泉南アスベスト国家賠償訴訟:第二陣大阪高裁判決(2013.12.25)、最高裁へ/ 判決前日から上告後における 一支援者がみてきたもの

澤田慎一郎(全国労働安全衛生センター連絡会議 事務局次長)

大阪高等裁判所第13民事部は大阪・泉南アスベスト訴訟第2陣訴訟において、国の責任を認定し、原告に対して3億4474万円の支払いを命じる判決を言い渡した。判決後に政府は上告して、第1陣訴訟とあわせて最高裁に係属することとなった。判決の内容に触れることはもちろんであるが、判決の詳細を知りたい方は判決骨子・要旨をご覧いただきたい。
判決内容の若干の解説をするが、判決前日から国が上告した数日後までの状況を、筆者の視点から振り返る。

判決前夜こぼれ話

判決を明日に控えた2013年12月24日。

筆者は翌日も東京にいる予定であったので、その日も安全センターの事務所にいた。泉南アスベスト訴訟の過去3回の判決においては弁護団で事前に判決予想がなされているが、予想段階で有力視された内容がそのまま判決で出たというのはほとんどなかったはずである。

ましてや、第1陣訴訟大阪高裁判決の内容などはほとんど予想されていなかった。そういう意味では、裁判所の対応から今回は「勝ちそうだ」という予想を聞いていたのではあるが、いろいろな方から判決予想を聞かれても、「どうなんでしょう。まったくわかりません」と答えていた。しかし内心では、「負けはないだろう」と思いつつ、第1陣訴訟大阪高裁で歴史に残る三浦判決を経験していたので、万が一のときのために高まる期待を抑えてもいた。

そんな中で、明日の判決をあとは寝て待つだけとなり、家に帰ろうと思っていたときに弁護団の一人から電話があった。
弁護団は判決前日も会議を持ち、当日の流れなどの確認をし、それが終わってからの電話であった。判決時に東京でも、大阪と同時並行的に厚生労働省前で集会をするので、その簡単な最終の打ち合わせのためであった。

電話の最中、「聞いた?裁判所に遺影の持込みを連絡したら書記官が、『遺影を武器にしたり、投げたりしませんよね?』と聞いてきたって」と言われた。裁判所に遺族が遺影を持ち込む際は、事前連絡をするというルールにこの裁判はなっている。これをどう受け取ってよいのかという話をしたが、わからないまま電話を切り、筆者の胸の内はソワソワしはじめた。

「武器にしたり、投げるというのは原告敗訴の判決を言い渡すから、その時に不測の事態にならないですよね?という念押しだったのではないか。いや、勝訴を受けて原告団がそれまでの怒りを国側代理人たちにぶつける意味で遺影が投げられることを心配しているんだろう」。

やや強引な解釈をしつつ、不安と自信を往復させたが、酒でも飲まねば寝られないと思い、家に帰って一人酒をしていたが、あまり酔いもまわらず、寝付けたのは午前3時ほどになってしまったと記憶している。

結局、これは杞憂であったのだが、その書記官の発言の真意は何だったのかというのは謎に包まれたままだ。書記官が誤解を受けないように補足しておけば、訴訟進行や判決後の書類の受け渡しの関係では非常に丁寧な対応を原告側にしてくれたと聞いている。

原告団の多くは当日、バスで裁判所に向かったのだが、その車内で長年にわたって原告の支援をしている泉南地域の石綿被害と市民の会代表である柚岡一禎氏から原告団に対し、「もし遺影を投げるのであれば中の写真は抜くように」との伝令があったという。

判決当日

25日は14時に判決言い渡しであった。筆者は厚生労働省前の集会のために支援に来てくださっていた東京土建の宣伝カーの中にいたが、勝訴の一報は弁護団が受けたメールで確認した。束の間の喜びはあったが、一方で、この判決を受けて政治がどのように動くだろうかという思いを強くもっていた。

判決を受けて、集会の参集者に送られるかたちで、原告団と弁護団は厚生労働大臣との面談を求めて、要請書の提出と事務方との30分ほどの面談に向かったが、翌日、厚生労働省から大臣との面談には応じられないという連絡があった。

