労研の協力を得て腰痛調査/塩沢美代子

本稿は、故塩沢美代子氏が安全センター情報に連載した中で、労働組合専従として職場の腰痛調査にかかわったときの記述だ。腰痛と仕事との因果関係、疾病と仕事との因果関係を調べようとするときの良い参考になると思う。「予防のため定期検診」といった大事なキーワードも含まれている。労働組合の安全衛生活動の大切さを感じる。

語りつぎたいことー日本とアジアの片隅から(連載29回)

冷蔵庫勤務者に多発

大洋漁業労組で働いたのは4年余りだったが、さまざまな活動の記憶がぎっしりつまっている。しかし先を急ぐので、本誌に関りの深いテーマにしぼろう。
それは労働科学研究所の協力をえて行った、腰痛に関する調査である。

これは冷蔵庫勤務者に多発している腰痛症に対して、組合として調査し対策をとるようにという、現場からの問題提起ではじまった。
しかし腰痛は、冷蔵庫勤務者に限らず、年令はじめさまざまな要因で起る症状であり、仕事との因果関係はわかりにくい。したがって、これを職業病として、会社に保障を求めていくには、きわめて科学的な観察が必要と考えられた。それで私が、かつて製糸労働者の疲労調査をしていただいた、労研に相談にいった。疲労調査のときの医学的な手法を思いだしながら、この場合はどんな方法があるのだろうと考えていた私は、斉藤所長と肝付(きもつき)研究員の指導を受け、”なるほど、こんな簡単な方法があったのだ”と思った。そのことに気がつくか否かが、専門家と素人の違いだった。

職種間の比較調査を実施

その方法とは、冷蔵勤務者のみでなく、大洋の各職場で働く者全般にわたって腰痛者の有無や程度を調べ、その職種間の比較検討をすることだった。
全組合員を対象にするのは、時間的・労力的に無理だった。それで、事務関係者、一般現場関係者、冷蔵庫関係者、各300名を対象にアンケート調査を行った。冷蔵庫勤務者に中高年が多いので、それと年令帯の見合う他職種従事者を対象にした。
アンケートの内容は労研の指導によるもので、回収率は高かった。しかし調査結果は、会社との交渉資料になるので、全項日にもれなく正確な記入がないと、クロス集計による分析も正確さを欠くため、厳密にチェックして、集計対象としたのは684名だった。集計は、1.冷凍・製氷で重量運搬、2.冷凍・製氷一般、3.元冷凍・製氷、4.一般現場、5.事務関係者にわけ、かつ年代別に比較した。
冷蔵庫勤務者と呼んでいたが、実際は冷凍庫で、温度は一8度から一40度まである。その温度別を4段階にわけ、1日にその低温下で、何時間作業するかを、3時間以上と3時問未満に区分するなど、回答結果をみながら細かく分析した。その結果、はっきりした事実を、おおまかにまとめると次の通りである。

  1. 腰痛発生はおなじ年令帯で比較しても、職種によって著しい差があり、冷蔵庫勤務者に多い。その中でも重量物運搬者に特に多い。
  2. 年代に関係なく冷蔵庫勤務者及び元勤務者に、腰痛発生率がきわめて高い。
  3. 冷蔵庫勤務者は就労した直後から、軽い腰痛になり、5~6年続けると重い症状になる。
  4. 冷蔵庫勤務者のなかでも、ー10度以下では、庫内作業時間の長短によって、腰痛発生率とその程度に開きがみられ、1日の庫内作業が3時間を越す者に多発し、程度もひどい。(-30度~40度の庫内勤務者は実数が少ないので、-20度以下の温度差による比較は、はっきりしない。)
  5. 腰痛発生の要因が、業務と関りないとみられる職種は事務関係だけであり、一般現場のなかでも、重量運搬には発生がきわめて多い。

