士会会長と日弁連の常務理事の役職をこなした。
瀬戸内法律事務所の会報『水平線』に最後の文章として自分の歩んできた途を振り返るように、言い遺すように次のように書いている。
「私は創刊号から一貫して憲法を守ると言う立場で関わり、書いてきたがたとえ〈守旧派〉とか〈一国平和主義〉とか〈教条的護憲論〉といわれてもこの立場は生涯貫く」と自己批評し、オランダのハーグで開かれた国際的な市民会議を取り上げ、「憲法九条の世界化」が人類の平和の未来への希望たりうることを展望している。
この裁判を中心的に担ったのは若い藤田育子弁護士である。いや、草薙弁護士に言わせれば「体の小さな彼女が独りで頑張った」のであった。藤田育子は二年間の司法研修を終えた後、平成五年(一九九三)四月に瀬戸内法律事務所に入所している。丁度、上甲さんの訴訟が起こされる年のことである。しかし松山の地元の大学を卒業後、裁判所で八年の勤務経験を積んでいたので法曹界では十余年のキャリアである。
瀬戸内法律事務所に入所したときの抱負に二つのことが書かれてある。一つは女性弁護士は地方ではまだ少数である。そうした意味でも、いろいろの職場で働いている女性の社会的地位について世に問う気持ちがあること。もうひとつは裁判所書記官時代に、相談に来られた人に対し親身になって代弁できない自分の立場の限界を痛切に感じた体験が、弁護士という職業を意識した原点なのだから、人の痛みのわかる弁護士でありたいということである。
この、個人の人間的苦悩に敏感に反応する藤田育子の精神の型は、自身の10代後半から20代のはじめにかけてのキリスト教入信体験で形成されている。この言葉は単に社会正義の感情だけから出たものではない。つらい人間関係の中で彷徨った苦悩の体験を通して、藤田育子の個人性の底からでた言葉でもある。しかしそのことには本人はあまり触れていない。だが、藤林益三の著作に「少数者の精神的自由」を見て、深く傾倒した自分について明言していることからもあきらかである。
精神の疾風怒濤を乗り越えたあと藤田育子は教会の聖歌隊の指揮者をしている。高校時代に全国大会に出場し、優勝した合唱団のメンバーであった彼女は教会でオルガン演奏者をしたり、合唱隊の指揮をしたり、松山バッハ合唱団に所属して慣れ親しんだ音楽の楽しみを再開したのだった。
その後、実際に瀬戸内法律事務所の会報『水平線』紙上では夫婦別姓、婚外子差別、離婚法改正、夫婦間暴力、男女雇用機会均等法、などの問題を「女性と法」というシリーズで取りあげ追求している。また自身も教会でキリスト者ということから「信教の自由」を問うた瀬戸内法律事務所が中心になって行った「愛媛玉串料訴訟」の勝訴に強い共感を寄せている。
そうした中で、藤田育子は上甲さんの石綿曝露訴訟を一身に担って奮闘する日々が続いた。
話を平成9年暮れにもどすと、四国電力側の証人調べが終わって、裁判の行方はせめぎ合いと膠着の局面から一転、原告側の苦戦の局面に入った。上甲百合子さんは急に脚が立たなくなり、出歩くことさえ出来なくなった。やがて、七〇歳の声が聞こえようとしていた。
藤田弁護士は北川鑑定書が出される少し前から並行して、悪性中皮腫を証明する論拠を愛大病院で借り出した資料類から自力で指摘する作業を進めていた。しかし、協力してくれる何人かの医師達にX線像やスライドを見て貰ったが確証の言葉は得られなかった。写真を見る限りではむしろ肺癌を示すしるしに読みとれた。アスベスト小体も見つけられない。これらから悪性中皮腫の病名を決定することは非常に難しいということになった。アスベストが原因で肺癌になったという線をたどっていけなくはないが、そのためにはいくつかの要件を満たさなければならない。それを証明するには大変な労力が要るし間接的である。ここはどうしても資料類の分析から直接、悪性中皮腫の病名を決定する他はないと藤田弁護士は考え、愛媛労職対(現愛媛労働安全衛生センター)の戻川陽一に悪性中皮腫の鑑定をしてくれる人が誰かいないか相談した。戻川陽一とて当てがあるわけではなかったが、東京の平野医師にその件で連絡をとってみた。すると平野医師の口から、「日本じゃないけれどアメリカのニューヨークのマウントサイナイ大学にいるアスベスト疾患の世界の第一人者ドクター・セリコフとそのもとに日本人の学者が居る、その人もたいへん造詣が深いから連絡をとってみよう」という言葉が出た。