厚生労働前での集会のあと、判決を受けての報告集会が衆議院議員会館で開催された。集会には自民党の佐田玄一郎議員や同桜井宏議員、野党では民主党の近藤昭一議員や地元泉南の国会議員で日本維新の会の丸山穂高議員など、その他超党派の議員が参加した。集会後、近藤昭一議員を中心に、野党8党の代表者と無所属議員(民主・近藤昭一、維新・丸山穂高、みんな・杉本和巳、共産・山下よしき、生活・小宮山泰子、社民・福島みずほ、結い・川田龍平、大地・鈴木貴子、無・阿部とも子)の連名による早期解決を求める厚生労働大臣宛の申し入れ書が、議員会館内で労働基準局安全衛生部長に渡された。

提出メンバーの一部はそのまま厚生労働省に移動して記者クラブで会見をし、判決前から上京していた原告の佐藤美代子さんや川崎武次さんと弁護団が引き続いて会見をした。

会見が終わったのは6時前後になっていたかと思うが、携帯電話に柚岡氏からの着信履歴があった。電話をかけ直すと、涙声で、「ありがとう。よかった。赤松さんもよかった」という趣旨の言葉があり、短時間ではあったが勝訴の喜びを分かち合った。

原告の赤松タエさんは、亡き夫である四郎さんの跡を継いで原告となっていた。
四郎さんは、第2陣地裁判決後に野田総理と小宮山厚生労働大臣へ宛てた手紙の中で、「僕の命は1週間か10日もったらいい方だと思う。解決を見届けて死にたいです」と書いた。彼はその直後、意識不明に陥り生死をさまよったが、なんとか一命を取り留めた。しかし、数か月後に旅立っていった。第2陣地裁判決では、彼の就労期間が裁判所が認定した国の違法時期外にあったために請求が棄却された。

彼と担当弁護士の交流を描いたドキュメンタリー作品の「おじいちゃんの遺言~あんたとボクの人生最後の3か月~」をご覧いただければわかるが、彼は自分の請求が棄却されたのが裁判所での意見陳述が上手くなかったこと(主観として彼がそう思っていた)やあまり出廷しなかったこと(裁判所に行ける体力ではなかったのである)に原因があると思っていた。今回の判決では国の違法時期が広げられたので、赤松さんの請求も認定された。

会見後、筆者は原告たちと別れ、新宿御苑にある公害センターの事務所に向かった。判決を受けて上京して来る大阪組を待つ間、近くのイタリア料理店で弁護団や支援者らと、とりあえずの祝杯をあげた。

そこの店に行って初めて、「そういえば今日はクリスマスか」と店の雰囲気や周りの客の様子をみて実感した。しばらくして、大阪組が東京に着き、判決を受けての会議が予定されていたのだが、勝訴したのでとくに議論があるというわけでもなく、ほどなくして二度目の祝杯に向かった。

判決の内容

今回の判決は、第1陣訴訟とあわせると泉南アスベスト訴訟の四度目の判決であった。これまでの判決と比較し、今回の判決に触れようと思う。

この表は、今回の判決を含め、これまでの判決における大枠での評価の違いをまとめたものである。今回の判決は原告側の「勝訴」ではあるが、裁判にはどの程度の勝ちであったのかという濃密さの問題がある。各論点ごとに判決の内容に触れていく。

国・違法の認定期間

まず、国の違法性がどこから始まったかについてであるが、原告全面敗訴の第1陣高裁を除いて、これまではじん肺法制定の1960年に局所排気装置の設置義務付けをしなかった時点からとされていたが、今回の判決では、1954年から労働省が行った全国の石綿紡織工場での調査を受けて、労働省が局所排気装置の設置を指導する通達を発した1958年からとした。

第1陣原告の中には1960年以前に就労を終えているものがおり、その点で実質的に意味がある。

次に、国の違法性がいつ終わったかである。上記違法性については、1971年に労働基準法に基づく特定化学物質障害予防規則(旧特化則)の制定で義務付けられたので終了となるが、別の論点によって違法性の連続性が指摘された。

第1陣地裁では、1972年の労働安全衛生法の施行に伴って再制定された特定化学物質等障害予防規則(特化則)において、工場内の粉じんの濃度測定の義務付けと、その結果報告を義務付けなかったことを違法とした(違法の終了時点は具体的に示されなかった)。

一方で、第2陣地裁では1971年の旧特化則制定以降の違法性はないとしていた。

今回の判決では、特化則によって防じんマスクの使用義務付けと石綿関連疾患に対応した特別安全教育を義務付けなかった点を指摘し、前者が義務付けられた1995年まで違法性があるとした(なお、後者が義務付けられたのは2005年に制定された石綿障害予防規則においてである)。本件訴訟原告の中には、特化則制定以後に石綿工場で働いた者もおり、その点で大きな論点であった。

