石綿曝露-四国電力アスベスト中皮腫労災死事件/ 第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ-第1章 発電所での一労働者の死

第1部 あとを継ぐ者たちのドラマ

第1章 発電所での一労働者の死

新居浜にいる事務局長の戻川陽一(もどりかわよういち)のもとに松山地方裁判所から電話で「和解」決定の連絡が入ったのは、午後も暮れ方近くの五時を回ってからであった。その日は、何度も時計を見上げては机の書類に目を落とす、落ち着かない半日になっていた。上甲一郎(じょうこういちろう)さんが亡くなって16年、奥さんの百合子(ゆりこ)さんが四国電力を訴えて6年目。平成11年1月26日は一つの終結を迎えようとしていた。

戻川陽一は1991年7月1日に労働災害で苦しんでいる労働者の救済支援の一環として 「アスベスト110番」を設置した時のことを思い起こしていた。記者発表すると同時に10数件の電話や訪問者があった。あまりの反応の早さに内心驚かされた。この「アスベスト110番」の設置は全国的な連携のもとに行われ、促されたもので、愛媛労職対(現愛媛労働安全衛生センター)の単独の取り組みというわけではなかったからだ。地元愛媛は勿論のこと、遠くは和歌山県、隣の香川県からの相談もあった。既に3件は所定の手続きにそって労災申請を行い、認定を取り付けることが出来た。

しかし最初の日の一番に相談に来られた西条市の上甲百合子さんのことでは途方に暮れた。上甲百合子さんは娘さんと一緒に来られた。まず、夫の上甲一郎さんが亡くなられてすでに七年が経ち、労災認定の時効に入っていた。どうしようもないのか。

上甲さんには、夫の死因が「悪性中皮腫(あくせいちゅうひしゅ)」で、これはアスベスト(石綿)が原因で亡くなられたのですよ、と死亡診断書を書いた国立松山病院の医師から告げられていたことがずっと心のしこりになっていた。

夫の死因は職場の環境からえたもので40年もの長い間勤めた会社に対してそのことをはっきりと言っておきたい。対外的には「肺癌死」ということになっているが、会社もそのことを認識してほしいと思ってこられたのだ。その時、医師は続けて外国では悪性中皮腫(あくせいちゅうひしゅ)の症例は多く報告されているが、日本ではまだ非常に珍しく労災の認定も受けられないとつけ加えた。

百合子さんの話を聞きながら戻川陽一は、医師の労災保険制度に関する無関心さに舌打ちした。

世間ではアスベストと石綿はどう違うのかとか労災の認定は難しいとかの情報が流通しているが、ちゃんと日本の法律では、アスベストで死亡した場合には労災の認定をするようにという通達が1950年代にすでに国から出ている。

医師の診断書があって所定の手続きをとればきちんと出来るようになっている。

上甲さんの場合でも簡単に出来たケースだ。時効さえなければ。おまけに実際にはなかなか病院ではその手続きをやってくれない。だからこの医師に限って特別だったというわけではないが、保険の事は関係がないという対応には余計に腹が立つのだった。

さらに、医師は献体を要請した。百合子さんはその医師のことを信頼していたし、なによりも医学の進歩のためにと受諾した。

というのも百合子さんはその半生を病院の勤務に捧げてきた経験を持っていたのだ。迷ったが、亡くなった夫も世のためになるならよしと言ってくれるに違いないと考え承諾した。

上甲百合子さんが7年もの後に「アスベスト110番」を訪ねたのにはそうした伏線があった。

自分の心の裡にしまっているわだかまりを抑えきれなくなって、もしかしたら夫の死の持つ  意味を明らかに出来るのではないか、そう思って一番に訪ねたのだ。また、「やがて日本でも欧米並にアスベストの職業病が認知される日がやってきますよ」という医師の言葉が耳の底に残っていた。

労災申請の時効の問題は勿論大きい問題であったが、もう一つ問題をかかえていた。

それは献体後、愛媛大学付属病院で解剖が行われ、その解剖記録には上甲一郎さんの死因は肺癌と記載されていたことだ。

死因の表記が食い違っている。

もしこの「所見」が採用されるようなことになれば、労災認定では少しやっかいな事になる。どちらもアスベストによる職業病だが、肺癌の場合は被爆期間がレントゲン写真の判定などの証明を要する。