東京の「ひまわり診療所」の医師の平野先生から国際電話をしてもらうと、引き受けてくれるという。その学者の名前は鈴木康之亮、慶応大学で学んだあと三七歳でアメリカに渡り、以降三〇年余のアメリカ暮らしをしている老病理学者である。
藤田弁護士は愛大病院の写真・スライド類をまとめてアメリカに送った。
同時に諸外国でのアスベスト疾患の症例を集めて裁判所に提出する翻訳作業にも着手した。悪性中皮腫の症例がいかに電力労働者にも多いかという資料になる。外国語の翻訳作業を全国の医師を中心にボランテアでお願いして回った。沢山の人々がすすんで協力してくれた。無駄には出来ない貴重な仕事だった。
それからしばらくして所見が藤田弁護士の元に届いた。悪性中皮腫に間違いありません。
朗報であった。
他日、別件の用事で鈴木教授が来日されるということを聞き、「塵肺プロジェクト」を推進していた東京の全国労働安全衛生センター連絡会議の古谷杉郎氏を通じ、詳しい話を聞く機会を作ってくれるよう依頼した。藤田弁護士、愛媛労職対事務局の戻川陽一、東京在住の平野医師、神奈川在住の名取医師、全国労働安全衛生センターの古谷杉郎氏らで会合が開かれた。
鈴木康之亮は断言した。上甲さんは悪性中皮腫です。
みんな俄(にわか)には信用できなかった。
医師達もあれこれの疑問点を挙げて疑った。
だが、私は科学的な判断でものを言っているのであって雰囲気で言っているのではありませんよ、と再び断言した。
藤田弁護士は、鈴木教授に上甲さんの病理の決定的な鑑定人として登場して貰うことを思ったが、彼が外国にいることを日本の裁判所が受け入れるかどうか危惧した。それにもう一つ、鑑定にはお金もかかる。手弁当で弁護活動をしている藤田弁護士の所属する瀬戸内法律事務所としても予算がない。原告の上甲さんにも言えない。愛媛労職対の方も活動項目として裁判費用の負担は総会での承認を受けていない。
そこで日本国内で誰が鑑定人としてふさわしいかだけ相談すると、鈴木教授はかつて一緒に働いたことがある富山医科大学の北川教授の名を挙げた。
ためらっている間に被告側から鑑定人を富山医科大学の北川教授にしたい旨の申請があった。原告側もベストではないが、承認した。
ところが、その鑑定結果は前章にも書いたように上甲さんの病名を肺癌であり、悪性中皮腫とは言い難いという結論を下していた。これで愛媛大学の解剖所見と鑑定結果が合致したことになった。この鑑定で局面は大きく変わった。被告側は攻勢をかけ、原告側は防戦一方の展開になった。
ただちに藤田弁護士は、鈴木教授に北川鑑定と愛媛大学の解剖所見を共に射程に入れた意見書を作成して貰うよう依頼した。戻川陽一は藤田弁護士の様子を見ながら思った。ここが訴訟の分かれ目になる。草薙弁護士は「愛媛玉串料訴訟」を抱えていて時間を割くことが出来ない。現状ではとても手が足りない。どうしてももう一人手が欲しい。そこで古谷杉郎に相談した。古谷杉郎も藤田弁護士が一人で奮闘している姿を東京から見ていて、多岐にわたるネットワークが必要な弁護活動にはとても手が足りないように思えた。
古谷杉郎は神奈川の森田明弁護士に連絡をとった。
どうにかしないといけない。森田弁護士なら社会的視野の訴訟の実績もあり、社会運動の実情にも詳しい、という判断だった。
