隠された泉南アスベスト(石綿)、被害の現場を歩く 一 石綿のまち泉南小史 柚岡一禎

■戦争と石綿

日本における石綿紡織業は、日本アスベスト株式会社(現ニチアス)の創業者の一人栄屋誠貴が、1907(明治40)年に大阪府泉南郡北信達村(現在の大阪府泉南市)に石綿紡織工場を立ち上げたことをもって始まりとする。

栄屋が、明治の終わりに泉南で石綿紡織業を起こしたことには、合理的な理由があった。この地は、古くから綿花の栽培が盛んで、和泉木綿の名で商品生産された。明治~大正期には、足袋の底地に使われる紋羽(もんぱ)と呼ばれる厚手の木綿布を生産し、全国に流通した。その技術と生産手段は石綿紡織に応用でき、同時に熟練工も確保できた。ため池や用水路も整っていたので、動力源としての水車の利用も可能だった。原料である石綿原石の取扱港・堺に近いといった条件もそろっていた。ここに栄屋が目をつけた。

写真2-1 アスベストの原石と繊維

栄屋は、1912(大正元)年に工場を日本アスベストから譲り受けて独立し、栄屋石綿紡織所(後の株式会社栄屋石綿紡織所)を設立した。この栄屋石綿の創業を機に、日本における石綿紡織業は、大阪府、中でも泉南地域(現在の泉南市及び阪南市近辺,以下泉南と言う)を中心に発展していくことになる。ちなみに栄屋誠貴の妻は、筆者の祖父寿一の姉である。

第二次世界大戦敗戦まで日本の石綿産業は軍事需要に支えられて発展した。第一次世界大戦をきっかけとする艦船の建造量の増大・軍事や産業施設の拡張という軍備増強・産業拡大の動きの中で、石綿は、ボイラー、蒸気パイプ等の保温、冷却機の保冷や各種車両のブレーキなどに不可欠となった。

1917(大正6)年頃には、栄屋石綿は100人の職工を使用し総価格27万円を算するに至ったとある(泉南市史)。アンパンが二銭の時代であるから、現代の貨幣価値に換算すれば、13億5000万円の売上げがあったことになる。祖父は、1921(大正10)年、泉南市で柚岡石綿工場(後に弥栄石綿工業)を起した。当時はまだ、泉南郡管内の石綿業者は、栄屋石綿の他には二、三の工場があるだけだった。

太平洋戦争に突入すると、栄屋石綿が海軍省、鉄道省の指定工場になるなど、泉南地域の石綿工場は、軍需活況時代を迎え、軍部や軍用機製造会社等への製品納入に忙殺される。軍備増強・産業拡大の動きの中で、各方面の機械装置と整備に不可欠な素材として、石綿の需要は急伸した。また、ヨーロッパ海域でドイツ戦艦が出没し、アジア一帯にヨーロッパ産の石綿製品が出回りにくくなり、アジアの石綿市場を日本製品が席巻することになる。

筆者宅にあった古い写真が、泉南地域の石綿と軍需産業の深い結びつきを物語る(写真2-2)。アルバムを整理していた時に出てきたそれは、「石綿号」と名付けられた艦上攻撃機で、泉南の業者ら石綿業界の166団体が資金を出し合って海軍に献上したことが、後の調査で分かった。そこには、祖父や父の姿もある。

写真2-2 戦前、石綿業者が海軍に寄贈した艦上攻撃機「石綿号」

■高度成長を支える

第二次世界大戦後は、軍需向けがなくなったことやGHQにより原料の石綿が統制され、輸入が途絶えたこともあって、石綿関連業界は停滞期に入る。この頃、石綿紡織から特殊紡績(特紡、太糸紡績)に転換する動きが相次ぐ。石綿は、当時から体に悪い、汚いといった印象があったため、原料不足を機に石綿業を無理に続ける必然性はなくなった。石綿工場を引き継いでいた私の父も1945(昭和20)年終戦とともに廃業し、しばらくして毛布用糸製造の特殊紡績に転換している。

その後、不要になった石綿紡織の設備を、主に在日コリアンが安く譲り受け、阪南市を中心に小規模零細の石綿工場を立ち上げていく。少ない資金で、てっとり早く事業を始められるよい機会であった。栄屋石綿などは、原綿の輸入が止まった後も在庫品や屑綿を集め営業を続けた。国に原料輸入の再開を要請したこともあった。また、食糧増産の必要性から当時の化学肥料製造過程に不可欠だった電解隔膜用石綿布の需要が高まると、その生産を担う石綿紡織工場に優先的に原料石綿が割り当てられることになった。こうして、徐々に石綿の需要が回復していったのである(図表2-1)。

森裕之・アスベストと経済政策-戦前から高度成長期にかけて-;政策科学16-1,Oct 2008 より

戦前は、泉南地域の素封家が軍需に支えられて営んできた石綿紡織業だったが、戦後は、それに加えて在日コリアンを中心とした零細業者が参入し、民間需要に支えられて大いに発展する。

造船、自動車、冷暖房用器具などの民需向けの需要が高まり、石綿産業は再び活況期を迎えた。最盛期、泉南での石綿工場は、一貫工場(原料処理から糸・布帛(ふはく)までを一工場内で完結するもの)で70社、下請けや内職規模の小規模作業所まで含めると200以上(一説に300以上)あったと聞いている。

