石綿曝露-四国電力アスベスト中皮腫労災死事件/ 第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ-第2章 告発
第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ
第2章 告発
労職対の戻川陽一に紹介され、百合子さんは娘さんと一緒に松山にある草薙薦田法律事務所を訪ねた。弁護士の草薙先生が対応に出てきた。いきさつを説明し、どうしたらよいか相談した。そこで事業所側と話を進めてみたらどうかということになった。最後に、西条から松山まで打ち合わせに毎回出てこられるのは大変でしょうから地元の弁護士を紹介しましょう、会ってみて下さいということで別れた。
地元の弁護士はこう言った。
「いくら欲しいの」
上甲さんは事務所を出た。不愉快な感情だけが残った。
《このひとは勘違いしている》
再び松山の法律事務所を訪ねた。事務所は藤田育子弁護士も加わり新たに瀬戸内法律事務所と改名されていた。
草薙弁護士は、上甲一郎さんがアスベスト(石綿)を曝露して悪性中皮腫になり亡くなったという労災の観点から四国電力に対する補償交渉を引き受けてくれることになった。
遺族にたいする補償交渉を申し込み何度か話し合いが持たれた。四国電力は補償の必要はないし、その気もないと結論した。
平成5年(1993)11月16日に百合子さんは提訴した。両者が交渉のテーブルについてすでに二年余の時間が流れていた。
百合子さんは裁判を起こすなどとは最初から考えたこともなかった。近親者からも難しいことに首を突っ込んでややこしいことになるよ、費用もかかるし、とさんざん言われて悩み、迷った。だが、戻川陽一からこの裁判は日本の電力会社の発電所で働きアスベストを曝露して亡くなった最初の訴訟になることを知らされた。また弁護士事務所も手弁当で応援しましょうと言ってくれる。担当は若い藤田育子弁護士に決まった。周りの応援してくれる人々の熱気も感じられた。会社の元同僚の人も喜んで証言に立ちましょうと言ってくれている。夫の無念が世のためになるならと最終的に決心した。このとき百合子さんには自分の年が70歳を超え、丸六年におよぶ長い裁判になることなど思いもよらなかった。
第一回口頭弁論を間近に控えた、翌年2月4日の新聞に各社は訴訟のことを一斉に報道した。
裁判の争点を電力側の安全配慮義務違反とした。それなら時効と抵触しない。
一般に裁判になれば労災認定はガードが固くなるのが通例である。そのためには、きちんとアスベストを職場のどの場所で使っていて、それを本人が何処で吸ってという因果関係を証明しなくてはならない。
日本の発電所で実際に使っているところはどの部分か、それを誰が証明するのか。
第三者の証人も必要になる。文献もいる。
日本ではじめての事例だからまだ道筋が出来ていない。参考がないのだから手探りでいかなくてはならない。
また死因が悪性中皮腫だろうが肺癌であろうがアスベストを吸ったことに違いはないのだから国立病院の死亡診断書と愛媛大学医学部での病理解剖の所見が違っていても問題はない、というわけにもいかない。死因の確定もしなくてはならない。多くの詰めが積み残されたままスタートした。
また、屈辱も一度だけではなかった。
病名の確定が大きくものを言ってくるということで、そのために愛媛大学の病理解剖記録をあらためて違った眼で見て、原因のアスベストを自力で突き止めなくてはならない。戻川陽一は交流のある全国に散在する医師に協力を取り付けた。広島の宇土博医師より、そのためには医学部がそれを見て判断したX線写真や肺や腹膜の身体の組織標本が必要との連絡が入った。
藤田育子弁護士と一緒に百合子さんは、愛大病院に夫の病理解剖時の写真や切片やスライドを貸与して貰うよう訪問した。
愛媛大学の事務局はそんなものは無い、と拒否した。
無いはずはない、でしょと押し問答をしたが結局、百合子さんは門前払いにあった。
医学のためにと献体を了承し、今度は医学のために借り出そうとしている同じ人間を閉め出そうとしている。
なんのために献体をしたのか。
百合子さんは気の遠くなるような不毛を味わった。
藤田育子弁護士はすぐに裁判所から一郎さんの病理解剖の試料類を大学内から他所へ動かせないようにする手続きをとった。結果的に病院内にちゃんと資料が保管されていることだけは分かった。
また、原告側から直接大学に頼む方法に抵抗が大きいなら愛大病院に関係の深い人から要請してもらったらどうだろうということで別の日、戻川陽一と百合子さんは国立愛媛病院の井川医師を訪ねた。井川医師は上甲一郎さんの死因をアスベストが原因の悪性中皮腫であると診断を下した当の本人である。待合室でしばらく待った。
「やがて日本でも欧米並にアスベストの職業病が認知される日がやってきますよ」という意味の言葉を頼って、訪ねてきたのだ。
百合子さんの代わりに戻川陽一が趣旨を述べ、裁判への協力を願い出た。
井川医師は言葉を濁した。気まずい空気が支配した。
「その標本を借りてどうするのですか、仮にあなたが言うようにアスベスト小体が顕微鏡で見つけられてもそれだけで死因は確定できませんよ、車のタイヤにもアスベストは付いているのですから」というようなことを言った。
戻川陽一は落胆した。
「愛大病院が解剖して肺癌というのですからそうなんでしょう」というようなことも言った。
今度は百合子さんが落胆した。
この人は偉い人、はっきりと、あなたの夫はアスベストが原因の悪性中皮腫が死因ですよと断言したのだからと思っていたが、ここにいるひとは別人だった。
《ああ、病院組織の中の立場があるのだな》と、百合子さんは持参した菓子折を置いて帰るのがやっとだった。
こうして実際に夫の病気を見た唯一の専門家に決定的な行動をしてもらうという思いは、あえなく潰れた。
その足でもう一度愛大病院の事務局を訪ね、試料の貸し出しを再び要請した。
今度は、無いと言えない担当者は、私は文部省に所属する立場の人間だから、大学内とはいえ法務省の管轄の試料類は貸し出す権限はない、と断ってきた。
今度は管理部署が違うというのだ。
直ぐに裁判所に行って、法務省が貸し出しを禁ずる法令はなく、貸与は大学の裁量で決められる範囲のことです、という裁判所の言質を取って、大学へ引き返しその旨通知し、何時貸し出してもらえるか連絡して下さい、では検討しましょうということで新居浜へ帰った。
すぐに返事は来た。無論、貸せない、と。
最後の手段に訴えた。裁判に必要な試料類なのでそれらを提出せよと裁判所に命令を出して貰った。
今度は、大学はすぐに応じた。
こんなことに随分時間を費やした。裁判はもう始まろうとしていた。