対策を協約化

調査対象者に、腰痛を防ぐのにどうしたらいいかの意見を聞くと、冷蔵庫勤務では、防寒具の完備、庫内時間の適正化、充分な休憩時間と休憩時の完全暖房が圧倒的に多かった。
冷蔵庫と一般現場に共通して多かったのは、無理な重量運搬(2人で持ち上げるものを1人でやるようなこと)をしないですむ適正人員の確保ということであった。
労研のお墨付きの調査結果を、労組につきつけられると、”腰痛なんて年とともに誰だってなる”という会社のいい逃れは通じなくなった。そこで、1.予防のための定期検診、2.治療費の会礼負担、3.通院・入院の業務上扱いを骨子とした内容を、労働協約に織り込ませるに至った。

事業所閉鎖・人員整理の提案

職場ではこのような厳しい労働が行われ、その状況に対応して、多様な活動をしてきた労組にとって、とんでもない緊急事態が発生した。
大洋漁業は粉飾決算を重ねてきたらしいが、ついに有価証券報告書を大蔵省からつき返されたのを機に、約千人に及ぶ人員整理を労組に提示してきたのである。全国数か所の事業所閉鎖などによる、組合員の4分の1くらいに当る人数の解雇である。

時期は正確に覚えていないが、私が働きはじめて2年くらいたったときだから、1960年代の終りごろである。それまでもフル回転していた大洋労組は、不眠不休と表現したいほどの勢いで闘いはじめた。この労組の姿勢にほれこんでいた私は、体力の限界をかえりみることなく、このペースに乗って働いた。
労紐の姿勢は、一族で占める経営のトップが、企業のあり方について真剣に考える社員の進言を退けて、飽満経営をつづけてきた”つけ”を、忠実に働いてきた労働者に廻すことは許さないという点で徹底していた。その一例を示すと、宮城県気仙沼工場が閉鎖対象のひとつだった。ここで働く、40人前後の女子労働者全員の賃金と、前号に記した、ゴルフだけしている重役の報酬が、ほぼ同額であり、その重役をやめさせるのが先決である。それが実現したら交渉に応じようといった。この工場の存続は得策ではないと、組合も考えていたのである。私もこの現場にいったが、中年の女性ばかりで、長靴にゴムの前掛けをしての立作業で、厳しい労働をしていた。
一事が万事、紐合はこの姿勢で会社に対決したので、人員整理は実現しないまま、約2年がたっていた。こういう場合、会社は組合の切り崩しにかかるのだが、日頃から民主的な運営をしていたから、紺合の結束は固かった。管理職まで経営トップへの反感から、組合のシンパが多かったくらいだから、組合はますます強くなっていた。

闘争の最中に委員長退陣

このように組合員をひとりも解雇できないうちに、管理職の人員整理が次々と起っていた。中央執行委員会では、”非組合員だからといって、彼らを見殺しにしていいのか”ということが、真剣に議論されたこともあった。しかしそこまでは労組にはやれないということになった。
委員長は、この闘争のころから、胃潰瘍で通院治療をつづけながら、奮闘していた。しかし会社の”合理化”案提示から2年くらいたち、組合員の人員整理を、棚上げにしたまま迎えた定期大会で、ついに力つきて退陣した。後継者は、私に海上で働く者の実態をいろいろと話してくれ、もっとも親しみを感じていた書記長のMさんだったから、組合員の路線に全く変りはなかった。

この頃になると私自身も体力の限界を、ひしひしと感じていた。前委員長が4歳、新委員長が10歳年下で、私は40代半ばだった。せっかくこんないい働きの場にめぐりあっているのに、やめるのは惜しい。北海道から九州まで港町を歩き廻って、出会った職場の活動家たちとは、親密な関係が生まれていた。
総合的に考えて、この労組の体質は少なくとも5年、あるいは10年は変わらないだろう。しかし会社の人員整理提案が撤回されたわけではなく、厳しい闘いのつづく労組の勤務には耐えられそうもない。毎朝、”寝台車で出勤したいな”と思うほどの疲労感のなかで、なんとかしなくてはと思いはじめていた。