死亡診断書が正しいとすれば上甲一郎さんの死は病名の特殊性から明らかに労働災害による死だが、死亡診断書と解剖記録の食い違いは戻川陽一の頭痛の種だった。

どうしたものだろう。

思案に暮れている間に上甲百合子さんはぽつりぽつりと入院中の上甲一郎さんの様子を語り始めた。

夫は昭和58年12月の暮れ近くに熱っぽいから風邪かなということで、珍しく会社を休んで自宅療養していたのですがなかなか熱が下がらないので西条中央病院に入院したのです。それでも毎日発熱し、どうしても熱が下がらないので国立愛媛病院を紹介され、転院しました。翌年の1月27日のことでした。引継時での病名は肺化膿症ということでした。

夫は、「微熱と咳が出るのがつらい、いままで抗生物質をあれだけ使っているんだから治ってええ筈なんですが」と医師に訴えました。31日には全身の倦怠感と脱力感を訴えました。血痰が出て本人も私も驚きました。その時、長い入院生活を覚悟しました。そう言うと百合子さんはノートに走り書きした入院メモを戻川陽一に見せた。ルーズリーフの黒い表紙のノートに日付を追って一郎さんの入院中の様子が書き込まれていた。次のような書き出しから始まっている。

「主人、国立愛媛病院へ転院す。肺炎悪化のため。

夕方河原津(かわらづ)のおじさんが悪いとのことで見舞いに行く」

2月1日、医者がきて、「肺炎ではなく悪いもののようだ」と告げられる。

2月2日、CT検査が行われる。本人は、早く検査を済ませて帰りたい、と言う。

2月3日、「体重が減ってしもうたかい」とぽつんと言う。

55キロ。背中に床ずれもできる。

2月4日、夕方、主人「こんな状態がつづくなら死んだ方が楽なかい」と訴える。

夜になると「熱が下がったら楽なかい、今が一番調子良い、こんなんだったら何でも出来そうなかい」とも言う。

2月5日、真奈美と二人で桜三里が雪のため途中タイヤチェーンを買って病院に行く。

「しんどい」

食欲ほとんど無し。朝牛乳一本、昼、お粥二分の一。夕方私たちの作ったフレッシュ・ジュースをおいしそうに飲む。テレビを見ている。

2月6日、「熱がさがらん! 此処は何時までもおるとこじゃないけん、検査の結果が出たら帰る!」と言う。

2月7日、愛媛大学でガリウム・シンチ検査(これは癌がどの部位に転移しているかを調べるためのもの)。

裕子ちゃん、洋子ちゃんも来てくれた。車椅子で行く。「やっと終わったかい」

その日私たち家族(河原津の弟も同席)に対し医師から話がある。

「検査結果は今週末に判りますが、上甲さんは悪性の腫瘍です。今後、型により抗癌剤を考えます。患者には、たちの悪いカビのようなものが出来ているので治療には時間が掛かります、と言っておきます。入院前後のX線写真や全身状態から考えて今後の進行は早いでしょう」