国の責任割合

以上の違法性を踏まえて、第1陣地裁では国と事業者による共同不法行為として国にすべての責任を負わせ(泉南地域では事業者の多くが廃業しているため)、第2陣地裁では一次的な責任を事業者とした上で国の責任を3分の1とした。

今回の判決でも、国の責任の位置づけは事業者に次ぐものとしたものの、裁判所は国の違法に至る不合理な対応の重層性などを考慮したと考えられ、責任の割合を2分の1とした。

立入業者に対する国の責任など

また、第2陣訴訟では、運送業者として石綿工場に出入りしていた被害者の損害についても論点となっていたが、地裁判決に引き続いて国の責任が認定された。他に、第1陣地裁では事業主経験者、第2陣地裁では労災受給者、両地裁では喫煙歴のある肺がん罹患者が減額の対象となっていたが、今回の判決ではそれらについては減額対象とはしなかった。逆に、これまでの判決で判示された各疾病の基準慰謝額を100万円ずつ増額させた。

禰占(ねじめ)マスさんの死

判決日の夜から原告団の一部は上京し、翌日から厚生労働省前や首相官邸前で上告断念を求めて行動をしていた。

判決から2日後の金曜日の夜に、第1陣訴訟の患者原告であり、第2陣訴訟では亡くなった夫の遺族としての原告でもあった禰占マスさんが亡くなったとの連絡があった。筆者は、原告の山田カヨミさん・哲也さん親子、武村絹代さんと、ドキュメンタリー映画監督の原一男氏が原告の運動用に制作した映画の上映会とトークショーが東中野の映画館であり、それに参加していた。連絡があったのは、それらが終了してそこを去ろうとしていたときであった。

知らせを聞いた筆者は、某国会議員の秘書に電話をかけ、そのことを伝えた。先方は「そうですか…わかりました」とそれ以上の言葉はほとんどなかったと思うが、この事態を真剣に受け止めてくれていることは電話越しからでもわかった。とにかくこの事実を伝えれば、何かが変わるかもしれないと思った。

筆者は禰占さんとはお会いしたことはないが、以下は後日、柚岡氏から聞いた話である。

禰占さんは夫とともに阪南市のいくつかの石綿工場で30年間働いた。基本的に男性が担当する混綿という作業もしていたようだ。2005年のクボタ事件後に泉南市で、柚岡氏が代表を務める前述の市民団体などが健康相談会を実施した際に、他人に連れられて相談会場を訪ねてきたという。

「前にお父ちゃん死んだし、わたしも心配になって…」と、下を向いたまま聞こえないくらい小さな声で話していたという。ほどなく石綿肺の症状が悪化し、闘病生活に入ったという。寡黙で自分からほとんどものを言わなかった性格の方だったそうだ。

思い返せば、第1陣大阪高裁判決があった2011年8月25日にも、原告の原田モツさんが亡くなっている。
記憶がやや曖昧であるが、原一男監督の『命てなんぼなん?』の中では、当日の判決直前に娘の武村絹代さんが、「身を持って、早く解決してほしいと訴えたんだと思う」という趣旨のことを話していたと思う。原田モツさんとは生前に一度だけ、お会いしたことがある。岸和田のご自宅に、同居する武村さんが招いてくださり、同じく岸和田在住の原告である蓑田努さんと訪問した。筆者は蓑田さんとモツさんが話をしているのを聞いているのがほとんどであったが、物静かで穏やかな方だったという印象が残っている。

現在では蓑田さんも体調が芳しくないようで、外出もあまりできないようである。モツさんと面会したあとに、蓑田さんとお連れ合いには牛滝温泉に連れて行ってもらい楽しい時間を共有させて頂いたが、あの時のような元気な姿を取り戻してほしいと思う。

原田モツさんと禰占マスさんが亡くなったのが、ともに訴訟における重要な時期であったのは偶然であったかもしれないが、簡単に言葉では言い尽くせない不思議なものを感じる。筆者は知らせを受け、神妙な面持ちの中、トークショーに参加した原告団メンバーと翌日の原告団総会に向けて大阪へ向かった。

原告団総会に向かう中で

12月28日、泉南市の樽井公民館で判決後はじめての原告団総会が開催された。原告団総会の様子がどのようなものだったのかお伝えしたいところだが、筆者は総会の終盤に会場に到着した。