森田弁護士は横浜の協同法律事務所所属の弁護士である。協同法律事務所は、オウム真理教拉致事件に巻き込まれて殺害された坂本弁護士が所属していた事務所である。この坂本弁護士も横須賀のアスベストの裁判を担当していたことがある。
森田弁護士は1988年から始まった横須賀の住友重機の造船所で働く労働者の石綿塵肺訴訟の原告弁護団の中心をなしていた。
その時、坂本弁護士と一緒に聞き取り聴取など裁判の初期の準備を進めていたが、89年11月2日の深夜、坂本弁護士は根岸線の光洋台駅に降りたあと行方が分からなくなった。
坂本弁護士を欠いたまま横須賀石綿塵肺訴訟は進み、やっと和解勧告にこぎつけ、原告側実質勝利で終わったところだった。
この訴訟の団長を務めた野村弁護士によれば森田弁護士はこの訴訟の「恩人」で、裁判の性格に最も適した人物であり一も二もなく彼に頼んだ、とある。
できれば彼を団長にして自分は全面的に任せようとしたが森田氏から野村さんが残らないなら私は要請に乗れませんよと言われ、仕方なしに団長を引き受けたのだといわせるほどの人物だった。なにより今度の横須賀以前にも常磐塵肺訴訟に横浜からすでに参加していて実績がある。
横須賀は米軍基地の町で、造船の町でもある。1987年には空母ミッドウェーが石綿を公道に不法投棄したことを神奈川労災職業病センターの所長だった田尻宗昭が世に訴え、すでに基地労働者・住友重機下の造船労働者の退職者を中心に石綿塵肺の患者会も発足していたこともあって石綿をめぐる企業責任を問う気運が盛り上がっていた。地元診療所の調査によれば過去5年の肺癌死した113人の患者のうち39人が石綿肺によるものであるとした。新聞各紙も「石綿肺癌の恐怖」として警告を発した。そうした背景で森田弁護士は8名の原告団の代理人として活躍した。医学的知識、職場環境の理解、企業の対応のパターン等について熟知していた。
そうしたいきさつで三人目の弁護士として森田弁護士が加わった。
鈴木教授は藤田弁護士に、北川教授が鑑定のために使用した同様のパラフィンブロックをアメリカに送るよう要請した。
しかし北川鑑定で使ったパラフィンブロックはすでに愛媛大学に返却され、再びそれを借り出すことは裁判所としても難しいということだった。
このままではアメリカで病理診断を行うことは出来ない。裁判の原告側苦境も脱出できない。八方塞がりの状況が続いた。
ある医師の一言が窮地を救った。遺族には標本の引き渡しを求める権利があるということで裁判所に交渉し、大学から預かり、アメリカの鈴木医師の下に送り届けた。
鈴木康之亮教授は詳細な病理学診断を行い、上甲さんは悪性中皮腫に罹っていたことを「意見書」にまとめ、弁護団はそれを裁判所に提出した。
それを見た被告側は直ぐに香川県の元労災病院の景山医師に鈴木意見書の批判という形をとった「意見書」を提出した。
これで愛媛大学の解剖所見、北川鑑定、鈴木意見書、景山意見書の四つのそれぞれ異なった見解が裁判所に提出されたことになった。
原告側代理人は鈴木教授に法廷に立って貰うことをただちに決定し、そのための準備を始めた。これが追いつめられた原告団の最後の切り札だった。
平成11年(1999)になって一層慌ただしさが増してきた。3月19日の鈴木教授の証人尋問日程が決まり、藤田弁護士はその準備に忙殺された。
1月14日、東京労働安全衛生センターの事務所で平野・名取・古谷・戻川・飯田(東京労働安全衛生センター事務局)が集まり、鈴木先生の証人尋問を限られた時間の中で如何に効率的に進められるか、また裁判日程と合わせ、松山でアスベストをなくす集会等を開き、裁判支援を全国に呼びかけることが話し合われた。
神奈川の名取医師が作った表は、専門家の立場から四者の見解をアスベスト疾患の世界基準として各国の裁判でも権威を持っている、「ヘルシンキ基準」をひとつの軸にして問題点整理したものだった。主に北川鑑定と鈴木意見書の違いが問題になった。