夫は、「夕食を全部食べられた」、と機嫌良く話している。

2月9日、輝兄さん御夫婦、見舞いに来てくれる。

「熱が出た、あつい、あつい」と布団を剥ぐ。眠れないので、安定剤の服用を奨められると

「これ飲んでも効かへん。安定剤より酒の方が眠れるのにこんなことじゃあ家に帰れん事になってしまう」

青木さん、徳永さん、佐伯さんお見舞いに来てくれる。

2月10日、達夫夫婦、山口夫婦見舞いに来てくれる。

「入院してからずっと熱もさがらん、身体も弱ってしまう、25日間熱が続いてなんもわからん、薬を増やしてもなんも変わらん」と看護婦に訴える。

「腹が立つのは分かりますがいくら当っても自分がしっかりしてないといかんのだから、もう少し頑張って下さいね」と看護婦が答えると手を握り、少し涙ぐむ。

未美さんのお母さんがサルノコシカケが熱に良いとのことで今日から煎じて飲ます。

2月11日、気分良好の様子、広島から娘が訪ねて来てすき焼きを食べる。牡蠣と紅葉饅頭を土産にくれた。午後4時の船で松山観光港から帰る。

「熱も下がったらあと5日ぐらいで退院する、看護婦さん、西側にある植木の手入れするから手伝ってや」と楽しそうに剪定や水遣りをする。

2月12日、大雪。原田のおばあちゃん、洋子ちゃん、辰ちゃん、仁志君見舞いに来てくれる。渡辺夫妻、瑞恵さん見舞い。佐伯のお母さんからサルノコシカケを頂く。

倦怠感。「しんどい」。

2月13日、晴。熱があり、体調が良くない。昼食は食べなかった。「酸素すると楽ですね」。

2月14日、晴。213号室に部屋を変わる。熱が下がらない。裕子ちゃんがおにぎりを買ってくれた。合田さん、丹さん、佐野さん、宮岡さん、曽我部さん、岩本さん、松浦明美さん武田さん見舞金。会社から課長さん保険証を取りに来てくれた。

「此処では死にたくない」とぽつりと言う。

《あの時もそうだった。ここで多くの人が無念そうに呟いたことを想い出す。

私は壬生川(にゅうがわ)で生まれ、国民学校の高等科を卒業した後、初めて故郷を離れ、寄宿舎に入り、この重信川のそばの国立療養所に付属した看護婦養成所で専門教育を受けた。一四歳だった。それが以後の病院勤めの始まりだった。太平洋戦争が激しくなり結核療養所だったこの病院は当時、怪我をした兵隊で満員だった。そして多くの人が私達の手をきつく握り締めローソクの灯りだけの暗い病棟で家族を恋い、「死にたくない」と呟き、ひっそりと、亡くなっていった。遺体は松林の向こうにある霊安室へ、二人一組で運ばなくてはならなかった。私達は担架の重さと怖さの両方で、泣きながら暗い松林を通り抜けて何度も運んだ。死は直ぐ隣り合わせだった。

やがて、私の看護婦仲間も一〇人毎に従軍看護婦として南方の戦線に派遣されるようになった。そのたびに、横河原から木の列車にゴトゴト揺られ、市駅まで行き、後は歩いてもんぺ姿に防空頭巾の彼女たちを松山駅まで「最後の」見送りに行った。外地に行かない者も松山・吉田浜(よしだはま)の航空隊や善通寺(ぜんつうじ)の陸軍に配属された。戦争一色だった。私は三年の教育年限を修了した後も後輩の指導係として病院に残ったので戦地には行かなかったが、松山空襲の時には市内まで救護班としてかり出され、日赤や国立病院の看護婦達と焼け出され怪我をした沢山の住民の手当をして走り回った。トラックに乗り、焼夷弾(しょういだん)で焼け爛(ただ)れた顔や手足にチンク油をただただ白く塗り、包帯をするのがやっとだった。戦争が終わった時、一九歳だった。》

2月15日、晴。「今日はちょっとしんどいぜ」

再び医師から私に話がある。「扁平上皮癌(へんぺいじょうひがん)と考えられます。進行のスピードが早く肝臓への転移もあります。範囲が広いので放射線治療は出来ません」

恐れていた病名を聞いて、足元が崩れ落ちる。

課長さん見舞いに。15名の方の見舞金持参してこられる。

夕方、夫は、

「さっき医者が明日から治療を開始すると言った。これであと10日位入院したら家に帰れる、先生も帰るときにはきちんと紹介状を書くと言ってくれた、家で一週間位自宅療養したら会社へ行こうと思う」とニコニコ顔で看護婦に話している。癌のことはとても話せない。

《私がこの人と出会ったのは西条の発電所の中にある診療室に務めていたときのことだった。

重信川(しげのぶがわ)のそばの国立療養所に務めていた私は戦後もそのまま残っていたが、同じ村の出身の同期生が結核に罹(かか)り死んでしまったことがあり、結核療養所での勤めを私の両親が心配し、辞めて地元に帰るよう言い出した。病院や同僚からの引き留めもあり、辞めるかどうかおおいに悩んだがその時は両親の言葉に従った。一計を講じ、架空の結婚相手の名前を病院に提出し、結婚退職という形をとって辞めた。