というのも、判決が出され、あとは政府が上告断念の決断をするだけであったが、あまり期待の持てる状況ではなかった。何かできることはないだろうかと総会の会場に向かう途中で考えていたが、思いつきではあるが、厚生労働副大臣の佐藤茂樹議員の事務所が大阪市内にあるので、手紙を書いて事務所に届けようと思った。

南海線の天下茶屋駅で急ごしらえで手紙を書いて、事務所に持っていった。しかし、年末の土曜日ということもあって誰もおらず、とりあえずポストに入れて帰ってきた。それがどのように扱われたかは私の知るところではない。

実はそれ以前、10月31日に田村厚生労働大臣にも手紙を書いて渡している。これは本人に直接である。田村大臣は私の通う千葉大学のOBである。その関係もあり、秋の大学祭に記念講演をしに来るということを聞きつけた。講演のある大学内の会場の前で大臣が来るのを待っていると、学長をはじめとする大学関係者や大臣の秘書のような方も含めて10数名で会場に向かって歩いて来たところを大臣めがけて歩いていき、陳情書とか要望書というのも場の雰囲気に合わないので、「ファンレターです」と言って本人に渡した。しかし、筆者の稚拙な文章では、やはり上告を断念を決断させるまでの説得的な力がなかったのだろう。残念な思いとともに、力量の不足を悔やむところである。

筆者が原告団総会に到着したのと入れ替えで、原告の井上國雄さんが体調を悪くして退席するところであった。数年前、岸和田にある井上さんの自宅には何度もお伺いして、石綿工場を経営していたときの話を聞かせてもらい、そのときは非常に元気であったが、現在は車椅子での生活となっている。

総会が終わって、原告の原まゆみさんに声をかけられた。彼女は第1陣地裁判決後の政府に控訴断念を求めた東京での行動には参加していたが、今は体調の関係で上京は困難となっている。彼女にとってはじめて東京に来たのがその行動であった。厚生労働省の前で、雨の降る中、そびえ立つビルを見上げて訴えをしていた様子は今でも記憶に残っている。

2012年2月、岡田春美さんが亡くなり、その告別式後に彼女も含め、他の原告と簡単な食事をしたのだが、別れ際に「また会いましょうね」と声をかけてもらった。彼女は特別に何かの思いをそこに込めていたわけではないと思うが、筆者としては岡田春美さんが亡くなった直後ということもあり、誌面上で書くのは不謹慎かもしれないが、「原さんともあと何度会えるかな…」と複雑な感情を抱いた。幸い、あれから2年近くが経ち、彼女が大きく体調を崩しているわけではないが、総会終了後に声をかけてもらった時には、少し痩せたような印象を持ち、不安な気持ちになった。

内閣総理大臣への建白書

1月4日か5日のことだったと思うが、柚岡氏から電話があり、「建白書を官邸に持って行こうと思うから一緒に来てほしい」という趣旨の内容で連絡があった。

どうやら弁護団には何も伝えないで、原告団以外は柚岡氏と岸和田在住の支援者である中村千恵子さん、原一男監督の撮影班、筆者だけであった。原告では南和子さん、湖山幸子さん、満田ヨリ子さん、藤本幸治さんがいた。10時半過ぎに国会議事堂前駅に集合した。

駅を出て、首相官邸側の歩道へ渡り、10数メートル先の官邸入口に向かおうとすると、警備の警察官に止められた。建白書を持参したので首相に届けに来た旨を伝えると、官邸職員で警備主任の植田さんという方が出てきた。

「今までこのような前例がないので」という返事に対し、「上告期限が迫る中で日にちがないから直接訴えにきた」という原告団とのやりとりが、植田氏が上司に対応を確認するための連絡も含めて約1時間にも及んだ。結局、道路を挟んで向かいの建物に入っている内閣府へ持っていってほしいと、通常どおりの対応をするように言い続けられ、内閣官房へと持っていくことにした。植田氏は原告団を内閣府の受付まで案内すると、ひっそりと早足で官邸へ戻っていった。

内閣府に行ったはよいが、ここでも担当の市村さんから「首相のお部屋に持っていくには2日くらいかかります」と言われたので、「それでは遅い」、「首相がちゃんと目を通すのですか?」といったやりとりをしたが、「緊急事情を考慮し可能な限り速やかに官邸に届ける」ということで決着した。