1、アスベストの職業性曝露(ばくろ)を確定するためには、肺乾燥重量1グラム 当たり石綿小体(いしわたしょうたい)の数が100本以上と決められているが、北川鑑定では54本である。従って職業性曝露とはいえない。鈴木教授の方は520本で、職業性曝露を証明するに足る数である。しかしログリの換算で行うと計算間違いではないのか? 確認が必要。
2、顕微鏡で北川教授は石綿線維(いしわたせんい)のうちアモサイトをみつけ、鈴木教授はクリソタイルを見つけているが双方で別々の線維に分かれたのはどうしてか? きちんと説明できると良いのだが。
3、石綿肺を鈴木教授は軽度から中程度として認めているのに北川鑑定では見つけられていない。なぜか。
4、胸膜肥厚斑(きょうまくひこうはん)の存在は両者とも認め、ヘルシンキ基準に合致している。職業性曝露を証明するものである。
5、メインの病理診断を北川鑑定は左肺原発(げんぱつ)の肺癌として、鈴木教授は左胸膜(ひだりきょうまく)原発のびまん性悪性中皮腫(あくせいちゅうひしゅ)としている。この違いはどこからでてきたのか。
6、組織化学的検索で中性粘液が反応なし、は悪性中皮腫を支持しているので良いが、悪性中皮腫だったらヒアロン酸反応もあるはずなのに鈴木意見書で出ないのはどう説明するのか?
7、免疫組織化学的検索で北川教授はビメンチン反応無し、鈴木教授反応あり、と分かれるのはなぜか?
以上のポイントを裁判の前に鈴木教授に聞いておく必要があるということで確認が行われた。
さらに打ち合わせは進み、鈴木教授がいかにアスベスト疾患の世界的権威者であるかを訴える必要がある。従ってその証言は重いということを。またアメリカの裁判での関わりについても質問しよう。それと電子顕微鏡の精度の違いもはっきりさせた方がよい。写真やスライドを実際に法廷で示し視覚的にも訴えたい。最後に藤田弁護士と森田弁護士で当日の質問事項を今からまとめ、事前に送るということが確認され散会した。更に裁判については労働者住民医療連絡会議と全国労働安全衛生センター連絡会議による「塵肺プロジェクト」を開催し、全国から裁判の傍聴を行うこと、また地元愛媛労職対が鈴木氏の講演会を開催し、広く訴えることなどが確認される。
1月16日、横浜の森田弁護士より裁判当日鈴木教授から何を聞くかの質問事項のたたき台が松山の藤田弁護士のもとに送られてきた。
同日、藤田弁護士はファックスで鈴木教授に、去る14日に先生の証人尋問の打ち合わせが行われたこと、3月19日の証人尋問の翌日から2日間、講演会と「塵肺プロジェクト」を開きますので講演と会合出席をしていただきたい、来日の日程が決まれば早めに知らせて下さい、旅費、宿泊はこちらで負担いたします、尋問時間が限られているので経歴は書面提出したい、ついては資料を今月中に頂きたい、追って質問事項はお送りします、という内容である。
1月20日 藤田弁護士はニューヨークの鈴木教授に次のようなファックスをした。
鈴木康之亮先生/藤田育子
前略 先日、ご連絡をしておりました質問事項等を整理した書面を送ります。
ひとつは「証人尋問・尋問事項」と題する書面です。これは3月19日の尋問でお聞きしようと考えている内容を網羅的に並べたものです。当方の尋問時間が2時間しか与えられていませんので、削除する項目や重点を置く項目は今後整理していかなければならないと思いますが、現時点では、全部について準備だけはしておきたいと考えています。もし、追加した方がよいとお考えになる事項がございましたら、ご意見をお願いいたします。この尋問事項に沿った個別の回答は、現時点では必要ありませんが、証言に向けて準備いただければと思います。