村に帰って壬生川の周桑(しゅうそう)病院に勤めた。三年勤めた後、結婚前の若い娘がするような和裁やお花の習い事を先生についてしていた。

丁度その頃、知り合いの人が四国電力の西条(さいじょう)発電所の中にはじめて診療所を開設するので誰か資格を持っている者は居ないかと探していた。当時看護婦の資格を持っている者はまだ少なかった。昭和二五年、私は毎日三芳(みよし)駅から西条まで予讃線の汽車で通うことになった。

駅で降りて海岸端にある発電所まで歩いた。西条は私の村と比べるとはるかに街だったが舗装もされていない土の道を、中には自転車の人も居たがみんな歩いて勤めに通っていた。遠かった。

診察室は机一つに、私一人だった。医者は自分の医院と掛け持ちで週に何日かやって来た。その間は私が簡単な処置をしたり、難しい状態のときは医師の指示を仰いでやりくりした。私も当時は四国電力の社員としての待遇だった。だから、夫とは職場結婚ということになる。きっかけは夫の父親も電力に勤めていて、私を見ており、そのうち結婚話が出て、つき合ううちに自然に一緒になった。

結婚して市役所のそばの長屋式の二間の社宅で暮らし始めた。戦災で焼けなかった西条の街は静かで人情があって、住みやすい町だった。私が一歳年上だった。

二年くらいして昭和28年冬に長男が生まれた。

母乳を飲ませなくてはならないこと、託児所がないこともあって絶えず子供を側に置いておかなくてはならなかった。それは無理だった。一月の寒い時期に私は退職した。すぐに個人病院に勤め、その後もずっと共働きだった。

子どもたちはいわゆる鍵っ子で、随分淋しい思いをさせた。時間の余裕が無く余り遊びにも連れていってやれなかった。当時西条には三軒の映画館があったが、日曜日はたらいで山のような洗濯物を洗わなくてはならなかった。主人は鼠色やカーキ色の作業着を着て赤白模様の煙突のある工場に出て、またそれで帰ってきた。仕事で使った作業着は定期修理(ていしゅう)のときには特に真っ黒だった。仕事のことはあまり言わなかったが作業着の汚れぐあいをみていれば工場の様子は分かった。

主人は私の仕事に理解があった。

舅も子育てを手伝ってくれ、自転車に背負半纏の格好で授乳の時間毎に一日何回も私の職場に長男を連れてきてくれた。随分助けて貰った。そのことは今でも感謝している。また、ある日加茂川(かもがわ)を散歩していると生まれて間もない子犬が四匹捨ててあったのを、一匹連れて帰ったのでは残りの三匹が寒さで死んでしまって可哀想だからと四匹とも連れ帰り、とうとう全部飼うことにしたことなど生命の尊さとやさしさを子どもたちに教えてくれたことも想い出す。子どもたちもみんな巣立ち、夫も私もやっと定年間近まで勤め上げ、これから夫婦二人で少しは旅行などしてと思う矢先にこんなことになるなど思いもよらなかった》