1970年代後半になると石綿関連の工場は徐々に減少していく。これは、1971(昭和46)年制定の特定化学物質障害予防規則(特化則)の対象に石綿が盛り込まれ、石綿工場に防じん装置を義務づける等の規制が厳しくなったこと、大口需要先の鉄鋼、造船の不況や、石綿建築資材の需要減少が原因と考えられる。泉南地域でも、新基準に合致する設備資金が不足したり、アジア・韓国産の安い石綿製品に押されるなどして石綿工場は次第に減っていく。

しかし全国的に見ると泉南地域の石綿工場の減り方は緩やかだったように思われる。一次加工品である石綿糸・布を扱っていたのがほぼ泉南地域だけという事情もあったのだろう。

それでも1980年代後半に入ると、泉南の石綿工場は急激に減少する。主にアジアからの輸入が増えたことが原因であったが、石綿だけでなく、綿紡績や特紡らこの地の繊維産業全体が衰退に向かう。地場産業の紡績工場は激減し、事業組合の解散が相次いだ。

1987(昭和62)年、廃業した業者が、石綿を大量に不法投棄して問題になった。2005(平成17)年には、泉南市、阪南市での石綿工場はわずか3社となり、現在では、泉南地域に石綿工場は存在しない。100年の歴史を終えたのである。

■日本の石綿産業の中心

高度成長期石綿糸・布の出荷割合は、大阪府が常に全国の半数以上を占めていた(図表2-2)。石綿糸・布の出荷高が大阪に次いで2位の長野県(1964〔昭和39〕年の全国出荷割合が15.2%)。ここにあった石綿糸・布の中核会社(平和石綿)は、すでに操業をやめているので、結局、石綿糸・布の大半は大阪府、それも泉南で生産していたと言って良いだろう。

森裕之・アスベストと経済政策-戦前から高度成長期にかけて-;政策科学16-1,Oct 2008 より

泉南地域が全国の石綿紡織業に占める事業所割合については、正確な資料で知ることはできない。高度成長期の大阪府環境農林水産部環境管理室事業所指導下の調査によれば、府内には約330の石綿取扱工場があり、うち大阪市内が100、泉南地域が100(現在の泉南市、阪南市)、他がその他市町村であると記載されている(南慎二郎・アスベスト産業の展開と労働災害の発生)。また、1987(昭和62)年の泉南市の統計資料には、泉南地域における石綿関係工場件数は83となっている。

しかし問屋的存在や単なる扱い商社も石綿工場の範疇に入れている可能性があるので、純粋の石綿工場のほとんどは泉南地域、とくに泉南市と阪南市に集中していたと言っても過言ではないし、調査した我々の実感でもある。

三好石綿などは、ブレーキライニング(石綿紡織品の加工製品)も製造していた。自動車産業の発展と共に需要が増え、三好石綿は、1960年代終わり頃には従来の石綿紡織をやめて、ブレーキライニングなど自動車部品の製造に転換した。三好ブランドで海外にも進出したと聞いている。

■「石綿村」と呼ばれる地区も

泉南地域の石綿工場は、比較的規模の大きい栄屋石綿(最盛期従業員約60)や三好石綿(三菱マテリアル建材株式会社・約160。2015年10月に株式会社エム・エム・ケイに社名変更し、建材事業をアイカ工業株式会社に譲渡。)を除けば、概ね小規模零細だった。従業員規模としては、経営者一族を入れても20人程度が大半で、10名以下という家内工業程度のものも多かった。これら小規模零細工場が狭い地域に胡麻を撒いたように点在、「石綿村(いしわたむら)」と俗称されていた。(図表2-3)。

図表2-4は、「泉南地域の石綿被害と市民の会」の調査で判明した、最盛期の石綿工場(廃業含む)の分布図である。2009(平成21)年4月以降、新たに24か所が見つかった。会社名が分かっても所在地が不明な工場や家内業・内職などはプロットされていない。

泉南地域では、石綿紡織工場を中核として、下請、家内業、内職、それに出入り業者、原綿や石綿製品の運送、機械の設置、修理、解体撤去を行う鉄工所、動力の取り付けや配線を行う電気工事などが互いに絡み合って、地場産業としての石綿業を形成していたのである。

泉南地域における石綿工場の従事者が、どの時期に何人ぐらい居たかについては、工場数の実態以上に正確なことが把めない。大阪労働基準局が作成した「石綿取り扱い事業場における衛生管理に関する基礎調査実施結果について」は、1968(昭和43)年度に泉南地域を中心として行った調査の結果を記載したものであるが、「石綿製品製造事業場においては、……成年男子が1006名で……、女子は584名……。18才未満の年少者(男、女)は……40名であり」とされている。

大阪府泉佐野保健所尾崎支所の「60年の軌跡」には、泉南地域の石綿工場について、最盛期には「約2000人が就労していた」と記載されている。

工場数や従業員数について断片的な資料しかないこと自体、国や自治体が石綿産業の実態を正確に把握することを怠っていたことの表れであり、石綿に対する無策を証明するものと言える。加えて戦後は、工場経営者や従業員に在日コリアンの割合が大であったことが、工場の立ち入り検査や統計調査を躊躇させ、対象から外れ(外し?)勝ちになったことも否定できないだろう。

目次 >二 石綿糸・布ができるまで