もう一つは、「確認事項」と題する書面で、こちらの方は準備のため私ども弁護士の方で早期に先生から確認しておく必要があると考えている項目をピックアップしたものです。これらの質問事項につきましては、ご多忙の所恐縮ですが、出来れば一月中に書面で回答いただければと思います。
なお、裁判所から、新たな書面の提出や詳しい尋問事項の提出期限が2月19日と指定されておりますので、もし証言のために必要と思われる意見書に添付した以外の資料等(写真、文献、スライド等)ございましたら、準備の都合もございますので、一月末か二月第一週くらいまでには、ご指示いただければと思います。ご不明な点や、証言準備に向けての先生の意見がございましたら、何なりとご連絡下さい。
いつも勝手ばかり言ってご迷惑おかけしますが、よろしくお願い申しあげます。 草々
返事は直ぐに返ってきた。
1月20日 藤田育子様/鈴木康之亮
1、先ず、略歴を送ります。
2、他の事項、即ち確認事項に対する返答は後で送ります。
3、先日、普通の航空便でPVYDのLawyerの質問を送ってあります。
1月22日 森田明様/藤田育子
前略 1月20日付けで鈴木先生の方から、最新の経歴表と返信のファックス(私が送ったファックスに書き込みしたもの)が届きました。
経歴表はMembership of Academic Societiesの欄に一行加わったこと、論文等が一四二~一五三まで追加されていることが相違点のようです。これについては、翻訳をお願いしたいのですが(論文の前まででよいと思います)、平野先生かどなたかにお願いできるでしょうか。鈴木先生から追加の返答がありましたら、追ってご連絡します。 草々
1月25日 労働安全センター古谷様/藤田育子
先日はお世話になりました。鈴木先生から日程についてのファックスが入りましたのでお送りいたします。松山には3月16日の夜から3月21日の朝まで滞在されるということです。3月20日の集会への参加は可能だそうです。
同様の内容を、愛媛労職対の戻川陽一と森田弁護士にも送った。
1月28日 藤田育子先生/鈴木康之亮 確認事項に対する回答が送られてきた。
ご心配のヒアロン酸反応が出なかったのは、私どもで検索材料をつくる時、水洗いをしますので水溶性の性格をもつヒアロン酸がウオッシュアウトされたのでしょう。
ビメンチンは線維肉腫型細胞も上皮型細胞も共に陽性でこれは明らかに悪性中皮腫を支持するものです。北川教授は線維肉腫型細胞でビメンチンは陰性、上皮型細胞については記載なしです。どうしてそうなったかは分かりません。
石綿肺についてヘルシンキ基準に合致しないではないかという心配は無用です。「基準」には1平方センチあたり2本以上と記してありますが、別の件にはそれより遙かに少なくても石綿肺は認められるとあります。要は絶対性ではないということです。
石綿小体の数はあなた方のご指摘のとおり520個は計算間違いで、260個が正しく、一般人の肺中には0~20個が普通ですから上甲さんはその13倍の量で、明らかに職業性曝露を受けたことになります。また、電子顕微鏡の当方の倍率は40,000倍です。
私がクリソタイル線維を見つけたこと、北川教授が見つけられなかったことは、検索材料の部位の問題です。
また北川教授が見つけた他のアスベスト線維をわたしが見つけられなかったことは、検索材料の量の違いによる問題です。心配ありません。
おおよそ以上の内容であった。
1月29日 森田明様/藤田育子
本日、ファックスでお送りしました鈴木先生からの回答書と、先日お送りしましたCurriculum Vitaeの各コピーをお送りします。
私事で恐縮ですが、2月8日~2月17日まで海外に行きますので、その間準備ができません。2月19日までに尋問のための追加書証等を提出することになっておりますので、今回鈴木先生から送って頂いたC・Vの提出(翻訳付き)、説明のためのスライド作成等について、できれば来週中に決めて準備に取り掛かれればと思います。