2月15日、裕子ちゃん、昭広君見舞いに来てくれる。

2月16日、晴。「しんどい、ごはんも食べとうない」

医師、正式の診断書を内示。

「悪性中皮腫(あくせいちゅうひしゅ)。これは非常に珍しい病気です。薬の効果はあまり無いようです」

回診のとき、

「身近な人にあわせておくようにしてください」と言われる。

裕子ちゃん拝みに行ってくれた。冴ちゃん、洋子ちゃん、貴樹、未美さん、真奈美見舞い。夕食にちらし寿司を半分だけ食べる。

2月17日、雨。「腰が突き抜けるように痛い」、胃痛も。

河原津の達夫夫婦、冴ちゃん、洋子ちゃん、貴樹、未美、真奈美、晃典一家集まる。横井常一さんご夫婦お見舞い。

2月18日、正式の診断書。

『悪性中皮腫、二月一八日より二ヶ月間の入院加療を要する』。

2月19日、晴。

「しんどい。ゆうべみたいに今晩もしんどかったら死んでしまう、この熱はなんの熱ですか、なんでさがらんのやろか」

「胸がしんどい、苦しい、動悸がする」

医師が私に、

「時間の問題と思われます」と告げる。

「口が渇いた、しんどい」

2月20日、晴。朝方、痰がつまり苦しがる。

「胸のこの辺が重いような、しんどいようになって息がしにくい、ように分からんけどしんどい」

2月21日、晴。日中はよく眠る。今晩からよく眠れるようにと筋注がはいる。

2月22日、午後から雨。夜も昼も眠らない。ときどきおかしな言動。窓の下に誰か来ている、暖房設備の所に誰か怪我している、等。何度言い聞かせてもベットの上に坐る。

朝まで眠らない。

2月23日、朝五時ベットの横に立って、

「家に帰る」と言う。

「今は暗いから夜が明けてからにしましょう」と話す。

繰り返し家に帰る、という。

輸血中、

「はよ楽になって死んだらええ、酸素ものけてくれ、家がええかい、落ち着く、しんどい、どうしたら楽になるんじゃろか、あつい、あつい、窓開けようや、痛いんで入院したんで、はよう会社いかんといけん」と気むずかしい。

容態ますます悪化。痛みが激しい。

2月24日、明け方暴れ回る。

しかめっ面をして苦しい表情。

モルヒネを打つ。

「おなじじゃあ」

足を激しく動かす。

やがてウトウトする。

午後「苦しい、苦しい」と激しく身体を動かす。

注射。浅い眠り。

手足が冷たくなる。夕方近く声をかけるとかすかに頷く。

5時、心臓停止。

5時7分永眠。54歳。

貴樹、真奈美、洋子ちゃん、死に目に会うことができる。河原津のみんなも来てくれる。

夜、西条の家へ連れて帰る。

2月25日、通夜。あんなに苦しんでいたとは思えないほどきれいでおだやかな寝顔。弔問客多し。

2月26日、朝、雨。告別式頃には雨上がる。久遠院慈泉一徳居士。沢山の方々がお別れに来てくれて主人も草葉の陰で喜んで居ることでしょう。

戻川陽一はここまで読んで、なんという病気の進行の速さだろう、なんという苦しさだろう、これは時効云々の問題ではない。アスベストの恐ろしさを世の中にもっと訴えなくてはいけないと痛感した。

百合子さんは昭和59年の2月に一郎さんを失い、続けてその年、養魚場を隠退していた壬生川の実の父親も煙草の火のやけどで亡くした。

昭和60年には、長く勤めた西条の総合病院を定年退職されたそうだ。40年余の看護婦人生のピリオドを打ったかに見えたが一郎さんが亡くなった後、痴呆症状の出始めた一郎さんのお母さんが床に臥したので、そのまま自宅で一年あまり看護に当たった。桜の咲く季節に83歳で亡くなったそうだ。

そして、今でも献体に出ていく一郎さんの胸に貼られた無数の絆創膏の痛々しい白い印が脳裏に焼き付き離れない、と結んだ。

上甲一郎さんの一家が生きた戦後の生活は今と比べると物もなく貧しかったが、いたるところに空き地があり明るい青空の下に原っぱがあり、そしてそこには自由の風が吹いていた。社会はカオスのように流動し、新しい職業が生まれ、成功者達の伝説を生み出した。人々は直接的で多少乱暴であったが関係は分かりやすく、みんなで助け合って生きていける環境があった。上甲一郎さんの一家もそんな中で生きた典型的な戦後日本の労働者の核家族だった。

奥さんの入院日記を読むとベットの上で少し気分が良くなると、「はよう会社にいかんといけん」と繰り返し、早く復帰してみんなに迷惑を掛けないようにしないといけないという健気な気持ちが手にとるようにわかる。

家族のために黙々と働く父親、勉強しなさいなどと言わない母親がいて、子どもたちは学校の運動場と近所の原っぱで育った戦後の日本の多数者の生活の姿が浮かんだ。

上甲さんの死は、戦中戦後を通じて40年間、西条発電所一筋に捧げてきた人生の果ての死だった。

一日に昼と夜があるように上甲さんの生涯は、半分は会社での労働に捧げられ、後半分の晩年という個人的自由の天地を享受する時間を目前にして54才で切断された。

戻川陽一は直ぐに弁護士を通じ、四国電力と交渉して貰おうと判断し、松山の弁護士事務所に相談の電話をした。

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