日本通運石綿損害賠償裁判、控訴審も勝訴、提訴5年目。日通上告せず確定/兵庫
尼﨑のクボタ旧神崎工場に、1950~80年代、石綿を運ぶなどして、中皮腫や肺がんで死亡した日本通運の運転手など5名の遺族が、日通に対して約2億2,250万円の損害賠償を求めた裁判の控訴審判決が、1月30日、大阪高裁(小島浩裁判長)で言い渡された。2009年の1月30日に神戸地裁尼﨑支部に提訴し、ちょうど5年目の日だった。
小島裁判長は神戸地裁尼﨑支部判決に続いて日通の責任を認め、約1億3,300万円の支払いを命じた。被害者全面勝訴の判決となった。(地裁提訴当時は日通と共にクボタも被告としていたが、2012年6月28日の地裁判決前にクボタとは和解した。)
日通は上告せず、ここに、長きに渡った裁判が勝利のうちに終結した。
原告団、弁護団、そして尼﨑労働者安全衛生センター、患者と家族の会をはじめとする支援の方々の頑張りに深く敬意を表する次第です。
被害者側は尼﨑労働者安全衛生センターを窓口として、6回にわたって、謝罪と補償を求めて直接交渉を行った。
ところが日通は、被害者との交渉がはじまった直後の2007年1月26日、突然、「アスベスト疾患についてのお見舞金制度」を発表した。内容は被害者の要求とはかけ離れたものであり、何ら事前の相談もなかった。
日通の企業内補償制度の適用を求めて粘り強い話合いを行ったが、「退職者は別だ」として、きわめて不誠実な態度を続ける日通に、被害者側は裁判を始めざるを得なかった。
法廷では、元日通・クボニ(旧クボタ神崎工場の構内下請け)労働者への証人尋問が行われ、日通の「石綿の運搬業務自体でたくさんのアスベストを吸うことはない」という主張に対して、元日通労働者が「とにかく凄いほこりだった。またマスクをするなどの指示は一切なかった」と述べ、また日通の「1962年以降のクボタとの契約はなく、旧神崎工場へ出入りをしていない」との主張に対し、元クボニ労働者は「それ以後も私は事務所から日通のトラックを目撃していた」と証言し、浅はかな日通の嘘はあばかれたのだった。
地裁判決では、1959年以降のアスベスト被害の予見可能性を認め、日通は散水で粉じんの軽減を図らなかった、粉じんマスクの配布がなかった、安全教育・指導が適切に行われていなかったことを理由に日通の安全配慮義務違反を認め賠償を命じた。
今回の高裁判決において同趣旨の判断が示されたものの、日通が上告するのではないかと懸念されていた。
原告・支援は判決後すぐに日通大阪支店に対して上告するなとの申し入れを行った。
そして、ついに日通は上告を断念。話し合い、裁判、何度となく行われた申し入れや情宣活動がついに実を結んだ。
一方、ニチアス王寺工場に駐在していた日通社員の吉崎忠司さんが中皮腫を発症、定年退職していた吉崎さんは日通に企業内補償の適用を求めたが日通はこれを拒否したため遺族が日通に損害賠償裁判を求めた裁判では、日通は大阪高裁で敗訴したのち上告している。
日通は吉崎裁判においても、当然上告を取り下げ、損害賠償責任を果たすべきだ。
安全センター情報2014年5月号