週明けにご相談したいと思いますので、よろしくお願い致します。
2月6日 森田明先生/藤田育子
前略 鈴木先生の尋問の件、たいへんご迷惑おかけします。
私が鈴木先生にお送りした確認事項に対する先生からの回答の文書を、こちらの質問と回答をまとめる形で打ってみました。MS・DOSに変換してお送りするつもりでしたが、出張が続いて時間がなく、まだ体調が悪くて出発までに準備ができませんでした。私の手持ちのワープロ(OASYS LX4500)で打ったものを保存したフロッピーと印刷したものを一部お送りします。鈴木先生のファックスで判読できない文字等があり、間違っている部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。
なお、スライド使用の件について裁判所に問い合わせたところ、器械はあるが、ずっと使ったことがないのできちんと写るかどうか不明である。一度、使用する予定のスライドを持ってきて試してみて欲しいと連絡がありました。私がいる間に試写の時間がありませんでしたので、来週早々にでも事務局に行ってもらって試写をしてもらうよう指示しています。その結果は、事務局長の朝井さんから先生宛ファックスでご連格するようにしていますので、よろしくお願いします。
鈴木先生のファックス番号は以前にお知らせしてあると思いますが、念のため下記に記載しておきます。
鈴木先生の松山での宿泊については、草薙弁護士が全部手配してくれたそうです。私は二月一八日には出てきますが、この日は大洲支部で証人尋問が午後いっぱい入っていて、打ち合わせもありますので、午前十時くらいには事務所を出ると思います。同日は帰りが午後七時頃になるのではないかと思います。もし、ご用件があれば事務局にお伝え頂くか、ファックスでお願い致します。
この間、裁判所への文書の提出や問い合わせ等の必要がございましたら、前記事務局長の朝井さんが私の事件の担当ですので、朝井さんに指示してくださいますようお願いします。ご迷惑をおかけしますことを重ねてお詫び申し上げます。
2月6日 鈴木康之亮先生/藤田育子
先日は、ご多忙中にもかかわらず、私の確認事項に対して早速詳細な回答をお送りくださり、ありがとうございました。Air mailでお送り頂いた英文の質問事項も届きました。
現在、先生からのファックス等を受けて尋問準備を進めておりますが、私が2月8日~2月17日まで(日本時間)所用で海外に出掛けるため留守を致します。その間、森田弁護士の方でご連絡をさせて頂くことになると思います。私の都合で勝手なことを言ってご迷惑をおかけしますが、どうかご容赦ください。森田弁護士の連絡先は左記のとおりです。
電話 〇四五・二〇一・六一三三/FAX 〇四五・二〇一・六一三四(協同法律事務所)
なお、松山ご滞在中の宿泊の手配はこちらでさせて頂きました。もし観光のご希望がございましたら一日くらいは手配できると思いますので、ご遠慮なくおっしゃってください。以上、とり急ぎご連絡申し上げます。
2月9日 森田明様/藤田育子(代)朝井章
裁判所にあるスライドの器械が古いためフィルムのサイズが合わず、証人尋問に使用できないので、ご連絡致します。
2月9日 瀬戸内法律事務所 草薙先生 藤田先生へ/愛媛労職対 戻川陽一
3月20日の鈴木先生の講演の演題は「アメリカのアスベスト被災の実態について」、参加者は60~80名程度、宣伝は松山地区諸団体・マスコミを中心に行います。案内チラシはこちらで作ります。集会の時に四国電力アスベスト裁判の経過報告をお願いします。場所は勤労会館で、医師の勉強会、塵肺プロジェクトは道後のしらさぎ荘で21日午前9時から午後3時までです。以上報告させていただきます。