労組、とくに企業内労組に雇用されて働く書記がもつ問題を、改めて考えさせられた。委員長はじめ専従役員は、長いか短いかの差はあっても、限られた期間その任に着き、役員を降りると会社に復職する。組合活動に意欲をもやす真面目な役員ほど、自分の任期中に成果を上げようと、全力投球する。書記はつねに、そのペースにあわせて働くことになる。私が50代になっても、30代の役員たちの全力投球につきあうことになり、体力的にもつわけがない。したがって、一生の仕事とはなりえない。
大洋労組の委員長だったSさんは、私がおどろくほどの活動によって、労使関係を対等に保った熱血漢だったから、本人は気付かなかったろうが、ヒロイズムを伴っていた。
会社の人員整理提示後のある年度末に、次年度の運動方針について、徹底的に論議を煮つめようと、ふだんは組合事務所で行う中央執行委員会を、宿泊施設で行った。夕食後に再開した会議が、夜12時頃になったとき、委員長は、「このまま続けていいだろう」と、メンバーに聞いた。彼は何事にも、自分の意見に賛成かどうかを、順番に全員に聞くという、民主的な方法をとっていた。誰も反対しないまま書記の私にも順番が廻ってきた。そこで私は、「私は疲れてますが、中執ではないから席を外して寝てしまってもいい立場です。しかし労働科学的にいって、なんと非合理な会議のやり方をするのですか。疲労はこまめに中断するほど、よく回復するのですよ。いま議論していることが、明日からストライキにはいるかどうかということなら、合意に達するまで、徹夜で討議する必要があるでしょう。しかし議題は次年度の運動方針ですよ。ちゃんと睡眠をとって、疲労のとれた心身で、明日やるほうがよっぽどいい討論ができると思います」といった。
なんと私のこのひとことで、会議は散会となった。本来は発言権のない書記にも意見をきき、納得すればその意見にしたがったという点で、民主的といえるが、私がおどろいたのは、その後の中執たちの反応だった。ある人は私に「君は勇敢だなアー」と言った。また若いメンバーが、「おどろいたなアー、泊まりこみの会議とは、徹夜でやろうということだったのか」などと話しあっていた。どうやらみんな私の発言で寝られたのを喜んでいたらしい。たいへんカリスマ性のある人だったから、いかに民主的な手法をつかっても、異論を唱えにくかったのだろう。
委員長がMさんになって、雰囲気は多少は変るにしても、彼も会社に対する対決姿勢を継承するから、勤務の厳しさは変らない。これまで経営姿勢の問題を攻撃されて、会社の人員整理案は立往生しているが、遠洋漁業は国際規制が強まるなかで、前途多難なのである。

入院を機に考えたこと

私はこの職場を離れるのは惜しいという思いと、身体がついてこないという現実とのジレンマに苦悩していた。退職しても、次の職のあてはないので、どうやって当面の暮しをするかも考えていた。健康保険がなくなるが、在職中にかかっていた病気については、退職後もある期間は、治療費が無料になるので、健康チェックはしておく必要があると思い、被保険者には低額で受けられる人間ドックを、はじめて受けてみた。すると意外にも、胃のレントゲン検査にひっかかり、胃カメラの検査で「胃潰瘍ですぐ手術を受けるように」といわれておどろいた。全身倦怠感はあっても、胃に自覚症状はなかったのである。
胃を切るという重大事を、行きずりの医師の診断にまかせられない。そこで信頼している医師に相談して、彼のすすめる消化器外科医に、ドックでの検査資料をもって診断を仰ぐと、全く同じことをいわれて愕然とした。
かくして私は人院の身になってしまったのである。
当時は癌は絶対に告知しなかった。胃癌は胃潰瘍といって予術するのが常識だった。
そこで私は癌だと信じこんで、これまでの人生をかえりみた。全蚕糸労連時代、”労働組合の活動をするような女は嫁にいけない”と脅かされながら、活動をしてきた仲間たちは、今どうしているのだろう。私の活動は彼女たちを不幸にしたのだろうか、と考えはじめた。
癌で余命は限られたにしても、手術して退院後、1~2年は少しは働けるだろう。その間に、かつて活動した仲間の消息しらべをしよう。組合活動で芽生えた意識は、農村の封建性や、60年安保闘争以降、さらに強まった抑圧による日本の右傾化のもとで、風化してしまったのだろうか?
死ぬまえに、それだけは知りたいと思い、病院のベッドで、消息しらべの方法について、思いめぐらせていたのである。