それでも収まりが悪かったので、再び官邸前に行き、植田氏を呼んだところ、いないというので上司の安原さんという方が出てきた。彼とも上記のようなやりとりをし、最後は柚岡氏が内閣府に提出した建白書の写しを読み上げ、内容を首相に近いしかるべき人物に伝えるようにお願いした。

建白書は、「裁判を起こして以来7年有余が経過しました。小さな原告団ではありますが、この間に13人が死亡、生存者は半数を切りました。残る患者原告も日に日に病状が進む中で、苦境に耐えています。「一部不満は残るが、なんとか生きているうちに確定判決をいただきたい」というのが、原告と家族に共通した願いであります」と結ばれている。

国の上告

原告団の上告断念を求める行動も虚しく、1月7日午前の厚労大臣定例記者会見で、田村大臣は「被害者の方々の御心情というものはわれわれも理解をする」としつつも、「第1陣と第2陣の同じ高裁での判決があまりに違って」いるとし、「上訴をせざるを得ない」として上告の方針を示し、その日の午後には正式に上告した。

大量のアスベスト粉じんで数メートル先にいた同僚の顔がはっきりと見えなかったという環境の中、各原告がさまざま背景を抱えて泉南の工場で働いた。

例えば前述の、原田モツさんと禰占マスさんは、鹿児島から泉南の地に出てきて働いた方々のうちの一人である。島根県隠岐島からも多くの方々が働きに来ていた。原告の石川チウ子さんはその一人で、患者原告の中では唯一東京での行動に参加できるが、日々の症状の変化やまわりの原告が死亡していく状況の中、常に不安を抱えて生活している。

昨年の夏にも原告が亡くなっている。彼は、2005年以降に泉南での被害者救済の取り組みがはじまり、労災認定されるようになるまで生活保護を受給していた。いつ会っても優しい笑顔が絶えない方であったが、誰に看取られることもなく、死亡から数日後に腐敗が進んだ状態で発見された。

また、戦前の10代前半から工場で働いていた、朝鮮半島にルーツを持つ原告もいる。彼は酸素吸入器をつけながら療養しているが、数年前には比較的外出できていたものが今では少し困難になっている。彼の両親も兄弟も石綿作業が原因で亡くなっている。戦前に行われた国の健康調査の報告書をみても、朝鮮半島にルーツを持つ者が多数いたことがわかる。

このような個々人が抱えてきた、そして抱えている生の中での思いにどれだけの理解を示して今回の決定に至ったのであろうか。そして国が重ねてきた違法性を十分に認識していたのだろうか。今回の判決は、原告・被告双方が第1陣高裁判決時とは違い、質・量ともに高い水準の証拠を積み上げた上で出されたものであるという点も指摘しておきたい。

しかし、粗悪な原告逆転敗訴の第1陣高裁判決を持ち出し、「あまりにも開きが、同じ高裁の中でございますので、われわれとしては、上訴、上告をせざるを得ない」という大臣の言葉からは不安を感じずにはいられない。

厚生労働省前で上告断念を求めていた原告団も、その知らせを聞いて肩の力を落としていた。

原告の湖山幸子さんが、「なんで上告されたんやろ?」と筆者に聞いてきた。正直なところ、国の上告はある意味においては常識の範囲内の対応であり、弁護団や支援者も想定をしていたわけではあるが、原告の中には今回の判決を受けて国が上告を断念してくれるのではないかと信じている方もいた(もちろん弁護団も支援者も、その常識をなんとか覆せないかということで活動していた)。

被害者として、ある意味では素直で、自然な思いだろう。しかし、原告たちは、役所の論理や裁判闘争の論理ではなく、自分の思いに素直に向き合い、それをできる限りの人に伝えてきた。だから、その思いがなぜ受け止められなかったのか、という気持ちになったのだろう。

湖山さんの問いに対しては、厚生労働大臣に被害を理解する力が欠けている、と言うこともできたかもしれない。しかし突き詰めれば、原告側が大臣を含めた意思決定権のある政府関係者を説得できなかったということでもあり、その中における筆者の力量不足も否めない。湖山さんには「なんでですかねぇ?」と答えるので精一杯だった。

それから一週間ほど後、泉南を訪れた。しばらくお会いしていなかった原告に会いに行った。彼は数年前から、仲間の原告が亡くなると「次はわしの番や」と言っていたが、酸素吸入器をつけながら奮闘を続けている。彼が通院している病院に行って会ったのであるが、その日の体調の良さもあったのかもしれないが、想像していたよりは元気そうで何よりであった。最高裁の判断がいつ出るかと聞かれたが、筆者はもちろんのこと、弁護団にもわからないことであったので大した返答もできなかった。