2月17日 鈴木康之亮先生/森田明
以前にお知らせしましたように、反対尋問を同じ日に終わらせる必要上、尋問の概要と尋問の際用いる文書(翻訳済み)を2月19日までに裁判所と相手方に提出しなければなりません。
尋問の概要については、先日お送りいただいた「確認事項」を、整理して(ほぼそのままですが)「尋問要旨」としました。
尋問の際用いる文書としては(もちろん以前に提出した文献も使用できますが)経歴書と以前にお送りいただいたスライドの文字を翻訳しました。また、「このようなスライドも用意しては」とご指摘のあったものを用意しました(ただし、裁判所の機材の関係でスライド映写をしながらの質問は難しいかもしれません。その場合は手元にある証拠を示しながら答えるなどの工夫が必要です)。
それぞれの記載内容をチェックしていただきたく思います。19日までに堤出の約束ですが、ご多忙で忙しいということでしたら、仮に提出して後日差し替えることも可能と思います。ご無理のない範囲で早めにチェックしていただければ幸いです。
私の事務所宛に送信してください。
2月17日 藤田先生/森田明
本日、鈴木先生に尋問要旨をまとめて送付しましたのでお知らせします。
2月19日 藤田先生/森田明
別紙の通り裁判所と被告(田代弁護士)に送付しました。
松山地方裁判所民事部御中
被告代理人 弁護士 田代建殿
原告代理人 弁護士 森田明
松山地方裁判所 平成五年(ワ)第七四八号 損害賠償請求訴訟事件
原告 上甲百合子 他七名
被告四国電力株式会社
次回期日 平成一一年三月一九日 午前一〇時
上記代理人は、上記のとおり、本書を含めず三〇枚をファックスにより直送します。
2月27日 藤田育子先生/鈴木康之亮
前略 上甲さんの裁判のために必要な小生の手元にある書類をすべて持参することは重すぎるので、最小限必要のものを除きこれらの書類を航空便Expressで貴先生宛に送っておきます。
3月1日に自宅から送りますので3月第一週中に着くと思います。小生の泊まるHotelにあらかじめ預けて置いて下さい。また帰りは出来るだけ身軽にして帰りたいので裁判終了後これらの書類は小生自宅宛に返送下さい。
前便でお知らせしたように自宅出発から帰宅までの諸経費と未請求であった郵送費・ファックス代等まとめて、帰宅後請求いたしますので宜しくお願いいたします。
小生、年齢と持病のため、食事とアルコールを制限しておりますので、あまり歓待しないで下さい。
3月1日 鈴木康之亮先生/藤田育子
2月27日付けのファックス受信致しました。内容についてはよく分かりましたので、ご指示のように手配させて頂きます。
なお、先生の宿泊のご予定ですが、下記の宿泊施設に予約を入れておりますのでお知らせ致します。
3月16日~18日 かんぽの宿〈道後寿楽荘〉松山市溝辺町三の一☎九七七・〇四六〇
3月19日~20日 道後温泉〈ふなや〉松山市道後湯之町☎九四七・〇二七八
3月16日には私が空港までお迎えにあがる予定でおります。
3月18日(尋問前日)の打ち合わせには上記かんぽの宿を使用できるように手配してもらっております。とり急ぎ、ご連絡させて頂きます。
3月8日 鈴木康之亮先生/藤田育子
本日Air Mailで書類を受領しましたが他の荷物からの水漏れなのか、原因不明の水をかぶっていて、書類の一部がすべて湿っていました。袋から出して私の事務所の机の上に広げて乾かしていますが、インクの文字が少し滲んで判読しづらくなっています。コピーの方の書類は乾けば大丈夫だと思います。取り急ぎご報告まで。
これでマウントサイナイ医科大学の鈴木康之亮教授が立つ舞台はすべて整った。
しかし、原告側が崖っぷちの情況であることに変わりはなかった。
その足元には深淵が口を開けて待っていた。