隠された泉南アスベスト(石綿)、被害の現場を歩く 四 黙殺された告発 柚岡一禎

■国は戦前から被害を把握

泉南では早くから石綿による健康被害が広がっていた。このことは、1937(昭和12)年から1940(昭和15)年にかけて行われた内務省の保険院調査によって明らかになっている。調査対象である石綿紡織所・石綿工場19工場、1024人(報告対象は14工場、689人)のうち、当時の大阪府泉南郡(現在の泉南市・阪南市を含む地域)信達村と樽井村所在の工場は11工場、406人と多数を占めている。泉南地域の石綿被害の実態を明らかにした大規模な調査であった(写真2-12)。70年も前に国がこのような調査を行っていたことを、筆者はこの裁判に関わって初めて知り、心底驚いている。

写真2-12 内務省保険院の調査報告書

調査の結果、石綿肺罹患率は12.3%、勤続年数が長くなるとともに罹患率が増加し、勤続年数20年を超えると100%の罹患率と報告されている。栄屋石綿の操業から30年のこの時点で、すでに相当の被害が出ていたのである。これらは正しく泉南地域の労働者の実態であるにもかかわらず、当の労働者には事の重大性が知らされていなかった。

ちなみに、保険院調査報告書の「臨床所見一覧表」によれば、朴、金、蘇、姜など朝鮮・韓国姓がいくつも見られる。戦前日本統治下にあった朝鮮半島から徴用工として泉南に来た人たちだ。終戦と同時に帰国した人も多かったのだろうが、一部は戦後も当地にとどまり日本社会で共に生きたと思われる。残念ながらこの方面の調査は進んでいない。

■医師たちの警告

戦後は、泉南市にあった国立療養所大阪厚生園(1959〔昭和34〕年に堺市に移転し、国立療養所近畿中央病院に名称変更、現在の近畿中央胸部疾患センター)の院長であった瀬良良澄医師が多くの石綿肺患者を診療し、石綿工場の調査を何度も行った。

1957(昭和32)年の労働省労働衛生試験研究「石綿肺の診断基準に関する研究」の一環として行われた調査では、泉南全地域及び大阪の2工場を含む32工場、814人に対して検診を行い、88人(10.8%)の石綿肺患者を確認したとされている。保険院調査の結果と同様、勤務年数20年以上の労働者の石綿肺罹患率は100%であった。

瀬良医師は、その後も1972(昭和47)年までに泉南地域を中心に累計2622人もの労働者を対象に石綿肺検診を行い、いずれも10%を超える石綿肺の罹患を報告している。

筆者は、瀬良医師の後輩である姜健栄医師にお会いしたことがある。姜医師は、1972(昭和47)年から1978(昭和53)年にかけて近畿中央病院に勤務し、石綿疾患の研究をされた。お会いした際、当時の劣悪な労働環境や、石綿肺患者を訪問した時の話を伺った。自宅に石綿紡織用の機織り機が無造作に置かれていて驚いたそうだ。

姜医師は、その著書『アスベスト公害と癌発生』の中で次のように述べている。「1970年の初め頃、石綿作業場内の環境汚染は劣悪なものであった。石綿粉じんが飛散し工場内は雲に覆われたようで前がよく見えず、労働者の眉毛、鼻孔にまで白い粉じんが堆積していた。またこの病院(筆者注:近畿中央病院)に収容された石綿肺患者の99%は肺繊維症による呼吸不全で早死にするか、後に肺癌や悪性中皮腫を合併して死んでいった。たとえ石綿Ⅰ型の軽症患者でもこの病気の進行をくいとめることはできなかった」

泉南市信達牧野には、1953(昭和28)年頃から約40年間、町医者を開業し、石綿の危険性を警告し続けた梶本政治医師がいた。

梶本医師は、医院や患者宅での診察の傍ら、海外から石綿関係の医学文献等を収集し、近畿中央病院の瀬良医師の下に足繁く出入りして、石綿疾患を研究した。単に研究にとどまらず、石綿工場に押しかけては経営者や従業員に石綿の危険性を説き、自ら作成した「石綿公害」と題するチラシを配って歩いた。

ある工場には集じん機をつけさせた。また別の工場では経営者から突き飛ばされ追い返されることもあった。地元で「石綿きちがい」と言われ変人扱いされていたことを、筆者も知っている。彼の遺した資料には、「公害産業の規制を適用できるはず」と石綿を放置している国の無策を怒り、「一万枚印刷して、国や自治体、研究者などにも郵送したが反応がない」などと、嘆く記述もある。

梶本医師は1994(平成6)年に亡くなったが、長男の梶本逸雄は父の遺志を受け継ぎ、筆者たちと共に石綿被害廃絶の活動をつづけている。

昭和40(1960)年代以降、岸和田労基署が何度も石綿工場の実態調査をしていたことが情報公開によって明らかになった。当時の担当官は「驚くべき疾病発生状況を示している」と語る。1955(昭和30)年から1998(平成10)年までの統計資料によると、石綿紡織業における死亡者は、累計で150名、要療養者(管理4又は合併症)は198名であり、昭和50年代の死亡者・要療養者の合計は毎年10数名から20数名、平成に入ってからの10年間だけでも死亡者は合計40名に上る(岸和田労基署資料)。この統計資料の後10年を経た現在までには、さらに多くの死亡者が出たことは間違いない。

業者原告の中に、岸和田労基署の監督を受けた者もいたが、石綿の危険性を十分認識できていなかった。岸和田労基署の資料によれば、1989(平成元)年においてすら、「防塵マスクを装着していない労働者もあり、指摘したところ、労働者・事業主とも、私ら石綿に対する免疫があります……石綿の弊害を煙草程度としか見ていない実態があり、有害性・発がん性等について、行政が具体的に広報する必要あり」という状況であった(同右)。

■新聞報道でも

泉南地域の石綿健康被害がいかに深刻であったか、ということは1950年代後半の新聞報道からも垣間見ることができる(写真2-13)。

写真2-13 泉南地域の石綿健康被害を報じる新聞記事

1958(昭和33)年12月の朝日新聞は、国立療養所大阪厚生園の指導で行った同年の石綿工場25工場の従業員の健康診断の結果、19%が石綿肺に冒されていると報じている。

1959(昭和34)年10月の産業経済新聞では、石綿肺で入通院中の高橋隆治・モトエ夫婦の状況と、「石綿業の工員にはむかしから肺病や肋膜で死ぬ人が多かった。現に工員をずっとしてきた人で60年配で生きているのは隆治さんぐらいという。これは石綿が悪いのではないか、ということが注目されて厚生園長の瀬良博士が指導した」として814人の調査結果を紹介している。

この記事は、じん肺法の制定を前にして、「石綿肺の悲しい歴史はもう終わろうとしている。……法律が工員たちを保護するのももうすぐのことだろう」と締めくくっている。しかし、現実はちがった。じん肺法の制定後も被害は増え続けた。

1970(昭和45)年11月の朝日新聞は、泉南地域の石綿紡織工場の従業員の肺がん患者8人のうち6人が死亡したことを大きく報じている。約40年前の記事だが、「石綿粉じんの発がん性や、これによる大気汚染の危険は、海外で早くから指摘されていた」とあり、まるでつい最近の新聞報道かと錯覚するほどである。

思いのほか古くから、石綿が健康被害をもたらす(もたらしている)ことに警鐘を鳴らした研究や報告があった。このことを、筆者は市民の会の活動を始めて後に知って、驚くことばかりであった。事実を視、国や行政が対策を取っていたなら、今のような、あるいはこれから生ずるであろう石綿被害は防げたはずである。

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