今後の司法・行政・立法における役割

第1陣とあわせて、第2陣も最高裁の判断を待つ状況となった。

先行して最高裁に係属していた第1陣訴訟との関係で、最高裁がどのような手続きを行うのかについては原告側代理人の中でも議論があるので、判断時期等の見通しについては何も確定していない。司法においては最高裁の判断を待つだけとなったが、「工業発展及び産業社会の発展を著しく阻害するだけでなく、労働者の職場自体を奪うことにもなりかねない」という立場の第1陣高裁判決を支持していくのか、行政の規制を「生命、身体に対する危害を防止し、その健康を確保することを主要な目的として、できる限り速やかに、技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正すべく、適時にかつ適切に行使されるべきものである」とする第2陣高裁の立場を支持していくのか、今後の司法の姿勢を見守っていく上でも重要な判断になるだろう。

しかし、今回の判決でもあったように、「原告勝訴」の判決であっても、死後から提訴に至るまで20年を経過しているという理由で除斥となって請求権がないとされた原告や、第1陣地裁・高裁で敗訴した近隣ばく露等の労働者以外の被害など、仮に今回の判決が確定していた場合には政治救済も視野に入れた対応が必要となってくる被害者もおり、最高裁の判断の如何によっては重要な課題となる。

加えて、前述のように、泉南地域の石綿紡織工場で働きながら裁判をしていない被害者が泉南地域はおろか、島根や鹿児島などにいる。その被害者たちの救済にも対応していくことが求められていくだろう。間違っても、その責任を再び司法に押し付けてはならない。

また行政としても、水俣病事件のように再三、最高裁の判断を受けてもなお、積極的な救済に乗り出さない姿勢を本件についても繰り返すことは避け、原告の後ろにいる泉南地域の被害者の救済も求められていることを忘れないでほしい。2014年1月24日付の川田龍平議員が提出した「大阪・泉南アスベスト訴訟第二陣訴訟の判決及び上告に関する質問主意書」では、泉南地域の被害の実態を政府が明らかにするように求めている質問事項があるが、「『アスベスト被害者』が具体的に何を指すのか明らかでない」といった政府答弁では今後が不安である。

おわりに

原告団は、2月中旬に慰労も兼ねて弁護団や支援者と日帰り温泉に行く計画もしていたようであるが、解決に向けて再度、一致団結しなければいけないということで、勝利解決を目指す集会に衣替えしたという。個人的には、温泉でもよいとは思うが、集会が解決に一歩でも近づくものになることを期待したい。

今回の判決は、自公政権になってはじめてのものであった。2010年5月19日の第1陣地裁判決以来、本誌でも何度か報告している。政権が変わってはじめて、本件におけるそれぞれの政権下における良い点と悪い点が少しみえてきた。国会議員が入れ替わり、残念ながら本件に尽力してくださっていた方々の中に落選してしまった方もいる。あらためて、そのような奮闘をしてくださった方々のありがたさも再確認できた。また、幸いなことに秘書の中には、雇用主を替えて居残っていたりする方もいたので心強い面もあった。

一方で、今回は政権交代以前にはほとんど面識のなかった議員さんやその秘書の方にご尽力いただくこともあった。ほぼ飛び込みで協力をお願いしたにも関わらず、解決に向けての方策に関する助言をくださった方もいる。

国の上告発表があった日に、原告の南和子さんと満田ヨリ子さんと御礼も含めて議員会館の部屋にうかがった際、彼女たちの切実な思いを正面から受け止めてくださった与党の秘書の方もいる。議員さんや秘書の方の中には、立場上の関係で政府と原告の挟み撃ちに合ってしまった方もいるが、ご尽力していただいたこと、原告の思いを真剣に汲み取ってくださったことは決して忘れない。今後も引き続いてご支援してくださることを望みたい。

判決時から国の上告を受けての原告の会見までがいくつか動画資料として記録されている。一部、有料のものもあるが、「泉南アスベストUSTREAM」や「泉南アスベストIWJ」で検索していただければ出てくるので、機会があればご覧いただきたい。また、メールマガジンで定期的に原告の動きなどについて情報発信をするのでご関心のある方は「大阪泉南アスベスト勝たせる会」のホームページから登録をお願いしたい。

安全センター情報20014年3月号